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Posts Tagged ‘論理性’


『雑誌・小冊子が消えていく貧しさは日本人知能の低下』


   


     11月 16th, 2017  Posted 12:00 AM

金沢美大の産業美術学科・「工業デザイン専攻」は、
当時、工業デザインというのは先進的だったと思います。
しかし、工業デザイン関連の書籍・雑誌は皆無でした。
まだ「工業意匠学科」とかでグラフィックも「商業デザイン専攻」でした。
だから、洋書・洋雑誌だけで、建築・アートだけが学術的でした。
しかし、私の論理性=思考基軸を支えてくれたのは、数雑誌ありました。
その中で、「遊」と「エピステーメー」、「SD」と,
あとは美術手帖・数理科学・現代思想だけでした。
「遊」は松岡正剛氏に憧れ、工作舎に転職すら考えていました。
後に松岡氏に出会い作品集帯文まで書いていただく仲良しになりました。
「エピステーメー」はとても解読困難で、
ここから哲学や現代思想や宗教論に入りましたが、
終巻号は、いくつかの書店を回って銀色の本を寂しく抱えて帰りました。
「遊」・「エピステーメー」が消えた頃、
「へるめす」で中村雄二郎先生の「知」にのめり込み、
やがて、先生連載にイラストも描くなど随分と親しくさせていただきました。
具体的には建築数誌の雑誌があり、懸賞論文に応募しました。
最優秀論文はその書き出しで、自分の敗北を認めました。
「この都市には記憶がない。・・・」
私は集落として都市論を書きましたが完全に(負けた)と思ったほどです。
やがて、その建築家・彦坂氏に出会い、この話をして彼に仰天されました。
そしてSDの最終号では「ユニバーサルデザイン」の商業主義を非難し、
「ヒューマンセンタードデザイン」を二人で書き上げました。
なぜなら、「ユニバーサルデザイン」を紹介したのも彼と私だったからです。
「へるめす」は哲学・建築・現代音楽ときわめて上品な雑誌でしたが、終了。
ちょうどジョンレノンが射殺されたことで、私は自分の青春を終えて、
福井にもどりましたが、その時に「日本記号学会」に入りました。
まだ大学人になるなんて考えていないときでした。
かなりの数の学会は大学退任とともに脱会しましたが、
日本記号学会は今も会員です。
それは学会誌=書籍が読みたいから、それだけです。
今や、デザインをとりまくこうしたほぼ「記号論的な考察」の雑誌は、
なんと「iichiko」のみかもしれません。
友人であるグラフィックデザイナーであり、東京藝大名誉教授の河北氏が、
スタッフに、哲学者たちも編集までを任せて季刊誌を出してくれています。
結局、こうしたように雑誌や小冊子すら消えていくのは、
日本人の知能レベルが低下しているとさえ私は思っています。
だから、デザインされた形態言語すら読めない、あるいは盗用する、
この風潮から、一刻も早く脱皮すべきでしょう。

* 「ビデオアート・現代音楽・オーディオの統合化をめざす」
* 『ユニバーサルデザイン・バリアフリーはまだ未消化』
* 『公・自・単・情・安・省・空を暗記せよ』
* 『ユニバーサルデザインの原意』
* 『やっと4冊目の作品集が出来上がった!』


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『Red & Blue 生誕が来年で100年になる』


   


     1月 9th, 2017  Posted 12:00 AM

かつて「プラトンのオルゴール」2004年にギャラリー「間」で開催。
これは2006年に21世紀美術館で私の個展となりインスタレーション、
さらに制作スケッチまでが永久収蔵されました。
この展覧会では自分が敬愛し影響を受けた人物12人を選びました。
今、私は自分のデザイン、その原器、原形と呼ぶべき作品があります。
デ・スティルの影響を受けた椅子となれば、それは
「レッド・アンド・ブルー」Red & Blueがその一つになります。
そして、この椅子には自分の思い出、そして私デザインが重なります。
ともかく、最近は○○○生誕100年とか、モノ100年のイベント情報が
必ず香港経由で私に届きます。
そして中国でこうしたイベントだけではなく、
デザイン活動やデザイナー推挙が必ず香港経由で入ってきますが、
私にはこの裏側の政治的目論見=策略が見え隠れしています。
脇道に入りましたが、この椅子の作家であるリートフェルトは、
私のデザイン、造形の大きなアーキタイプになっています。
大きな理由はMoMAで彼の展覧会にて、
椅子から家具の原形を見た経験があります。
そして最近ではこうした椅子が中国製でとても廉価ですが、
自分が所持しているのは、
INAXが1989年のアピールをめざしてコピーと言えどとても高額なこれを
購入するとともに、私はこの椅子を車椅子のイメージモデルにしました。
リートフェルトについてなら、彼だけの造形、
その歴史性・論理性・デ・スティルの関係を講義することができます。
この椅子が生まれて来年、100年になるのです。
ある意味では、この椅子は極めてシンボルであり、
それは100年になるのです。

* 『もし、このデザイナーから学ぶことが無いなら・・・』
* 『アナログプレーヤーをAurexSY-λ88で試用』
* 『経緯が敬意に、形態言語から自分の造形言語化を』
* 「資本主義から離脱してきたデザイン」
* 『正しいデザイン手法としてのオマージュを熟知せよ』


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『「●●とは何か?」、質問形式とその答えは能無しである』


   


     7月 2nd, 2016  Posted 12:00 AM

踏みつけたくなるタイトルがあります。
それは「●●●●●●とは何か?」、という文章タイトルです。
たとえば、「デザインとは何か?」とか、「建築とは何か?」という、
とりわけ自分のプロ意識、職能意識にとっての
いわば質問形式のタイトルです。
そしてこれまでも科学的な知識を述べてきた書籍、講演、
あるいは運動などで、このような質問形式のタイトルが出てくると、
まずセンスの無さ=無能なる自分修練の浅薄さを感じます。
なぜなら「●●とは何か?」を全否定した芸術評論家の衝撃な思考のあり方、
あるいは、とりわけ「現代芸術のあり方」理念の
初期認識論を読んでいないからです。
「現代芸術」ほどその解釈や思考はとても困難なはずですから、
いわゆるハウツー本などで
この問いかけから始まる書籍は捨て去って構いません。
ところがハウツー本でもないのに、
この質問方式は能無しの典型だと断言できます。
これには二つ論理性で理由がつけることが可能です。
一つは、情報化時代直前に、この質問形式では、
これからの知的思考方法は時代遅れになるということ。
そのためには「■■■■が●●になる。」ということで、
「●●とは何か?」では無い論理組み立てが要るという発想があったのです。
もう一つは、「●●とは何か?」という質問での答えには、
三つの答の分類が出来るのです。それは、質問が
話題:Topicsであれば応答:Replyであり、
課題:Questionであれば回答:Answerであり、
問題:Problemであれば解答:Solutionになるということです。
したがって、「●●とは何か?」という質問での答が
応答、回答、解答のいずれかであったとして、
単なる応答や回答であるなら、その論理性は崩れています。
新たで明確な論理的な答であるなら解答でなければ意味はありません。
この写真の書籍での第一章からの質問形成では応答にすぎません。
よって、こうした書籍内容は能無しと判断しておきます。

*『鏡映は冥府に降りていることゆえに「何がデザイン?」』
*『表現としての美術とは?、教えられた宮川淳』
*『ベクトル論理では「何がデザインか」となる』
*『デザインは機能美ではありえない』
*『記号論・文庫版になった定本だから再熟考対象だ』


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『 インクルーシブデザインとは「人称デザイン」である』


   


     4月 16th, 2016  Posted 12:00 AM

「Inclusive Design」があたかもユニバーサルデザインや
バリアフリーデザインとの明確な差異があると言われています。
これらはこれまで以上のコンセプトとして次世代デザインとなってます。
InclusiveにはExclusiveが対極しているために、
排他的なデザインということがこのデザインの論理背景になっています。
が、これほど根本的な論理性を逸脱したデザイン解釈は大間違いです。
理由は二つあります。
まず、電子工学的なXOR回路を考えれば、Inclusiveとはどういう回路?
もう一つはInclusiveとExclusiveは人称関係という正確な言語論理です。
つまり、一人称のデザイン=私だけのデザイン、
二人称=配偶者、恋人、身内や友人の対面する貴女のデザイン、
そして、彼、彼女、彼ら、彼女らという三人称のデザインが
言語学の人称としてインクルーシブ性があるということです。
一人称・二人称ははっきりと対面しますから、
デザインしたモノ・コトについて直接的な対話が可能です。
ところが、三人称で対面出来ない彼らは
すでにエクスクルーシブ性が含まれてしまいます。
つまり、エクスクルーシブ性とは、対話・メッセージ性が
排除されたグルーブ全体を指示しています。
したがって、インクルーシブ性という排他性を無くすという論理、
それはすでに成り立っていないということです。
もっと、明言すればデザインには、
インクルーシブ性は人称デザインとして
まず自分のため、そして、
その評価をあなたにというインクルーシブ性があり、
第三者には排斥してきた老人や障がい者も対象とすることは
デザインの進歩が語れるに過ぎないだけのことです。

*『ケータイの人称会話からのオントロジー』
*『Inclusive Designの定義に向かって』
*『一人称・二人称がInclusiveの基本定義』
*『つつましさによるインクルーシブデザインへ』
*『インクルーシブデザインの間違いを正す=KK塾』


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『コンセプトから「ライン発想」の三つの思考空間』


   


     4月 10th, 2016  Posted 12:00 AM

コンシリエンスデザインという発想手法は、
学術系+芸術系・文系+理系の融合性と統合的なデザイン方法です。
デザイン方法というのは、
問題解決・価値創出・未来創成を目標・目的としています。
そして、僕が最も重大視していることは
「コンセプト」からの発想からの解放です。
それは、三つのデザイン空間への文理統合、
その思考の照射・投影・透過・射影によって
形態設計と制度設計になります。
● SCOPE・スコープでは視点移動=dollyが重大です。
● PERSPECT・パースペクトではその思考空間に消失点の発見です。
● PANORAMA・パノラマは学術と芸術が統合された思考空間に
そのアスペクト=比率を明確にしていくことです。
かつて、僕がCG登場とともにトロントでCGの教育訓練を受けたときに
dolly=ドーリーという言葉を初めて知りました。
それは、画面上でカメラの焦点を当てて行くようにすることでした。
この言葉は当時の英英辞典にも無くて、質問をした経験があります。
まさしく学術的な知識の焦点を芸術的な視点で動かしつつ思考決定です。
パースペクトというのは思考の投影図を創造したときに、
消失点=Vanishing pointを見いだせるかどうかを
論理性と感性を統合しながら見いだす方法です。
そして、デザインを最適化するには、統合的な発想結果が
社会性、それは制度設計かもしれませんが、
適正ある比例配分を決定すること=パノラマ的であることです。
こうした思考を成し遂げていくにはすでに「コンセプト」だけで
デザイナー的な発想を語り出すことからは解放されるべきでしょう。
コンシリエンスデザインにはこの三つを繋いでいる
まさに「ライン・メソッド」=Line Methodがあるということです。

*『数理造形から見えてきたAtom時代の終焉 ・03」
*『色彩知識はトロントで消去、そしてbit色彩を知る・04』
*『色彩感覚とCAD感覚・05』
*『なつかしい三冊の本、そこにクラインボトルあり』
*『今秋より『KK塾』を開催します』


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『論理性と感性の対称性の破れ=パリティ崩壊』


   


     12月 11th, 2015  Posted 12:00 AM

一般的には、「論理性」と「感性」の対比あるいは対称性が、
人間の能力を分化していると考えられています。
つまり、論理性がある人間能力と、
感性能力のある人間を対称的にとらえることは長い間、
対称性よりも対照的に議論と考察されてきました。
たとえば論理性と感性とはお互いに人間の知性そのものを分断する、
このように考えられてきたときに、明快な解答を与えたのは
カントでした。
もっと簡単に言うと、論理性があればあるほど、
感性力の低下が起こります。
これは同様に感性があればあるほど論理性が欠如することも同次元です。
そこで、デザイン思考なる考え方があたかもこの対照性を破壊する手法、
このブームを生み出しました。
これはブームにすぎません。
だから私は、論理性のある人間も、感性のある人間も、
論理性があればあるほど、感性に近づき、
感性があればあるほど、論理性に近づくという手法が大事という、
これこそ「コンシリエンスデザイン」手法ということを
主張しています。
端的に言えば、感性と論理性の間にある完全円形は、
感性と論理性の対称性に対して、破れの現象を起こすと言ってきました。
もっと難しい表現をすると「パリティ崩壊」を起こさせる
感性軸と論理性軸が向かい合っているからこそ、
感性を論理性との対称軸に、論理性を感性の対称軸に置くことで、
感性が磨かれれば、磨かれるほど、論理性を失わせないこと。
論理性があればあるほど、感性を失わせないこと。
この両面、この対称性に決して「破れ」や「崩壊」を起こさせない、
この両対称性の軸からのパリティ性をより高度にしていくことが大事という
この教育こそ創造性での論理性と感性をより高度にしていく、
すなわち「コンシリエンス」な統合性の問題としてきました。
だからこそ、「コンシリエンス」を確約させれば、
「レジリエンス」=ストレスや敗北感以上に、
状況には決して負けない自己認識力の拡充さを創りあげると
主張してきたのです。
これこそ、論理的な思考に対して、感性、もっと端的には
直感が重要であると看破したカントの哲学的な提唱でした。
「直感なき概念は空虚であり、概念なき直感は盲目である」。
私は、この考え方こそ、
デザイン思考ではなくて「コンシリエンスデザイン」と呼んでいるのです。


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『デザインは解である』


   


     8月 26th, 2015  Posted 12:00 AM

私はデザインの本来の意味として、
通常の理解である装飾性との距離感を主張してきました。
デザインと言えば、大きな誤解が薄く張り付いています。
一つがデザイン=装飾性がファッションデザインに起因し、
もう一つが機能的とかシンプル性が、さもデザイン核心という話です。
デザインはその造形によって「答」を出す実務です。
それゆえに「答」には、三つの「答」があるという深度性に及びます。
話題=topicsに対する応答=reply
課題=questionに対する回答=answer
問題=problemに対する解答=solutionの三つの答を出すことであり
最もデザイン力が発揮されるべきは、問題解決に集約します。
私はデザインが問題解決であることから、
最も的確に説明を与えるには「解」という象形文字を例示します。
象形文字であることから角ある牛に刃物でこの文字は構成されています。
そこで解決には三つの段階が明快になってきます。
解体・解剖・溶解するなりして対象を分解することから始まります。
次にはその分解された要素を一つずつ、解釈・解説をして理解をします。
この理解によって、人は納得をして解放されるということになります。
さて、そこで問題は、答それぞれにはどこに装飾性や機能性が、
一般の理解では、デザインによる解放感は得られません。
デザインが応答的や回答的なことであれば、
論理性を欠いた機能性は説明がとても困難だと言えます。
現在のわが国の産業でのものづくりが、応答や回答ではとても、
国際的な競争力を持つことはできません。そのまま経済に反映します。
私は、問題解決によって、性能性と効能性が完備され、
ようやく機能性を確保できることを、教育・研究・開発に伝え、
デザイン実務で、人間は解放されると主張してきました。
その解放とは、「美しさ」が解答の造形であるモノとコトというのが
私のデザイン=解の結論です。


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『人類の進化=類人猿の時代があったという魔力性』


   


     11月 26th, 2014  Posted 12:00 AM

科学的であることと文化的であること。
この融合性は、いや分離性、剥離しているかもしれない。
このところ私はConsilience Designを組み立てるべく、
学術的な統合性についてメモを取りながらその論理性を熟慮中です。
そして、猿がWalk manのTV-CFで話題でしたが、
今度はスマホを温泉で扱っている写真を見て、
ユーモラスであると同時にこれは進化だろうかと考えてしまいます。
つまり、「イオニアの魔力」から、日本人は全く免れていますが、
未だに、人間は猿からの進化ではないという宗教観に、
科学の実証的な解釈は否定されている科学性と文化性との乖離は
この二枚の写真、その解釈にまで至るであろうと私は考えます。
ウォークマンで音楽を聞き入るTV-CFの発想は素晴らしく、
あれから27年で、温泉で湯あそびしている猿が、もし、
スマホまでを理解しているとするなら、魔力は解かれたのでしょう。
科学の正確さは仮説があって経験としての実証性で確かめられます。
それは哲学の起源とされるタレスの「すべてが水」という言説から
認識論で鍛えられてきた科学の経験実証性に快感があると
書き残したアインシュタインから、まだ我々は離脱はしていません。
それだけに、科学の学術的言説の論理は、人文科学、すなわち文化で
ややもすれば否定されることは特に宗教性で確立していました。
私はデザインによる学際性、すなわち科学と文化を統合することに
最も意欲をもってきました。
この意欲とは、デザインだけが科学性と文化性の接着剤だからです。
コンシリエンスデザインを私は提案しています。
これまでデザインを理工学・医工学・文理学・政経学というのを
私はさらに統合化を計りたいと考えてきました。
それは「イオニアの魔力」への有効な手立てを考えることでした。
まさに、27年間で猿は音楽を聴くところからスマホ使用まで、
たとえ、話題づくりであったとしても、これは有効だと考えます。


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「『形と性能』・デザイン成果=造形言語と形態言語」


   


     6月 9th, 2013  Posted 12:00 AM

大学人=デザイン研究者として、
デザイン成果を17年目に一つの結論として示しました。
まず、デザインは問題解決の実務手法と40余年主張してきました。
そして、デザインを装飾や単純な商業手段としている者を、
徹底的に論理性でもデザイン成果としても全否定してきました。
それは、政治的にデザインを展開する輩すら認めませんでした。
明らかなデザイン成果は問題解決での最適解が、
あくまでもデザイン成果として、形態が「言語化」することです。
この言語化することには、才能が不可欠だと思っています。
それはこれまでのデザイン系譜を美術→応用美術の範疇さえ、
乗り越えた先端的な技術の「統合性=inclusive」にあります。
私はこれを造形言語=「designing language」と、
形態言語=「designed language」と名付け、
この教育に辿り付いています。
この造形言語と形態言語に分別することで、
たとえば、カーデザインの領域にもデザイン成果は、
車両の形=カースタイルと、
車両の性能=カーエンジニアリングに見事に分別可能です。
これまで、工業デザインは車のデザインとして、
車両意匠=カースタイリングと
車両性能=カーエンジニアリングとして扱われてきました。
この二つを「統合化」することを、私は論文誌に発表しました。
自動車技術に「デザイン」が「形と性能」への提言として、
求められたことは、やがて石油文明の車両から、
電気自動車とその社会性が求められる時代にあっては最適でした。
すでに有名性あるデザイナーがこのテーマに向かわされた意義、
これは今後のカーデザインとカーエンジニアリングに対しては
とても大事なことだったと思います。
私は、幾人かのデザイナーの見解を期待しましたが、
このテーマに解答的な提示を表したデザイナーを知りました。
正直、カーデザインで名を成した人物が書けなかったことは、
このデザイナー人物を明らかにしたい気分です。
つまり、デザイン成果はまたこれで問題解決、
たとえば、「形と性能」を明確にしたものと評価しています。


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「機関車の魅力=鉄道の魅力に潜むデザイン論理」


   


     6月 25th, 2012  Posted 12:00 AM

大阪駅に帰って来ると、
C57155の車輪が迎えてくれます。
子供の頃から、蒸気機関車が大好きでした。
「デゴイチ」か「デコイチ」かの区分にも私見があります。
そしてなんといっても北海道で、
蒸気機関車が全面ストップ寸前、まだ東芝マンでした。
それゆえに「蒸気機関車・SL録音出張」までしました。
しかもその録音はLPレコードとして商品化できました。
3重連で走りそこに雷鳴が、という素晴らしい音録りをしました。
鉄道は、子供たち、特に男の子にとっては魅力があります。
そこで、次のような課題を考えることができます。

■1.「新幹線はとても速い」だから「子供達に人気がある」
■2.「新幹線はとても速い」だから「目的地に速く着く」
■3.「蒸気機関車はかっこいい」だから「未だに人気がある」

この三つのテーマの中で、いわゆる数理的論理性は2だけです。
ところが、デザイン的な論理は、1と3です。
それには、二つの重大なキーワードがあると考えます。
まず、新幹線は流体力学的にも
造形デザインでスピード感がある形態=形態言語があります。
この造形言語による形態言語が、子供たちを虜にするのです。
また、蒸気機関車の造形言語には、力強さがあります。
この力強いという形態言語にさらには郷愁感が加わります。
したがってこの郷愁感には、
ノスタルジーやアンティック感は人間の感性を静謐に刺激します。
私は、現代デザイン・未来デザインとしての鉄道には、
速度性がある造形言語が創出されるべきだと思っていますが、
もう一方では、蒸気機関車のZゲージでは、
ドイツでの蒸気機関車のある種類に拘っています。
それは、速度感が編年的にアンティック感へ移行する感覚、
その魅力を見極めたいと思っているからです。
稲妻と雷鳴の中で、三重連で走るD51の姿=形態言語は、
今も私の脳裏には明確に思い出すことができます。
造形言語と形態言語の関係、
この構造主義性はこれからのデザイン論理として研究が必至です。


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