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Posts Tagged ‘逃走’


2月16日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 16th, 2022  Posted 12:00 AM

2月16日 仏滅(庚子)

『変革としてのデザイン』

たとえ、
これまでのような手法を
デジタル化することでも、
幾何学的な発想を
離脱し、
逃走し、
解放されることに
なるだろう。

artificial heart:川崎和男展


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12月9日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 9th, 2020  Posted 12:00 AM

12月9日 仏滅(丙戌)

『指示としてのデザイン』

ならば、
変態化したデザインからの逃走、
経済ヘの隔たりを
測定する手法を発見すべきだろう。

artificial heart:川崎和男展


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3月9日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 9th, 2015  Posted 12:00 AM

3月9日 甲申(先勝)

老齢化すれば、
「人はまるくなる」と言われます。
これは、
喧嘩師であることから
逃走していることです。

老齢化、あるいは
高齢化することで、
もっとしたたかな
喧嘩手法を
特に次世代を相手にすることだと
私は決意している。

川崎和男「喧嘩道」


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「マスクか、ペルソナか、マスカレードか、今のデザイン」


   


     8月 29th, 2013  Posted 12:00 AM

自分のデザインは問題解決での最適解のはずですが、
現代の情報社会の中での自問自答をいつもしています。
・マスク=覆面だろうか、
・ペルソナ=個性表現だろか、
・マスカレード=仮面舞踏会だろうか、
このような問いかけをいつもしている自分がいます。
理由は、自分自身へ自分だけの「問い詰め」を試みたいからです。
私には、確実な自分のデザインに対する自負心と羞恥心も、
ほとんど混在したままにしておきたいと思ってきました。
確かに何かを隠そうとしている自分=マスクの時もあれば、
明らかに自分個性=パーソナリティを表現=ペルソナ時もあり、
まさにどこかでこの時代に、
「ごとくありたい」=仮面舞踏会に参加気分もあるわけです。
結局、真実にデザインを問題と対峙させたときには、
覆面の中に自分を追い込み、
個性を隠そうとする自分が明らかに、
宗教儀式じみた科学への感性と芸術への知性を確認していることも
絶対に私にはある、あるはず、と言い聞かせています。
そして、私自身を追い込んでいくのは「行学の士」になりたい、
それだけを目指して車倚子生活ゆえに地球は二度目の生命です。
絶対に負けられないこと、
それは欧米の先進国家以上に芸術の知性と科学の感性を
次世代のデザイナーに、私の体験の全てを残したいのです。
ともかく、「私はデザイナー」という軽薄さは全否定です。
デザインは崇高で有り知性と感性で「美」だけを信じてきました。
特に、最近はもう残された自分の時間を思うと、
絶対に許せない輩には、全身全霊で闘争をする覚悟です。
とりわけ、この「国難」を3.11に受けて以来、
前政権の知性も感性も皆無だった知能に呆れてきましたから、
絶対に逃走はしません。闘争あるのみです。
マスクを被り、ペルソナを秘め、そしてマスカレードでも、
私は嫌な奴には立ち向かいます。


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「商品づくりからの逃走になっている・気づくべきだ」


   


     11月 19th, 2012  Posted 12:00 AM

デジタル時代であるということを大前提にするべきです。
とすれば、
その具体的なPCやスマホが生活シーンに入ってきて、
日常生活には多大な影響や制御系を与えることは自明の論理です。
だからと言って、
洗濯機や冷蔵庫の使い勝手にスマホが摘要されることは愚の骨頂です。
それらを「商品」と読んでいる限り、
わが国の日の丸家電はもとより、ハイブリッドカーや電気自動車なども、
国際戦略的に産業の先進国家であり続けることはありえないというのが、
今、私の判断です。
すでに、商品は記号であり、記号ゆえに情報性を内在しているからこそ、
この情報社会において価値を持っているのです。
私自身は「価値の多様化が進展している」なんていう、
そんなマーケティング分析などには大きな疑念を抱いています。
ここに提示したマトリックスは、すでに以前も分析と提案をしています。
https://ouzak.co.jp/blog/?p=8605
既存価値と想定内のことはコードの体系にあります。
よって、商品?記号化するには、
この体系を組み合わせたり、
あたかも直感というコンセプトから造形言語によって「意図」を込めます。
しかし、
実際は、購買者・生活者・ユーザーは、モードとしての体験にこそ、
その価値観を求めているわけです。
よって、今更ながら、
製品企画や商品展開での経営仮説などほとんど無意味になっています。
かつて、プラズマTVを確信犯的に私は非難したことがあります。
その企業や量販店は私を訴えるという事件性に繋がりました。
結果どうだったでしょう。
そうした企業は赤字転落です。
今、私は日の丸家電も自動車も、
すべからくこれまでの産業構造を大革新すべきだと断言しておきます。
あえて、空欄のマトリックスを今夜は提示しました。
この空欄を埋められるデザイナーは限られています。
それは、企業経営者がもっとデザインの本質を
認知するだけの「経営美学」というセンスが必須だということです。
「記号の差異性しか価値を持たない」というのは、
ボードリヤールが30年前の言説であり、
「モードの体系」に流行性、あるいは価値観の変動、
それらを言い当てていたのはロラン・バルトでした。
特に、デザイナーはもう一度、
彼らの言説を根底から読解すべきだと提言しておきます。


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12月7日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 7th, 2010  Posted 9:30 AM

12月7日赤口(辛卯)

そして逃走する。
「当逃走」というのも面白い。
当て逃げして、
しかも自分のために何かを盗み出す。
それには速度が重要だ。

『デザインの極道論』量感


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11月23日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 24th, 2010  Posted 12:05 AM

11月23日先負(丁丑)

戦争は、勝った負けた。
逃走は、早い遅い。
盜走は、
捕まるか捕まらないかだろう。

何を盗み出すか、
そしてどう捕まらないかが
問題となるのだ。

『デザインの極道論』量感


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『資本主義からの逃走』
    「 資本主義・社会主義その文脈には皆無の文化性」


   


     9月 2nd, 2010  Posted 12:35 AM

「富の配分」文脈からの解放
私は「文脈」に焦点を当てています。
その中で、「働くという文脈」に触れないと、
このブログの主テーマとの関連性は?と、いうことになると推測しています。

● 資本主義の否定=社会主義の肯定は、「労働」の文脈での搾取性や階級性があります。

● 資本主義の肯定=社会主義の否定は、「仕事」の文脈での倫理性や自由性があります。

そしてこの二つが、20世紀を構成したかのごとく激しく対立闘争をしてきました。
しかし、この闘争は、
先進国家ロシアも含めてたった1億人だけのことであったことを
私たちは前提にしておくべきでしょう。
資本主義と社会主義の文脈には「富の配分」だけであり、
結果は「地球環境の悪化と宗教がらみの民族闘争・テロ、原爆の保有」問題を残したにすぎません。
私は「富の配分」という文脈からの解放、それを「逃走」と言って、
問題解決したいと思っています。
私は1989年7月号「Bug News」というコンピュータ誌に、
南太平洋ニューブリティン島のマエンゲ族や、西太平洋トロブルアンド島民のことを紹介しました。
それは、「働く」・「労働」・「仕事」の結果が、
まったく「富の配分」ではなくて、それこそ「働く」結果の評定のことでした。
私たちが、「富の配分」でイデオロギー論争や、
その産業経済の結果に囚われすぎていることへの警鐘のための例示でした。
そのことに触れたいと考えています。


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『資本主義からの逃走』
「イノベーションの錯乱作用」


   


     8月 15th, 2010  Posted 1:26 AM

「社会階級論」
コンピュータ、特にパソコンが登場した頃には、
「電脳」と中国風な呼び方がありました。
電子端末機やケータイ、今や、ガラケー(わが国の孤立している携帯電話)、
そして電子出版などは、イノベーションだろうか、となげかけつつ、
私は「イノベーションにあらず」と断言しています。
まずは、イノベーション=技術革新という日本の基本的な認識違いを指摘しています。
つまり、イノベーションを提示したシュンペンター・「社会階級論」1927年には、
次の裁決が予知されています。
「暫時的な経済には、
 社会主義的な管理体系の可能性が準備され、
 個人的な企業能力者の無用による
 ブルジョア階級の衰退が予想できる。
  そして、
 資本主義文明は崩壊する」

とまで予知断言されているのです。
1929年の大恐慌を、彼の予言はあまりにも見事に的中させました。
そして連綿とくすぶってきた資本主義文明の脆弱さは、
まさに現在の日本そのもののように思えるのです。
景気・価値・モノ・制度に対する「革新」が及ぼす錯乱作用の結果だと考えます。
資本主義文明は、「技術革新」の結果が電脳から電子出版へのあたかも進化だったと考えても、
この文明の結果は崩壊ということになります。
私はわが国自身がすでに崩壊していることに気づかず、
まだまだ資本主義そのものへの諦観が「逃走」と言い続けているのです。
無論、私は電脳が大好きであり、電脳による価値・制度・モノの革新は確信しています。
しかし、景気への錯乱作用はまったく資本主義至上主義者には予測不可能となっています。
ここが最大の問題であり、とりわけ、わが国はまず「政治的」な錯乱から逃走ができないのです。
私は電脳を花とすれば、道元の示唆に重なります。
愛着・棄嫌
『花(=電脳)愛着に散り、
草(=これが何かですが)棄嫌におふるのみなり』


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4月28日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 28th, 2010  Posted 9:43 AM

4月28日 大安(戊申)

自分のビジュアル性の「量感」から、
「普通」の二文字を断ち切れ!

そして、その「量感」を
ささえきれない
環境からは逃走する。

『デザインは言語道断』量感


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