kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘都落ち’


『思い出の38豪雪と56豪雪、雪と対決してきた我が人生』


   


     1月 12th, 2017  Posted 12:00 AM

車椅子は階段を昇降することが可能、雪道でも走行が可能。
これが私のデザイン希望になっています。
今冬の日本列島が豪雪と聞くと、自分には大きな思い出があります。
なにしろ北陸生まれゆえに雪には慣れ親しんだものですが、
忘れられないのは38豪雪と56豪雪です。
38豪雪時には中学校は休校の連続でしたが、私は商店街を駆け抜けて、
ほとんどスキーに出かけていました。
それこそ、電柱の先端に腰掛けるほどの大雪でした。
父の命令で庭の雪かきをし地面に穴を掘りトイレの汚物を捨てたものでした。
38豪雪時にはともかく出かけるにはスキーを履いていました。
56豪雪は、ちょうど私は東京から福井に戻った時でした。
国会議事堂の上の空は真っ青、ところが東名高速から北陸をみると、
曇天の空、北陸自動車道に入ると路面には激しく降雪が始まり、
(あぁ、あの曇天の下で育ったのだから、車椅子生活でもなんとかなる)
こんなことを考えて都落ちする自分を励ましていたことを思い出します。
私はまだ新品のカマロ・ベルリネッタで、福井市に入っても
雪面には十分な馬力があったのですが、自宅近くでは、近所の方々が、
みんな出そろって道路の雪かきをして待っていてもらいました。
自宅はまだ建設中だけど小学生の妹は私をはしゃいで待っていました。
その深夜から56豪雪が始まりました。
私の記憶には、38豪雪時にはほとんどスキーの毎日を思いおこしていました。
豪雪となると、38豪雪と56豪雪のそれぞれに
自分が歩いていた頃と車椅子ゆえのこと、
この二つが自分の人生、その違いを思い出します。

* 『自分の車遍歴とカーデザイナー養成は同次元』
* 『歩けた頃=スキーに夢中だった時の写真が届いた』
* 「階段は進化せず、建築家は創造者にあらず」
* 『深緑色の画面・深緑から利休鼠』
* 「都落ちの心情を癒してくれた郷土」


目次を見る

『資本主義からの逃走』
   「都落ちの心情を癒してくれた郷土」


   


     11月 11th, 2010  Posted 12:00 AM

56豪雪後の春
私の財産は思い出です。
特に、車イス生活の宣告からの日々です。
「ふるさとへ帰れ」と担当医から言われて帰郷しました。
心情は「都落ち」、デザイナーを辞めるかどうかの苦悩でした。
北陸はまさに56豪雪(=昭和56年の豪雪)でした。38豪雪は少年時代の経験があります。
豪雪、雪かきで闘う都会育ちの当時のパートナーを見ながら、発熱・悪寒の連続した暮らし、
まだ動かない両手とその指先に感じる多分スケッチが描けなくなりそうな怖さ、
これからの生活不安をそれでも押しつぶすために、ともかく陽気にという毎日でした。
これほど春が待ち遠しいという想いがあるのだろうかと、北陸福井生まれが初めて思いました。
春、体調もほぼ元気になり、車で遠出ができるまで回復。
ふるさとの春
夕焼けが沈む寸前の日本海と、道端の小さな草花の様々が最も美しく、
これが「美しさ」だと改めて感じる私、生きている私を確認しました。
ある日、父が聞きました。
「和男、お前は毎日どこへ車で行っているんだ?」
「三国で海を見たり、波の写真を撮っている」
「明日から、絶対に行くな!」
「なぜ?」
「・・・・・・」
父は、私が死に場所を見つけに行っていると思っていたのです。
ちょうど当時に、車イス障がい者の方が日本海に車ごと飛び込み自殺をしたからでした。
闇の道・往来経験
私にそんな心情はまったく無く、死のうと思う以上に「私の生き方」を見つける方が、
死を考えるよりもっと難しいと思っていました。
なぜなら、「死んでいく過程」は、
交通事故直後に一度あの世への闇の道を進んでいく体験がありました。
この道にはすでに3回出かけたことがあります。
あの世への「闇の道」は、一般的に言われている「臨死体験」ではありません。
確かに「闇の道」の消失点には光の輪がありました。
それは、この世とあの世への往来であり、この世に戻るときの苦しみが恐怖です。
いづれ詳細に書きます。
ふるさとの春=郷土主義の芽生え
そんな日々に、ふるさと・郷土が教えてくれたことがあります。
ふるさとの人間・ふるさとの自然・ふるさとの歴史が伝えてくれる様々でした。
郷土環境の中の自分に、郷土主義=ローカリズムが芽生えるのでしょう。
ローカリズムを貯め込んでいく私には、
二つのことが反射し反映してくる自分を知ることになります。
ローカリズムの対象性、グローバリゼーションとグローバリズムです。
無論、自分を知るためには何人かの言説がその時の光でした。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
   「私のローカリズムは、母への報告です」


   


     11月 10th, 2010  Posted 1:32 AM

21年間
地方主義を第一義とする意識。
私自身、地方ということに対して無自覚でした。
私は全く東京を意識したことが実はありませんでした。
医学部進学志望から美術大学に進学しても、
卒業したら、金沢から福井にもどって短大で教員になろう。
大学では、工業デザイン専攻の同期はデザイナーをめざしていましたが、
正直、その気持ちは最初はありませんでした。
私が21歳の時、母が癌となって3ヶ月と宣告されました。
父と私は母には告知せず、ひたすら奇跡を望みました。
6ヶ月持ちこたえることができましたが、
往診の医師から、「今夜が最期かもしれない」と言われ、
その夜は、母の布団に潜り込んでいました。
母は意識混濁がありましたが、最期はまったく透明とも思える瞳で、
私を見つめて、涙を流して自ら目を閉じました。
1週間後に、仏壇の中から、父と私宛の遺書がありました。
母は自分が癌であることを退院して自宅に戻った時に知っていたことが書かれていました。
二つ約束してほしいことが書かれていました。
「父の寿命を見届けてほしいこと」
「海外からも認められるトップデザイナーになること」
47年間の21年間を、彼女は私に捧げてくれたことです。
車椅子生活になった時も、くじけそうになると、
あの世でこのままでは母には何も報告ができないと思って自分を励ましました。
ふるさと福井に戻ったとき、私はほとんど「都落ち」の気持ちから立ち直れませんでした。
ローカリズムにグローバリズムが反射している
しかし、「ふるさと・福井にはあるが、東京には無いこと」に気づいた時、
私の中にローカリズムが起動したのです。
地方主義は、郷土主義です。
ローカリズムにグローバリズムが反射していることを確認できたのも、
母からのプレゼントだったと思っています。


目次を見る