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Posts Tagged ‘闇’


3月4日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 4th, 2022  Posted 12:00 AM

3月4日 先負(丙辰)

『触覚としてのデザイン』

闇の中で、
認知的なデザインが
出来るかという
デザイン自らの
デザインのための
問題設定に
他ならない。

artificial heart:川崎和男展


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3月15日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 15th, 2021  Posted 12:00 AM

3月15日 仏滅(壬戌)

『黙示としてのデザイン』

科学技術が排撃した闇に
木霊するこうした言語を、
もし、
デザインが
レコーディングすることが
できたとしたなら、
その再生を
コンピュータに
載せることができたなら、
これは妄想だろうか。

artificial heart:川崎和男展


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12月23日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 23rd, 2020  Posted 12:00 AM

12月23日 先勝(庚子)

『修景としてのデザイン』

すなわち、
光景は光と闇との
対比が際立った景観を示す。

artificial heart:川崎和男展


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『ワクチンをDNAで判別することが肝要です』


   


     2月 23rd, 2020  Posted 9:00 PM

これは阪大でやっていたプロジェクトです。
ワクチンのシリンジを含めたデザインシステム開発とともに、
感染症のうちでも結核に絞り込んで、
「遺伝子検査システム」を
検査から確定、ワクチン接種までの流れをデザインしました。
「ワクチン2種」を決定させるまで5時間で判別できます。
DNAからは、マッチングする薬品が解りますが、
薬剤品が商品として売れなくなるので
今はまだ徹底解明は「やってない」のです。
それこそ、今ではジェネリックの展開が増えていますが、
私も使用している循環器系での薬は、
米国ではジェネリック外しが多いです。
私はできる限り、先発医薬品を選択しています。
入院すると、自動的にジェネリック医薬品になります。
利益確保重視や薬漬けは、
医療界と薬剤界の闇だと私は思っています。
今回の新型コロナウィルス対策については、
日本の感染症テクノロジーに期待感がありすぎました。
先手を打つこともできずに、閣僚の対策会議欠席、
検査もれなど危機意識がゆるんでいたのかもしれません。
早急に政界が、もっと確かな医療を確かめ先導することです。
私としては「生物兵器」との意識で、
国民の安心安全に徹底して臨む姿勢がなければ
オリンピックを迎えられないのではと考えています。
DNAとRNAのシステム、
医療界と薬剤界を「立て直す」ことです。

* ワクチンとDNA


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11月22日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 22nd, 2017  Posted 12:00 AM

11月22日 友引(癸丑)

黒い発想と
白い発想がある。

黒いという色が無い。
黒という闇、光の無い、
それが黒い発想だ。

だから、白い光では無く、
それは反射された発想である。

川崎和男の発想表現手法


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『皆既日食と太陽フレアが風景の予測シグナルかも』


   


     9月 9th, 2017  Posted 12:00 AM

「風景」を成立させる自然現象には人類に幸不幸がもたらされます。
なぜなら、風景は、彗星が地球にまで落下するかもしれない。
月食と日食、そしてとんでもない暴風雨、
この四つが風景と中国古典、易経を筆頭に書かれていたのです。
しかし現在、風景は「見晴らしの景観」という認識になっています。
特に太陰暦は月の満ち欠けと満月が日本江戸時代の古代暦でした。
それはムーンフェイズの時計が太陽暦であることを補足しています。
つい先日、元私の秘書だった女性がともかく米国へ日食だけを見に行って、
そのことをFBにて書いていました。
皆既日食は、本当に太陽が月の後となって、
一時、暗闇に包まれたという感激を伝えていました。
私は直感で、不吉感が走りました。
それはこれまでの歴史においても、月食と日食には、
とんでもない自然現象、たとえば大地震や大津波があったことは確かです。
そうしたら皆既日食で「太陽フレア」が起こったという報道がありました。
まさに、風景が人類に知らしめる自然現象での悪しき風景異変が発生です。
まず、地磁気嵐が起こる、大地震が起こる、という具合です。
どうか、大地震が日本に起こってほしくないという願いは祈りに至りました。
今、太陽フレアや太陽黒点の変動が、成層圏に大きな影響を与えること、
これがかなり詳細に検証され始めています。
案の上、北朝鮮は地磁気嵐ゆえにGPS使用は不可能ゆえ、
ミサイル発射をこれは幸運なことに見送った(未定?一部推測)というのは、
真逆の思考では、GPS不安ではミサイル誘導は出来ない程度の技術力、
これは安堵しますが、皆既日食が人類への信号だとすれば、
大地震、大津波、大暴風雨が絶対に起こらないことを祈るだけです。
人類はようやく太陽フレアがあると、
それこそ地磁気嵐が成層圏にまでの影響が甚大な不幸を呼び込むことまで、
やっとそこまで人類の予知では無く予定まで到達したようです。
地震は確実に成層圏の異常状態を連動させるのかも知れません。
光景は、生と死、光と闇の関係の象徴論であり、
情景は、人間同士の幸不幸を決定しているという、太陰暦的な予知?
この古代予知は正しかったのかも知れません。
景観と景気はすべて太陽と月との何らかの関係があるのでしょう。
光景は自然と自然、風景は自然と人類、情景は人類と人類、
これを占いでは無く予知では無く、幸不幸の予測的確かと思います。

* 「『風景』とは天地異変のシグナルだった」
* 「月齢表示・ムーンフェイズが暗黙に指示しているかも」
* 『「時計」はデザイン対象、デザイン力量が試されている』
* 『日本人の根本的な倫理観、その原点を見つめ直す』
* 「幸不幸の連鎖の中で」


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『景観の遠景・近景というプロクセミクスデザイン論』


   


     6月 12th, 2017  Posted 12:00 AM

車椅子の生活を余儀なくされて視覚は全く一定で視野が決定しています。
私は景観=光景・風景・情景のことを明確に伝えてきました。
そしてもっと重要なことは、その距離感の問題です。
具体的には、近景と遠景があります。
しかし「デザイン思考」程度で喧噪なプロのデザイナーやデザイン教育者、
彼らのように「コンシリエンスデザイン」を学ばない者には、
もはや未来のデザイン論や観と感を語ること、それは不可能です。
今夜見せるのは阪大附属病院のレストランから大阪市内の近景(左)と
遠景(右)にはアベノハルカスが見えます。
このレストランは大阪の有名ホテルチェーンですが、
私は常に注文料理がもう10年も変わっていませんからすぐに伝わります。
さてそこで重要な問題意識から問題認識の問題です。
それは「プロクセミクス」=距離感覚をまずデザイン界に投げかけてからも
全く意識いや認識されてきませんでした。
認識論では距離感の認識に対する知見性がデザイナー自身にあるかどうか、
これが大きな問題であり、それはデザイン思考では絶対に語れないのです。
改めて具体的にプロクセミクスを定義化すれば、
それは、親近感・親密感・親和感が、
モノとデザイン、だからこそ、
コトのデザインにもあるかどうかと言うことです。
その以前から景観としては、光景・風景・情景があります。
景観は景気に経済学的に連鎖していて、
原意としての、光景=自然の乾坤、光と闇、陰陽。
風景=日食・月食・彗星・雷鳴(暴風雨):自然と人間。
情景=人間と人間の人工物関係です。
こうしたコトを踏まえたモノとの関係。
この関係論としての距離感覚であるプロクセミクスはデザイン教育論は皆無。
これがデザイン界での大問題であり、
コンシリエンスデザインを私は打ち立てました。
いつも立ち寄る阪大病院のレストランからの近景はかつての世界万博跡地、
そして遠景には吹田から望める大阪市内が見えます。
この景観を覧る度に私は改めてプロクセミクス=Proxemicsを
これから強く主張していかなければなりません。

* 「スープの冷めない距離=身体空間は多次元性です」
* 「生老病死・身体空間性を見失うとき」
* 『新作007・ボンドカーでも確認できた曲線美』
* 「桜の花のピンク色・阪大吹田キャンパス」
* 『マルセルデュシャンの立体化からアッサンブラージュ』


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6月13日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 13th, 2016  Posted 12:00 AM

6月13日 先勝(丙寅)

黒い発想と
白い発想がある。

黒いという色が無い。
黒という闇、光の無い、
それが黒い発想だ。

だから、白い光では無く、
それは反射された発想である。

川崎和男の発想表現手法


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8月13日川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 13th, 2015  Posted 12:00 AM

8月13日 仏滅(辛酉)

「触ってわかる、触れてわかる」デザインは、光無き世界での形態化である。
闇の中で、認知的なデザインが出来るかという
デザイン自らのデザインのための問題設定に他ならない。


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『こうした連続事件には共通性の闇がある』


   


     3月 3rd, 2015  Posted 2:11 AM

まだ幼い小中学生が殺されたり、
大学生が「人を殺めたい」と事件を起こします。
そして、この報道はひとつひとつが話題になります。
決まって、事件をマスコミは「消費」だけしてマスコミ批判。
それぞれの事件性にはたとえない悲しみを国民全てが抱きます。
しかし、次々と起こる事件は、消費されて忘れられてしまいます。
私は、殺された被害者側の視線がマスコミの消費だけで終わること、
これが日本のマスコミ批判そのものも同罪だと言わざるをえません。
「人を殺める」こと、その加害者への厳罰は当然だと思います。
加害者は「想像力を大欠落した」社会存在性を放棄した
社会性から隔絶されるべき人間、まして彼らも若人ゆえに、
もっと大きな悲しみと哀しみに苛立ちます。
もし、この人を殺めれば、周囲がどれほど悲しむかという
この想像力があれば、こうした罪を犯すはずがないはずです。
だから、社会的な想像力が環境あるいは生得した能力の問題は
厳罰であり、死刑はさすがに認めがたくそれなら人体実験の刑です。
手術や治験の刑がふさわしいと思っているくらいです。
もし、この刑で死に至れば、それは英雄の死とすることであり、
もし、助かれば恩赦でもいいのではと思ってしまいます。
ともかく、社会的な想像力を無くして、人を死に追いやることは
決して社会は許してはならないものと考えています。
なぜ、死刑と無期懲役、ひょっとすれば直ぐに解放されることは
認めることはできません。
特に10代の子が殺められることは少年法や精神異常でOKはダメです。
加害者の両親が弁護士で護ることは、分からないではありませんが、
そのような小賢しさこそ、「想像力を奪った環境」も厳罰でしょう。
悲しくて哀しい事件があまりにも連続しています。
この連鎖性を断絶させる「厳罰の刑」を再熟考すべきだと思います。

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