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『100円ショップの廉価性と品質性と影響性』


   


     10月 31st, 2013  Posted 12:00 AM

デフレーションの象徴とまで言われる100円ショップ。
個人的に私はどうしてもプロの視点で商品を見てしまいます。
なんといっても「これがなぜ、100円で可能なのだろう?」と、
いつもデザイナーとして想い悩まされます。
また一方では、使い心地が決して悪い品物でもありません。
最近は、台所用品、文房具、洋装品など、まるで百貨店の品揃え。
私は、現代の若者たちはとても恵まれていると思います。
100円ショップの品物で十二分に日常生活は出来てしまいます。
今回は陶磁器品を詳細に検分しました。
<これが、いやこれで100円なのか!>と思ってしまいます。
陶芸家作品で、びっくりするほど高額なモノがあります。
一体、こうした廉価な品物と比べて見れば、
結局は「用」を成し遂げていることには何の差異もありません。
私が100円ショップの品物の「用」は認めることができても、
自分の日常生活には、容易く使えて自分なりの「納得」があれば、
それで充分に構わないとも思っています。しかし、
このような考え方には大きな反動が自分の中にはあります。
廉価という言葉は世情では摩擦の起こらない言葉ですが、
結局は「安物」にすぎません。
「安物」の「用」は充分に満たしても、それを自分自身の生活、
ということになればその「安物の用」が張り付くことはイヤです。
つまり、自分の存在に「安物性」が反映することは拒みます。
単純に、自分の生涯において「用」だけが賄えればいい時期、
そんな時期が自分にあったとしても、「美」を確認するうえでは、
やはり「美しいモノとともに生きれば、美しく死んでいく」。
岡倉天心のこの言葉を信じます。
私は自分の生涯においては、「用」と「美」に対しては、
やはり、自分の価値感においても、古窯産地、陶磁器メーカー、
日本各地にある陶磁器産地のモノからも、
「自分が充分に納得できる最高の美」を求める覚悟でいます。
無論、こうしたショップに有る品物の「安物性」で、
自分ならではの「価値感」を再確認できる楽しみは確実です。
100円ショップはある意味では、一つの楽しみにすぎません。
もはや、どこまで「これこそ!」と言うモノの「用と美」、
このことに包まれた日常の自分でありたいと思っています。


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「陶磁器メーカーの相次ぐ倒産はやむなしかもしれない」


   


     1月 21st, 2013  Posted 12:00 AM

陶磁器は、文明の象徴です。
なぜなら、
文明は器=飢えと機=寒さから護る衣服から始まったからです。
にもかかわらず、
欧州の有名ブランドの倒産がここ数年顕著になっています。
無論、
わが国の伝統工芸陶磁器産地も風然の灯火と思える状況になっています。
高校時代から陶磁器には人一倍興味を持って見つめてきました。
そして、自宅の陶磁器はそれなりに選んで集めてきました。
自分でデザインすることもここ3年ほど取り組み、
プラチナの釉薬で、
インダストリアルデザインの導入を有田焼で商品化し始めています。
そうして気づいていることは、
陶磁器が中国の景徳鎮から始まった文明であり、
やがて文化になってきました。
しかし、その技法がとてつもなく進歩・進化しただろうかと判断すると、
伝統は継承されてきただけで、
破壊され裏切られた事例は本当に数少ないと観ています。
あくまでも素材は陶磁器であり、
無論、セラミックという先端技術が陶磁器に応用には至っていません。 
欧州の紅茶文化や、食卓文化、料理との相互性などにおいて、
私は、まず、「創意工夫」が尽くされてきたとは思えません。
これは、陶磁器デザイン=工芸デザインは、相変わらずに、
「装飾主義」がデザイン・意匠に結びついているからです。
せめて、伝統を裏切り、新しい食器文化を問題意識において、
「問題解決」としての陶磁器を超えてくるべきだったと思います。
すでに、水はペットボトルに、
コーヒーメーカーから缶コーヒーがあり、
紅茶のシステムも変化しています。
文明の再構築は「器」への問題意識なのかもしれません。
陶磁器デザインは「絵付け」にありとするなら、
その絵付けなどは、
パソコン、インターネットなどで自由に、
自宅で絵付けと焼成ぐらい出来て当然です。
今年早くも、
イタリアの名門陶磁器ブランド・リチャードジノリの倒産を知って、
私は、インダストリアルデザインの立場からの発言を決心した次第です。
まったく形態デザインの問題解決がほとんど見られません。


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