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Posts Tagged ‘非常勤’


『長寿のために・・・・・ 』


   


     1月 25th, 2022  Posted 5:40 PM

恩師には二つあります。
まず、恩師を私は入学直後から嫌いになりました。
雑草というのは、昭和天皇は「全てに名前がある、雑木もない」
と言っていたので、私が天皇のことを代弁をしました。
恩師に私の名前を先生に言ったことで、何かと後々にいじめられました。
みんな知っていることでした。
恩師は美大で、後に「福井で講演をする」でした。
誰にも福井県では恩師名は不明でした。
県立美術館や新聞社に先輩と駆け巡りました。
ホテルに恩師が戻ったときに、恩師と会うことで断られました。
私と先輩は裏切られました。
旭川iの友人が恩師を北海道から東京で約束していたのに、
「会わない」とこれも裏切りました。
それでも「周囲には自分で恩師の生誕講演をやれ、!」でした。
先輩からの「命令だったのです!」。
もう一つは、息子に美大は最低大学と恩師が言っていたらしいのです。
卒業した人全員をバカにしています。
残念ながら、私は医学博士であり、「日本医工学学会」であり、
グラントを4年間いただきました。デザイン部門ではありません。
文科省は、私は「美術では無い」、医工学の専門家でした。
それでも、恩師のおかげで、
「デザイナーであっても、クライアントに」文句が言えるのです。
これが恩師の美大・東芝入社・非常勤の想い出です。


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『色彩の徹底的な実務と故・大智浩教授のこと』


   


     3月 30th, 2020  Posted 4:45 PM

工業デザインの私の基礎は、
「大きさ(出来るだけ小さく薄く)・素材(新素材と普通素材のコンビ)」
そして「色彩の決定(新しい意味づけ、文脈、存在)」です。
これは、大学で職業訓練のように様々な基本を徹底して仕込まれました。
その色彩は、故・大智浩教授のいくつもの論理を受け継いでいます。
美大の非常勤だった大智浩教授が余りに影響力が大きくて、
デザイナーとしては、誰の目で見ても
「ファッション」も素敵で配色が圧倒していました。
当時は、あの先生が「キリンマーク」を手掛けていました。
が、先生を引き出せば、キリンの広報は違っています。
私は先生目当てにNHKの市民講座を、
ほとんど年配のおば様方の中に混じって受講しました。
講演終了後、一人青年として目立っていた私に先生は、
「君は金沢美大の学生か?」と尋ねられました。
「先生の大学の授業はつまらないけど、
今日の講演で色彩で分かりました!」
先生から笑われましたが、一遍に覚えてもらいました。
デザイナーとなり、色彩の決定について
デザイナー同士で話をすることもあります。
すでに経験値としてはかなり高いとは思います。
私の色彩デザインは徹底的な実習実技の美大での訓練と、
大智浩教授の色彩論理、
それも市民講座が足固めをしてくれました。


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『1930年、すでに木製玩具は商品になっていた』


   


     6月 18th, 2017  Posted 12:00 AM

私は木材である「木」には、
人間に対するあたたかさやヒーリング性などを根本的に疑っています。
当然、木材性の住宅はこの日本では自然との適合性はあります。
コンクリート住宅や工業用素材では実験マウスが数多く死亡も私の知識です。
したがって、木製玩具はほとんど疑ってきました。
金沢美大で非常勤時に卒業制作で動物形態での教育玩具がありました。
このプレゼで私は怒りの評価経験があり、次の発言をしました。
「動物の手足や首をバラバラにする、しかもそれが教育玩具だって?」と。
「・・・・・?」
「そんな教育を我々は受けてきたのか?」。
そうすると、柳宗理先生は微笑んで、
「川崎、私が言うこと代弁したなぁ」。
ただ、私が認める唯一の玩具があります。
ずーっと探してきました。
それは1930年代に有名ブランド商品として、
木製の猫を表した親子二世代が実現した商品でした。
メゾン・ルイ・ヴィトンが創業者の孫であるガストン・ルイ・ヴィトンと
その妻とにインスパイヤーされた商品であり、
当時のル・モンド紙でも「アラジンの魔法の洞窟」とまで評されました。
ここまで高評価のモノが私が生まれる20年前に存在していたのです。
木製玩具は木肌そのまま、あるいはオイルステェイン仕上げ、
カラー塗装、こうした仕上げが重大です。
塩ビシートで当然な「木目調素材」があります。
私もステレオやシステムコンポーネントのラックデザイン設計で、
この開発をしていて、塩ビシート開発では随分と現場の職人さんには
叱られた経験があります。
「本物の木目は知っているのか?」と。
私は特に南洋材が好きで、ブラジリアンローズ木目を塩ビシート開発では、
本物を知らずに、当時は手描きのレンダリングを工場に発注し叱られました。
そこで、東芝のデザイン資料保管室で、
おそらく100種類の木目を暗記したことがあります。
だから、家具店では本物か、木目プリント材かは今でも触ればわかります。
デザイナーとして、自慢できることだと自負しています。
そこで、木質の椅子などではこういう素材選択や木目調仕上げは・・?と、
よくよくうるさくなってしまいます。
特にスピーカーシステム木目仕上げはオーディオ見識には不可欠なのです。
それは木材質で音響の反響や吸音は、明白に変わるからです。
ともかく、この玩具を手に入れたいのです。触ってみたいだけです。

* 『歴史的作品からの刺激をどう受け止めるか』
* 『音場空間を再調整再整備し直しました』
* 『民藝の美とデザインの美は区分分別されていた』
* 『民藝というレジリエンスデザインの源流は光化門にある』
* 「ブライスというたかが人形に、されどの本質」


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『書かれた柳宗理デザイン=現在出版の書籍で継承可能か』


   


     4月 27th, 2015  Posted 12:00 AM

柳宗理先生の生誕100年記念は、アジア主国で展示会が開催。
そして、柳先生が高齢になられてから、
現代デザインの批判とデザイン理念の基本論として出版されました。
どの書籍を読んでも、一致していることは、
これは先生の生涯を通しての「商業主義批判」と、
「デザインは生まれてくること」と「ゴミになるデザイン批判」です。
生涯貫徹されてきた「手の思想」が書かれています。
実際に、大学4年間、更に社会人新人時代、金沢美大に戻ってからと
私はちょうど3期間に、それぞれの思い出があります。
大学時代も新人時代ともにまずは反発反抗していた気がします。
金沢美大で非常勤にもどったときには、車イスの私が、
ふるさとの伝統工芸、その産地で、特にゲマインシャフト性を
もう一度教わりなおしていました。
また、車イスの身体になったことでは心配をかけました。
先生の作品群については、
いづれ金沢美大に収蔵されると思っていましたが、その後、
様々な経緯を平野元学長や同窓会のメインの先輩、中でも同級生M氏は
「柳宗理記念館」設立にまでと苦労を重ねていたことでした。
私はその傍観者でしかなかったとを正直に告白しておきます。
そしてデザイナーの仕事はまさにアノニマスであるからなのでしょうか、
芸術作品的な扱いにはなりませんから、
デザイン記念館設立ができるのは金沢の伝統性に他なりません。
私はむしろ、ロラン・バルトの「モードの体系」そっくりな事象が
こうした先生評論の書籍には強く顕在化していると思っています。
そして、何よりも大事なことは、アート作品同等以上に、
生活を真に取り巻いていたモノと人間の歴史は強く社会が
護り抜くべき義務だと位置づけていますから、
最も、柳宗理の全作品とその資料は、金沢美術工芸大学が、
なんといっても一番に語り継いでいくべきであると考えます。
しかし、現在の大学は組織としての脆弱性を露わにしていることを
私は書き残さなければなりません。胆識的美学性の欠如があります。
したがって、これからのデザインを私は教え子代表として、
柳先生からの理念系譜でこそ語り継ぎたいと思っている次第です。
「モードの体系」にしても、書かれただけのデザインの貧弱性を
なんとしても抹消しなければなりません。
抹消させる最大の武器は未来創出のまさにデザインに他なりません。

柳宗理生誕100年記念講演


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