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Posts Tagged ‘頭脳集約’


『資本主義からの逃走』
    「 『富』を見失ってきたイデオロギーの文脈」


   


     9月 3rd, 2010  Posted 1:38 AM

「富の分配方程式」
資本主義も社会主義も、イデオロギーだとするなら、
私たちは、本来のイデオロギー、何がイデオロギーかを未確認のまま、
この二つの主義主張で分断され闘争させられてきました。それが20世紀です。
いづれのイデオロギーも、『富』とは何であったのかを見失なってきただけだったのでしょう。
『富』を生産し、分配し、蓄積することの結果を、私たちは20世紀末にはっきりと認識しました。
反省しなければなりません。
それは、富の分配方程式が経済図式にすぎなかったことと、
私たちという種の存続性さえ危ぶまれている現前で、たちすくんでいる有様です。
マエンゲ族とトロブリアンド島民
南太平洋・ニューブリテン島のマエンゲ族、
そして、
西太平洋・トロブリアンド島民、
いづれも無論働きます=生産しています。
しかし、彼らの生産は、いかに「美しい畑作」をするかということです。
畑生産での収穫量=「富」ではないことを私たちはもっとその価値を熟知すべきだったのでしょう。
彼らの「生産」成果とは、「美しい外観や体裁の整備」、その審美性に価値をおいていたのです。
この種族や島民に最も注目し、
「労働」・「仕事」その生産による「富」を見失ってはならないという指摘はありました。
いわゆる構造主義者の示唆・分析を無視してきたことは事実です。
エコロジー・リサイクルが問題解決にあらず
「労働」とは、真に肉体労働であり、
人間という種の生理=発汗行動を忌み嫌ってきたのかもしれません。
頭脳集約が果たして、新たなイデオロギーを世界観、共通感覚にしてくれるのだろうか、
という「文脈」をもう一度引き込み直すことかもしれません。
もっと直裁的に言ってしまえば、
私の視界には、声高なエコロジーとかリサイクルが問題解決だとはまったく思っていないことを、
1989年コンピューター黎明期に訴求して以来持ち続けています。
「富の生産・配分・蓄積」という文脈で、私たちは、見失っていることが余りにも多かったのです。
エコロジーもリサイクルも、まだ「富の分配式」のままなのです。
見失っていたのは、「審美的な富」だと私は考えています。
「審美的な富」はデザイン対象・問題解決の「解答」だと確信しています。


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『資本主義からの逃走』
  「Serviceという経済のウロボロス化」


   


     12月 13th, 2009  Posted 1:00 PM

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Serviceという言葉は、止めどなく拡大化してきました。
だから、その由来性は消尽してしまいました。
その由来性を辿ると、
それは「宗教」・「宗教性」と「経済」・「経済性」に、
「ウロボロス」という原始宗教的な、「善悪」の曖昧性を
歴史の中で消去しようというある企みが見えてきます。
その企みを主導したのは資本主義です。

断言をする時期がきています。
「サービス産業」とは宗教という労働集約性の欺瞞・悪が、
実は背後で蠢いています。
時にそれは、頭脳集約を目標化させる正当・善らしさに
変貌しています。
サービス語源の由来から判断すれば、
「サービス産業」とは新興宗教法人です。
あるいは学校法人という経済構造の制度です。

「サービス」は無財なる経済の対価制度として、
資本主義経済の中でその由来性を抹消できたのです。

● サービスが宗教音楽であったことをご存じでしょうか。
  バッハであれベートーベンであれ、
  serviceに頭を垂れて、音楽に対峙していたのです。
● サービスが軍事奉仕であったことをご存知でしょうか。
  愛国心に命を捧げることになぜ勇敢だったのでしょうか。

つまり、
人間は、人間界は「生きて」なお、
「神」それはあらゆる宗教神に、「奉仕=service」して、
「死」をむかえることになります。
私たちは、「神に頭を」垂れます。

「サービス産業」は、「頭を下げて」、
経済労働=感情労働の対価を得るのです。
日本の「サービス」という言葉は、
やはり米国からの外来語でした。
「サービス産業」は、感情労働の対価の区分を、
ようやく、わが国も制度化しました。
「サービス」、特に「情報サービス」は、
資本主義の頭で尻尾を飲み込む姿に変身し始めています。


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