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Posts Tagged ‘食事’


『ロートレック出身の町で、入院経験のPFM』


   


     12月 25th, 2018  Posted 12:00 AM

フランスのトゥールーズ(航空宇宙産業)から
約1時間半でアルビの町です。
ここでもいくつかの思い出があります。
フランスと日本の交流記念となるイベントで
私は「産業とデザイン」の日本代表として講演等に参加しました。
アルビでは、国立の鉱山大学を見て回った後、
ロートレックの美術館に案内されました。
この美術館はお城で、
ロートレックの石版まで見せてもらうことができました。
そして、そのアルビ県の知事官舎で、どういう訳か私も表彰されました。
しかし、当時は失業率が4.0%で、デモが起こりました。
危険が及んではと、知事の官舎、といってもお城跡で
その抜け道の地下道を通り町の市場に出て難を逃れました。
このルートは秘密とのことでした。
そこで、過密なスケジュールをこなしていた私は倒れてしまいました。
心臓発作が起こったのです。
ホテルでホームドクターの診察を受け救急車で大きな病院に運ばれました。
何としても役割を引き受けたトゥールーズでの講演はやり切り、
ドクターにお願いし10時間もたせる注射をしてもらい講演会を終了し、
後は、私はその大きな病院で、通訳二人とスタッフたちは
町のホテルで、20日間ほど滞在して日本に戻りました。
海外での入院生活はニューヨークとアルビでその入院環境を知っています。
この経験で、患者へのPFK=ペイシャント・フロー・マネージメントの
説明や開示、看護や食事と客観的にも見つめていました。
医療環境ならニューヨークより、日本よりフランスのアルビでした。
昼食後は、必ずワインを一杯ひっかける
そんな二人のドクターの対応を受けることになりました。


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『第三番目のICDは、阪大と繋がっている』


   


     11月 3rd, 2018  Posted 12:00 AM

私は28歳の時に交通被災で車倚子になりました。
45歳から患った心臓障害は事故の被災だったろうと
名古屋市立大も阪大も予測しています。
最初の手術で5年間(左上)は全く大きな障害が起こりませんでした。
麻酔注射1本半で、手術に耐えました。
「これが苦しいなんて・・・!」と痛さを我慢。
そして、病室に入ってワイフを見てから「痛いよう!」と叫びました。
2回目の手術の時には注射3本で、ただ部分麻酔なので意識はあり、
手術中にドクター達が「ワッー」と声をあげました。
体内にあったICDはかなり癒着していたのです。
このICDの手術は、開胸しない内科の手術で、術後の管理は慎重ですが
食事も当日からでき早期で退院が可能です。
2台目のICDでは、就寝中の発作から作動し命が助かり、
「川崎先生、死んでいましたよ」と主治医から言われたこともあります。
今回の手術前には、仕事終わりでの発作から
ICD作動2回の失神に耐え切りました。
3台目の映像で相当に循環器での解像度の医学的進化が見られます。
この3台目ICDは、これまでできなかったMRI 撮影が可能となりました
(私は背骨のステンレス鋼があるから分かりませんが)。
進化のもう一つは、携帯端末のような機器を寝室に置いておき、
モニタリングできるシステムが構築されていることです。
入院中は、CTのポータブル機器はじめ医療機器デバイスが小型化、
ワイヤレスでデータを送受信できるようになっていました。
昨年Gマークを受賞したカプセル型ペースメーカーは、
私のICDと同じメーカーですがこの機器はまだ成熟段階ではありません。
一度入れると取り出すことができないので高齢者向けとなり、
心臓内には2台くらいしか入れられません。
専門家を入れた審査でないとこういった評価判断は難しいでしょう。
デザインはもちろん、医療はじめ専門的な知識が
不足した審査をするGマーク審査委員を私は批判しています。
かってスウェーデンのインスリン シリンジを
私はGマーク審査で落としました。
それこそ厚生労働省から随分と抗議がありました。
いのちが関わる医療機器はデザイナーが「生理学」程度を
しっかりと学んでいただきたいと思っています。


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『「たまごっち」には使用価値だけがあった』


   


     8月 8th, 2018  Posted 12:00 AM

1996年に「たまごっち=tamagotchi」が生まれた時に、
名古屋市立大学芸術工学部が新設されました。
多分、私は流行だろうと思っていて
全くたまごっちには興味がありませんでした。
ところが、今回も自分の持ち物を終活しようと思っていたら、
これだけのたまごっちが出てきました。
人間は、生まれてきたときは何にも持っていません。
しかし、死んでいくときも、何にも持っていけないのにも関わらず、
どれだけのモノを自分は持っているのだろうということを知りました。
本当は、たまごっちを外国人がやっていたので、
私はこれの収集をしだしたのです。
これは流行として、その時代には大変な使用価値がありました。
その時には使用価値だけがこの商品にあり、
その後は大変な在庫にもなったようです。
したがって、もう一つの交換価値はなかったのだろうと思います。
このたまごっち=tamagotiは海外にも盛大に売れましたが、
今後は、交換価値は、
おそらくオークションでのみ出てくるかもしれません。
単なる卵の中で食事を与えたりしながら、やがては天使になり、
それからメッセージがあったりというようなことを思い出します。
そんなこともあって私は海外の友人にも頼んで
海外のモノを使用していました。
それこそ、使用価値だけで流行化したモノでは
もう一つの交換価値はありません。
そんなことからかつて私が取り組んでいた工業デザインでは、
Aurexが未だにオークションに出てきますし、
私がフリーになったモノは商品として出て来ています。
どれか、たまごっちは使用価値一つをやってみようと思っています。


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『医療環境はまだまだ駄目です』


   


     7月 20th, 2018  Posted 12:00 AM

病院内の私の個室です。
これが、関西では最高の病院だとは絶対にならないでしょう。
ベッド位置も変え、液晶TVなどは「低所得用液晶TV」ゆえ、
どれほどここにはインテリアが凝られていられたのでしょうか?
グラフィックデザイナーのデザイン仕様ゆえですが、
このような液晶TVなどは日本では使われていませんから
私の液晶TV=私デザインを持ちこみました。
これを抜ける液晶TVは今もありませんし、
4KでもこれだけのHi-Fiはどこもつくっていません。
しかも、このメーカーもこれを最期に液晶TVは辞めました。
それは企業戦略として大きな液晶TVなどは
売り上げも最悪になるからでした。
また、私が眠っているベッドも最悪であり、これでは何もできない、
と言ったとき、ベッドを点検してもらったら、
これはメーカーでなきゃ直せませんね、と言われました。
私はベッドメーカーとも仕事をしているので、
「当然ですね」、と答えました。
建築家?デザイナー?どちらがこれを要求したのでしょうか?
これこそ、ベッドとしては医療環境では絶対に使えないモノでした。
理事長?、院長?、ともに騙されていました。
このようなユニフォームどころか、私は自室で病院食をとっていましたが、
勿論、それは無くて無印良品のそれもすぐに壊れるモノ。
従って私が持ちこんできたテーブルで食事をしました。
メニューは一度覚えてしまえば、全くメニューは必要がありません。
WiFiも繋がらないし、通信環境も駄目というのでは、
ここの公報用にデザイナーが自ら書いていた「リゾート」とは、
もう少し勉強をしてもらわないと、
「リゾート」つまり「何度でも訪ねられる休養地」が成り立ちません。
まだ、この病院が有名なデザイナーだから、「良い病院」ということは、
日本の病院環境はまだまだです。
私はフランスやニューヨークでも入院したことがあるので、
「そうか、フランスは良いなあ」という経験は、
どれだけ、それこそ日本の医療環境はまだまだです。


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staffblog 10月6日


   


     10月 6th, 2017  Posted 11:50 PM

10月6日

本日は、夕方より、
ASTON MARTINの
選ばれたオーナーに向けた、
イベントが開催されました。
「Marek Dinner with Valkyrie」
と題しまして、
ASTON MARTINのvice presidentであり、
デザインディレクターである、
Marek Reichmanを招いての、
Valkyrieの公開パーティでした。

テーマは「和」ということで、
入り口には暖簾がかかっています。

公開まではベールに包まれています。

テーマに従い、川崎の装いも和です。

美味しいお食事と共に。

Marek氏のプレゼンテーションと共に、
オープン。

仕上げや、つくりなど、
詳細まで確認ができました。

Marek氏に挨拶を。
川崎の作品説明を興味深く
聞かれていました。

固い握手を交わして、
最後は二人で記念撮影です。


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『機能食品である栄養ドリンクの本質』


   


     8月 21st, 2017  Posted 12:00 AM

デザインと言えば、必ず、「機能美」。
機能あるモノは美しい、と言われてきました。
しかし、私はこれこそデザインに大誤解を与えた元凶だと考えてきました。
機能の裏側には機械主義が歴然とあります。
機械工学と今なお大学、学会と大間違いをしているのです。
なぜなら五大機械というのは全て兵器・武器つまり「械」であるからです。
結局、文明を成し遂げた機械は、武器・兵器だったということです。
そこから、実は、これらの栄養ドリンク剤も、
その裏側には兵隊が食事なくとも、身体保持が大丈夫であるという
機能食品であるということです。
私は機械という浅はかさをずーっと発言をしその反感を買ってきました。
名指しで言われたこともありますが、
日本は「機器工学」でなければ、真の文明は語ることが出来ないのです。
そういう意味では、こうしたドリンク飲料は明確に文明のモノであり、
身体機能を支えるある意味では武器だと言えば、また反感を買うでしょう。
しかし、文明は「機」織りで、「器」はうつわなのです。
寒さは機織りで衣服をつくり、飢えは器を要求し,それが文明でした。
文明が文化になっていくのは、武器兵器で闘ってその国を支配してこそ、
やっと文化が生まれていったと明言しておきます。
機械工学にデザインがなじめなかった最大の理由は、
デザインは文明を文化にする手法であったことです。
私はそのことを最も語るために機能性食品の飲料をここに差し出します。
もっと端的に言えば、人間工学を考えればすぐに理解されるでしょう。
自分は安全に相手=ヒト・モノを効率的に機能化する学問でした。
したがって、第二次戦争後には、エルゴノミックスは一端廃棄されて、
ヒューマン・ファクターエンジニアリングになったことです。
機能性食品である、栄養ドリンク剤は未だ知らされずに開発されたモノ、
すなわち、兵器であり武器だと断言をしておきます。
まさに「征露丸」が「正露丸」となったこの見事な医学的薬剤は、
栄養ドリンク剤に連鎖していたと言っていいでしょう。
「機能美はデザイン」からは離脱させるべきと私は考えています。

* 『若き日、「東京家具見本市」で二人は学んでいた』
* 『デジタル表現の基礎は、烏口や用紙感覚も必要』
* 『哀しみのためから楽しみのための電動車椅子開発へ』
* 『イスと空間、空間の質量を自在化するデザイン』
* 『HUSATとInternet of Medical Thingsのデザイン言語 』


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『レストランテーブルの高さに車椅子使用者ゆえ注目』


   


     7月 21st, 2017  Posted 12:00 AM

ようやく気づいたと私は思いました。
これはいわゆる食堂、レストランという建築空間です。
何に気づいたということでしょうか?
テーブルの高さを見てもらえば分かることですが、
通常、日本ではほとんどというかすべからくテーブルの高さは700mmです。
しかし、喫茶店になるともっとテーブルの高さは低いのです。
私はたとえば企業のC.I.などの企業イメージづくりに関わるときには、
特に食事をするテーブルは750mmにすることを薦めます。
理由はとても簡単なことですが、車椅子での使用勝手では当然なのです。
これは京都のそれも米国的な雰囲気を若者対象にしているレストランです。
ともかく京都は外人が多い街であること、
それも在住している白人が多いということに起因しているでしょう。
東京でも一流ホテルなどのレストランはほとんど海外仕様で、
テーブルの高さは750mmですから椅子の高さもそのテーブルとペアです。
このテーブルの高さがなぜ私は気にしているかということです。
それは車椅子使用者にとって、テーブルの高さはとても重大だからです。
正直なところ国内のホテルやレストランで海外と同じテーブルの高さは
全く出会ったことがないということです。
昨夜もユニバーサルデザインやバリアフリーが日本ではサンクションだと、
一応記述しましたが、車椅子生活も40年で、自分の職能からも、
ましてはユニバーサルデザインを自分職能の領域にしていますが、
バリアフリーはほとんど実現はしていないのです。
もっと正確な事実を明らかにするべきかと考えています。

* 『統一、いや統合には四つの分類があるが気づくだろうか』
* 「アイデンティフィケーション、そのデザイン体験」
* 『もし、このデザイナーから学ぶことが無いなら・・・』
* 「C.I.デザインの源流としての思想」
* 「現代的アートが象徴していることは企業革新テーマ」


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『光陰へはただ祈るだけだと思い想っています』


   


     5月 27th, 2017  Posted 12:00 AM

「光陰矢のごとし」というレトリックがあります。
かつては時間の過ぎ去る早さだと思っていましたが、
60代になると知人・友人、その周囲の人が、
突然、逝ってしまう事が増えました。
その度に「会えなくなる」という無念さで胸がつまります。
「長友啓典」氏といえば、デザイン界、
それもイラストレータの大御所です。
いつかは逢えるはず、と思っていました。
インテリアデザイナーの森田恭通氏の紹介で彼の主宰する雑誌で対談し、
その後の食事でもう親友のごとく大仲良しになり、
次回会えることを心待ちにしていました。
ところが突然逝ってしまいました。
今年は、後輩、インテリアデザイナーの大御所、
デザイン界で最も大事な社長、仲間の母上は高齢でしたが、
彼にとっては母ですからその空しさを語りあい、
さらにはエッ!、教え子のこれからの娘さんの事故死と、
人生という光陰の瞬間性を思い知らされています。
あるクレジット会社の広報誌に、
作家である伊集院静氏のエッセイには、
彼の挿絵:イラストレーション最後の作品、
そして伊集院氏の彼への思い、
その文章には、もう本当に、逝ってしまった人たちへの想い、
それを引き出されて泣きました。
逝ってしまった人への思いは心の中にしまい込んでいただけでした。
「もう、逢えない」という悲しさと哀しさで、
まさに光陰、陽明と陰影が、襲いかかってくるのです。
長友氏とは、たった一回しか逢っていないのですが、
FBメールでは心割ってやりとりができました。
いわゆる「あの世」への思いと想いは祈ることだけです。
でも、自分の人生に光陰を与えてくれた人へ、、
あらためて私は祈るだけです。

* 「光陰の下で佇む姿勢」
* 『もう絶対に逢えない、今日は母の命日』
* 『インテリアデザインからの拡大・森田恭通のパリ個展』
* 「人は『闇』に生きていく」
* 『羊と鋼が調律の要だった、それを実証した友人』


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『応量器のモノからコトへがデザインの完成形』


   


     3月 1st, 2017  Posted 12:00 AM

五つの器が重ねられた食器を「応量器」と言います。
が、これを実際に使ったことが無ければ不明なことが多いようです。
応量器を考え出したこのデザインは、生きることと悟るためのこと、
こうしたことを食事の作法にしてきた曹洞宗のいわゆるコトのデザイン。
正直なところ、応量器の周辺が何であったのかとかは忘却されています。
例えば盤・盆・膳とのつながりや、箸・匙・刷の存在というモノのデザイン、
このモノのデザインによって食事の作法は最も優れたコトのデザインです。
?漆仕上げの応量器は、普段の食器であり朱色は儀式用と言われています。
コトのデザインとして重大なことは、
食事をなぜするのかとか、食べることすべての御礼があるということです。
・食事が賄われるまでのすべてへの感謝があり、
・この食を出来るだけの自分であるかという反省、
・正しい生き方をしているかという自分への問いかけ、
・食することは良薬であり、身体の健康を保つことの確認、
・だからこそ、この食によって、自分の生き方を成し遂げること、
この五つのコトがモノのデザインになっていることです。
道元が「典座(てんぞ)教訓」を残していかれたこのモノとコトこそ、
私はモノとコトのデザイン、その完成形だと考えています。
しかし今や漆芸の産地においてもこのことはすっかり忘れられています。
ただ、中学と高校時代に永平寺の第一道場で、
この応量器で食事をしていた私には、二つの思い出が残っています。
まず、お粥はとてもおいしかったのですが、漬け物は苦手でした。
そして、とても毎日が空腹だったことです。
そして食事後にこれを洗うのですがそれは使い古された日本手ぬぐいであり、
この手ぬぐいだけで、顔も洗いしかも板張りのトイレ掃除もしたことでした。
そして、確かに応量器を見本とした漆仕上げ?、いやウレタン塗装の食器が、
選別されたデザイン商品コーナーにあると、
私はこのデザインには、デザイナーの知見不足ととても強い怒りを覚えます。

* 「1980年代のデザインと伝統工芸産地の活動」
* 「モノづくり・コトづくり=デザインの源流でもう一度メモ」
*  「水に支えられている命・杓底一残水汲流千億人」
* 『「●●とは何か?」、質問形式とその答えは能無しである』
* 「現代的アートが象徴していることは企業革新テーマ」


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『季節毎にやりとりは40数年になります」


   


     8月 22nd, 2016  Posted 12:00 AM

この季節になるとわが家にプレゼント送付されるブドウたちです。
あるデザインのモデルショップの社長との話です。
自分が東芝で全くの新人であった頃に、まだ4人でスタートしたばかりの
小さなモデルショップでしたが技術的には最高の仕事でした。
上司を口説いて、デザインモデル=モックアップを依頼してから、
その社長には、私のデザイン活動を見てきてもらいました。
ところが、自分が車イスになったときには、東芝で箝口令があったのです。
しかし自分は交通被災後、救急病院での手術とリハビリ病院入院しました。
おそらく、その頃、「川崎はこの世からは消えてしまっていた」ようです。
退院すると、東芝に籍をおいたままに赤坂でデザインスタジオを開設し、
オーディオ関連のデザイン活動を東芝の競合以外の製品デザインに従事。
ところが、あるプロジェクトでは、どうしてもモックアップモデルが必要で、
自分はおそるおそる、そのモックアップメーカーに電話をしました。
すると「川崎さん?どうしていたのですか?とても心配していました」と応答。
自分はやむにやまれずモックアップ製作をしなければならず、
電話をしたけれど、モックアップへの予算は僅かなことを伝えました。
「何を言っているですか社長命令で電話依頼があったら全て只で受けること」
その回答がきました。依頼したら案の常、最高の出来映えのモデル。
社長からは「出世払いでいいよ」とのことでした。
やっと、社長と食事もできる仲になっています。
その社長からはいつも最高級の季節毎のフルーツや最高の牛肉が届きます。
社長はすでに日本各地にモックアップだけでなく、実装モデルも可能な
メーカーをいくつかに拡大しています。
私がやっと生き返ってきて、今なお、デザイン界での色々を相談できます。
教え子がモックアップを頼みにいけば、
「川崎さんの教え子らしい、礼儀正しく躾されている」と言われます。
モデルを頼んだら、必ず、商品になったらそのことの報告を守っている
優秀な教え子だけが、やはり、今なおお世話になっています。
自分のデザイン代表作のモックアップは全てこのメーカー製です。

* 「3Dプリンターの素材と成型精度」
* 『本物に出会う「漆器」にもささやかな未来が見えた』
* 「造形の言語道断」
* 「フリーランススタートの頃」
* 「#教えることは教わることです。だから教える立場を!#」


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