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Posts Tagged ‘28歳’


『第三番目のICDは、阪大と繋がっている』


   


     11月 3rd, 2018  Posted 12:00 AM



私は28歳の時に交通被災で車倚子になりました。
45歳から患った心臓障害は事故の被災だったろうと
名古屋市立大も阪大も予測しています。
最初の手術で5年間(左上)は全く大きな障害が起こりませんでした。
麻酔注射1本半で、手術に耐えました。
「これが苦しいなんて・・・!」と痛さを我慢。
そして、病室に入ってワイフを見てから「痛いよう!」と叫びました。
2回目の手術の時には注射3本で、ただ部分麻酔なので意識はあり、
手術中にドクター達が「ワッー」と声をあげました。
体内にあったICDはかなり癒着していたのです。
このICDの手術は、開胸しない内科の手術で、術後の管理は慎重ですが
食事も当日からでき早期で退院が可能です。
2台目のICDでは、就寝中の発作から作動し命が助かり、
「川崎先生、死んでいましたよ」と主治医から言われたこともあります。
今回の手術前には、仕事終わりでの発作から
ICD作動2回の失神に耐え切りました。
3台目の映像で相当に循環器での解像度の医学的進化が見られます。
この3台目ICDは、これまでできなかったMRI 撮影が可能となりました
(私は背骨のステンレス鋼があるから分かりませんが)。
進化のもう一つは、携帯端末のような機器を寝室に置いておき、
モニタリングできるシステムが構築されていることです。
入院中は、CTのポータブル機器はじめ医療機器デバイスが小型化、
ワイヤレスでデータを送受信できるようになっていました。
昨年Gマークを受賞したカプセル型ペースメーカーは、
私のICDと同じメーカーですがこの機器はまだ成熟段階ではありません。
一度入れると取り出すことができないので高齢者向けとなり、
心臓内には2台くらいしか入れられません。
専門家を入れた審査でないとこういった評価判断は難しいでしょう。
デザインはもちろん、医療はじめ専門的な知識が
不足した審査をするGマーク審査委員を私は批判しています。
かってスウェーデンのインスリン シリンジを
私はGマーク審査で落としました。
それこそ厚生労働省から随分と抗議がありました。
いのちが関わる医療機器はデザイナーが「生理学」程度を
しっかりと学んでいただきたいと思っています。


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『今できることはやりつくすことだ!』


   


     11月 23rd, 2017  Posted 12:00 AM




車イスになってまだ30代のころ、
国交省にいくつかの団体に応援していただきながら、
新幹線ホーム、まず東京駅にエレベーター設置を談判に行きました。
「そんなたかだか数名のためにエレンーター設置なんて・・・」
若かった私は、やがて100名が車イスの時代が来ると怒鳴っていました。
最近では、東京駅1ホームに80名から200名、とんでもなく400名の対応。
にもかかわらず、新幹線に乗るために駅員さんがスロープ対処です。
どうして、新幹線からホームにスロープ設置の発想が出来ないのだろう、
担当デザイナーどの!気づいてほしい!
銀座で最近オープンしたまあまあ1.5流クラスのホテルに、
是非ともスロープがほしいと申し出ました。
とりあえず、借りのスロープから、本格的なスロープが出来上がりました。
このスピード、そして、ホテルマンの方々が真剣に話を聞いていただき、
しっかりと出来上がってしまっていました。
こうなると、公的道路の舗装状態が悪いと言わざるをえません。
しかし、申し出たら、確かにホテルは客商売かもしれませんが、
この迅速な対応には心から感謝するばかりです。
おそらく、2020年オリンピック以後には、日本は貧しい国家になるでしょう。
しかし、今だからこそ準備をすべきです。
正直私は2050年以後には、この世にはいないでしょう。
ともかく2050年まで、いや 2300年には、ケルト民族のごとく、
日本民族はいなくなるかもしれません。
だとするならなおさらのことに、今でも想像の限りを創造に向かわせること。
私は28歳で車イス生活を余儀なくされ、40歳までと言われながら、
68歳、40年間車イスに乗って生きてきました。
しかもデザイナーです。できる限り自分の想像力を創造に向かわせたい、
だから、執拗に説得していますが、このホテルのごとく、
直ぐに対応していただけたホテルが銀座に、それは歌舞伎座が目の前です。
ユニバーサルデザインを日本で展開してきた最初の一人ですが、
今頃、ユニバーサルデザインを超えたヒューマンセンタードデザインに、
絶対に向かって実現していくべきと書き置きます。


* 『ユニバーサルデザイン・バリアフリーはまだ未消化』
* 『パリには車イス対応が最初から叶っていた!』
* 「少数派のためのデザインから・再度、再検証」
* 「随分改善された車椅子対応までのエピソード」
* 『もっと豊かな鉄道システムの統括デザインが急務』


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『健常者を差別することで社会暗部を照射する』


   


     7月 27th, 2016  Posted 12:00 AM



「身障者施設で殺傷」事件が起こりました。
身障施設職員による殺人事件は極めて想定内であり、
この連鎖性が社会暗部に確実に潜んでいます。
実際、
私は28歳に交通被災により身障者になり、
その時から今なおの経験予知です。
自分は身障者、
対してほとんどが健常者というこの幻想の中に人間たちは生きています。
健常者が身障者を殺すのは原始キリスト教では当然のことでした。
この社会暗部の健常者優位性は身障者に秘匿した差別を強いています。
しかし、暗部を決してみせてはならないという軽薄な知恵なのでしょう。
その証拠がパラリンピックという誤魔化しのイベントで、
暗部そのものを秘匿してきただけに過ぎません。
これは1980年の国際障害者年、ユニバーサルデザインの制度化に等しく、
かつて健常者だった人が老いて身障者として生きることになるのです。
自分なりの身障者からの健常者差別意識が明確にあります。
「歩けるくせに、出来ないのか」
「熱があっても38.5までなら読書可能」
「身体障害、心臓障害はいづれみんなが必ずなる」という
健常者差別が可能だということです。
これは基本的に「人は生きている=死んでいく」というこの回路の中で、
生まれたときには、impairment・disability・handy-capであり、
リタイアすれば、handy-cap・disability・impairmentになる。
必ず死んでいく限り人は健常者のままというのはありえないということです。
だから、オリンピック対パラリンピックというのはスポーツ界での差別であり、
これが国際的な疑似平等感化されている社会暗部です。
それこそ健常者対障害者をあたかも平等化という幻想に
閉じ込めているにすぎないことだと自分=身障者は断言します。
自分が、身障者としてのトレーニングで経験した最悪なことは
かえって、障害者施設の職員ほど「差別意識」が強化されていることです。
いづれ、真実を書き残さなければなりません。
私が喧嘩師となるときの真の心情は「健常者への差別」です。
したがって、「差別性」という商品戦略も実は、
この社会暗部を商品に閉じ込める作業にすぎません。
この殺傷事件の犯罪に怒りを込めます。


* 「少数派のためのデザインから・再度、再検証」
* 「身障者・差別用語タイトルの絵画」
* 「常識語なのに真意と原意知らずはコンセプト=方針を誤る!」
* 『ユニバーサルデザインの原意』
* 「このポスターに見たデザイン界の「差別」」


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『「座る」・人間工学からシーティングエンジニアリング』


   


     5月 1st, 2016  Posted 12:00 AM



28歳時に交通被災、車イス使用者として生きてきました。
車イスそのものを自分でデザインしました。
しかしこのブログでは一度もそのことを書いたことはありません。
もう最近は電動車イスでの移動の身体になりました。
しかも、身体には加齢もあるのか体型変化が起こってきています。
幸いに美大時代の同級生M氏は
シーティングエンジニアとしても高名であり、
彼から早く直すべきと忠告されていました。
確かに体型の変形は内臓にも影響を与えている実感があります。
そこで、彼は身体障害者向けの様々な製品開発や商品化もしていて、
その事業での「でく工房」社長T女史まで測定支援してもらいました。
いつか電動車イスは二人で組まないと素人判断のモノが出てきています。
私の体型診断と測定、
身体保持シートの再設計のために来学してくれました。
とてもいい機会なので、医学系研究科の教授や他大学の教授、
そして学生にすでに「座る」という行為の時代遅れの人間工学から
シーティングエンジニアリングのワークショップになりました。
なぜ、人間は二足歩行で、「座る」という行為の世界的なイスの系譜から
私がモデルになって体型変形の矯正方法や車イスがどうあるべきかを
もはや使えない人間工学を超えたシーティングエンジニアリングを
新たな研究ターゲット発見課題などを私の研究室で行いました。
そして、
今や間違いだらけの電動車イスの欠点から二人の狙いを語りあいました。
彼を私の講座の特別研究員にすることにしました。

*「音を求めて『闇『歴史的作品からの刺激をどう受け止めるか』
*『誤謬へのシンボライゼーションプロトタイプ』
*『「闇に座す」=土・立、修辞学的な造形の込めた願い』
*「デザインは『付加』するものではないということ・2」
*「関西海事教育アライアンス・6年目の演習課題プレゼン」


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『危機解決学としてのコンシリエンスデザイン』


   


     8月 28th, 2015  Posted 12:00 AM



私は危機解決学としての実務デザインとして、ここから開始しています。
私は生きていくことを、
いやそれだけを懸命に考えていたのは青春から壮年期でした。
今や、人間が生きていくことが死んでいくこと、
このことが老年期になると日常的に思い至ってしまいます。
最も、私は28歳で交通被災、45歳で心臓障害、62歳で敗血症ですから
よくもまだ生き延びていると思います。
確か、28歳で交通被災したとき、心無いドクターは私に、
「君は40歳が限度、ほら統計でも明らかでしょう」と言われました。
ところが気づいたら40歳になり、Apple社でコンサルタントでした。
63歳で阪大を定年退官して、
ひたすら、March 11.2011・東日本大震災へのデザイン復興策を
デザイン中心主義で考えついたのは、
「最悪な状態」に対してそのデザインは?
いや、何が最悪な状態へのデザインか、でした。
その根本は、「生き延びる」ことです。
確実に日本での犯罪は減少していますが、最近の殺人事件では、
まだ13歳程度の中学生が殺されます。
私は「コンシリエンスデザイン看医工学」で、学際の統合化を
四つの解決学にむけたデザイン、その具体化に取り組んでいます。
防犯・防災・安全・安心への実務的デザインの具現化です。
特に、防犯では、もっと確かな監視カメラや、犯罪者への管理です。
すでに首都直下型地震も予測値が具体化されてきたと思います。
感染症の増大も日々高まってきています。
危機管理学では机上の論理に終わるでしょう。
それなら、「最悪な状態」=生き延びることへのデザイン提案です。
ただ残念なことは、なかなかこの問題解決にデザインをという、
次世代デザイナーが本当に少ないことです。
もうサラリーマン化している企業病のエンジニアもデザイナーも不要。
私は「最悪な状態」にデザインを賭けてくれる次世代デザイナーを
真剣に求めています。


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『浴室のシャワーイスを変えました・自分がデザインすべき』


   


     3月 23rd, 2015  Posted 12:00 AM


28歳で車イス生活になってからは、浴室の問題が一杯ありました。
まず、浴槽に入ることは不可能ですが、
一時はドイツ製電動の移動機器を使ったこともあります。
それから、出張用にはチタン製でトイレに座ってシャワーや、
今ではできる限り、組み立てのシャワーイス使用可能ホテルを
国内外に確認をして使っています。
自宅では、これまでドイツ製のシャワーイスを使っていましたが、
ようやく日本製でも、ここまで気づいたシャワーイスです。
無論、これが充分ではありませんが、
正直、市販されているシャワーイスは全てがダメです。
シャワーイスが時折、コンペで入賞しているのを見ても、
肝心要なことがすべて見落とされています。
シャワーイスをやはり自分がデザインすべきだと思っています。
そのために、これまで購入してもダメなモノは捨ててきました。
おそらく浴槽のデザイン、いや浴室そのモノをデザインすべきです。
それでもとりあえずは、
このデザイン意図=造形言語条件は整えていますが、
私が求めているのはある素材です。その進化を見つめています。
しかし、とりあえずはこれまで10余年使用してきたドイツ製、
これしか自宅用はあり得なかったのですが廃棄しました。
これから自宅はこのシャワーイスを使ってみて、
大丈夫であれば、その他の仕事場にも使うことを希望しています。
写真右のように股間シャワーが可能であることは必須です。
しかし、背あてはまったく異なる素材で工夫をしています。
ともかくなんとしても私デザインのシャワーイスをデザインします。
それまで、このシャワーイスを可能であれば、
折りたたみ、組み立て方式立て方式であれば、
国内でレギュラーのホテルには配布しておくべきかと考えています。


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「シルバーにすべきだったのだが、最終授業告知ポスター」


   


     10月 1st, 2012  Posted 12:00 AM



来年、64歳になります。
よって、大阪大学を退官します。
来春からもう一度「自由の身」に戻れます。
阪大に転籍して以来、講義スタート告知ポスターは、
研究室の学生が毎年制作してきています。
そして、短いながらも研究室のある種の伝統(かな?)であり、
受け継がれてきたモノです。
よって、形式は最初の頃から、私の作品写真を入れました。
というのは、「デザイン」という講義が相当にあり、
プロダクトデザインと言っても、
工学研究科では様々な定義が科目毎に存在しています。
そこで、インダストリアルデザイン・プロダクトデザインを
より鮮明にするために「先端デザイン」だけでは語りきれず、
「先端統合デザイン」にしました。
それから、作品写真を入れれば、雑誌でも商品として見かけることから、
「エッ、これが阪大とも関係が・・・・・」、
という期待を持たせるべきと学生からの提案でした。
さて、ようやく退官となると、名残惜しさがあるものです。
それは47歳で大学人となり、
新設された名古屋市立大学・芸術工学部から始まりました。
金沢美大の先輩と恩師からも強く要望されたこと、
もう一つは、母が47年間の人生だったからこそ、
47歳からの私の生き方、
方向を大学人という職能に向けてみようと決心したからでした。
28歳で交通被災し、
被災したといっておかないと印象からか自損事故に思われるのです。
車椅子生活になり、40歳までと宣告まで受けました。
確かに、30歳でふるさと福井に帰らねばならないほど体調を崩しました。
でも、気がついたら40になりそして「毎日デザイン賞」を受賞しました。
けれども45歳で心臓障害となり、それは今も抱えたままです。
10年間で
名古屋市大・大学院博士後期課程完成年度にて阪大に移籍しました。
阪大の第一外科からは最終手術の話がありますが、
なんとか拒否しています。
そしてとうとう、「最終授業」を開始します。
となれば、
本来なら「シルバーのポスター」にすべきだったかと思っています。
よって、来年3月の「最終講義」は
シルバーで案内状を出すべきかとも思っています。
「教科書を書き上げる」と、ある出版社に言ったら、
「是非」と言われて、正直、そこまでのやる気は約束しかねます。
ただし、自由の身になったら喧嘩ではなく
「決闘」の志士になるやも知れませんから。


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「63歳まで生きました・母より年上です。」


   


     2月 26th, 2012  Posted 12:00 AM


63歳です。
母は47歳で逝きましたから、年上になったと思います。
交通事故被災28歳で、40歳までと言われながらも、
確かに45歳で心臓も交通事故の後遺症で悪くし、
その後も心臓発作や敗血症で重篤を3度も体験しました。
「生きています」。
まだやり遂げなければならないことがあります。
まして、国難の最中にある時代を
最期になんとかデザインで復興を仕掛けたいと思っています。
子供時代に最も集中して工夫をしていた「糸車」を再現してみました。
本当は「糸巻きの芯材」を使いますが、
もうほとんど芯材はプラスチックですから、
やはり銀座の手芸店でみつけた糸車を使いました。
子供時代には、輪ゴムを3本程度、
それだけでどれほどスピードが出るかを工夫しました。
この「糸車」から、
次にモーター駆動の自動車づくりをしていった思い出があります。
デザイン課題で、「動具・音具」という課題を出しますが、
その原点は私のものづくり起点に重なっています。
あらためて今年の誕生日は金沢です。
この街での4年間が私の人生の大きな下敷きです。
この「糸車」を徹底してデザインで
「より美しいモノ」にしてみたいと思っています。
63歳の誕生日は子供の頃のものづくり原点を再現してみました。


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「健康は失い薬づけだが幸運なり」


   


     1月 12th, 2012  Posted 12:00 AM


28歳交通被災で車椅子生活。
交通被災時に心臓も直撃されたために心臓障害。
これが私の宿命でした。
絶望だけはせずに、自分を諦観の中で生きてきました。
ところが、幸運だったのは大学人になってさらに、
名古屋市立大、大阪大でもそろぞれの附属病院で、
詳細に体調管理されていることです。
入退院、手術は幾たびも、しかも敗血症まで、
こんな重篤も乗りこえることができました。
これは幸運なことだと思っています。
だから、「幸不幸」はコインの裏表みたいなものです。
「幸不幸」から幸運や幸福をつかみとらなければなりません。
毎月病院で診察を受けます。
これは体調が良いときです。
体調が悪いと診察にも行けないのです。
敗血症から生還してきたとき、
病院の待合室で大勢の患者さんを見ていてこう思いました。
「病苦で自死を選ぶ」というきもちがつくづくわかりました。
毎月毎月、死ぬまで病院通いなんていうのは耐えられないし、
常時食前食後就寝前に服用しなければならない薬を見ると、
きもちはすこぶる落ち込みます。
ICDを入れる前に比べると、格段に薬の種別も激減しましたが、
それでも常に万一を考えると、薬づけの生活です。
だからこそ、「薬」の形態や色彩のデザインが不可欠です。
そして薬の形式をもデザインで変えてしまうべきと考えています。
なんとしても「ドライパウダー化」して経肺吸引が目標です。
現在は、ワクチンをミスト吸引するシステム開発が進行しています。
機能食品という名の「健康維持のサプリメント」ブームです。
しかし、サプリメントととの最適性などは、
もっと確実にしていく必要があると考えています。
いづれ、私の常備薬がドライパウダーになってくれたらと思っています。
自分のための造形された、デザインされた薬が必要です。
デザイナーとして、
こんなことに気づかせてくれたのは「幸運」だったと思ってきました。


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『資本主義からの逃走』
 「* 東京の白っぽい桜、想像力と創造力が・・・ * 」


   


     3月 30th, 2010  Posted 1:20 AM


もうすぐ4月、上京してきてからの寒さが怖いと思います。
桜も戸惑っているような蕾や開花も、寒々しい感じです。
ふっと、社会人になって就職してきた時の桜の色を思い出しました。
北陸育ちで大学も金沢だった私には、
東京の桜がとても「白っぽかった」ことが重なりました。
気持ちはすこぶるもうデザイナー気分でした。
しかし、これから始まる社会人、そしてデザイナーになるぞ!、
そんな気分に、なんと桜が、
白い華に見えていたのはなぜだったのだろうかと思います。
もう40年も前の感覚に振り戻されました。
自宅には、教え子が贈ってくれた
盆栽の桜は見事に桜色で花開いていました。
その桜を見てから上京し、
早稲田大近辺や霞ヶ関近辺、そして六本木近辺の桜は、
あの上京した当時の「白っぽい桜色」です。
連日、大学人として、デザイナーとして、
ひたすら「何に自分を向かわせるべきか、懸命」です。
自分が正直に行動していることは自負できます。
白っぽい桜色
社会人としては、日吉から銀座に通勤していました。
東横線で、大きな施設が綱島にありました。
労災病院でした。
ラッシュアワーの車中から、その施設の周囲にも桜が咲いていました。
28歳、その施設の体育館から、
東横線を見つめる日々がありました。
「もう、二度と東横線には乗れないな、
なぜ自分はこの施設の体育館でリハビリをしなければならないのか?」
車椅子生活のためにリハビリ施設から見えた桜、
それもとても「白っぽい桜色」だったのかもしれない・・・。
あのリハビリ施設で、現在、大学人になっている自分など、
まったく想像もしていませんでした。
想像力がデザイナーの資源です。
その想像力に自分の未来など決して見えていませんでした。
その程度の想像力なのに、「想像力をなんとか創造力」として、
デザインを蓄積してきたものだと思います。
あらためて、また東芝のデザインセンターを訪ねます。
これまでもいくたびか、
フリーになっても行きました。
講演にも行きました。
しかし、今度の訪問は何かあらためて自分の想像力を
確かめに出かけるのです。
1972年同期入社、多分1600人ぐらい新入社員だったはずです。
今、その一人が社長として「原子力事業」を率いています。
私が育った東芝が、「未来を原子力」に向かわせています。
自分の想像力と創造力を再び重ねることになるのかもしれません。
まったく不明ゆえに、
私の想像力が「白っぽい桜色」なのかもしれません。


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