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Posts Tagged ‘3.11’


「疲労してはいけない、と思う。」


   


     8月 17th, 2011  Posted 12:00 AM

3.11以後、日常が激変しています。
日常性が奪われたままに、
この大阪ですら余震。
上京すると必ず東京で余震を体感。
ところが被災地では日常的かつそれも震度3以上です。
猛暑・酷暑の連続にもかかわらず節電を遵守。
これほど倫理ある国民に対して、
政治の能力不全は甚だしく、
まさに独裁的とすら思える無策な政治権力が横行です。
正直言って、3.11以後、私たちは疲れています。
被災地の皆さんは疲労以上の精神的心理的苦悩でしょう。
わが日本の歴史をみても「革命」はありえませんでした。
そして「革命」の決着性がかえって混乱を招くこと、
これも知的な国民であればすでに了解事項というより、
現代を生きる人間の常識になっています。
ソ連崩壊は75年でした。
今や中国共産党90年ですが、このまま存続かと疑問。
来年2012年は世界のリーダーが交代します。
おそらくもっと大きな世界的な国際関係は、
想定外のことが頻発するかもしれません。
日本は天災と人災によって新たな選択を求められています。
だから、救済も未だ進行していませんが、
復旧と復興は、そのまま21世紀の「国家システム」、
地球規模での日常システムのモデリングづくりでしょう。
3.11がわが国に与えた状況、意味、未来ベクトル選択、
すべからく理解できていますが、
私も正直、疲労が溜まってきているようです。
明らかに、日常はゆるやかでおだやかですが、
おそらく全国民の市民感情には不安と苛立ちが、
この疲労感からきているものと思わざるをえません。
何を正確にそして迅速でありながらも、たおやかな行動、
被災地の「までい」行いを蓄積していくべきなのかを
徹底的に再思考・再熟考しなければなりません。
疲れてなどいられないのです。
まして、私の住む大阪は被災地ではありません。
だからこそ被災地の努力は政治などへの諦めを明確にして、
未来を招き込もうという実行力や具体的なニュースから、
私自身は励まされている気がしてなりません。
これだけの酷暑です。
おそらく今年の冬は酷寒が待ち受けているのでしょう。
私たちは、絶対に「までい」国家を
創生し直さなければなりません。

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「光陰の下で佇む姿勢」


   


     7月 22nd, 2011  Posted 12:00 AM

今、日本は哀しみの中。
この国難の中で、
哀しみは次々と巡っています。
3.11、あの日のことを
私たちは決して忘れることはないでしょう。
しかも、台風も巨大であり、
自然の猛威に私たちは晒されています。
だからこそ、もう一度佇んで観なければいけないのでしょう。
「考」という文字が教えてくれています。
この漢字の源は「老」です。
老人=白髪で腰が曲がった形象を示しています。
そして、この老人が杖をついて佇んでいる形象が「考」になります。
つまり、考えるというのは、
老人のごとく、経験から知恵を紡ぎ出す行為ということになります。
私は、「考える」ときには、まず経験がベースになり、
それを補完するように人間や歴史が思考してきたこと、
それが経験から「学」なり「論」なり、となっていることが基盤です。
「佇む」こと、その心の中には哀しみがいっぱいあり、
哀しみがあればあるほど見過ごしてしまうことがかえって増えます。
これは私の実体験です。
見過ごしたことは膨大です。
したがって、最も重大なことは佇んでいる姿勢が問題です。
自然の猛威は光景=光と影、まさに光陰を投げかけています。
この光陰は猛スピードであって、立っているどころか、
佇んでいる姿勢を保つことさえ出来がたいと思います。
哀しみが怒りとなれば、佇む余裕どころか攻撃姿勢となり、
喜びと楽しみは、佇むことを一時忘れてしまうものです。
私は、たとえば本当に今の時代、
光陰のごとき事象すべてを見渡して佇む必要性を感じます。
あらためて、このまま情報化の進展が「クラウドだけ」に、
エネルギーのあり方が「脱原発だけ」に、
もっと国際的な関係論が「民主主義だけ」に、
自然と技術が「調和だけ」に、などなどに想いを巡らして
「佇む」姿勢保持で光陰を受け止められるのかということでしょう。
私に突き刺さってくる「光陰の矢」はまだまだ多いようです。

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