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『画像と映像の機器をデザインしてきて・・・』


   


     3月 16th, 2014  Posted 12:00 AM

私の家にテレビが来たのは小学校4年生の頃だったと思います。
テレビが来る日は、学校から懸命に走って帰った経験があります。
ブラウン管(=CRT)には、まず私はテレビから接してきました。
デザイナーのプロとして、コンピュータモニター設計に関わり、
CRTの最期まで私のモニターは全世界に10年間存在しました。
CRTから液晶ディバイスの技術進化=リゾルーション、
画像映像の繊細画面に至る経過を見てきました。
これは、テレビにしろコンピュータモニターにしろ、
人類が、紙や映画スクリーンに加えて、多くの映像情報を
日常的に膨大情報化の歴史を技術と生活にデザインを試みました。
モニターは1995年から関わり20世紀最後にCRTは消滅しました。
それから液晶ディバイスに関わってきています。
これには人類が画像と映像を手に入れる技術を具体的機器にする、
多くのインタラクションをさらに拡大していくことになりました。
それは「プライバシー」の概念をさらに子細にしていきました。
端的には、他人から観られない状態から、
自分が自由に情報を画像映像として発信していく自由性そのものが
堅固に保全されるということにまで至りました。
すなわち、画像映像の情報を、テレビよりパソコンなればこそ、
素人でも、技能なくても、自由に拡大=拡散させる権利までを
公認と民主化させてしまったということです。
つまり、CRTでは無理だったことが液晶ディバイスなら、
もっともっと拡散し、あたかも自由性が保障されている大錯覚まで
人類は無法化させていると言っても過言ではありません。
結局テレビ放送からSNSで個人でも発信民主主義があるようです。
私はこの無法的な自由放散性をデザインで再度修繕すべきとさえ、
考えるようになってきています。
それはCRT最期の最高技術の機器をデザインできた幸運ゆえに、
この発言をしていけるのだと自負しています。

「プライバシーという人権の荒唐無稽さ」
「コンピュータを強く認識したときの人物と試作デザイン」


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