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Posts Tagged ‘TV番組’


『実話の映画化は地方を活性化するだろうか』


   


     3月 19th, 2017  Posted 12:00 AM



昨日は由利公正をふるさ福井とふるさとの行政は、
多分なんとしても福井県の観光アピールにとの戦略と、
戦術不足はなはだしい駅構内での宣伝を見詰めました。
ところが、その後には華やかなパネルがありました。
地元の商業高校のチアダンスチームが、なんでも全米一位になったという
この実話が「映画」になったとの宣伝でした。
そういえばときどきこの主演女優さんがTV番組での番宣に登場していました。
実話だそうですから、これほどの宣伝はないと思います。
そういえば親友がこの映画初日に招待を地元の映画館でしてくれるとのこと。
しかし、朝一番、10時からと聞いて、私にこのような朝一からなんて、
とても無理ゆえに断った次第です。
多分招待されてもきっと眠っていたでしょう。
ともかく、東京中心主義に対しての「地方の時代」とは、
1970年代から盛んに叫ばれてきたことです。
私自身、それこそ、第四次全国総合開発法=四全総には、
福井で伝統工芸にインダストリアルデザインを導入してから、
その具体的な活動事例として全国に呼ばれて講演をしたものです。
そして、四全総すべてが大失敗しているのをずーっと見てきました。
それゆれに、伝統工芸産地、地場産業、地域活性化などや、
「街づくりプラン」に多くのデザイナーやデザイン関係機関がくみしてきました。
70年代から、地方の活性化にデザインが関わっての失敗例は
ほとんどが「見て見ぬふり=Eyes wide shut」でした。
3.11やその後の地震対策、復興計画にもデザインは荷担してきました。
しかし、おそらくこうした実話の映画化には叶わない気がします。
けれどもこれすらすぐに忘れ去られていくのが情報過多の時代感覚です。
それこそデザイン導入がいいつの日か
インダストリアルデザインからプロダクトデザインに、
建築活動に「街プロジェクト」が、
環境デザインと言われ出した頃から、いわゆる私なりの鄙美人日本論から
大きく離れていくこの時流の中でも、
実話の映画化の地方活性策をささえうるかをみつめたいと考えています。
やがて、無くなった高校の同級生の実話が映画化されることも楽しみです。

* 『伝統工芸産地を補助金漬けから開放し法律の改正が必要』
* 『「新聞紙」というメディアが消える日が近づいている』
* 『諦観からの発想でこの国家・民族が選ぶべきデザイン』
* 『地方都市=鯖江が日本の未来モデル都市になるわけがない』
* 『日本の繊維産業、その先鞭をつけた人たちの偉業に続け』


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『年明けを迎えるのに部屋にあった名刺を520枚整理』


   


     1月 2nd, 2015  Posted 12:00 AM



TV番組が年々つまらなくなってきている。
そんな気がするのはもう年齢からなのかもしれないのですが、
かつては国民的な歳末の歌謡番組はプロとは思えない学芸会です。
結局、名刺を520枚も整理をすることに、
デジタル文具機器を使いこなすことにしました。
この機器のデザインは、熟慮不足でデザイン不在です。
結果、これまでほとんど研究室任せだったことが
今年からはこの機器を使い分ければと思いました。
そうして、ワイフのハードディスクの不調さを確認しましたが、
結論は、なんとWindowsのOSって、
これほど使い勝手が悪いと改めて確認し、
95%の人間がこの機器に縛られているのは驚きです。
そこで携帯用のデジタル名刺機器7000枚管理を注文しました。
多分、名刺を使う仕事もあと数年にしたいと思っています。
名刺を整理していて思い知ったのは、
本当に名刺のデザイン、グラフィック性の無いことに呆れます。
おそらくこれからの時代、名刺には名前とメールアドレスだけ、
住所や電話番号はバーコードで充分なのでしょう。
というより、今年の私の開発デザインテーマは、
個人の情報タグを身体化させることです。
国民総背番号制は、その登場時から私は大賛成です。
個人情報化は常に「国民管理」で反対派がありますが、
それは正当に性善説で生涯を真っ当する人には無関係です。
だから、身体には生まれれば即、個人情報タグ化すれば、
万一、行方不明者はすぐに発見できます。
無論国家管理が個人のプライバシーにまで及ぶことは、
「プライバシー」の定義が
すでに8回は時代対応変化の熟知まで知り尽くすことです。
これはすべて司法的なイデオロギー問題だと知ってこそ、
私は個人情報タグのデザインに取り組むわけです。
2015年早々、
私は名刺整理から個人情報タグ性を思いついています。


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『「新聞紙」というメディアが消える日が近づいている』


   


     6月 9th, 2014  Posted 12:00 AM



この写真は現代彫刻です。
まさに固められた新聞紙束ですが、報道の死の表現でしょうか。
私自身、新聞紙購読を止めてもう数年になります。
情報としての報道、NewsなどはPC・iPad・iPhoneで充分です。
新聞紙上の論説などにはもうほとんど興味がありません。
元来、新聞の効能は、偏向したイデオロギーであり、
下手すれば「羽織ゴロ」的な情報であれば私は無視してきました。
情報化時代は、
information・acknowledgement・consciousness・intelligenceで
時代と社会が人間の常識・知識・認識を取り囲んでいます。
そのための情報が、記事となって伝達されるメディア自体が
技術によって大きく変貌してきているということです。
そのメディアの一つである新聞紙は、新聞という形式のメディアは
消えて行くのかもしれません。
確実に、私の環境にはこのメディアは不要になっています。
新聞紙に限らず、商業出版の雑誌も消えつつありますが、
私は、特に、紙を形式としたメディア全てが無くなることには
大きな寂しさも感じます。無念ながら残したい雑誌でも消えます。
「情報の形式」を技術と時代が決定づけていくことは、
我々の基底的な要望なのかもしれません。
よって、その発行企業である新聞社という企業そのものの効能が
あらためて社会的な位置づけ変更を求められているのでしょう。
その企業系列にあるTV企業も同様に大変革されるでしょう。
しかし、新聞紙やTV番組が時代的な検証によって、
私たちが必然と考えるモノ=メディアは残って欲しいのです。
けれども、商業主義のこれも時代検証の結果、
消滅が見え始めているメディアも出てきました。
私は、デジタル化される情報の新たなメディア予想論を
デザインからも見いだしていきたいと考えています。

「現代的アートが象徴していることは企業革新テーマ」
「記号はNetworkとServerと私たちのimageに存在する」
「情報化への入り口は記号論or記号学だった」
「日本語・『情報』はなぜ曖昧になってしまったのか?」


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『カンブリア宮殿にて、デザイン職能をもう一度』


   


     1月 7th, 2014  Posted 12:00 AM



4年ぶりにTV番組に出演しました。
正直に「よくまた日本復活にデザインを」という想いでした。
TV番組の趣旨にデザインを選んでもらったことが一番嬉しいことでした。
バブル以後、いや、私がデザイナーに成って以来、
どれほど「デザインは問題解決の実務」だと主張し続けてきました。
が、現代の経営者で「デザイン意義」を知らない人物、
つまり、美学性の無い経営者たちによって、
この国は大切なもの、大事なことを失ってきてしまったと思っています。
そのことで経営者たちとぶつかることで、
私自身の活動までが疎外されてきました。
私はこのことを「必死」で言い残す覚悟でいます。
万一、その発言で封じ込められることがあればあるほど、
美学無き経営者の「生き様」は惨めなものになるでしょう。
その一端をこの番組で表現できなかったかもしれません。
その意味も語り残す必要がありそうです。
デザインの効用と効果をできる限り伝えたいと考えています。
1月9日に放映されます。

【カンブリア宮殿】
・放送予定日:2014年1月9日(木)よる10:00 – 10:54
・放送局:テレビ東京系にて放送
・詳細はこちら>>


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「初音ミクが象徴している近未来はアンドロイドなんだ!」


   


     12月 8th, 2012  Posted 12:00 AM



同じ大学に居ながら同僚にもかかわらず、
マスコミ報道やTV番組などで、その活動を知ることの方が多いものです。
いつも何らかイベントでは、
阪大同僚である教授と同席することがよくあります。
阪大ロボット学者の石黒浩教授とは、
昨日も、
医学系研究科MEIセンター(澤 第一外科教授センター長)の講義で、
研究内容を間近に見、そして本人に質問まで出来ました。
しかも、今日は兵庫県立美術館でまたご一緒するのです。
石黒教授といえば、世界的ヒューマノイド系ロボット、というより、
すでにアンドロイド開発者として国際的な第一人者です。
授業として、
石黒教授の講義を受講し、質問をして確認できたことがあります。
ロボット工学では、「不気味の谷」論というのがありますが、
その具体例での論説に感銘を受けました。
そして、すっかり疑念が解消されたのは、
「なぜ、初音ミクが218カ国に受け入れられているのだろうか」、
納得できました。
この言わば、漫画とは言い切れないアニメーション・キャラクターは、
非在しつつも、確実にアイドルとして驚喜する感性がどこまで世界的に、
飛び回っていることの理由であり、開放感覚です。
明らかに、不気味さは皆無であり、
消去できうることや、聴覚映像の詳細な表現技術の進歩そのものが、
まさに、アンドロイドということです。
そして、最も重大なことは、
「攻撃性皆無の安全性と安心感」を受け止められる感性、
それが情報時代の中で
若者の感受容体に育まれてきたということになります。
私は、これを「形態論」と「身体論」で、デザインテーマとして、
どのような意図すべき「造形言語」を創成すべきだろうか、
意味されてしまう「形態言語」への
デザインアプローチを求めようとしている自分、
すなわち、これが自我なのかも知れないと気づくのです。
デカルトの言葉、
「我思う、ゆえに我有り」は、
近代の認識論としての一つの源流であったかもしれませんが、
「初音ミク」という具体的存在のアンドロイド性には、
もはや、
そうした思考制御などは皆無になっていると言ってもいいでしょう。
すでに認識論的な哲学は、
消去されていると考える時期なのかもしれません。
今日、あらためて石黒教授の講演で確認してみるつもりです。
私のテーマは「あさっての美術館」?!
ん、何?とこれからプレゼン制作に入ります。


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「TEDxOsakaUの開催・傍観から主体化へ」


   


     10月 6th, 2012  Posted 12:00 AM



TEDは、コンファレンス形式の流行になってきました。
「スーパー・プレゼンテーション」として、
NHK・TV番組になり、その人気はますます上昇しています。
TED=Technology・Entertainment・Designという領域のなかで、
アイディアの提案者=スピーカーは与えられた短時間(最大18分)で
プレゼンテーションをすることになっています。
TEDがTEDxとして世界各地・日本全国で展開がますます拡大です。
私の研究室も早くからこの活動を見てきました。
私は学生やスタッフには、「主体的」に関わることを提案しました。
結果、「TEDxOsakaU」という範疇で、
大学を中心とした開催権利を学生がいただきました。
先般、TEDxKyotoには、
准教授・元スタッフ・研究室・スタッフが主体的に関わり成功させました。
しかし、私は一言「チャラケるな」と一喝したのです。
それは、
TEDxは米国先導のイベントからフェスティバルになろうとしています。
問われるべきことが、
スピーカー話題・課題・問題に意識化されていないとするなら、
「異業種交流?・カフェ?、そしてTEDって?」ということが
曖昧化され始めてきているようです。
現在、わが国でEntertainmentを語れる状況は押しつぶされています。
もし、このTEDへの「主体性」を発揮するならば、
三つのことを欠落させてはならないと私は考えています。

●1. 未来を招致するには現代を批判すること。
 そこにあってはならないのは「共同幻想化」の誘導を禁止すること。
●2. 現代・現実の把握と意識化において「共同謀議」の誘惑。
 実際面での提案にあるべき夢・希望・期待は
 決してEntertainment性の軽薄さに浮かせないこと。
●3. このプレゼン形式がSNSで「無防備拡散」のこと。
 これは大きな最大公約数的な情報化に沈没する怖れがあること。
 オーディエンスに最小公倍数的な発想を刺激し促進すべきです。

それはビジュアライゼーション手法が、
SNSで「共通認識」された価値観に蓄積するなら、
TEDそのものが、
世界への意識革命を情報戦略の一つに私たちは楽観的に包囲されます。
ということで、私たちは「傍観者」から「主体者」を選んで、
私たちのオリジナリティ創出をめざします。
パートナーには、信頼できるこれからの企業が支援をしてくれています。
つまり、日本の大企業には、
この「形式」にも近接できないほど脆弱化していると判断してしまいます。


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「元気になろう、元気になれるスゴイ写真だ」


   


     8月 24th, 2012  Posted 12:00 AM



8月20日、銀座に50万人だったとか。
ロンドンオリンピックはワクワク感を与えてもらいました。
素直に喜びたいと思います。
アスリートの選手達には敬意と敬服を捧げます。
そうしたら、こんなスゴイ写真が
女子サッカー選手・丸山桂里奈さんが与えてくれました。
本当に、徹底的に悲嘆し哀しむ事態にわが日本は落とし込められています。
領土問題での対決は勿論ですが、未だに拉致問題も、
さらには女性ジャーナリストの殉死です。
1000年に1度とはこれほどまでに
私たちから希望や夢を奪い取っていくのでしょうか。
銀座の光景は、マスコミが与えてくれたものではありません。
スゴイ、良かった、元気をみんなで共有できると私は思っています。
無念ながら私なりに懸命なのですが、
デザイナーとしては何もまだ進めることができません。
デザインも夢を叶える職能です。
しかし、デザイン界も元気になれない状況に追い込まれたままです。
サッカーの香川選手が、「君が夢だ」というCMを観ると、
そうだろうなー、子ども達が憧れていることが良くわかります。
子どもたちに憧れない職能は、
どこかに欠陥があると考え直すべきでしょう。
それにつけても、マスコミ、特にTV番組が、
アスリート選手への無礼な態度を見かけます。
TV界の勘違いは笑止千万です。
彼らはどれだけ夢を与えてくれているのでしょう。
その敬意ない番組は、TV時代の末期症状だと断言せざるをえません。
2020年、オリンピックを誘致することを実現するべきでしょう。
元気になって、未来の幸運を創り出さなければいけません。
領土問題と同時に拉致問題も緊急課題です。
急ぐためにも元気になりましょう。
スゴイこの写真はアスリートが与えてくれているのです。


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「日本で最初のスクリプト体・恩師のデザイン」


   


     4月 14th, 2012  Posted 12:00 AM


日本の三大ホテルというのは、
帝国ホテル・ホテルニューオタニ、そしてホテルオークラです。
ホテルが国際的な国家の存在性を「空間論的」に明示しています。
ホテルオークラは、日本で最初の国際会議IMF総会が行われた舞台でした。
そのホテルオークラのロゴタイプデザインは、
私の恩師・平野拓夫先生(元・金沢美術工芸大学学長)の作品です。
そして、このロゴタイプが、
最初の日本人によるレタリングデザインとして国際性を表現したものです。
先般、日本のホテルの歴史をNHK-TV番組で観ていました。
ホテルオークラが建築・インテリアすべてに渡り、
敗戦直後の国際性を成し遂げていたというのを改めて知り、
しかも恩師のレタリングが建設中の工事現場に掲げられていました。
すぐに、先生に電話してデザイン経緯を初めて聞きました。
最近はしばしば先生の作品実現までをよく聞くことにしています。
まず、ホテルオークラは財閥解体後の国家プロジェクトであり、
官僚だったから仕事としてやらなければならなかったということです。
つまり卑近な話ですが、デザイン対価は無かったということです。
まず、米国のデザイン会社に国は発注したら、
そのデザイン料が政府の想像を超えるほど高額だったこと。
ところが丁度国費デザイン留学生第一号の先生のことを
その会社が政府に知らせ、
彼がすでに帰国しすでに官僚だった先生は、
ホテル建設にロゴタイプからインテリアなどに、
業務として関与せざるをえなくなったということでした。
日本のデザイン界において、
「平野門下生は工業デザイン界の大一画」を成していることは事実です。
そして、その門下生はすべからく、レタリングは当然のこと、
デザイン技法はとても厳しくトレーニングされています。
そのハードさの逸話はつきません。
私もそのハードさで鍛えられたからこそ「実技」には自信があります。
そして門下生であることの最大の重要性は、
「造形力」が日本ではトップランクに鍛えられているということです。
さらに平野先生の作品は、多岐にわたっていますがその詳細、
さらに先生の「造形教育手法」は一部しか知り得ていません。
日本のあの「グッドデザイン選定制度」づくりも
先生が創設者の一人でした。
私が「HIRANO DESIGN METHOD」を書き残そうと考えています。
大学人最後の仕事にするつもりです。
私は、京都ではホテルオークラを定宿にしていますが、
その度に、このレタリングを見ます。
そして自分も相当にレタリングでのスクリプト体が得意です。
そのことを自負できるのも門下生の一人だからです。


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『資本主義からの逃走』
「 Media IntegrationはTool Integrationを励起している・7」


   


     4月 29th, 2010  Posted 12:05 AM

Media↔Tool
MediaがToolとなり、ToolがMediaと化すのは、
ユーザーの使用観と所有感によって可変します。
この可変容性を与えたのはコンピューターの登場でした。
それは、MediaあるいはToolにCPUの内在性と、
Networkingによる連鎖性だったと考えます。
明らかに「パソコンから自動車」に至るまで、
ユーザーの意識は、Mediaとしてものモノであったり、
Toolと化したMedia、Mediaと化したToolになっています。
そこで、この分別が困難になってくるのは、
三つの原因があるようです。
年齢での興味・必要感覚・楽しみ方、です。
まず、高齢化することによって、
「わからないモノ世界」を時代が創っているという印象。
もう、自分の日常性では不必要ということです。
そして、最後には、「興味」の有無でしょう。
しかし、MediaとToolという区分を自由に取り替えてこそ、
新たな世界と「自分」が出会うことの「楽しみ方」があります。
簡単に言えば、
どんなモノを自分はToolとしているのかという
日常的な「モノ」の使い方にあります。
ところが、
モノへの興味がMediaだと考えられるかどうか
ということは重要でしょう。
Mediaとしてというのは、「自分らしさ」の顕示性がまずあります。
たとえば、車などは移動するToolに過ぎないから、
とてもMediaにはならない人がいます。
こうした人には、なぜ、車で自分の表現や存在性を重ねるのかは、
「価値性」がまったく異なるわけです。

ToolであってもMediaとして革新
まず、現代は、「革新されたモノ」はMediaとして登場します。
また、Media化しないモノには、
創出された「価値」そのものがありません。
したがって、このMediaを印象づけるのが「ブランド」、
あるいは「アイコン」としての視覚認識性であることは間違いありません。
要は、Media→Tool・Tool→Mediaへの
価値の自由な認識能力に関わっています。
TVには無関心という人にとって、
TV番組などまったく価値性がありません。

価値観の多様性などは起こっていない
パソコンが使えない=メールのやりとりも不可能、
こうした社会的な価値感を「多様化」というのは、
まったく間違っています。
時代や社会の「価値感・価値観の多様性など」は
本当は起こっていないのです。
私がMedia Integrationというのは、
実は、Tool Integrationと同値だとも考えています。
Integrationは、
MediaとToolに共時的な励起現象になっていることです。


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