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「太陽・二つのアナロジー物語・その1」


   


     5月 16th, 2011  Posted 1:35 AM

「日出る処」。
わが国日本、最初のレトリックです。
日本の象徴とも言える太陽は、
私たちの信仰の対象でもありました。
だから、太陽の恵みが
そのままエネルギーになることには、
まず、「安心」感があります。
そして、「安心」感はそのまま「安全」性を語りかけてくれます。
「太陽光発電」=ソーラーパネルが受け入れられる、
最も単純な近傍性があります。
しかも、恵みは照射されている温もりそのままは、
太陽との距離感に育まれているわけです。
安心感・安全性・近傍性は寓話性となって、
効率性や信頼性は逆転させる力がありました。
つまり、科学的な太陽の存在が、
そのまま技術進化を見逃してきたのでしょう。
科学から技術への法則は、
安心があって安全を確立させている寓話的アナロジーなのです。
このアナロジーは、科学技術構造=科学と技術の関係性、
科学から技術の近傍性を語りきってくれています。
「ソーラーパネル」は、太陽のアナロジーとして
寓話的エネルギーになっているのでしょう。
けれども、効率性など寓話性に埋没していることには要注視です。
そして、この寓話性はBeginの話に他なりません。
エネルギーの相対的な出発の物語だと私は思っているわけです。


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「BeginとOriginの区別が必要」


   


     5月 15th, 2011  Posted 1:33 AM

想像と創造の結びつき。
簡単に想像力と創造力と言うけれど、
これを結びつける大事な視点が必要です。
それは、「始め」と「初め」の区別をすること。
「始め」=Beginと「初め」=Origin、
その区別を分別させる思考力。
難しく言うと、
「始め」は相対的な出発であり、「初め」は絶対的な出発です。
これは私がコンピューター、
特にパソコンとの日常化がスタートした頃に定義したことです。
したがって、創造力によってOriginはオリジナリティを
生み出すことはできます。
しかし、想像力があったからと言って、
それはBeginにはなっても、Originにはならないということです。
まず、このことを断っておけば、
科学と技術の関係、あるいは科学技術の構造は、
想像力と創造力がどう結びついてくるかということが必ず、
私は明確になると確信しているからです。
それはエネルギーを再生するか新生するかという問題に対して、
新たな視点になると考える思考のヒントになります。

テーマは「太陽」です。
太陽をテーマ、あるいはアナロジーとした科学と技術の話、
この二つの視点からのアプローチでエネルギーに接近できます。
まさしく「近さ」の概念=トポロジー的視点でしょう。


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「世界各国の2030年計画は壊れた」


   


     5月 14th, 2011  Posted 12:00 AM

2030年が目前です。
だから世界各国には、
2030年に向かっての
各国が国際的に互助関係にいたるべき
問題提起とその解決方針が書かれています。
当然わが国にも、真摯ないわゆる官僚作成計画があります。
最近、官僚はほとんど悪人扱いがこれもある種の風評。
私はかっては国の委員などした経験もあり、
審議会後、議事録の「霞ヶ関文学」に幾たびも文句をつけました。
よって、おそらくブラックリストの一人なのでしょう。
以後、霞ヶ関に出かけることはまったく無くなりました。
だから御用学者ではありません。
墓場に持って行くわけにはいかない話はすべて書き残す覚悟です。
でも2030年計画には理想主義的計画は確かにいっぱいありました。
というわけで、2030年の様々な計画書を見ると、
特に、CO2問題、エネルギー問題、電力と情報ネットワーク問題、
こうした計画は、今回のフクシマ原発事故で、
すべて見直しになったものと考えます。
そして、私はわが国の現政権は、
少なくともわが国の2030年計画は白紙となって、
あとは「思いつき」で被災地と原発問題に対応しているだけです。
というより、代議士はじめマスコミも、
2030年問題解決の各国提案を本当は読んでもいないのでしょう。
世界人口が100億人になろうとしている事態に、
民主主義や資本主義などは、
すべからく「民衆主義=ポピュラリズム」に代替されています。
「反原発」が「脱原発」へ、
これも浅はかなポピュラリズムにすぎません。
私は、「解原子力=新生エネルギー」であるべきと考えます。
2030年計画では、「再生エネルギー+原発」思想が目立ちます。
この程度が人類の発想=空想エネルギー論であっては、
「思いつき」と「思い込み」であって、創造性を喪失しています。
フクシマ原発事故=人災が突きつけていることは、
本当に21世紀を生き延びる本当の科学と技術をベースにした、
人類の知恵を修練し結集せよという啓示だと私は認識しています。
勉強不足のマスコミ、ひたすら専門馬鹿の評論家や御用学者、
彼らのポピュラリズムに惑わされてはいけないのです。
2030年計画を厳粛に読み直し、修正とさらなる創造性、
これがデザインテーマだと私は考えています。


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「『きれい』にすることが『美しい』こと」


   


     5月 13th, 2011  Posted 12:00 AM

美しいかたちのデザイン。
私の職能デザイナーの大命題です。
かたち=形式・形体・形態です。
このところ製品開発から商品化まで、
やっとたどり着いた商品のかたちは、
美しくあってほしいと願いを込めてきました。
もう40年も「かたち」にこだわってきました。
そして美しいということは本当に難しいことだと悩んできました。
そこで、私の方法論は、まず、「きれい」かどうかです。
サングラスは、顔の表情をさらに綺麗にしてくれるモノだろうか。
キーボードは、打鍵している指先やユーザーにとって、
本当に、大げさに言えば「働きがい」から「生きがい」、
その周辺に存在しているかたちになっているかどうかです。
いつも説明してきたのは、「きれい」と「美しい」には
ある隔たり・近さの概念が明確に横たわっているのです。
「きれい」は形容動詞ですが、
「美しい」は形容詞です。
これを距離感覚、近さという概念で検証し直してみることです。
まず、「きれい」にしないと「美しく」はなりません。
だからまず「きれい」なサングラスを創ります。
最近は「かわいい」という形容動詞が氾濫していますが、
私はあくまでも「きれい」なサングラスです。
具体的には、いくつかの目標を立てて、
目的である顔の表情はもちろん愛用してもらえるかたちです。
キーボードは素材開発が叶った時に、
素材の鏡面がすでに綺麗でした。
問題はここから実装です。
実装という日本語そのものが美しいことばです。
米国で私はConfiguration Layoutと言っていました。
筐体や機構設計では、Configurationになり、
回路設計や回路配置では、Layoutでしたから、
Configuration Layoutがデザインの主目標と説得していました。
さらに綺麗であることの基本は清潔であることです。
キーボードはそのまま、衛生的な清潔性を実現できました。
「きれい」の基本は掃除をすることです。
それこそ、女性が綺麗になるためにお肌の手入れということです。
ところで、「かたち」ということばから、
私は「いのち」・「きもち」・「ここち」の「ち」、
この語源から、さらに拡大することばに注視し集めてきました。
「まち」=町・街や「とち」=土地などがあります。
ともかく、今回の被災地は片付けや掃除や除染をして、
「きれい」にすることから始めなければなりません。
新しい「まち」を「きれい」にしてから、
それが必ず「美しいまちづくり」になるはずです。


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「商品化できた鏡面プレートキーボード」


   


     5月 12th, 2011  Posted 12:00 AM

美大入学と同時に、
ある学校に通ったことがあります。
タイプライターの学校でした。
1ヶ月で辞めました。
半年のはずでしたが要領がすぐ分かったからです。
最初のボーナスで買ったのが、
オリベッティ・タイプライター・「バレンタイン」です。
デザイナーなら分かります。名作です。
そしてこの経験が東芝ですぐに役だったのは、
コンピューター研修でした。
当時、FortranとCobolを新人研修で教わりました。
パンチカードにプログラムを打ち込む作業でした。
キーボード、さらにコンピューターとの関係が始まったのです。
とりわけ、キーボードは以後私の収集品になりました。
おそらく名機と言われたモノは随分捨てましたが、数点あります。
そんな折りに、キーボード専業メーカーから依頼がありました。
かっては月に650万台と聞いてびっくりしました。
しかし、ここ数年は激減し、キーボード事業撤退をするかどうか、
それなら一度私にという話で取り組みました。
そこで生産されているキーボードほとんど見ましたが、
私の収集品はまったくありませんでした。
そこで、一枚のプレートを提示しました。
ただし、プレートにするには素材開発が必要でした。
目をつけていたのは素材メーカーのある素材でした。
素材はPET(ペットボトル素材)を2000枚積層し鏡面のモノ。
その静電タッチ性能を高めること、結果はゴム手袋8枚でもOK。
ところが、プレートへの打鍵は腱鞘炎が最大の問題。
メーカーではPL(製造物責任)法の確認を求められました。
米国で訴訟経験があったためでした。
指や掌の筋肉系などの検証をしましたが、
むしろ現在のキーボード打鍵の危険性がわかりました。
それもそのはずで、ピアニストの練習では平面打鍵練習は、
腱鞘炎の防止として採用している人もいるということでした。
一見して「絶対に打ちにくそう」という意見がありますが、
私自身これまで一番評価のあったキーボードから解放されてます。
この文章も打鍵入力は自分用でなければ商品化は不可能です。
しかし、コスト面からも不可能だったことはいくつかあります。
すべて実装開発上、Bluetoothや専用バッテリー開発、
ハプティック構成は可能でしたが、投資効果の問題解決や、
ハプティック感覚は自分が納得できなかったことです。
結局、実装開発は、生産設計と密接な関係があり、
これはほぼ一般的には生産量で決定されます。
簡単に言えば、1万台生産と10万台生産では実装生産設計性。
実装生産工程では「量的」なコスト投資可能性問題が難問です。
要は、やはり、「商品販売量」が今後の商品開発に連続します。
次世代キーボードはさらに、3Dキーボードや、
キー配列の自由変更など、無線化も可能になるはずです。
まずどうしてもWindows版から発売になりますが、
すでにMac版の生産設計・試作は完成しています。
さらにダウンサイジングになれば、
筐体の一体成型までが投資可能になってくれます。
ともかく、このキーボードのプレート特性では、
「清潔」というこれまで不可能だったコンセプト具現化は到達です。
現在のキーボードは、不潔であり、
感染媒体であったことからは解放させることができました。
「トロン」や「007」などの
SF映画に登場するキーボードができました。
やがてこの鏡面素材はあらたな表皮印象を大きく変えるでしょう。
そして最大の背景は、Business Design Modelになっています。


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「ショックドクトリンを日本が一新」


   


     5月 11th, 2011  Posted 12:00 AM

私デザインの商品化は今年です。
昨年、製品開発をしてきたモノの商品化。
まず、スポーツ用サングラス。
これには大きな目論見がありました。
3プライスビジネスモデルでの
メガネフレーム販売ショップに向けてある狙いがありました。
メガネフレームデザインはすでに25年以上関わってきました。
この領域マーケットとはまったく異なったユーザー相手でした。
私にとって、競合というより競争相手は、
世界的に勝負してきたのは海外4社しかありません。
それ以外の商品はメガネフレームとは認めること不可能です。
改めて3プライスビジネスモデルマーケットのフレームは、
商品デザインだけであり、フィット性能は無残なモノばかりです。
顔面や耳殻周辺とのフィット感が皆無だと判断してきました。
だから、メガネフレームの二極化している市場をさらに分離し、
なおかつ性能と機能の統合感を創り出したいと思ってきました。
しかし、まるでメガネ業界と言っても市場特性は別物でした。
それは想像していたことでしたが、
これはBOP-Businessへ展開していくことを目指しています。
すでにこれを目指したレンズやフレーム製品が登場してますが、
私も開発に関わってきましたがまったく納得出来ないモノです。
さらに新たなメガネ性能を、素材やレンズから解放し大革新です。
メガネフレーム機能のDesign by Japanを目指しています。
Made in Japanを変革する新たな産業姿勢だと確信しています。
すでに、「日本のモノづくり」=Made in Japanを
私は Business Design Modelにしていきたいと考えてきました。
その代表として、素材開発・実装開発してきたキーボード、
このアイテム分野でも今年は試すことができそうです。
製品開発からやっと商品発売されますが、世界市場相手です。
そして決定的になってきたことは、「ショックドクトリン」は、
まさしく「災害資本主義」に向かっているようですが、
私の意図、目標、目的は、ポスト資本主義市場へのデザインです。
日本の復興政策には、日本デザインドクトリンがあります。


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「不条理・パニック、リトルネッロ論」


   


     5月 10th, 2011  Posted 12:00 AM

突然、自分への災難は不条理です。
自分への天災・人災ともに自問自答を反復。
自分自身への不明さ不条理詰問を繰り返します。
そして自責に疲労困憊すれば、
納得としての「諦め」という運命観が寄り添います。
私はこの「諦め」を「諦観」に昇華するのが日本人だと思います。
果たして未だに、この国難状況はパニックの中にあります。
私自身交通被災=全廃宣言(死亡と同等)という不条理、
28歳の私の身体への人災に直面した時、
パニックになれませんでした。
詩人マラルメの「牧神の午後」を動機にした、
ドビッシーの「牧神の午後の前奏曲」が耳鳴りにありました。
つまり「牧神=パーン」の憑依がパニックにすぎないという、
それだけの認識は、加害者を観察し見舞い客を冷静に見てました。
動物というより家畜と化した自分を従属させられないことから、
大混乱=パニックが取り憑いているにすぎないと思ったからです。
したがって、交通被災で「歩けなくなる」というドクター宣言は、
その旋律の中で鳴り響いてくれていたことを思い出します。
パニックという憑依現象の中にまだまだ日本は囚われています。
落ち着いて整然と「帰っていく」黙考に立ち戻るべきでしょう。
この「帰っていく」=リトルネッロ(ritornello)が必要です。
リトロネッロはイタリア的な音楽用語ですが、
この用語を援用した哲学には、死という不条理に直面し、
自分の破滅や消滅というパニックから危機感を、
自分自身の想像力の中に帰していくという位相体験を求めます。
トポロジカルな発想=可逆相が不可欠だと、
リトルネッロ論を提示した哲学者たちは書き残しています。
この発想にいたるには相当の疑似体験と決断が必要です。
したがって、「自宅に帰っていく自分」が見えない限り、
永遠にこのパニックに憑依されているということです。
夕焼けになって、遊び疲れた子供が必ず自宅に帰ること。
この保障が今最善の被災地パニックからの解放なのです。


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「歴史的文脈のエネルギー=原子力の修辞性」


   


     5月 9th, 2011  Posted 12:00 AM

今、原子力への論争は激烈です。
この論争には脱原発公言が勝ち馬です。
原子力を制御できるのは
爆発条件を付与する想定のみ。
ナガサキ・ヒロシマのトラウマは、
フクシマでさらに原発アレルギーを再発させました。
「安全神話」は修辞性=レトリックに過ぎず、
修辞性という加飾性など剥ぎ取られて当然でした。
2007年、大学人・私の発言を封じ込められた体験があります。
原子力学者達はこの加飾性を認めても私の提言を阻止しました。
結果は無残な現在に至っていると私は判断しています。
ふるさと福井に原発を持つ一人としての冷徹な提言でした。
この現実では歴史の文脈の最下層をみつめるまなざしが必要です。
まなざしは原子力は今なお蒸気機関であることに注視すべきです。
つまり、蒸気機関はその性能によって爆発は当然なことです。
そしてその原料は、森林→石炭→石油と変遷してきました。
ヨーロッパの森がすべからく伐採されてしまったこと、
それから「産業革命」が始まったことは忘却されています。
やがて森林の代替を地下の石炭に見いだし、
新たなエネルギー源の収奪が国際政治地政学の大きな背景となり、
世界大戦の具体的目標は、石炭の収奪だったわけです。
それを論理的にイデオロギーの対立化に見せかけたのは、
「隠喩性という病い」の蔓延だったと私は理解しています。
石炭→石油へと移行していけば産業経済の中心は石油資本に集中。
わが国が石炭→石油ということにおいては、
世界的な孤立を余儀されることになります。
これこそ歴史的な国際政治の強要だったと見ておくべきでしょう。
しかも、国内での炭鉱労働・労働争議にイデオロギー闘争も、
まさに同次元でなおかつ同位相で重なっていきます。
ところが今、地球から枯渇寸前となっている石油は、
天然ガスとなり、石油流通というよりガスパイプの配置が、
イデオロギーから宗教対立と言わざるを得なくなるのです。
この事情は、戦争をテロリズムと言い換えることになります。
石油よりもさらに科学と技術のまさに融合は、
そのままウラン鉱の発見、原子力からのエネルギー変換は、
二つの事象につながっていくのです。
核弾頭という原爆武器と、その使用防止は平和利用と修辞されます。
拡大する電力消費エネルギーとしての原子力発電所建設です。
しかも、宇宙船地球号として合意認識を無視した、
国民主権下での原子力発電所管理は各国家体制に委ねてきた、
人類全ての怠慢性であったことを認めておくべきでしょう。
そして、一方では、ポストインダストリーが情報社会になり、
そのエネルギーの根幹である電力消費は格段に増加していきます。
私は、今、原子力への対立構造を、
あたかも世界市民的管理という
またしても幻想に押しこめようとするの歴史文脈無き思想を、
机上的な修辞として告発しておくべきと考えています。
エネルギーが隠喩性から「神話」という修辞性に置き換えること、
ゆえにヒロシマをフクシマにしてしまったことは大失策です。
しかもこの大失策を「脱原発」へ連続させることは、
エネルギーの歴史的文脈性、その熟読不足と考えざるをえません。


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「BOPは世界構造の隠喩的病いとなっている」


   


     5月 8th, 2011  Posted 12:00 AM

1949年生まれの私。
当時の世界人口は25億人。
おそらく私は2049年を見ないでしょう。
ここ数年、私自身が世界人口を
追いかけつつ、その増大の速さは不安でした。
年内に70億人、2030年には100億人を突破しているようです。
反してわが国の少子化での人口激減は、
世界構図、世界構造を根本から変えてしまうことは明らかです。
この人口爆発で予想される世界的な問題、
その代表的な問題には、食料・水・エネルギーの構図が見えます。
BOP=Bottom of the Pyramidという人口図式。
三角形に、所得構造分けされた図解です。
私は授業・講演会などで世界構図のビジュアル表現として、
最も多用してきた図解です。
しかし、この図解である図式は、世界隠喩であることも明白です。
それは、人口分類が「所得階層」になっていることです。
スーザン・ソンタグの名著に「隠喩としての病い」があります。
この著作をベースにして、世界構図の隠喩となるのは、
人口爆発である「BOP図式」と「エネルギー」がテーマ可能です。
そして、この現実には世界構造が隠喩的な図解化ができます。
人類の大きな問題が隠喩となって私たちに覆い被さっています。
つまり、人口とエネルギーに現代世界の大問題があります。
現代世界の一つは強欲な人間欲望と、
もう一つは、さらに貪欲な人間社会の階層的な支配構造、
すなわち、国際政治の表象が支配力学になっています。
ところが、本来であれば知性的かつ知識階級である人も、
支配力学の経済的暴力構造の隠喩性からは解放されていません。
しかも厄介なことは、
この隠喩性は「情報」あるいは「情報化操作」によって、
世界構造が閉じ込められているということに他なりません。
この支配構造の中で、人々は対立し共謀し幻想に陥っています。
けれども、人間の誠実さ、「かけがえの無さ」を確信する人には、
決してアポリアにはしない生への希望があるということです。
人口とエネルギーは、まさしく世界概念の隠喩という病なのです。
この病に、デザインは必ずや企望になるはずです。


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「かたちには三つのかたちがあるようだ」


   


     5月 7th, 2011  Posted 12:00 AM

「かたち」というかたちはありません。
私は「かたち」に関わってきました。
私なりに、「かたち」は三つあると想っています。
形式・形体・形態だと考えてきました。
しかし、形式はかたちというモノに
いたるわけではありません。
むしろ、形式はすぐに形骸化する事があります。
それでも形式のデザインは強固にあるものです。
形式で取り繕いは極めて簡単です。
そして形式のデザインほどまた難しい事は無いと考えてきました。
その前に、形体というのは、
立方体・球体・三角錐・四角錐などの基本形式が、
モノのかたちになっている物です。
そして、形態は基本形式からの状態変化・変貌したモノです。
デザイナーとして、この三つのかたちに拘ってきましたが、
かたちを造形するということが、
自分から距離=隔たり=近さという概念が見え出すとき、
ようやく、造形するこうした三つの「かたち」から
最も欠落していく事に気づき始めるものです。
とりわけ、具体的に身体との距離感と、
自分自身だけの想像力との距離感が把握・認識できるには、
ある種の能力が必要になると思えるようになりました。
少なからず、この能力を参照するには、
自分の「かたち」の検証をある方向から試すことしかありません。
この手法がデザインだと思っています。
したがって、この三つのかたち=形式・形体・形態には、
自分の誠実さは決して失ってはならないと確信しています。
形式・形体・形態に誠実さが無いモノは容認不可能です。
だから形式論議に終始する議員制民主主義は腐敗しているのです。


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