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『私の体のなかの海の幸こそエネルギーだ』


   


     2月 24th, 2014  Posted 12:00 AM

このところ、ふるさと福井には月1回は必ず帰ります。
だからふるさとの味はすぐに手に入るようになりました。
かつて東京の赤坂でフリーランスのデザイナーをスタート。
赤坂から車椅子生活でのデザイン活動を始めましたが、
発熱や呼吸困難になっても赤坂では一人のドクターがいつも、
私の健康管理と精神的に励ましてくれていました。
「先生、やっぱり無理かもしれない」と言えば、
「これからだ、まだまだトレーニングすれば出来る!」と激励。
ところが、ある日に、
「ふるさとは福井だったね、このままでは駄目だから帰れ、
故郷の空気や水や食べ物が、君を元通りにしてくれる」と言われ、
私は東京を離れました。56豪雪の冬、福井に戻りました。
「ウニ」と言えば、このウニが一番好きでした。
豆腐も厚揚げも、当然、お米も全てが私を元気にしてくれました。
だから、毎月、福井に帰れば、すぐに好きな食材を買い求めます。
福井の友人や産地からも旬な物が届きます。
ふるさとの味は、子供の頃の思い出や、
今はもういない父母・祖父母思い出に重なります。それこそが、
思い出の核であり、この思い出が感性を鍛えたエネルギーです。
このウニは子供の頃には三国からおばさんが売りに来ていました。
今は福井に帰ると特別に一杯詰め売りしてもらっています。
英国のことわざに、男は青年時代に世界各地を巡って、
妻をもったなら故郷で晩年をと言われています。
しかし、多分私は晩年ふるさとで暮らすことはないでしょう。
だから今のうちに福井にてまだ仕事が出来ることが幸せです。
繊維・刃物・眼鏡に私のデザインを反映させます。
そしてその大収穫がふるさとからのエネルギーとしての味覚を
十二分に楽しめることです。

『ご飯のふりかけ最高もの・福井名産数多し』
『ふるさとからの「越前たけふしきぶ姫」届く』
『お豆腐・厚揚げ、これだってふるさと産が一番だ!』


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『行政サービスの力量は救急システムでわかる!』


   


     2月 23rd, 2014  Posted 12:00 AM

阪大への初出勤は救急ヘリコプターで搬送入院からでした。
私は救急車での救急搬送にはかなり慣れているでしょう。
しかしできる限りこの救急システムには未体験であってほしい。
福井で45歳、思いがけず心臓発作で救急看護されたときに、
「救急車は遠慮せず使いなさい」と福井で言われました。
最近はこの行政サービスが「悪利用」されていると聞きます。
おそらく行政サービスの力量は救急車両の制度に表れています。
明言すれば、大阪市の行政サービスにはこの8年呆れています。
様々なことで大阪が全国的にすべからく最低なのでしょう。
だから大阪から一新したいという首長の考え方は賛同できますが、
かつて「上方」と言われた文化である「文楽」を否定する首長には
絶対に救急車制度を革新することは不可能だと考えます。
大阪市の救急車にも私は何度か重篤で搬送されましたが、
救急隊員のユニフォームからして装備は多分全国で最低です。
しかし、名古屋市の救急車両から隊員能力までは最高でした。
たとえれば大阪市で救急隊員を見ると「助からない」と思います。
しかし、名古屋市であれば「助かる!」と思うのです。
大阪は犯罪率も高く、都市の倫理悪から行政までが最低でしょう。
阪大に居て、救急医療の行政サービスが悪いと言ってきました。
医療力量は最高の高度が大阪あっても、行政が台無しにしています!
その責任は首長の文化能力にあると断言します。
救急医療は「命の問題」です。
したがって、救急医療の行政サービスにこそ、
真の文化形成力がこのサービスには求められています。
もっとも、わが国の救急車そのもののデザインは海外先進国から、
学んでいることがあるのだろうかと、
心臓発作のままに検分してきました。
救急医療の行政サービスは、まず、車両と装備、そして隊員、
この文化力は伝統性によって育まれるべきです。
「文楽」という伝統芸能が否定される場にそのサービスは無理と、
私は断言主張しておきます。

「減災・防災・救災のために」
「大学でのデザイン教育=デザイナー育成をめざす


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『日本のレンダリング技術は先輩が切り開いてくれた』


   


     2月 22nd, 2014  Posted 12:00 AM

大学時代には『レンダリング(完成予想図)」は、
描くべきではない、という先生=レンダがデザインを決めるからと、
絶対に巧く描くべきだという先生が私たちを混乱させていました。
私は当然ながらレンダリング技能を磨きたいほうでした。
理由はデザイン表現の技法は最重要だと認識していました。
東芝に入社すると、学生時代の技能では不完全。そこで、
清水吉治の書籍や講習に頼ることになりました。
東芝からも海外向けのレンダを彼に発注することも知りました。
幸い清水氏は大学の先輩であり、留学と海外経験がありました。
CG台頭の最初に私はトロントでその基礎を学びました。
それは手描きのレンダリングをなんとしてもCG化させたいという、
その目的が最大でしたから、マーカーレンダの再現でした。
だから今なお、手描き=スピードライマーカーを使えないとすると
CG表現はとても薄っぺらいレンダリングであり、それはそのまま、
デザイン効用効果につながっていません。
したがって、まず、レンダ・スケッチの描けないデザイナーは、
私はデザイナーだとは絶対に認めていません。
どんなにPCが進化しようが「手」で考える土台がレンダです。
今では私のスタッフ達もMacでレンダを描きますが、
基本はマーカーレンダが描けなければ、CG表現の質は程度悪です。
清水氏は国内に限らずアジアのデザイナー教育を成し遂げました。
彼のレンダリングテクニックは、
技能だけを教えているものではありません。
レンダリングという実務手法の肝心要なこと、
それはデザイン表現での革新=デザイン発想を定着させる技術です。
先輩はデザイン、その技法技術をレンダに集約させてくれたのです。
この春、彼の集大成の展覧会があります。
それは日本からアジアのレンダリング技術の全容です。
デザインと「手」の最重要な関係の先駆者が先輩でした。

「最小限スケッチツールが最小限の存在理由」
「専門家の表現は手で美しく表現するべき」
「PCレンダリングの3D表現誤謬」


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『関東に雪が降るのは天災であり黒潮異変です』


   


     2月 21st, 2014  Posted 12:00 AM

冬に西高東低という気圧配置は降雪のある兆候でした。
「雪雷(ゆきがみなり)」というのが私の記憶にあります。
雪が降る前夜には雷が鳴りました。
38豪雪は中学時代で、毎日がスキーでとても面白かったのです。
56豪雪時にふるさと福井に車椅子で戻り、毎日寝込んでいました。
さて、最近は、黒潮そのものに地球異変が関わり、
この黒潮と低気圧の関係で、関東地方に降雪があることが、
いくつかの大学の論文でエビデンス化されてきました。
山梨にいる友人が雪と格闘しているとかを聞かされていましたが、
まさかと思えるほど大変な事態になっていました。
降雪対策の無い地域にとって、
北陸育ちの私には5〜25cm程度ような降雪には全く驚きませんが、
こういう地域の人たちにとっては降雪=天災だと考えるべきです。
それこそ、住宅構造においても降雪4mを意識している建屋と、
降雪を全く無視してきた地域の建築から道路、車両のあり方
そのすべてに災害対策を考えなければなりません。
ましてTVでの天気予報を観ていても明確に違いがみえてきました。
それは、低気圧の変動を黒潮・潮流の予測と連関する無知識な、
見解を出さない天気予報士はプロではありません。
所詮、天気予報が命中することは半々だと言われていますから、
低気圧と黒潮の相関関係での予報報道は必至のはずです。
この日本列島は、地球環境の異変がそのまま反映しています。
関東地方への降雪はもはや天災だと考えるべきでしょう。
そうなれば、まず、黒潮と低気圧の関係での天気予報。
降雪地帯同様の街づくり・道路と車両と水・食糧・電力は、
「危機解決のデザイン」が必要だと考えています。
日本列島全てに雪が降る、
このことをすべて知り尽くす事態になりました。

『歩けた頃=スキーに夢中だった時の写真が届いた』
「『危機』・ことばの定義について」


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『そろそろ電動車椅子デザインの時期=一人称デザイン』


   


     2月 20th, 2014  Posted 12:00 AM

私は車椅子生活を余儀なくされたので自分でそのモノをデザイン。
私の車椅子「CARNA=生活の女神」はMoMAの永久展示品になり、
海外のデザイン賞をいくつか獲得しました。
しかし、大阪に来てから自宅では電動車椅子を使ってきました。
まだモーターと電池で良いものが無いのですが、
いつも電動車椅子を探していました。
さすがに、米国ではこの車椅子開発や商品が増えてきましたが、
まだデザイン的には「やはり自分のデザイン」が必要です。
CARNAは1989年に実現しましたが、
このデザイン以上のモノは無いと確信しています。
それだけに自宅用と大学用はそれなりですがとても不満足でした。
最近、リチウムバッテリーの軽量20Kgで携帯用を見つけました。
私はこのデザインを今から使用しながら「自分の」モノづくりを
することが必要になってきたと認識しています。
CARNAをデザインしたときに、いつか電動車椅子デザインをと
考えてきたことは事実です。
つまり、「自分の」というのは「一人称」デザインです。
私はデザインの基本は「一人称」のデザインであるべきだという、
この意識がデザインの基本だと考えています。
しかも「自分の=一人称」デザインは最も易しいはずです。
なぜなら、「自分が最も好ましく望ましいモノ」だからです。
好ましく望ましい、というのは「価値」の意味です。
価値というのは一人称の欲望から考えればいいということです。
私のデザインの基本は、「一人称」の価値ゆえ、
車椅子・メガネ・刃物・モニター・TVなどがそのままデザイン対象。
それこそ人工心臓もその対象線上にあります。
電動車椅子への好ましさと望ましさ=価値=「一人称デザイン」。
これからこの車椅子を使用して、やがて「三人称」、
すなわち、みんな(我々)のためのデザインに繋げます。

「一人称・二人称がInclusiveの基本定義」
「造形の言語道断」
「Inclusive Designの近傍的定義はトポロジー解」


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『流行の安易なデザインを全否定する正当なデザイン』


   


     2月 18th, 2014  Posted 12:00 AM

私はもう一度書き残したい。
PCメガネと呼ばれる安易で科学性の無いメガネがヒットしました。
私は脳天から怒りがありました。
可視光線でのブルー系色がモニターから過剰に発光してるから、
このブルー系をカットするレンズのあるメガネが安価で登場。
案の上、これはホンの一時、流行現象になりました。
それこそ100円ショップにこのメガネが登場したのです。
このブルー系色カットレンズは、全く目の生理現象に無知でした。
PCモニター、TVモニターから発光される視覚生理で最も重要なこと
それは、「ドライアイ」=角膜が乾燥することこそ、
実は目の生理現象を正常さを狂わせるということです。
決して青色カットすれば、
モニターへの視覚生理を保護するわけではありません。
最重要なことは「ドライアイ」を防ぐことになります。
そこでメガネとモニター、両方のデザイン経験から、
私は、ドライアイ防止のために、液晶膜を10秒間に1or2回遮断、
この回路を込めた正当なドライアイ解決メガネを商品化しました。
この商品デザインは当初は、なかなか理解されませんでしたが、
結局、角膜の三つの油層・水層・ムチン層それぞれが、
ドライアイになることこそ、最悪の視覚細胞を痛めるわけです。
もし、端的に青色カットというのなら、
それは紫外線防止と同等のガラスレンズよりプラスチックでも、
十二分の可能になります。
このことをデザイナーは知っているでしょうか?
流行とまでなったPCメガネはかえって視覚に無理を与えています。
デザイン=問題解決の目標はドライアイ防止が正解だったのです。
メガネフレームデザインは視覚の問題解決であるべきです。

「本当のモノは信じられることにつながる」
「PCメガネはドライ・アイ対策でなければいけない」


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『装飾はデザインにあらず、されど装飾はデザイン可能』


   


     2月 17th, 2014  Posted 12:00 AM

デザインが装飾と受け取られていることを最も嫌悪しています。
従って、芸能人が「デザインしている」ということに、
最もデザインの本質が最大誤解をされていると主張してきました。
それはデザイン=問題解決の手法であり、
問題解決無関係にスタイルだけの装飾はデザインでは無いのです。
単なるデザインという一般的解釈はデコレーションに過ぎません。
一般的にデザイナー=デコレーターがほとんどだと断言します。
装飾家はデザイナーではありえないのです。
しかし、装飾をデザインすることは出来ても、
装飾だけをデザインされたということは不可能だということを、
多分私は生涯をかけて言い続けることになると考えています。
装飾されたことが経済的な付加価値を持つことは可能ですから、
「装飾」の本質を常に確認することが必要です。
装飾をデザインするその肝心な意味意義を明化することです。
その一例に私が日常使っているモノで「装飾」を視ると、
これらは私がスケッチだけのツールですが、装飾されたモノです。
これらの装飾に一貫しているのは手造り=工芸性があることと、
素材への工芸的な加工性が最高の水準のモノに装飾性を認めます。
スケッチツールとしての「性能性」は、
それこそ100円のボールペンでも一向に構わないのです。
一般的に「機能性」が完備されている設計をデザインと言いますが
これは間違いです。
重大なコトは、日常の使いここちにモノの「効能性」があります。
私の気分でモノの使い勝手に「ここち良さ」を与えてくれるモノ、
それは気分が感情よりも感性を制御するほどの美的影響性です。
つまり性能+機能をさらに効果向上してくれる効能に、
「装飾」されたデザインが加わるということです。
言い変えると、工芸デザインは「装飾」の本質、
それは「これまで感じ取ることが出来なかった」程、
その素晴らしさ=美しさを創出したモノのデザイン=解決値です。


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『もう一度セルロースを、これからのセルロースを』


   


     2月 16th, 2014  Posted 12:00 AM

地球、人体のほとんどは水です。
そして地球上の自然界の植物のおおよその繊維素というのが、
炭水化物で高分子のセルロースです。
私はセルロイドという物質=メガネフレームで親しみがあります。
さらにメガネのデザインをしている人たちが最も気配りしていない
その素材こそセルロイドです。
日本製のセルロイドとは30年も親しみ見て選んで来ましたが、
全く私には使い物になるとは思っていません。
そして未だにメガネフレームの選び方を知らない人類ばかりです。
もっとも、セルロイドのことを書きたいと思ったのではなく、
繊維素=セルロース、たとえば綿はほとんどがセルロースです。
セル=細胞、ロース=壁あるいは面と考えると、
炭水化物の細胞壁という素材と考えていいのかもしれません。
今私にはこのセルロースといういわばもう一般化している素材に、
これから地球環境にとって、大きな役割があると思っています。
もちろん、そのような素材紹介の話が色々と聞こえ始めたのです。
私がデザインに取り組む時、時折、その素材の話が、
様々な所から私の所にやってくるのです。
「共時性のある素材」、それがセルロースだったわけです。
そういう意味では、メガネフレームのデザインでは、
私は30年もその素材と顔との関係を結晶構造で確かめるように、
今、私には地球環境、特に、放射能で破壊された事と同値で、
次の天変地異に対する防災デザインとしての素材、セルロース。
間もなく、私は繊維の感性評価をデザイン表現します。
これは繊維そのものの性質・7項目ですが、
もう一方で、繊維素であるセルロース素材の新たな展開を
「コトからモノ」のデザインとして準備するつもりです。

「易しそうなテーマだが難しそうなデザイン解」
『布の感性評価はこれまで無かったからこそ』


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『最も嫌いだった著作からこれを始めた』


   


     2月 15th, 2014  Posted 12:00 AM

「デザイン」という専門職能には「ことば」が無いと思います。
このことは美大生時代から今日まで抱いてきました。
それゆえに、この40余年デザインに関わりながらも、それなりに、
著作も何冊か書き、ヒット作や代表作もあります。
そして、現代の特に経済的な思想を混乱させてきた「資本論」は、
私にはある種の宗教論の譬話論にすぎないからこそ読破という、
そんな想いがあることから、このブログを2008/2/13からです。
そこで改めてもう一度初心に戻ろうと考えました。
最大の理由は、今年に入る前には、体調のことや、
時には書かないですまそうと考えてきましたがそろそろなのです。
そろそろというのは、間もなく私は65歳になります。
人生最終の段階で、「人は何をなすべきか」を決定する時期です。
その時期ゆえに、今ではマルクス全集この全集執筆にあたって、
エンゲルスに著作思考の原点を当時の数学論を紹介しています。
私が最も重大だと思うことは、
自分の思考拡大のために友人は苦手だとしても、
参考思考論をしっかりと肝心な人物に伝えるということです。
私には、すでに、同じ職能家である「デザイナー」に対しても、
分別と区別を明確にしています。
理由は簡潔です。つまり、デザイナーを自称している8割には、
何も学べることが無いのです。
まして多少の世間評価程度でデザイナーぶる人は認めていません。
その判断も簡単です。
もし、私が理想とする他のデザイナーあるいは大学人の思考、
本来の思考を支援する参考思考までを紹介してくれる人、
そのような人物こそ「敬愛する同業者」です。
そういう意味では、マルクスとエンゲルスの間にある著作は、
私にとってとても大切な存在です。
そして最近は、とてつもない仏教経典を教えてもらっています。

金融工学の始祖はマルクスだった_01
金融工学の始祖はマルクスだった_04
金融工学の始祖はマルクスだった_06


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『公式ロゴタイプのデザイン仕様を検証』


   


     2月 14th, 2014  Posted 12:00 AM


オリンピックのデザインはその国のデザイン力を示しています。
現代オリンピックのデザイン表現にはかつての日本デザインが、
大きく貢献していることを、美大生時代に知りました。
このところ、日本の各種スポーツ選手たちの活動を観るため、
寝不足が続いています。
しかし、4年間以上も彼らの果たしてきた自己修練を知る度に、
彼らがメダリストでなくても心から敬意をはらいます。
オリンピックという最高の場面に出場出来る鍛錬された能力、
この素晴らしさを人生の姿勢にした、
そのことは、明らかに思想の一つでしょう。
彼らの存在をデザインが取り囲んでいます。
開催地毎の「オリンピックロゴタイプ」には、
そのオリンピックに選ばれたフォントスタイルと、
デザイン仕様としての形態設計・レタースペース・カラー仕様で、
私はその大会デザイン全体の美配慮レベル検証が可能です。
ソチ五輪のロゴタイプは、ハーバート・バイヤー的なレタリング、
したがって直線とR曲線との視覚的整合性は「ややマトモ」です。
「ややマトモ」というのは、レタースペース堅持を要素として、
その表現だけの拘りを認め、革新性は避けています。
したがって「ややマトモ」な表現では正当性確認だけが可能です。
決して、新たなデザイン表現要素を見いだすことは出来ません。
それは情報時代に即した表現傾向がこの国のデザイン界能力です。
しかし、このロゴタイプで徹底されたデザイン表現を
未だに知らない企業がわが国には随分あることが、
私はとても問題だと指摘しておきます。
おそらく、このオリンピックのロゴタイプデザインを
とりわけ、企業幹部が感じ取れないのだとしたら、
それこそがわが国のデザインへの企業感性だと私は思っています。
私はこのロゴの美も現代性確認として企業は熟知すべきです。

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