kazuo kawasaki's official blog

Archive for 10月, 2009


10月31日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     10月 31st, 2009  Posted 4:09 PM

10月31日 仏滅(己酉)

日本の凝縮化には一つの特徴がある。
それは、まず最初に大きさを設定し、
その大きさにともかくも形態を縮めて
実装してしまおうというやり方であり、
その際の大きさとしては、紙のサイズを
基準にするというものである。

『デジタルなパサージュ』日本の凝縮化実装


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『資本主義からの逃走』
 *軽井沢、現代アート、ユーロコプター、だから本物!*


   


     10月 31st, 2009  Posted 12:00 AM

いつか、でも必ず、ヘリコプターをデザインしたい。

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若いときに影響を受けた経営者は数少ない。
その一人の企業と仕事を始めた。
そして、その経営者が残した別荘に招かれた。
軽井沢で最大規模、これ以上の別荘は無いだろう。

その経営者の眼力で選ばれた現代アートが200点余り。
それだけでは無くて、
建築・インテリア・庭園・家具、すべてのセンス最高。
こんな経営者が日本に存在していた。驚愕だ!

彼の著作にとりつかれた時があった。
私は、その企業と取り組んでいる仕事に、
「最高のモノを!」と、強烈に望まれてしまったのだ!

公にされずに、密やかなれど、
「美」と「暮らし」はこうあるべきだと教えられた。
紅葉の広大な庭園には、現代アートの彫刻がある。
気づかないほど自然に溶け込んでいる。
これほどの完璧さにある「美」を見せられた以上、
私のデザインへのプレッシャーはとめどなく大きい。
雑誌やTV番組に登場する別荘などは及びもつかない。

そして、大好きなヘリコプター、
それもユーロコプターで、快晴の中を飛んで、
東京に入った。

ユーロコプターは、今、最も美しいヘリコプターだ。
しかし、私なら・・・・

「本物」とは、「二重否定」で決定されることだ。
「偽物」では「無い」。
「偽物」=一次否定・「無い」=二次否定、
ゆえに、「二重否定」=「本物」。

私は、このブログで、「本物になりたい私」を
さらけ出している。
卑怯者で偽者が本当に多くなってきたから、
やはり、「行学としてのデザイン」で、
このブログでの考察を続けたい。


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10月30日Staff Blog


   


     10月 30th, 2009  Posted 10:38 PM

10月30日

BOSS(川崎和男)ディレクション、
Doctor’s WatchのHow to useが
YouTubeで配信されています。
Check it out!!

http://www.youtube.com/watch?v=BmS9xBcdzD8

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10月30日Staff Blog 2/2


   


     10月 30th, 2009  Posted 5:01 PM

10月30日

オーバーワークのBOSS(川崎和男)は、
いつもは、
コーラやお気に入りの水、
今は4種類を飲むのですが、
今日は、ハーブティーです。

シェフがさらに、
生姜とオレンジと蜂蜜とレモンで
特製ドリンクを作ってくださいました。

週末まであとひと仕事です。
定期的に、
点滴の往診を受けるなどのケアをしつつ、
いのちに向き合うデザインに
取り組むBOSSです。
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10月30日Staff Blog 1/2


   


     10月 30th, 2009  Posted 4:15 PM

10月30日

あまり食に、
欲を出さないBOSS(川崎和男)です。
お昼を抜かれることがほとんどです。
間食もされないし、
お腹が減らないそうなのです。

あんぱんを用意しましたが手つかずでした。
BOSSは、
粒あんしか食べませんので、
粒あんぱんです。
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『資本主義からの逃走』
 「私利私欲の「私」と、
 「公」での制度・法・制約からの解放」


   


     10月 30th, 2009  Posted 12:36 PM

「ム」は、音読みでは「シ」となります。
「ム」の形象は腕を曲げて胸元にまで回しています。
この動作は、「自分のもの」という所作です。
「私」と「公」には「ム」が仕込まれている形態です。
見事にこの「ム」は、欲望を示しているのです。

「私」は、禾=のぎへんにムです。
禾は稲穂の象形です。
禾=いねを自分の物にする、という欲望ですから、
「私」は、まさしく欲望を体現しています。
対して「公」は、八=はちがしらにムです。
八は、屋根のある空間です。
空間の中に、ム=欲望を配置しています。
「公」=おおやけを象形した中に欲望を集めています。
つまり、欲望の私的=私利私欲と、
公的な管理に欲望を集めてしまうという公益性です。

私とは、私的であることの欲望の個人性のことであり、
個人の欲望を社会的に公することを公益性と言います。

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● 資本主義は、
倫理性で「公」の理論と論理で、
私利私欲、その正当性の基本を
ある種謀議化したものです。

● 社会主義は、
私欲を離れても「公」の制度で私欲に囚われない人間、
そうした人格性が社会によって形成と保護を受けます。

● 共産主義は、
私利私欲はあってはならず、「公」の制約制度で、
人格の育成を成就できるというものでした。

しかし、
私利私欲・制度での保護・制約制度など、
全てのイデオロギーの長所を持ってしても、
「私的」・「公的」の構図内や図式上で、
個人としての人間と、集団としての人間は、
まさしく剥離していることに
私たちは気づいてしまったのです。

「私」と「公」を民主主義で、「制度」や「慣習」、
そして、「法」すなわち「公」で、
自由・平等・愛は、
個人の私利私欲に倫理性で、生涯の人格性をもって、
「公」なる社会で「幸福」なのだろうかと、
みんながやや疑い出しているのが現代、
生きている現実の感覚だと思います。


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10月30日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     10月 30th, 2009  Posted 12:13 PM

10月30日 先負(戊申)

人がモノに対して
情熱的に語るということは、
その情熱の原因や
主題になっている
モノをとおして、
人間が抱く情熱そのものを
確認することになる。

『デジタルなパサージュ』フェティシズムとしてのMacintosh


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10月29日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     10月 29th, 2009  Posted 5:01 PM

10月29日 友引(丁未)

好きだ、となれば、まず感激が体を走る。
そして、好きだと言う感激の持続が
感動に至る。それは深い感動となって、
やがてその感激や感動を
与えてくれたことへの感謝の念すら
わき上がるのではないだろうか。

『デジタルなパサージュ』もの、ものすごい、ものものしい


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10月29日Staff Blog


   


     10月 29th, 2009  Posted 4:49 PM

10月29日

出張中は、電源タップを
PCのカバーとおそろいブルー色を持ち込む
BOSS(川崎和男)です。

ホテルによりWI-FI環境でない時も、
AirMac Expressで、
BOSSの部屋を無線LANの環境にして
ストレスなく仕事を進められます
091029airmac


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『資本主義からの逃走』
 「現代アートの象徴性からデザインでの創生へ」


   


     10月 28th, 2009  Posted 10:38 PM

資本主義の崩壊は、1927年に「予見」されています。
それは、「大恐慌」の2年前のことです。
それから20世紀の戦乱となり、冷戦につながりました。
共産主義・社会主義・資本主義・民主主義という
理念の崩壊は、1970年代からだと私は思っています。
なぜなら、時代変革の「予見」は、経済学・哲学などよりも、
「現代アート」にもっもと端的に、象徴されているから、
感覚、感性で「予見」の正当さを理解できてしまうのです。

その「予見成立」の理由は、単純明快にまとめられます。
ひとつ、「南北問題」、とてもなつかしい言葉です。
ひとつは、「宇宙船地球号」。
もうひとつが、「コンピュータ」です。
ともかくこの三つを置き換えると、

● 先進国と途上国の貧富格差とあらたな民族紛争。
● 地球環境問題、温暖化やCO2やサスティナビリティ。
● パソコンとインターネットでの情報意識社会化。

ということになるでしょう。
二つの現代アートが象徴しています。
まず、地球を象徴化した作品と、
tomas-saraceno・Universes in Universe : Tomas Saraceno

人間の生命を象徴化した作品です。
rafael-lozano-hemmer・Pulse room : Rafael Lozano-Hemmer

地球は、まさしくwebsite=蜘蛛の巣のように、
情報に包み込まれているのです。
包まれているのではなくて、
「包み込まれている」ことにこそ、
時代認識の象徴がある。
その時代認識は、
資本主義と民主主義に包まれているのか、
「包み込まれている」のかということは、
大きな差異があるということになります。

そして、
もう一つの、観客である人間の生命をそのまま、
脈拍を電灯の点滅で具体的に感じ取らせつつ、
空間、それは地球でしょう。
そこでの「自己の存在性」を再認識させる作品です。
私は、この二つの現代アートに具現化されている
「包み込まれている」という認識は、
ただただ、それこそ、Bottom of the Pyramidの
トップゾーンの1億人だけが、現代文化として、
平和に、いや平然と受け入れることが可能です。

結局、
「地球に存在、生きているすべて」の人々が、
認識=包み込まれているわけではありませんから、
そこに、資本主義って?、民主主義って?ということ。

「包み込まれているすべて70億人の認識」には、
決してならないとするなら、
Bottom of the Pyramidの根本や基盤や理念は、
再創生されるべきではないかと私は思います。

私は現代アートの象徴性を読み取りながら、
再創生のデザインがあるべきだと考えているのです。
しかし、哀しいかな、現代アートが示しているのを、
理解し、さらに「予見」できるのは、
トップゾーン1億人の中の、一握りの人たちだけです。


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