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Archive for 11月, 2010


『資本主義からの逃走』
   「仮想現実あるいは仮想空間での虚構有無」


   


     11月 1st, 2010  Posted 12:00 AM

仮想空間の虚構性
Virtual Rialityという世界観を知りました。
仮想現実あるいは仮想空間です。
これは明らかに、コンピューターの登場によって、
私たちの日常空間に技術・デジタル技術として入り込んできたモノです。
そしてモノという現実感すら、仮想化するコト=情報化だったと考えます。
私が30代後半からの日常性から自分の職能性にまで、
最も影響・制御・大きな動機づけを与えたモノ・コトだと思っています。
ただし、私がこの仮想化された情報空間で常に意識を焦点化してきたのは、「虚構性」です。
私の身体性の虚構
最大の理由は、私の身体性という現実そのものを、
虚構性と感じ取る自分=私の存在を対比するメディアであり、かつツールであることに、
この仮想現実が立ちはだかっているからです。
すでに、現代社会、特にわが国では敗戦によって現実的な「攻撃性」を、
最も完全否定しなければ国際的アイデンティティをもはぎ取られる現実感を強要されてきました。
したがって、わが国の情報性も空間性も私は「虚構」にすぎなくなっていると断言しています。
「いのちと向き合うモノ」の現実性
しかし、デザイナーである私がデザインする、たとえそれがデジタル技術の表現物であっても、
その虚構性は纏わせてはこなかったことは自負しています。
それを最も具体的にしているのは、
「いのちと向き合うモノ」のデザインにその虚構性がまといつくことはあり得ないということです。
虚構性としての情報あるいは空間に、
人類が最も近傍していった思考とその表現に「トポロジー的発想」があります。
この「トポロジー的発想」を「空間性」へと結合すること、
それは芸術から科学まであらゆる領域を学際化するモノ・コトに虚構性有無の確認があるからです。
三島由紀夫の自決が予知した虚構性
おそらく、すでに忘れられようとしている三島由紀夫の「虚構性で構築された小説情報空間性」は、彼の自決をもって「彼の仮想=未来的日本の虚構性」は、
現代、見事にわが国の現実として私たちは直面しています。
あらためて、仮想現実における虚構性の有無を、
私たちはデジタル技術のメディア性とツール性に照合し直す事態に覚醒すべきでしょう。


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