kazuo kawasaki's official blog

Archive for 12月, 2010


12月19日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 19th, 2010  Posted 9:30 AM

12月19日赤口(癸卯)

色鉛筆はセットで
いくつも所有しており、
しかも使っていない。
眺めているだけで美しいのだ。

使用することと
所有することは
訳が違う。

『デザインの極道論』得手


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『資本主義からの逃走』
    「Inclusiveとexclusiveを対照、そして定義の再確認」


   


     12月 19th, 2010  Posted 12:00 AM

アイヌ語
アイヌ語で検証する方法があります。
aokaiとchiokaiという言葉です。
アイヌ語?、どういうことでしょうか、ということです。
inclusiveの対立概念はexclusiveという言葉です。
この二つの言葉の対立性と対称性を文法的にみてみようということです。

    ■ inclusive=包括している、除外していない。
    ■ exclusive=除外している、排他的な、独占的占有さ。

文法的カテゴリー・「人称」の確認
上記の意味を確認するには、文法的なカテゴリーとしての「人称」を見ていく方法があります。
一人称・二人称・三人称という、カテゴリーです。
特に、一人称、それは「私」という人称概念です。
日本語では、「話し手」が私であれば、二人称は「あなた」であり、
二人称「あなたがた」という複数二人称もあります。
「私たち」というのは、一人称複数ということになります。
しかし、明確には「私たち」というのは、
あくまでも「私」という単数的な人称が中心になっています。
外国語では、人称には、単数と複数が明確にそれぞれの品詞があり、その人称で動詞も変化します。
そこで、私があえて取り上げたのは、アイヌ語です。
aokaiは一人称単数であり、chiokaiは一人称複数です。
exclusiveの意味から
この単数なのか複数なのかというのは、人称という概念では、
単数は「包括形=inclusive」であり、複数は「除外形=exclusive」というのが、
言語学的には、対立概念と対照概念になっていることです。
包括的なデザインという安易な定義
さて、この文法的なカテゴリーの検証から、
Inclusive Designは、「包括的なデザイン」というよりも、
「除外していない、占有していない、独占的ではない、排他的ではない」デザインであり、
こうした意味と定義性をもっていることから、
「包括的デザイン」という安易な意味づけではないということの再確認です。
「除外していない、占有していない、独占的ではない、排他的ではないデザイン」とは、
ということがInclusive Designに問われているということです。


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12月18日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 18th, 2010  Posted 9:30 AM

12月18日大安(壬寅)

得手
自己能力の革新

『デザインの極道論』得手


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『資本主義からの逃走』
    「Inclusiveは形容詞、Include=動詞からみつめる」


   


     12月 18th, 2010  Posted 12:00 AM

詳細化の二つの方法
デザインを詳細化する二つの方法。
私のデザインの本質の問いかけ方です。
それはデザインの本質を周縁から見つめ直すことです。
つまり、「デザインの取り囲み方」ということを意識してきました。
たとえば、エコロジカルデザイン(形容詞+名詞)よりもエコロジーデザイン(名詞+名詞)。
トポロジカルデザイン(形容詞+名詞)よりもトポロジーデザイン(名詞+名詞)。
「名詞+名詞」は、designという定着定義を、より名詞という決定定義で強調する表現を選びます。
この方法がふさわしいという考え方が適用出来ることでもっと定義性を深めるわけです。
もうひとつは、形容詞+名詞=周縁性によって取り囲まれている本質性という印象が、
さらにdesignの実態を浮かび上がらせるということです。これはゆるやかな定義性を誘導します。
したがって、Inclusive Designは、後者の「形容詞+名詞」です。
まさしくゆるやかな周縁性ですから、inclusiveという形容詞ではなくて、
元々のinclude(動詞)に戻って、その周縁性を確認することが必要だと考えてみる方法です。
動詞から形容詞+名詞という詳細化
それはincludeの意味、つまり「含む」という動詞ですが、
この「含む」というのは「含まれるいるということは、除外されていることとの関係性」、
さらには、「全体の一部に確実に構造化されている」という意味につながっています。
こうした動詞の形容詞ですから、まさに何を含むかに直結した意味よりも、
全体性や除外性を喩えてゆるやかな定義を導こうとしています。
とりあえず、形容詞+名詞=Inclusive designを定義する前に、
includeという動詞の検証をしておきます。
もう一度言い直すと、「除外性のようなこと」=形容詞を意識して、
全体性に「含んでいく」という動詞=includeという周縁から改めて、
Inclusive Designを定義化しようということになるという考え方を私はしているということです。


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12月17日Staff Blog


   


     12月 17th, 2010  Posted 12:21 PM

12月17日

読売新聞金沢支局さまより
「石川県内で学生時代を過ごした人の
美の感性が現在、どのように花開したか」
という視点で取材中の
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)

学生への一言
やはり大学は良い先生、
好い友に恵まれるのが学問より大事です。


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12月17日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 17th, 2010  Posted 10:19 AM

12月17日先勝(辛丑)

日本にも救いとなりそうな
技術が育ってきてはいるが、
米国はさらに
すさまじい情報化技術の闘いを
国内で十分にやり終え、
今や世界制覇を成し遂げようとしている。

このままでは、
日本はますます元気を失ってしまう。

『デザインの極道論』感得


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12月16日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 17th, 2010  Posted 12:16 AM

12月16日先負(庚子)

勇気を持つために

『デザインの極道論』感得


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『資本主義からの逃走』
    「Inclusive Designの定義に向かって」


   


     12月 17th, 2010  Posted 12:00 AM

Universal Designまでの経緯と系譜
少数派のためのデザイン。
バリアフリーを求めて。
生きのびるためのデザイン。
これらは、1970年代のデザインテーマでした。
おそらく、この系譜がまとめられた書籍は無いと思います。
だから、次世代のデザイン学者にとっては大きなテーマのはずです。
とりわけ、「バリアフリーを求めて」は、
1980年・国際障害者年の制定にあたって、
WHOが数名の学者に基本論文が1970年に求められたテーマでした。
これが、「ユニバーサルデザイン」につながっていくのです。
1989年、名古屋で開催された「国際デザイン会議」では、
故マイケル・カリルが「ユニバーサルデザイン」を紹介しています。
ようやく、「ユニバーサルデザイン」も一般化して、
今では小学生でも、夏休みの課題になるようになりました。
この経緯はまとめておかなければならないと私は考えています。
インクルーシブデザインの前提
それからグラスゴー大学が提唱し始めた「インクルーシブデザイン」までには、
まだいくつかの経緯と系譜があります。
ところが、最近、「インクルーシブデザイン」の定義が、
ユニバーサルデザイン→ヒューマンセンタードデザイン→ユーザビリティサイエンスなど、
こうした系譜そのまま継続連鎖させていることに、
私は異議を唱えておかなければと考えてきました。
これは、ここで「人権」について触れてきたことに近接と近傍しています。
いくつかの前提条件から、
「インクルーシブデザイン」に近づいていきたいということをメモとして記していくつもりです。
前提を三つ配置しておきます。

   ● 集合=含まれるという概念・or/and
   ● 会話での人称 1stPerson / 2nd Person / 3rd Peson
   ● InclusiveとExclusiveの対立と対照それぞれの概念

この三方向から、「インクルーシブデザイン」の定義を改めておきたいと考えています。


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『資本主義からの逃走』
    「人権と情報はアポリアのまま」


   


     12月 16th, 2010  Posted 12:01 AM

人権と民主主義
人権は民主主義の根本です。
社会が個人尊重を第一義にしている知恵です。
ただし私自身には民主主義懸念が生じています。
だからといって代替主義を見いだしてはいません。
結局、人権と民主主義がアポリアなわけです。
人権へのハラスメント
それは、今や個人は情報によって、あるいは情報の中でのみ、
個人の存在が社会的認知をされてしまっていると考えるからです。
「人権」、その保全・保護・防御すべからく「情報」以外であれば、
身体的、または精神的な人権は、ハラスメントを超えればこれは明らかに暴力であり犯罪です。
無論、セクシャルハラスメント・パワーハラスメントは日常語になっています。
ただし、ハラスメント意識社会は民主主義が前提です。
情報セキュリティはアポリア
人権が未だに軋轢・圧迫されている社会は、
政治的には独裁政治、国際的には未熟な社会といわざるをえません。
ところが、この未熟さを強化するツールにコンピューターの利用は独裁的であるわけです。
人権の消去はコンピューター上で可能となります。
つまり、人権と情報、コンピューターの構造は、
先進国家では、人権確認のいわゆる情報セキュリティに連鎖させて制度化されていますが、
この構造化が技術化されているだけです。
結果、やはり、「人権」と「情報」の関係は、
政治性と社会性の中ではアポリアのままだと言わざるをえません。


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12月15日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 15th, 2010  Posted 10:00 AM

12月15日 友引(己亥)

両手に荷物を持ったら、
あなただって障害者と同じなんだ。

どうして、
繁華街には若者と
ホームレスしかいないんだ。

『デザイナーは喧嘩師であれ』鉄道思量


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