kazuo kawasaki's official blog

Archive for 1月, 2011


1月18日 川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 18th, 2011  Posted 12:24 PM

1月18日友引(癸酉)

奇天然な物事に心惹かれるー
これは人間が生きている実感を
謳歌する上で一番大事なことだろう。

『デザインの極道論』好奇


目次を見る

「資本主義からの逃走」
     「あくまでも『多様化』無し、理由は維新にあり」


   


     1月 18th, 2011  Posted 12:58 AM

varietyとdiversity
私は納得していません。
「価値の多様化」は起こっていません。
あたかもそんな事態だという謀議と幻想です。
無論、多種多様というvarietyにすぎません。
特に、日本人やアジア系はvarietyを好んでいるだけであり、
もう一つのdiversityには至っていません。
これが私の結論的な評価なのです。
あらためて、varietyとdiversityの差異に入り込む必要があるでしょう。
これから、ここをじっくりと検証していきます。

「大化の改新」・その呪いに回帰
さて、まったく突飛な事例を持ち出します。
日本に「革命」は歴史的にも「曖昧消去」なのです。
「大化の改新」はありました。
「呪われているという深層心理」が埋め込められたのです。
以来、この事件の悲惨さを決して直視してこなかった歴史が充分にあるのです。
「血」を見ない、「流血」は歴史から消去してきました。
これが日本人の美学であり、日本人の醜態卑劣さという「ウロボロス」です。
「ウロボロス」とは、トポロジーへと学識化されました。
しかし、このことまで遡及できる資質は限られた才能でしょう。
そこで、私の想像力とある意味、茫漠たる空論理はもっとはじけた歴史的事例をあげておきます。
「明治維新」は決して無血革命ではありません。
どれだけの、しかも若き俊英たちが血まみれで死んでいったことでしょうか。
「昭和維新」の真っ当さも忘却しています。
515,226,この史実こそ、実は「敗戦」経験です。
これは「大化の改新」のごとき呪いに回帰しました。
そして、今や「平成維新」なんていう喧噪さに紛れているのは大馬鹿ヤローたちです。
この事態を予想し、Mの自決事件も忘却されています。
ともかく「維新」という言葉に、
「革命」を入れ子構造化してきたことはきっちりと決着すべきことです。
「維新」とは維持しつつなんとか革新ということになります。
私が、「多様化」と「維新」の文脈をこれからも突き詰めていくでしょう。
なぜ、たかが「多様化否定」にこれほどののしられそうなことを私は書いているのでしょうか。
いづれ明らかにする時期が迫ってきているからです。
「多様化」どころではないことが近づいています。


目次を見る

1月17日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 18th, 2011  Posted 12:04 AM

1月17日先勝(壬申)

肉体的にはすでにボロボロだし、
車椅子生活ゆえに、
自由にどこにでも一人で
出かけられるというわけではない。
だから我がままいっぱいの
自分を大事にしていくつもりだ。

社会規範なんぞに縛られて
たまるものかと思っている。

『デザインの極道論』好奇


目次を見る

1月17日Staff Blog


   


     1月 17th, 2011  Posted 11:36 AM

1月17日

出張中の東京にて、
購入予定のカメラのレンズを確認中の
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)

近々発表予定の商品の撮影を
このレンズで行う予定です。
詳細は追って告知いたしますので
お楽しみに。


目次を見る

「資本主義からの逃走」
     「意識革新は『応用』への拡大化かも」


   


     1月 17th, 2011  Posted 12:00 AM

応用・対応性と用途性
デザインが「応用美術」。
それなら「応用科学」が技術。
単純にこの断言から意識と意思の吟味をします。
ともに「応用」という対応性と用途性に注視することです。
「応用」とは、適応されたデザインなり工学の「多様性」を目論んだ、
ある種の社会的な制度化につながっていることは明白です。
特に、20世紀には、デザインも技術も産業・経済への大きな見返りが期待され、
なおかつこの応用は資本主義を最も支援したのかもしれません。
しかし、「応用」が社会的な善であったことは、
もっとも科学と技術への批判は原爆に象徴された懸念、
つまり、2度にわたる世界大戦と人類存続への問題意識になり始めました。
これは今なお最大の難問です。ついには1970年頃からその反作用としての公害や、
地球資源のあり方が科学と技術への問題意識として国際的にも共有されはじめました。
それでも、たとえば石油や化学的な応用から原子力などに対しては、
自由主義経済機構は、科学と技術の応用、その有効性や社会制度上では、
どのような非難や反撃も抑制してきたことは事実です。
応用ゆえ多様性にならず
デザインに至っても、まさに「応用芸術」でしたし、
産業デザインが大量生産と大量消費を完全に裏付けていたことも事実です。
私はひとまず、Art・Science・Technology・Engineering、
この四つの領域をインクルーシブすることで、
「応用」の革新が出来ないだろうかをテーマにしてきました。
私がデザイナーであるがゆえに、
「応用」の中心をデザインにし、なおかつ、「応用の拡大」をめざしています。
ただし、「応用の拡大」が「多様性」に連鎖しているとは思っていないことも付け加えておきます。


目次を見る

1月16日 川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 16th, 2011  Posted 9:30 AM

1月16日赤口(辛未)

好き・嫌いという感情を、
どのように
「インターラクション=
 自分と対象との相互性・相互作用性」に
昇華させたり、

あるいは代償的な行為へと
変換させることができるか、
という方法が問題になる。

『デザインの極道論』好奇


目次を見る

「資本主義からの逃走」
     「車椅子事情・日本の街では出会わないこと」


   


     1月 16th, 2011  Posted 12:00 AM

街の中の車椅子
28歳で車椅子生活になった私。
日本、特に銀座では車椅子に出会わないこと。
30年以上車椅子に乗っています。
しかし、本当に日本で車椅子同士は出逢いません。
30代後半は、米国各地を車椅子でうろついていました。
ある大学で、「車椅子だから必ず会えるはずだから」、
この発言がまったく間違いで、大学のキャンパス内には、
車椅子の人が多くて、びっくりしたことがありました。
今年、最初に銀座に居て、つくづく思い返したのは、
銀座で、これまで30余年10人も車椅子の人に出会ったことがありません。
銀座も、車椅子でのアクセスは本当に便利になりました。
空港では、かなり車椅子の人に出会います。
2回に1回は、出会う印象がありますが、決まって高齢者です。
30代にカナダでは、一人で飛行機移動している人に何度も出会ってびっくりしました。
JRも車椅子での移動は本当に便利になりました。
国土交通省に乗り込んで折衝してことがあります。
新幹線はじめJRホームにエレベーターがあります、
あれは、扇千景国土交通省大臣の指示でしたが、2年かかりましたが実現できたのです。
大阪大学の私の研究室などは、吹田市のバリアフリー条例で厳しくスロープさえ、
その傾斜角度がやり直しされたほどです。
ところが、東京のある国立大学では、教授会上層部にその理解が無くて、辟易しました。
「自分たちが車椅子にならないとわからない」と、私は呆れたことがあります。
私は、「階段」や「段差」を建築空間、特に住宅設計に特徴付ける建築家は、
いづれ「思い知る時期がある」と思っています。
「バリアフリーなんて・・・」と陰では平然と公言している建築家は、
「自分が思い知る時期」があると判断しています。
これから日本の街に車椅子通行者は格段に増加します。
家を新築されるなら、本当に「階段」と「段差」は熟考してください。


目次を見る

1月15日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 15th, 2011  Posted 3:01 PM

1月15日大安(庚午)

出会った印象で
好き・嫌いを判断し、
感情のおもむくままに
行動を決定する感覚は、
人間にとって
重大かつ不可欠な原初的特性である。

野生である、ということだ。

『デザインの極道論』好奇


目次を見る

1月14日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 15th, 2011  Posted 3:05 AM

1月14日仏滅(己巳)

好きか、嫌いか、というのは、
私は最も原初的な
価値判断だと考える。

言い換えると、
好き・嫌いとは
低次元な価値評価としての
要素を多分に含んでいる。

『デザインの極道論』好奇


目次を見る

「資本主義からの逃走」
     「識ること、科学という訳語の原点視界」


   


     1月 15th, 2011  Posted 12:00 AM

訳語「科学」の間違い
「科学」という訳語は大きな間違い。
哲学者N先生から私は学びました。
この指摘を受けられたことは私の幸運です。
したがって、デザインをあたかも支援している科学を吟味してきました。
さらに科学と技術、その認識デザインの関係に大きな誤りが最近ますます蔓延しています。
この蔓延状況に翻弄されているデザイナーへの忠告です。
「だから、あなた方のデザイン造形が美しくない」ということに至るわけです。
それは「意識」としての「識る」ことが、
ラテン語・sciusからフランス語・scienceに定着したことに関与していることです。
この原野から見直すべきでしょう。
それはScienceのことです。
scentia・良心的な知性の育成であるべき学域領域の訳語間違いに端を発しているのです。
日本語訳では、様々な「科目」=「分科している学域」、
これが「科学」となってしまったことをN先生は多くの著作で書かれています。
科学技術はもっと間違い
しかもこれが「科学技術」となれば、
原意・原点的な経緯と由来が正確に意思に反映された意識・意志にはつながりません。
もし、正確無比を目指すなら「科学」と「技術」です。
科学技術では、デザインの意思決定、すなわちデザイン意識の基盤ではありえないのです。
したがって、文明・文化の下敷きとして科学・技術をそのままデザインの背景とすれば、
デザイン表現である造形「美」の間違いが氾濫することになるわけです。
願わくば、意識=「識る意思と意志」がscienceという前に、
むしろ「芸術」からのデザイン意思が良心的な解釈だと考えてきました。
デザイン決定=造形への思索・意思が、科学あるいは技術で支援されるとするなら、
芸術・artと技術・technology/engineeringの意思を再度見渡しておくべきでしょう。
芸術原野への「意」
その視界には芸術でインクルーシブされた科学と技術、
この原野に取り囲まれている融合性へと、デザイナー意思を向かわせるべきでしょう。
あえて科学的な表現をするなら、
「学際的な統合」としてのデザイン、
デザイン造形への決定意志は「意」の原点にあるということを私は確信しています。


目次を見る