kazuo kawasaki's official blog

Archive for 3月, 2011


「資本主義からの逃走」
  「反原発ヒステリーは、人類の義務放棄」


   


     3月 27th, 2011  Posted 12:00 AM

ヒステリックな対立
「Glass Gallery 291」で講演。
銀座で一泊。
いつもなら週末ゆえに、もう一泊です。
ところが、東京のあの活気が沈み込んでいます。
羽田空港も節電ゆえ、空港ロビーは暗過ぎる。
機上すると、大阪出張も激減とCAの人たちからの話。
新聞紙面では、大きな記事。
「原発か、反原発か」、これから私たち日本人、同胞は二分されそうです。
あらためて、東京の事態でこの国難をつきつけられました。
この対立が日本を沈没へと導いているのだとするなら、もっと悲惨です。
私たちは、私の世代が知らなかった敗戦直後に立ち戻されてしまったようです。
前夜、「朝生TV」の討論を見続けました。
それぞれの意見の対立や激論をただ傍観するばかりですが、
これをすべてが国難と受け止めていながら、やはり、アポリアで立ち尽くしていました。
私の意見、主張は、原発推進と受け取られそうですが、
「原子力技術進化」を「義務」とするべき立場です。
原子力発電所は常に、
バージョンアップとフェールセーフの徹底した維持管理であるべきでした。
おそらく、歴史的に何度も津波災害に立ち向かってきた、
東北三陸海岸の子供たちは、どれほど、避難訓練をしてきたことでしょうか。
ひきかえ、それだけの心構えと安全管理を電力会社は徹底してきたのでしょうか。
電気機器がもし火を噴いたとき海水をかければ、
さらに故障、それどころか爆発するかもしれないというのは万人の常識。
40年前の欠陥品は、放置されたまま首都圏のエネルギーを供給してきました。
無論、このあきらかに原電事故は人災だから、
現在稼働中の原子力発電所の総点検はやってしかるべきことでした。
けれども、国内全ての原電を停止というのはヒステリーです。
代替エネルギーのアイディアもなく、原子力は全廃!は「反核ヒステリー」です。
この原電事故は、日本の事故ではなくて、人類の事故という認識が必要でしょう。
被爆と被曝の表記間違いにこれまで私自身気づきもしませんでした。
えらそう過ぎるでしょう。
日本は、戦災で原爆被災をした人類で唯一の民族です。
だからこそ、原子力技術には大きな義務があると私は考えてきました。
これが、原爆被災した霊魂への真摯な人智的、倫理的な態度だと思います。
「建設」してきた原子力発電所の存在には大反対です。
だから既存の発想転換が私の,デザイン職能としての主張です。
「建設」ではなく「生産」、「ダウンサイジング」・「分散化」、
そしてスマートグリッド技術をよりフェールセーフすること。
これが私の主張です。
講演会は、テーマを変更して、この主張に徹しました。


目次を見る

3月26日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 26th, 2011  Posted 7:42 PM

3月26日 大安(庚辰)

表彰文字は、
その形態の成り立ちまでが
人間のイマジネーションから思考表現、
特に造形力までつながっていて興味深い。

『デザインは言語道断』際限


目次を見る

「資本主義からの逃走」
  「商習慣を遵守し、そして解放するのは・・・」


   


     3月 26th, 2011  Posted 12:34 AM

私のふるさと福井県。
その鯖江市の地場産業といえば、
最近では認知度の上がったメガネフレーム産業があります。
メガネフレームであって、それは眼鏡の部品にすぎません。
しかし、フレームが眼鏡の商品性を決定しますから、
デザインは商品性決定の大きな決め手になっています。
私はこの地場産業・部品生産にデザイン手法を導入している一人です。
すでに25年以上関わってきました。
様々な工業製品と比較すれば、
部品の部品性、素材性、そして身体・顔、頭部に装着します。
したがって、いわゆる人間工学的な設計は不可欠です。
私の作品であるメガネフレームには、
私の名前がそのままブランドになっています。
一つは、KAWASAKIということで、
それはそのままmade in Japanを明確にしていることです。
さらに、素材と装着感には常に先進性を求めてきました。
ところで、福井県としてこの地場産業をPRするアンテナショップがあります。
「Glass Gallery 291」というショールームであり、
ショップでもあるのです。
ところが、眼鏡業界においての商習慣では、
フレーム製造メーカーは、卸、そして小売りという流通、
このシステムを遵守しなければなりません。
しかも、日本は眼科医の処方箋無し、
小売り店舗で測定してレンズ調整までしてもらえるのです。
この流通システムに一つのビジネス・モデルが介入できました。
レンズ+フレームを店舗で安価に即刻手に入れることが出来ます。
しかも、フレームは中国製が大氾濫しています。
結果、地場産業の大打撃は、そのまま地方都市活力が奪われているのです。
この問題解決の課題を私は、デザイナーとして四方向からとらえています。
福井県眼鏡組合が出店している、Glass Gallery 291では、
これまでの眼鏡業界の商慣習・安価ショップ・中国製に対しての
新たな流通慣習づくりにデザインを関与させるつもりでいます。


目次を見る

3月25日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 25th, 2011  Posted 7:41 PM

3月25日 仏滅(己卯)

象形文字は、
シンボル化された継承に原意があり、
そこから新たな解釈や意味の文脈が
ひろがってくる。
その想像力の整合性が美しいとすら思う。

『デザインは言語道断』際限


目次を見る

「資本主義からの逃走」
  「水、基本的な生命問題をアポリアにはできない」


   


     3月 25th, 2011  Posted 12:00 AM


結果的加重犯罪に見舞われました。
水道毒物等混入罪・同致死罪は重刑です。
水道という公共的な水に毒物が混ぜられれば、
大変な人的健康被害どころか、生死に直結です。
したがって、これは傷害罪を超えた重刑があるわけです。
そして天災での津波も、自然が犯した溢水罪(出水罪)です。
いづれも重罪であって、即刻、死刑相当であることは明白です。
東日本大震災をさらに悪化させている原電事故は、
「放射能災害」を拡大させています。
原電事故の現場対応は「生命を賭して」の活動が連続しています。
なんとしても、終息をひたすら祈るばかりです。
そして、今回の二重の大災害がまず、
日本人私たちにつきつけてきたことは人類が背負うべき、
「生と死」を科学と技術の能力への過信、反して撤退、
この相反問題だと考えます。
そして、この相反問題は、一人一人の寿命を超えた、
人類がバトンタッチしていけるのだろうかということです。
正直、立ち尽くしてしまいます。
本当に、放射能が及ぼし始めた水の問題は、
これから地球上で人口80億人予想では、
水すら枯渇することになります。
水道水が飲める日本は希少な存在国家でした。
原子力技術も、すでにその技術においては希少な国家です。
思考停止=アポリアが、具体的には目の前に置かれているのです。
私はこの非常事態=国難を乗りこえるには批判はすまいと考えてきました。
しかし、東日本を選挙地盤とする代議士連盟はあるのでしょうか。
そして、最も信頼感を失っていた現政権の解決実務能力には、
もう見切りをつける時期だと考えるようになっています。
日本人は、まだ本当に謙虚過ぎます。
学園闘争時代を通過してきた私の世代が声を上げるべきでしょう。
現政権ではこの国難を乗りこえることが本当にできるのでしょうか。


目次を見る

3月24日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 24th, 2011  Posted 7:38 PM

3月24日 先負(戊寅)

際限
果てしない夢のために

『デザインは言語道断』際限


目次を見る

「資本主義からの逃走」
  「被災シーン・ビジュアルシーンリフレイン」


   


     3月 24th, 2011  Posted 12:16 AM


やはりパニックに陥っています。
かも知れない、と何度も私は自省します。
TV報道の形式は、幾たびも被災シーンを放映します。
このシーンのリフレインが精神性に蓄積されているようです。
だからこうして、言葉を見つけ出すことが正直苦痛です。
けれども、被災地の人たちは、
「寒さ」と「飢え」に晒されています。
天災復旧の遅れと原電事故対策はすでに人災になっています。
まさしく、天災・人災は文明を一瞬にして破滅させたのです。
あらためて、文明とは寒さと飢えに、
人類が自然力への防御だったことを納得させられます。
暖かい食事と暖かく眠ること、
お風呂で清潔になることが文明の証しだということになります。
そして、文明で人間が護られない限り、
文化生活を手に入れ享受することは全く不可能です。
もう一度、私はこの大災害に対峙し対決し直します。
天災である大震災は文明を破壊し、人災となった原電事故は、
文化である体系までを壊滅させようとしているのです。
文化はすべての言語体系で文明で防御されている日常性を
さらに喜びと楽しみで包み込むことになります。
海外デザイン誌を開くと、
そこには、デザインという文化の強化をさらに高める提案でいっぱいです。
しかし、デザインは文化体系の前提である文明、
それらの再活性化をデザインは具現化する手法と実務です。
私のパニック性をしっかりと受け止め直して、
文明から文化への手続き、その再構築を目指さなければなりません。
被災地のビジュアルシーンのリフレインに耐えきる精神性は不可欠です。


目次を見る

3月23日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 23rd, 2011  Posted 10:00 AM

3月23日 友引(丁丑)

無念きわまりないのは、
その強烈さを戦後、
敗戦とともに私達はナアナアで
事を済まそうとするように
なってしまったことだ。

『デザイナーは喧嘩師であれ』あとがき


目次を見る

「資本主義からの逃走」
  「美化することの形式・内容は真意・虚実に」


   


     3月 23rd, 2011  Posted 12:00 AM


この大震災・原発事故に当たって、
私は、自分のスタンスをともかく保持。
と言いつつもパニック化していたと思います。
14日から18日は全国がパニック化と疲労したと思います。
それはこのブログアクセスの異常なアップ変動で判断しました。
私はこのブログによって、「言葉を失わない」自分であること。
「普通であること」。
「私の日常は、私の役割をさらに積み上げていくこと」。
それは、たとえば、今デザインテーマやまもなく新学期準備、
毎日の活動の積み重ねでした。
それはまもなく出版予定の
『倉俣史朗のデザイン全仕事・夢の形見に』校正作業でした。
そこで、もっとも考え抜いていたことは、死者へのオマージュ、
それは必ず「美化」するものです。
果たして「美化する」という表現が、事実を歪曲し、
すべからくを「正しさ」に昇華してしまう畏れへの考察でした。
憧憬し、尊敬していた人物のしかも夭逝から、
その人自身の全仕事が「美学まっただ中の仕事」です。
だから、その「美しさ」を解釈し、敬意・オマージュは、
「美化」の塊と言っていいでしょう。
加えて、TV報道される内容には泣かずにはおれない悲しみが、
幾たびもまさに津波のごとく私を混乱させていました。
現政権や電力企業の対応には、
批判は非難に至るであろう心の中の怒りを覚えることしばしばです。
けれども、冷徹であるためには、自分にその批判を向けることでした。
その象徴に「美化」を置きました。
具体的には、1997年から2004年に20回の連載記述を凝視し、
その客観的な思考洞察をしながら
この国難をともに考えることにしてきたわけです。
あきらかに「美化」しています。
それは私が自身、母の死を「美化」してこそ心の中で、
それゆえに合掌している自分、
自分への同一性を確認できていると確信できるからです。
私は「美化」することに、
バランス感覚を保持し続けることができうるかを試そうと決意しています。
被災現地で被災死亡者のご遺体は、
身元確認をDNA記録化して後日確認で土葬という悲惨さです。
埋葬の形式を度外視して内容だけ、
いわば死亡者への畏敬形式を後回しにというほどになっています。
学べることは、形式ではなくて内容あっての形式だということです。
だとすれば、「美化」することで、
この悲しみの共有と分配程度しか
私たちの精神正常化保持はできないのかもしれません。
私は「美化」することの均衡感覚だけを残しておくつもりです。
形式と内容は、真実と虚実を混乱させることに繋がっています。


目次を見る

3月22日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 22nd, 2011  Posted 1:18 PM

3月22日 先勝(丙子)

イエスと言ってくれないなら、
黙って引き下がるわけには
いかないだろう。

不自由な生涯という道程に、
美のあるモノを
こんなに考えて設計している。

それを認めてくれないなら、
喧嘩しか残らないはずだ。

『デザイナーは喧嘩師であれ』あとがき


目次を見る