kazuo kawasaki's official blog

Archive for 5月, 2011


5月11日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 11th, 2011  Posted 4:53 PM

5月11日 赤口(丙寅)

デザインは、
まず好みだけで判断するアホが多い。

私のデザインが嫌いな人がいても
一向にかまわない。
それを上回るファンもいていただけるの
だから当たり前の話だ。

『デザインの極道論』面罵


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5月10日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 11th, 2011  Posted 12:46 AM

5月10日 大安(乙丑)

「何事も(?やかに)話し合い」
などということが、
まことしやかに語られるように
なってから、日本人は、
気性の骨格の大事な一本を
抜き取られてしまったようである。

『デザインの極道論』面罵


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「ショックドクトリンを日本が一新」


   


     5月 11th, 2011  Posted 12:00 AM

私デザインの商品化は今年です。
昨年、製品開発をしてきたモノの商品化。
まず、スポーツ用サングラス。
これには大きな目論見がありました。
3プライスビジネスモデルでの
メガネフレーム販売ショップに向けてある狙いがありました。
メガネフレームデザインはすでに25年以上関わってきました。
この領域マーケットとはまったく異なったユーザー相手でした。
私にとって、競合というより競争相手は、
世界的に勝負してきたのは海外4社しかありません。
それ以外の商品はメガネフレームとは認めること不可能です。
改めて3プライスビジネスモデルマーケットのフレームは、
商品デザインだけであり、フィット性能は無残なモノばかりです。
顔面や耳殻周辺とのフィット感が皆無だと判断してきました。
だから、メガネフレームの二極化している市場をさらに分離し、
なおかつ性能と機能の統合感を創り出したいと思ってきました。
しかし、まるでメガネ業界と言っても市場特性は別物でした。
それは想像していたことでしたが、
これはBOP-Businessへ展開していくことを目指しています。
すでにこれを目指したレンズやフレーム製品が登場してますが、
私も開発に関わってきましたがまったく納得出来ないモノです。
さらに新たなメガネ性能を、素材やレンズから解放し大革新です。
メガネフレーム機能のDesign by Japanを目指しています。
Made in Japanを変革する新たな産業姿勢だと確信しています。
すでに、「日本のモノづくり」=Made in Japanを
私は Business Design Modelにしていきたいと考えてきました。
その代表として、素材開発・実装開発してきたキーボード、
このアイテム分野でも今年は試すことができそうです。
製品開発からやっと商品発売されますが、世界市場相手です。
そして決定的になってきたことは、「ショックドクトリン」は、
まさしく「災害資本主義」に向かっているようですが、
私の意図、目標、目的は、ポスト資本主義市場へのデザインです。
日本の復興政策には、日本デザインドクトリンがあります。

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5月9日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 10th, 2011  Posted 12:38 AM

5月9日 仏滅(甲子)

しかし、
聴衆からの反応を見ていると、
講演内容ではなくて、
なんだか「時代が消沈」している
気配を感じてならない。

「時代か、自分か」ということだ。

『デザインの極道論』面罵


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「不条理・パニック、リトルネッロ論」


   


     5月 10th, 2011  Posted 12:00 AM

突然、自分への災難は不条理です。
自分への天災・人災ともに自問自答を反復。
自分自身への不明さ不条理詰問を繰り返します。
そして自責に疲労困憊すれば、
納得としての「諦め」という運命観が寄り添います。
私はこの「諦め」を「諦観」に昇華するのが日本人だと思います。
果たして未だに、この国難状況はパニックの中にあります。
私自身交通被災=全廃宣言(死亡と同等)という不条理、
28歳の私の身体への人災に直面した時、
パニックになれませんでした。
詩人マラルメの「牧神の午後」を動機にした、
ドビッシーの「牧神の午後の前奏曲」が耳鳴りにありました。
つまり「牧神=パーン」の憑依がパニックにすぎないという、
それだけの認識は、加害者を観察し見舞い客を冷静に見てました。
動物というより家畜と化した自分を従属させられないことから、
大混乱=パニックが取り憑いているにすぎないと思ったからです。
したがって、交通被災で「歩けなくなる」というドクター宣言は、
その旋律の中で鳴り響いてくれていたことを思い出します。
パニックという憑依現象の中にまだまだ日本は囚われています。
落ち着いて整然と「帰っていく」黙考に立ち戻るべきでしょう。
この「帰っていく」=リトルネッロ(ritornello)が必要です。
リトロネッロはイタリア的な音楽用語ですが、
この用語を援用した哲学には、死という不条理に直面し、
自分の破滅や消滅というパニックから危機感を、
自分自身の想像力の中に帰していくという位相体験を求めます。
トポロジカルな発想=可逆相が不可欠だと、
リトルネッロ論を提示した哲学者たちは書き残しています。
この発想にいたるには相当の疑似体験と決断が必要です。
したがって、「自宅に帰っていく自分」が見えない限り、
永遠にこのパニックに憑依されているということです。
夕焼けになって、遊び疲れた子供が必ず自宅に帰ること。
この保障が今最善の被災地パニックからの解放なのです。

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「歴史的文脈のエネルギー=原子力の修辞性」


   


     5月 9th, 2011  Posted 12:00 AM

今、原子力への論争は激烈です。
この論争には脱原発公言が勝ち馬です。
原子力を制御できるのは
爆発条件を付与する想定のみ。
ナガサキ・ヒロシマのトラウマは、
フクシマでさらに原発アレルギーを再発させました。
「安全神話」は修辞性=レトリックに過ぎず、
修辞性という加飾性など剥ぎ取られて当然でした。
2007年、大学人・私の発言を封じ込められた体験があります。
原子力学者達はこの加飾性を認めても私の提言を阻止しました。
結果は無残な現在に至っていると私は判断しています。
ふるさと福井に原発を持つ一人としての冷徹な提言でした。
この現実では歴史の文脈の最下層をみつめるまなざしが必要です。
まなざしは原子力は今なお蒸気機関であることに注視すべきです。
つまり、蒸気機関はその性能によって爆発は当然なことです。
そしてその原料は、森林→石炭→石油と変遷してきました。
ヨーロッパの森がすべからく伐採されてしまったこと、
それから「産業革命」が始まったことは忘却されています。
やがて森林の代替を地下の石炭に見いだし、
新たなエネルギー源の収奪が国際政治地政学の大きな背景となり、
世界大戦の具体的目標は、石炭の収奪だったわけです。
それを論理的にイデオロギーの対立化に見せかけたのは、
「隠喩性という病い」の蔓延だったと私は理解しています。
石炭→石油へと移行していけば産業経済の中心は石油資本に集中。
わが国が石炭→石油ということにおいては、
世界的な孤立を余儀されることになります。
これこそ歴史的な国際政治の強要だったと見ておくべきでしょう。
しかも、国内での炭鉱労働・労働争議にイデオロギー闘争も、
まさに同次元でなおかつ同位相で重なっていきます。
ところが今、地球から枯渇寸前となっている石油は、
天然ガスとなり、石油流通というよりガスパイプの配置が、
イデオロギーから宗教対立と言わざるを得なくなるのです。
この事情は、戦争をテロリズムと言い換えることになります。
石油よりもさらに科学と技術のまさに融合は、
そのままウラン鉱の発見、原子力からのエネルギー変換は、
二つの事象につながっていくのです。
核弾頭という原爆武器と、その使用防止は平和利用と修辞されます。
拡大する電力消費エネルギーとしての原子力発電所建設です。
しかも、宇宙船地球号として合意認識を無視した、
国民主権下での原子力発電所管理は各国家体制に委ねてきた、
人類全ての怠慢性であったことを認めておくべきでしょう。
そして、一方では、ポストインダストリーが情報社会になり、
そのエネルギーの根幹である電力消費は格段に増加していきます。
私は、今、原子力への対立構造を、
あたかも世界市民的管理という
またしても幻想に押しこめようとするの歴史文脈無き思想を、
机上的な修辞として告発しておくべきと考えています。
エネルギーが隠喩性から「神話」という修辞性に置き換えること、
ゆえにヒロシマをフクシマにしてしまったことは大失策です。
しかもこの大失策を「脱原発」へ連続させることは、
エネルギーの歴史的文脈性、その熟読不足と考えざるをえません。

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5月8日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 8th, 2011  Posted 9:30 AM

5月8日 先負(癸亥)

感性の時代といっても、
界面・インターフェースがまず
なんであったのかを
もう一度問い直し、

自分が納得できる確実な自分への
自信がないかぎり、
親和性のある自分には
なれないのではなかろうか。

『デザインの極道論』界面


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「BOPは世界構造の隠喩的病いとなっている」


   


     5月 8th, 2011  Posted 12:00 AM

1949年生まれの私。
当時の世界人口は25億人。
おそらく私は2049年を見ないでしょう。
ここ数年、私自身が世界人口を
追いかけつつ、その増大の速さは不安でした。
年内に70億人、2030年には100億人を突破しているようです。
反してわが国の少子化での人口激減は、
世界構図、世界構造を根本から変えてしまうことは明らかです。
この人口爆発で予想される世界的な問題、
その代表的な問題には、食料・水・エネルギーの構図が見えます。
BOP=Bottom of the Pyramidという人口図式。
三角形に、所得構造分けされた図解です。
私は授業・講演会などで世界構図のビジュアル表現として、
最も多用してきた図解です。
しかし、この図解である図式は、世界隠喩であることも明白です。
それは、人口分類が「所得階層」になっていることです。
スーザン・ソンタグの名著に「隠喩としての病い」があります。
この著作をベースにして、世界構図の隠喩となるのは、
人口爆発である「BOP図式」と「エネルギー」がテーマ可能です。
そして、この現実には世界構造が隠喩的な図解化ができます。
人類の大きな問題が隠喩となって私たちに覆い被さっています。
つまり、人口とエネルギーに現代世界の大問題があります。
現代世界の一つは強欲な人間欲望と、
もう一つは、さらに貪欲な人間社会の階層的な支配構造、
すなわち、国際政治の表象が支配力学になっています。
ところが、本来であれば知性的かつ知識階級である人も、
支配力学の経済的暴力構造の隠喩性からは解放されていません。
しかも厄介なことは、
この隠喩性は「情報」あるいは「情報化操作」によって、
世界構造が閉じ込められているということに他なりません。
この支配構造の中で、人々は対立し共謀し幻想に陥っています。
けれども、人間の誠実さ、「かけがえの無さ」を確信する人には、
決してアポリアにはしない生への希望があるということです。
人口とエネルギーは、まさしく世界概念の隠喩という病なのです。
この病に、デザインは必ずや企望になるはずです。

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5月7日Staff Blog


   


     5月 7th, 2011  Posted 9:30 AM

5月7日

またまた、
新たなスタイラスペンをせっせと試している
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)
レッド、ブルー、ゴールド追加で
シルバーと購入したjust mobile。
スケッチなどなかなかの描き味で
オススメとのことでした。


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5月7日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 7th, 2011  Posted 9:30 AM

5月7日 友引(壬戌)

プロは、
その内実までそれこそ
説明を求められたら
答えなければならない
役割がある。

『デザインの極道論』界面


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