kazuo kawasaki's official blog

Archive for 5月, 2011


5月3日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 3rd, 2011  Posted 11:48 PM

5月3日 仏滅(戊午)

悲しみとは、
解放されることのない痛みである。
心中にたまりきった思いが
出口を求めて押し出ようとしている。
それが涙になる。

『デザインという先手』つまれたいたみ


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5月3日Staff Blog


   


     5月 3rd, 2011  Posted 12:57 AM

5月3日

BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)
最新の愛用万年筆は、
「ピュア」ポルシェ デザインです。

おまけ?のポルシェ ペーパーウェイトつき。
特殊コーティングのブラックが魅力的です。
ボスには少し重過ぎるようでした。


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「リーダーシップ性とディレクション性とは」


   


     5月 3rd, 2011  Posted 12:00 AM

この国難で明白になったこと。
露呈してしまったこと。
隠蔽されたり、隠匿されていること。
物質としての街が壊滅し、
フクシマ原発事故でエネルギー問題が、
この長期になるだろう国難を支配していること。
そして情報はすべからくその指導力に依存しています。
指導力というのは、リーダーシップ性とディレクション性です。
結局現在リーダーシップ性とディレクション性が問われています。
私は、あえて、企画・計画・実施・運営・維持・管理について、
その監督能力をリーダーシップ力とディレクション力、
この二つがあるものと考えています。
それは、モノのデザインを職能にしてきた経験判断です。
デザインは「モノづくり」そのものではありません。
企画して具現化する様々な手続きに、情報的に関与し、
時に、リーダーとしての決断と、ディレクターとしての判断が、
そのプロセスから結果を制御するのだということを実体験。
つまり、判断と決断には、決定的な違いがあると思っています。
あくまでも、情報管理の実体験によって、
判断した結果と決断した結果には差異性があることは確実です。
したがって、リーダー、ディレクターという役割は違うものです。
しかし、いずれの役割においても、「結果」だけが残り、
その経過・プロセスなどに価値があるということは、
経験値を蓄積していく要素・要因にはなりますが、
それ以上の価値感はありえないと考えていることも事実です。
今、現政権でのリーダーシップ性は皆無です。
ましてディレクション性もありません。
理由は簡単です。
 ● 決断と判断には明確な順序があります。
 ● 判断して決断すること。
 ● 決断が判断の連鎖性と連続性であること。
 ● 判断と決断を同次元で結果にしてしまうこと。
 ● 判断と決断の違いが明確でも瞬時性と長期性を熟慮。
少なからず、この判断と決断で、
リーダーたる自分なのか、ディレクターたる自分なのかを
自分への詰問で自身の役割を認識することだと私は考えています。

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5月2日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 2nd, 2011  Posted 11:57 PM

5月2日 友引(丁巳)

日常と感情は、
喜怒哀楽で成り立っている。

『デザインという先手』つまれたいたみ

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「エネルギーの邦訳を決定するためには」


   


     5月 2nd, 2011  Posted 12:00 AM

[物質・情報・エネルギー]=世界要因です。
明らかに世界がこの三つで構造化され、
その中で、生物、動植物、人間の日常があります。
私にはどうしても
エネルギーが日本語であってほしいと思います。
物質とエネルギーを徹底して熟考し、
よりやさしく伝えようとしたのは寺田寅彦でした。
そして彼は、天災や事故、
科学での解明を最も随筆や報告として書き残してくれています。
私の世代は、彼の文章は受験問題になっていたこともあり、
親しみがあると同時に、
物理の本質を数式ではないことばで解説されていました。
したがって、あらためて読み直してみれば、
津波や天災の記述が本当に多いことを再認識させられます。
「天災は忘れた頃に」というフレーズも彼の発言でした。
さて、エネルギーというのは、
今回、具体的には、電力・ガソリン・人力でした。
しかもこうした要素因は、
「仕事力」という具体結果に結びついていたことです。
まさしく、寺田寅彦著作である「物質とエネルギー」には、
エネルギーを「仕事をなす能」とし、
かつ物理学者のBegriff=Concept=概念にすぎないために、
世俗的には理解困難な概念にも関わらず、
自然力との関係が不明な原因になっているという指摘は
今なお引きずっています。
少なからず、エネルギーとしての「放射能」も、
その能力の限界を未だに人間は把握していません。
すなわち、概念=Begriffというドイツ語の語源は、
包括する、把握するという意味です。
つまり、私たちは物理学的にもエネルギーは、
まだ概念に過ぎず、包括することはもちろんのこと、
把握することもできていないことを、
今回のフクシマ原発事故から、人類すべてが、
充分に学びとり自省しておくべきことだと考えます。

*寺田寅彦「物質とエネルギー」は「青空文庫」で読むことができます。http://bit.ly/ifEMKn


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5月1日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 1st, 2011  Posted 10:00 AM

5月1日 先勝(丙辰)

感性と感情で、
感動と感激したことへは、
感謝が必然でなければならない。

『デザインという先手』はじめに


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「リスクという片言では思考幅が狭くなる」


   


     5月 1st, 2011  Posted 12:00 AM

言葉づかいが一つだけは思考幅の問題。
たとえば、「安全」には「安心」があり、
「感情」には「感性」が、
こうした一対の対称性を思考内容にすること。
それは、思考幅を偏重することから解放させてくれます。
ところが、私たち日本人の一言語一民族の特徴には、
この対称性や対照性を一言=片言で済ませても、
まさに以心伝心という独特のコミュニケーション慣習があります。
たとえば、「やさしさ」という平仮名では、
実は本来の、「優しさ」と「易しさ」を統合化してしまうのです。
結果、再確認しておくことが出てきます。
「優しさ」とは、決して目立たない優美さを意味し、
「易しさ」は、トカゲが簡単に色を変えるような簡便さです。
したがって、「やさしい」という一言は、
このどちらにでもなりうる曖昧さまで包含してくれます。
したがって「安全神話」には、
「安心」ということが欠落していたのです。
私は、「安全」が確保されて「安心」を確認することができ、
「安心」という確認があれば、「安全」が確約できると思うのです。
あたかも原子力を「安全神話」で装飾してきたとするなら、
やはり、何が、確保・確認・確約の手続きが、
片言に統合した誤魔化しの曖昧さだったのです。
大地震・大津波・フクシマ原電事故、すべてに対して、
「リスク」という言葉が多用されています。
「リスク管理」があたかも絶対性ある言葉になっています。
しかし、特に放射線リスクとは、
個人的な被曝をリスク=riskと呼び、
社会的・公的な被曝については、
デトリメント=detrimentと言わなければなりません。
私は、今回のフクシマ原発事故では改めて学ぶべき事が多く、
その学習成果から、
次世代エネルギーのあり方を探求すべきだと考えます。
そのとき、「リスク」と「デトリメント」の対称性を取り上げ、
この二つの言葉、
それぞれの対照性を対象化するべきだと提案しておきます。

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