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Archive for 6月, 2011


6月11日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 11th, 2011  Posted 10:00 AM

6月11日 友引(丁酉)

小動物や乳幼児は決して、
攻撃してこないという安全性がある。

その安全性は完全であるから、
安心できる存在になっているというわけだ。

『デザインという先手』「新手」の予知能力


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「公共投資策に明け暮れる代議士たち」


   


     6月 11th, 2011  Posted 12:00 AM

人類が初めて知った放射能被曝は、
原爆投下攻撃されたわが国の被曝体験。
そして、
チェルノブイリ原発事故。
しかし、この事故をわが国の現実には、
それほど重ねてきたとは思えません。
私も「チェルノブイリ森」を詳細に知ろうと思ったのは、
今回の震災・津波そしてにフクシマ原発事故でした。
チェルノブイリ森では食物連鎖で、
動物たちの内部被曝が進行しています。
結局、人間の住み処は壊滅してしまったわけです。
この現実をフクシマに当てはめる事態を回避すべきです。
そのためには東日本復興には、
代議士たちの「公共投資」風習が
おそらく反復されると推測します。
復興に対して国会議員たちの党利党略が、
この反復戦略づくりに明け暮れていることに呆れます。
おそらく巨額な復興支援費が要請されるはずです。
確実な「公共投資」は、
政府主導のケインズ的な経済政策ですが、
これがわが国の地域と代議士との富の再配分でした。
日本的資本主義の政風習システムと言っていいでしょう。
この投資がきわめて不透明なことであることを、
もうすっかり私たちは熟知しています。
さらにこれからの日本的な資本主義が崩壊していること、
すなわち、復旧・復興が、
これまで流「公共投資」で成功するわけがありません。
だから、代議士たちには、
被災した人々や原発事故被害者は不在なのです。
あたかも「チェルノブイリ森」を
フクシマに持ち込んだようなものです。
彼らへの支援ではない、代議士たちへの富の再配分を
私たちは厳しく監視していかなければなりません。
というより、もう日本の政治に国会議員は不要です。
ちょうど震災から三ヶ月過ぎ去りました。

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6月10日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 10th, 2011  Posted 10:00 AM

6月10日 先勝(丙申)

断言できることは、
「可愛さ」というのは
「愛しいと感じられる可能性」である。

まず、そういった可能性を必ず備えているのは、
小動物や乳幼児だ。

『デザインという先手』「新手」の予知能力


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「100年・1000年に、一度は人間非在」


   


     6月 10th, 2011  Posted 12:00 AM

金融危機。
100年に一度という定説。
しかし、資本主義経済体制は、
景気循環説として、修正復興により、
必ず修復ができると言われています。
しかし、1000年に1度と言われた大震災・津波は、
まったく「修正プログラム」を人類は持っていません。
私たち日本は、この1000年に一度を体験しています。
この天災に留まらず、
「フクシマ原発事故」には参考資料があります。
1986年・チェルノブイリ原発事故の歴史性です。
もっとも、その時の情報は隠匿されていましたが、
今ではそれなりに確認できます。
フクシマはその事故の70 分の一程度が放射能汚染とか、
私はこの数値比較はまったく見当外れだと思います。
それでも人類にとっては、大変貴重な判断材料です。
ここから徹底的な対策案を考え出す必要があります。
ところが、現政権はこの歴史性を無視しています、
そして学識者もジャーナリズムもこの詳細を無視です。
日本のシステム復帰は、少なからず、
チェルノブイリ原発事故から学び取るのが賢明です。
声高喧噪のまま、原電事故ゆえに原子力反対は、
浅知恵過ぎるとしか私には思えません。
チェルノブイリ原発事故時には、
乳幼児・小児、そして地域住民への避難対策を検分し、
十二分に参考にするべきでしょう。
そして事故後25年、「チェルノブイリ森」という場での、
自然体系・被曝地帯での動植物異常性にこそ、
これからのフクシマ、そして日本の自然環境見直しの
基本的条件があるものと判断します。
脱原発と同様にこの事態回顧を熟考すべきでしょう。
私なりには、「チェルノブイリ森」は人間が居ないこと、
よって、自然体系は即回復しながらも、
人間を遠ざけているという事実が気がかりです。
自然体系は、人間非在を求めているのかもしれません。

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6月9日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 9th, 2011  Posted 2:46 PM

6月9日 赤口(乙未)

私には、
「可愛さ」「きれい」「美しい」という
流れ、文脈でなんとかモノの美しさ、
デザインによって生み出される美しさを
語りきりたいという、強い思いがある。

『デザインという先手』十分なる「先手」


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「メタリック文明だったことの見直し」


   


     6月 9th, 2011  Posted 12:00 AM

東京のイメージ。
かつてインドからの留学生、
彼女は一言で「メタリック」、
瞬間的な言葉でした。
この言葉に凝縮されています。
日本の象徴都市、敗戦後からの文明成果です。
今回、東日本大震災と原発事故についての論評は、
敗戦以後の経済、政治、原発に集約された、
日本システムへの見直し論はほとんど批判論です。
しかし、ある高名な評論家の言説には、
明治維新で捨て去った伝統的な日本観までの遡及、
文明開化・脱亜入欧・富国強兵・平和憲法に及ぶ論考に、
私は感動しました。
「メタリック」は、
特にプロダクトデザインにとっては揺るぎない表面装飾。
ある意味では決定打的表皮仕上げです。
56豪雪時に私はふるさと福井に帰りました。
翌春、早速出かけたのが敦賀半島のあの原発でした。
直観的に、007映画に登場する敵対相手の住み処でした。
「絶対に、見られてはならないことが行われている」、
この印象から、あらためて原子力に向かっていきました。
福井の自宅はたまり場になりました。
新聞社やTV局の記者さんがよく出入りしていました。
彼らですら、原電事故取材は「じゃんけん」で決める、
というぐらい事故ともなれば近づきたくない存在でした。
原発が「メタリック」な代物とは言い難いですが、
以来、私は、「建設」という手法の曖昧な仕上げのモノは、
信用できないという思考結果になりました。
やはり「生産」するモノの精度感には信頼性があります。
その後、核燃料サイクル機構から持ち込まれた発想を
デザインで支援するには、
「建設」から「生産」を第一義にしました。
超小型発電「機器」のデザインを阪大の原子力技術で、
デザイン意図に技術的背景での理論化が可能でした。
まだまだ課題は残されていますが、
私の中では「安全神話」などは信じていませんでした。
だからこそ、
ソーラーパネルを「安全寓話」と呼び、
風力を「安全童話」と私は断言できます。
地熱発電も「建設」では決して最適解答にあらずです。
要は、自然は人間が消費するのエネルギー量を、
決定しているのかもしれません。
「メタリック」という表皮的な文明が望んできたこと、
徹底的な見直しが必要になったということです。

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6月8日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 8th, 2011  Posted 10:17 AM

6月8日甲午(大安)

メディアインテグレーション=MI産業
ということに、
核心的な革新さが潜んでいる。

それが見えている人には
見えている。

『デザインの極道論』錯落


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6月7日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 8th, 2011  Posted 12:50 AM

6月7日仏滅(癸巳)

錯乱はしていないが
錯落はしているかもしれない。

『デザインの極道論』錯落


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「神話・寓話・童話にエネルギーは無い」


   


     6月 8th, 2011  Posted 12:00 AM

もっと真実を。
権力の構造が最大恐怖です。
その権力の機能性も性能性も壊滅です。
それにも関わらず効能性を、
権力は維持存続させる権力が残存しています。
だから、もっと真実を、
かってロシアンアバンギャルド時代に、
マヤコフスキーは、「もっと形態を」と言って、
自死を選びました。
ロシア革命先導者たちの権力への抵抗でした。
「もっと新しい形態を、号泣が聞こえてくる」、
これが彼の辞世の言葉です。
さて、ドイツ・イタリアが脱原発を宣言しました。
いづれも敗戦国家です。
この国際的裏側の真実に真っ直ぐなまなざしが必要です。
「安全神話」で原発は推進しました。
結果、安全神話で原子力技術を台無しにしました。
私は、次ぎには、
「安全寓話」にソーラー発電があり、
「安全童話」に風力発電があると結論づけています。
代替エネルギーに、太陽と風があるという物語、
太陽には、日食と月食があり、
風には、暴風雨が待ち受けています。
「風景」の根幹に位置する太陽と風との調和、
そのような調和など幻想だと思います。
ソーラー発電にも風力発電にも、
原子力技術の応用が絶対に必要です。
なぜなら、人類の科学と技術に潜んでいる真実の知恵、
やっとたどり着いたかも知れない本当のエネルギーに、
真実近づくには科学からの知恵だと私は確信しています。
神話・寓話・童話の中に、
エネルギー手法はありえない、と思っています。
「もっと真実を」、
効能だけを温存している権力からはぎ取るべきでしょう。
3ミリシーベルト内でも次世代を置き去りは駄目です。
20ミリシーベルトOKという権力は打倒すべきでしょう。

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「光景は風景が制御している」


   


     6月 7th, 2011  Posted 12:23 AM

生と死は光景です。
この光景を日常化すること、
それを近代文明は出来るだけ、
避けてきました。
文明が最も忌み嫌った事、
それはこの光景だったと私は思っています。
だから、文明の基本を集落、
現代都市社会の基盤に配置したのは、
水と火をいかに見えなくしてしまうかでした。
けれども自然がもたらす、水と火はまさに自然現象です。
この自然現象を風景と呼んでいます。
中国の古典的解釈は、
風景=彗星・日食・月食・暴風雨です。
まさしく風景画という言い方は、曖昧過ぎます。
風景の要素は、人間の生死を制御します。
風景こそ、光景を人間に与える最大の不幸だったのです。
実際は「幸不幸」という言葉が、
人間に差し向けられた二項択一問題だったわけです。
風景には人間の生死を瞬時に決定する途轍もない力、
人間には制御不可能な力=エネルギーがあるわけです。
今回、震災よりも津波の力は甚大でした。
それも引き津波の大きさです。
幸不幸は、生ある者は幸であり、
生きられず死に至る者は不幸というのが、
本来の意味でした。
果たして、人は、日常の背後にこの光景が潜んでいます。
大震災・津波は、自然の風景力そのものであり、
自然と人間の調和というのは、
あるいは、風景画という曖昧さや風景の寓話で、
死を遠ざけてきたのでしょう。

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