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Archive for 4月, 2013


「赤と白、すぐに目に付く・・・」


   


     4月 7th, 2013  Posted 12:00 AM

私は北陸人ゆえに、
色彩感覚についてはとても厳しく自分自身を見てきました。
理由は三つあります。
美大時代には「色彩論は実技で徹底的に教え込まれ」ていました。
私は金沢美大当時、
山岸教授からの「色彩との格闘」と塗装実習の中谷教授の授業は、
私の「色彩」への徹底的な改造が出来上がり、
デザイナーから大学人になるまで、
まず、色彩関連の書籍収集から現物でのカラーモノ収集によって、
自分の日常に寄り添っています。
だから、私は親友のデザイナーやアーティストには、
しつこく彼らの色彩感覚をよく聴き出します。
ただ、デザイナーで私に色彩のことで質問は、
学生と親友の数少ないデザイナー・建築家・アーティストだけです。
そして、私が気づいているのは、
車倚子になってふるさと福井で「色について」、自分を確認したのは、
秋から冬に向かう頃、寒さが厳しくなり、雨かも知れない、
雪かも、
そんなときに「利休鼠色」ってこの色、
本物の金色は、実った稲穂と麦の色が太陽に照らし出された感覚です。
春先の稲穂の緑、竹林の緑です。
しかし、北陸人の特長は、「色彩彩度が平均よりやや暗め」になる、
そんな傾向があることです。
だから北陸出身で同じ業界の後輩には、
よく色の「彩度感」の話をしています。
この写真はきまって海外では道端でカフェがあります。
日本の「軒先文化」との一論をまとめることができるでしょうが、
いつも、倚子・テーブルなどやその配置が気がかりです。
そんな中で、パリで白いテーブルと赤い灰皿が気になりました。
おそらく、赤い灰皿はパリだからだと思いますし、
きっともうすぐ人間から喫煙文化は消滅すると思います。
ただ、気づいたのは、白と赤です。
日本人にとって、「国旗のごとく日の丸カラー」も、
私の肉体感覚の色彩だと思っています。


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「自宅近くに・・・桜と大阪城に」


   


     4月 6th, 2013  Posted 12:00 AM

私の自宅は大阪市内の中央区にあります。
中央区というだけあって、
公共的な施設がいっぱいある・・・ようです。
なにしろ、大阪に来て8年目ですが、
ほとんど阪大の吹田キャンパスや阪大中之島センターや、
ホテルのレストラン、駅といっても新大阪、伊丹空港だけです。
名古屋時代もそれほどよく知りません。
ただ、大阪は18歳の時にある予備校国公立医進コースで、
結構受験勉強をしていましたから、
天王寺、阿倍野筋や大阪での危険地帯から
梅田界隈や心斎橋などは当時はよく知っていました。
だから、自分が知っている場所に行きたいと思いつつ、
まだ行ったことが無い状況です。
自宅から車で数分の大阪府警察本部に行ってきました。
以前から、この建築はまさに威厳ある建物と思っていましたが、
近寄ってもほとんどそのいわば威厳ある威嚇性はありませんでした。
阪大の工学研究科長、副研究科長はじめこれから私が手掛けていく
「危機管理工学プロダクトデザイン寄附講座」開設の表敬訪問でした。
建築の全体像は、本部内の広報室、これも質素でしたが、
昔のハーレーのサイドカーがあり
白バイや機動隊員のユニフォームをじっくり見ました。
ワイフのおどけ写真を訪問記念に撮りました。
大阪府警本部長自身が、公共政策の危機管理学を
慶応大学総合政策学部で2年教えておられたので、
その時の講義内容や学生の受講態度、
そして、講義内容の立派なパンフレットを拝見しました。
今回は表敬訪問だったのですが、
彼の時間に合わせて、「寄附講座開設の記念講演」を企画しています。
さて、建物の異様さは警察権力を表現していましたが、
周囲には大阪城と桜が晴天で美しい景観でした。
けれど警察庁のインテリアに比較すると実に質素でシンプルでした。
私がプロジェクト・リーダーになる領域では、
「防犯防災」や「救急救護」での警察権力の警備から防犯・救護、
そして新たな警察装備や装置へのプロダクトデザインをめざします。


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「私の教授室にはドラフターは2台」


   


     4月 5th, 2013  Posted 12:00 AM

私は名古屋市立大学時代の2004年に、
大阪大学大学院工学研究科に新設された「フロンティア研究機構」に
「特任教授」で呼ばれました。
なんでもグローバルCOE(大学研究開発)を東大と阪大がテストケースで、
公立からの招聘も私が最初だと、
退任間際に招聘していただいた初代機構長から言われました。
そのときに現在の研究棟に私の部屋は、
私の想いの実現をしていただきましたが、
周囲の壁面すべてに天井から水を流すことは、
費用面からも駄目ゆえ納得しました。
当時の研究棟はフロンティア研究機構事務棟であり、
各部屋は、すべてが木材自然材それぞれでした。
木材毎(松・桜・楓・欅など)の環境計測が目的化されていましたが、
私は「電磁波防御に自然水の壁面落下」をアイディアにしていました。
3月末に阪大は退任しましたが、
今後は、「危機解決産業創成デザイン重要拠点」として、
「危機管理工学プロダクトデザイン寄附講座」を引き受けました。
そこでわが研究室には、
あえて私の所有する伊製の製図台を2台持ち込みました。
製図台では最高のモノであり、パソコンが出始めた頃に、
バーゲンだったのを求めたモノで福井・名古屋・大阪と使っています。
また、2004年末にEIZO・(株)でエンジニアに、
世界で最高のモニターを創ったら、
市価はいくらになっても構わないというままに製造商品化しました。
当時、もう17インチが15000円程度ですが、70数万円しました。
しかし、結局、今では「印刷モニターの基本技術」になっています。
また、大手自動車メーカーではデザイン部門に70台出荷できました。
そのモニターに3年がかりでキーボードメーカにてデザイン開発の
「触覚フィードバックの鏡面キーボード・マウス」です。
この触覚フィードバックのキーボード技術は、
次回の上海モーターショーで発表するために、
その企業社長と商品発表や展開を近々会う予定です。
世界で最高のTVやオーディオも完備させた部屋です。
私は、大学の教授室こそ、
世界で最も先端的に進化したモノや、
人間の想像世界の必需品があるべきだと考えています。
私の部屋は、阪大学生が「マトリックス・ルーム」と名付けてくれてます。
フォトニクスセンター長は私を招聘していただいた教授です。


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「大学でのデザイン教育=デザイナー育成をめざす」


   


     4月 4th, 2013  Posted 12:00 AM

私は47歳で名古屋市立大学に芸術工学部が新設され大学人になりました。
準備委員会に参加後、博士後期課程設立まで10年間、
芸術工学という領域で、「健康・都市景観」のデザイナーを養成し、
札幌市立大学学長候補を辞退時には、
四つのデザイン領域を芸術工学から拡大と詳細化をしていました。
 ● デザイン理工学=理学・工学へのデザイン学際
 ● デザイン医工学=医学・工学へのデザイン学際
 ● デザイン文理学=哲学・法学へのデザイン学際
 ● デザイン政経学=政治・経済へのデザイン学際
これらの学際を産業・技術・環境・文化への構築でした。
そして、予想していなかった3.11では、
大地震・大津波という天災=地球環境の悪化と
原発事故という人災=エネルギー(水・食糧・電力)のあり方を、
私たちは突きつけられました。
私は、「デザインがまさに難問解決の学際実務」だと確信しました。
よって、防犯防災・救急救命を盛り込んだ、
形態設計と制度設計をデザインが主導し、
それは新たな国際的先進国・日本の産業文化づくりに向かうと考えました。
大阪大学大学院の私の研究室は、
「危機解決産業の創成重要拠点」になります。
そのために「危機管理工学プロダクトデザイン寄附講座」を開始しました。
研究開発から実務としての新産業を起業させます。
さらに、その専門家を工学博士として誕生させたいと狙っています。
まず、大阪大学大学院の博士課程(学部生と社会人から)を
採用したいと思っています。
彼らを危機管理工学をさらに強靱にした
デザイナーであるテクノロジストに仕上げる覚悟です。
もちろん、これから危機管理に関わる産業での
商品化・記号化・情報化は、「危機管理デザインセミナー」で鍛えます。
これから、このプロモーション活動とともに、
これまでのPKD・までいProjectと、
新たな防犯防災と救急救命の装備を創ります。
インターン生を募集します。


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「桜の花のピンク色・阪大吹田キャンパス」


   


     4月 3rd, 2013  Posted 12:00 AM

以前にどこかで、初めて上京して見た桜が白かったこと。
そんな話を書いた記憶があります。
正直、阪大を退官して、しみじみと吹田キャンパスを眺める気がします
8年目春、初めて満開の桜に囲まれた阪大キャンパスを
iPhoneで思わず撮りました。
ちょうど、パリのフォーシーズンズ ホテル・ジョルジュ サンク パリの
いつもながら、趣向ある生け花は桜のつぼみでしたが、
ワイフとやけに白すぎるね、と言い合いました。
退官してからは阪大内の退任挨拶などの行事が大変に多かったのですが、
辞めてみてなんだかこれからが本当に、
開発・研究・養成を大学人として出来そうな気配に私はなっています。
だからかもしれません。
大阪地方、阪大の吹田キャンパスに来てみて初めて、
じっくりとこれほど桜木立があったこと、
とても驚き、そうして見事なピンク色も満開第一段目でした。
それは自分の研究棟は、
元来はフロンティア研究機構事務室が改装された平屋建てですが、
高層建築が次第に多いキャンパスでは、きわめてユニークな建物です。
私の部屋は多分、旧帝大系の教授室と比べれば、
それなりの出来映えで、綺麗ですが、
スタッフにもっと「清潔」であることなどを命じる有様でした。
驚いたのは、修士の学生達が使い放題のままだったことです。
これはすでに彼らの今後の人生を決定づけています。
またそうさせていた塾長の責任も彼らの人生を決定しています。
そう言えば、私の母校・金沢美術工芸大学は、
旧日本軍の明治以来の兵器庫が改装された学舎だったので、
冬には雪が舞い込み、配られた石炭ではとても寒くて、
作品であろうが、置き放しの作品もすぐに燃やしてしまいました。
それだけに躾は厳しく(=今だと訴求?=それがおかしい)、
掃除は行き届いていました。
大学、特に国公立は税金で持っている機関ですから、
研究室は、しかもデザイン系ならば、
「徹底した清潔さ」で出来た、
美しいインテリアであるべきと私は思っています。
私の研究室周囲の桜木立は桜が芽吹いていました。
秋になると銀杏が食べつくせないほどの木立があります。
そして、ちょうど写真手前、
右側には「銀杏会館」という美しい建物があり、
大きなセミナーから一流のレストランがあります。
国内外のお客さまとは、ここで食事をします。
なんだか、退任してキャンパスの自然を落ち着いて見渡しました。


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「本当は地味なのに」


   


     4月 2nd, 2013  Posted 12:00 AM

ワイフの多分趣味、あるいは実用なのかは不明ですが、
「髪留め・ヘアークリップ」のブランドがあります。
これは日本国内の有名ブランド街などで見ると、
どれだけ店舗デザインという
いわば一般的には店舗デコレーションに多額の費用がかかっています。
ところが、この有名ブランドのパリ店は、
私がこれで十分だと思うほど、
シンプルで、装飾もなく、ただ漫然としていて、
20年あまり店舗デザインが変わっていません。
だから、ワイフもこの店でしかヘアークリップを求めませんが、
私もこのシンプルさが多分、長い間に変貌していないと思います。
しかし、
訪ねるたびに、
目新しいデザイン(解決という意匠)の新作が仰天するほどあります。
一度、ソォーと彼女の髪留めのコレクションを
写真に撮りたいと思うほど見事です。
プロダクトデザイン、インダストリアルデザインという専門家としても、
「デザイン」の解決策、意匠案、装飾性のバランスを見るのです。
もちろんパリでは絶対に超高額なブランドショップも、
くまなく見ることにしています。
そうすればどれだけその店が優しくて美しいかを、
再確認することができます。
パリは美しい街ですが、車倚子には以前から、
バリアフリーになってはいますが、行動は相当に困難です。
多分、私の車倚子だから走行が出来るのだと確信しています。
これまで、入れなかった場はほとんどありませんでした。
人の手をかりなければならないこともありました。
そして、
車倚子を無視する相手にはいつも堂々と喧嘩を仕掛けました。
嫌なヤツは海外にも必ず居る者です。
そういえば、昔は、
「あなたがそんな喧嘩を仕掛けると、銃で撃たれるから」と、
現地住人の友人にひどく叱られた想いもあります。
それは、胸ポケットに手を入れた瞬間でした。
話がずれましたが、
「髪留め」という言葉、あるいは「かんざし」という日本語も、
そして女性にとっての髪留めのデザインは、
私がデザインしてみたい一つです。
きっと、これもやり出せば、5年はかかるかもしれません。
アイディアは、もう随分見てきましたし、
こんな「かんざし」があってもいいと思っているぐらいです。
そういう意味では、こうした今では超有名ブランドのパリ店、
その「地味さ」には、
真のデザイン理念があると思えてなりません。


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「4月1日は『春』開始」


   


     4月 1st, 2013  Posted 12:00 AM

エイプリル・フールというのがありますが、
これまで私はエイプリル・フールが適用されていることには
ほとんど無感動でした。
日本は、常に梅から桜、そして「春」が始まるという風情を持っています。
だから、春から新学期が当然でした。
この改編は実に日本の風情=文化破壊だと考えます。
さて、私は前年度で大阪大学を退任しました。
わがままな大学人をやらせてもらいました。
たとえば、教授会も最初と最後に出席したほどです。
出席できない事情もありました。
最後の教授会で挨拶をさせてもらいました。
名古屋市立大学時代にはすでに、
2004年、大阪大学・フロンティア研究機構特任教授でした。
2006年から正式に転籍してきました。
もう一度整理すると、
私が大学人になったのは、母の生涯と関係があります。
私の母は47歳で亡くなりました。
彼女の天命は47年間でした。
だから、私も47歳で大学人になりましたが、
応援してくれた先輩と恩師たちに恵まれました。
正直、大学という空間での人間関係は世間離れしています。
だから、恩師に何度か「大学人を辞めたい」旨報告もしました。
しかし、この春からは「特任教授」として、
「危機産業創成デザイン重要拠点」づくりを工学研究科にて行います。
基板は「危機管理工学プロダクトデザイン寄附講座」です。
危機管理に関しては、
すでに、危機管理学=これは文科系で行政政策の制度設計論です。
今ではいくつかの大学にありますが肝心のテキストは欠落しています。
また、ようやく危機管理工学というのも
基本は制度設計を工学的にとみなしているだけです。
私は、なんといってもプロダクトデザインの「学際性」を持ち込みます。
これまでの「制度設計」にはモノが介在する必要があります。
だから、プロダクトデザインが主導する必要があります。
さらに私は危機管理に関わる産業を
起業・創成していきたいと考えています。
それは「形態設計」として産業成果を生み出すことです。
この形態にはmade in Japanとして、
危機=「最悪の状態」を可決=切り抜けて命を護ることへ、
学際的なデザインを持ち込みたいことです。
すでに「第一回危機管理デザイン賞」を創設して授賞式をすませました。
この秋には、大阪の見本市でも、
「危機管理デザイン」の備わったモノを選びたいと考えています。
そして「講座」であることから、
大阪大学からドクターである、
専門的なテクノロジストを養成するつもりです。
テクノロジストというのは、工学はじめ各種学域を学際化して、
プロダクトデザインの理念・技法によって、
デザイン・ディレクションできる人物を育てたいと考えます。
インターン生を募集します。


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