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Archive for 5月, 2014


『作品集は合計やっと4冊になりました』


   


     5月 7th, 2014  Posted 12:00 AM

作品集を出すことはデザイナーになってからの夢でした。
最初に、ほとんどノータッチで1冊ができ、
次には、金沢21世紀美術館での個展カタログが2冊できました。
青色の作品集は、展覧会のインスタレーションを、
スケッチ、モデル、図面で構成されています。
しかし、この編集はほとんどワイフがやりました。
なぜなら、その時に私は敗血症で重篤状況であり、遺稿集寸前。
多忙さが重なり、ドクターストップで入院になりましたが、
そのまま翌日は阪大病院から講義をとまで考えていました。
ところが容体は深夜に急変し、敗血症・多臓器不全で、
重篤になりましたがワイフは最後かもと編集したそうでした。
気づいたとき、担当医から「教科書を書き換えてしまった」と、
そこまで言われるほど医学的な説明つかず回復をしました。
もうこれで、作品集は・・・と思っていましたが、
退官寸前に、ある出版社から作品集をと言われて、最終講義には
この出版をと思っていましたが、叶わず、それならゆっくりと、
これはかえってやりたいことが見え出すとのびのびになりました。
したがって、おそらく、この作品集が私の最終にはなりません。
なぜなら、この作品集以後の作品こそ、
絶対に私の生き様とデザインの集大成にしたいと考えています。
今月ようやく「川崎和男Design」、これは「図鑑」だと思います。
親友達が文章を提供してくれました。
表紙には、3Dプリントを何度もトライをして作成できました。
私は、やがて作品集の写真は立体画像になるものと推測します。
本当なら、すべての作品写真をしたいほどですが、
とてもコスト的には無理なことです。
おそらく電子書籍になるかもしれませんが、装丁本として、
なんとか、自分の歴史、64歳までの活動をまとめました。
65歳になって出版です。

『作品集ようやく束見本ができたが・・・』
「64歳ー私のデザイン作品集『図鑑』編集中」


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『あべのハルカス・超高層ビル日本一を眺めて』


   


     5月 6th, 2014  Posted 12:00 AM

大阪に住んではや9年になります。
人生、まさか大阪に住むようになるとは・・・の感想ですが、
私は18歳のときに、大阪で浪人をした1年がありました。
現在の自宅に住んだときにはまだ高層ビルは余りなかったのですが
最近は多くの高層ビルを見かけます。
何よりも、通天閣の後にこの「あべのハルカス」が見えます。
日本の超高層ビルでは60階地上300mもあるらしいのです。
丁度、天王寺駅真横のあの百貨店は予備校への往復路なので遊び場。
だから、その百貨店では、職務質問を受けた経験もあります。
阿倍野筋で予備校指定の下宿で、それなりに懸命に浪人し、
本来、父に約束していた志望校をやめて美大に進学しました。
時折父は出張で大阪を訪れ母は2度来てくれた思い出があります。
大阪に来てから、正直、まだ一度も阿倍野筋に行っていません。
自宅も32階にありますから、このビルの建設を見てきました。
大阪は数年前から、どんどん高層ビルが出来ています。
しかし、私はこの都市開発は時代を読み込んでいない、
大阪市の大失策だと確信しています。
ほとんどの高層ビルが百貨店ですがその時代は終わっています。
現実的に、百貨店での売り上げは低迷しています。当然です
大阪が低迷していくことを見詰めてきました。
その理由も再興の方法もデザイナーとして持っています。
低迷する大きな理由をひとつあげると、
それは失ってしまった大阪弁がひとつあります。
好きでっか?・ホンマでっか?・儲かりまっか?、はありますが、
「よろしゅおましたな!」を聞きません。
この言葉を無くしたときから、大阪は倫理観を失っています。
そういう意味では、「あべのハルカスはよろしゅおましたな!」と
そう言われるシンボルになってほしいと思っています。

「高層は50階以上がいいようだ」
「このごろの夕焼けはオレンジ色が薄くなっている」 (さらに…)


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『鉛筆削り・手動と電動を使いこなす』


   


     5月 5th, 2014  Posted 12:00 AM

私は鉛筆が大好きです。
どの筆記具よりも鉛筆はとても優れています。
ただし、色鉛筆となるとこれは分別して使うことになります。
通常の鉛筆は手で削りますが色鉛筆は種類毎に使い分けています。
色鉛筆に限って色鉛筆芯毎の手動電動を見極める必要があります。
芯が硬い時には、電動がとてもよく適合しています。
この電動鉛筆削りは現在、多摩美大学長の五十嵐氏デザインです。
もう何度も自分で修理して使っていますが、
とても素晴らしい鉛筆削りです。
同じ、色鉛筆を手で削っても描き心地は異なってしまいます。
そして通常のプラスチック製は、色鉛筆の芯先を一定に削ります。
しかし、芯先を細かく設定するには、
アンティクな器械を現代素材の部品すべてが工芸的なモノです。
この丁寧なつくりのためなのか、
鉛筆削りでの些細な削り方が可能になっています。
したがって、この三つの鉛筆削りを使うことで、
鉛筆そのものの品質や性能を知ることができます。
鉛筆削り器を使うことで手で削る方法を学び直すことができます。
私にとって重要なのは、ともかく、鉛筆はこうした機器を使って、
その結果、手で削るべきか手動、電動がいいかが分かることです。
私にとって、書くこと、描くことは、
鉛筆使いで決定されていることだと確信しています。
さらに、書くことは、鉛筆からボールペン、万年筆、筆までが、
自分のタッチを決めています。
描くことでのタッチをできるだけ拡大したいと思ってきました。
それが、筆記具を選別して収集することになっています。
特に、鉛筆、色鉛筆にはこの三つは大事で大切なモノです。

『鉛筆削りナイフ・伝統技の記号づくりと情報づくり』
「大好きな色鉛筆・最近のお気に入り」
「プロとして元気の素は鉛筆への作法」


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『「福祉車両」とは決して言ってはいけない車』


   


     5月 4th, 2014  Posted 12:00 AM

車は男の子ゆえ、そしてデザイナーゆえ、
カーデザイナーほどではありませんが、それなりにいっぱい、
恵まれた車を乗ってきました。
一時は運転手付きの車も、
そして米国のリムジンも所有し使ってきました。
しかし、車椅子使用であり、商売用車両も考えられたはずの
そんな車が発売されていますが、私はこれを否定しておきます。
おそらく、障害者、特に車椅子利用者にとっては、
とても望んでいた車両だと思いますが、
私はデザイナーとして、障害者として、これらの車デザインを
全否定しておかなければなりません。
なぜなら、スロープでそのまま車椅子で乗れば、固定されていて
乗り心地は最低であり、それは荷物扱いになっている代物です。
これを「福祉車両」と言う貧しさゆえ、文化にはなっていません。
しかも、この解決で「福祉」を宣伝することを激しく非難します。
最近は、シートが回転して車両から出てきますが、
私もこうした車両を利用せざるをえないことが起こります。
周囲のやさしさはよく分かりますが、設計はまったく駄目です。
なんといっても足が必ずひっかかって大事になります。
私にとっては、セダンで充分です。
カーメーカーやタクシー会社でも「福祉車両」と分類していますが
私にとっては「福祉」という基本の無知さが歴然のモノです。
もっと、根本のことを考慮すべきでしょう。
まず、腰の運動要因がデザイン以前の設計から外れています。
もし、こうした福祉車両が役立つ人は、認知症の人だけです。
いや、認知症の人の志向までを熟知したデザイン設計が必要です。
私の教え子でカーデザイナー諸君には、車両デザイン自体が、
実は現代から未来性を未だに歴史性を引きずっている、
大誤解と品格性を失っていると断言しておきます。

『これは最適ではない・誤った車椅子対応車輌デザイン』


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『デザインにとっての「言葉」を学ぶために』


   


     5月 3rd, 2014  Posted 12:00 AM

私が彼の存在とその意味を知ろうとしてきたのは、
ルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」に取り憑かれてからです。
そして、「ハンプティ・ダンプティ」を当然として、
「比喩」という概念、
特にデザイン思考の私流基軸にしてきました。
あるメーカーのインテリアデザインのテーマに使ったこともあり、
ルイス・キャロルは私が選んだ私の賢人12人の一人です。
これは「プラトンのオルゴール」では相当に再考再考の人でした。
ハンプティ・ダンプティは、スラングとしては、
ずんぐりむっくりという意味に過ぎませんが、
なぜ、このスラングに至ったことも歴史的なある意味、
思考という歴史的なコンテクスト上にあると思っています。
さて、デザインは概念思考で言葉を運用します。
それは言葉とデザイン、とりわけ、比喩さらには暗喩までを
思考連続させていく方法論の実務作業でもあるわけです。
私にとっては、ハンプティ・ダンプティをコアとして、
ルイス・キャロルに学んできたと思っています。
このことを大学の講義に持ち込むことは未だに出来てはいません。
が、少なからず、比喩としてはそのままルイス・キャロルからは、
「鏡」を見詰めとらえてきたと自負しています。
したがって、比喩=ハンプティ・ダンプティからの示唆として、
「鏡」への反映に比喩を、デザイン思考に入れてきたはずです。
そんなこともあって、このハンプティ・ダンプティの人形を、
時々眺めています。
次世代のデザイナーに伝えたいことは、ハンプティ・ダンプティ、
その存在を西洋的な寓話から、思考の手がかりにしてきたことは
改めて書き残し、デザイン思考の象徴の一つにしてほしいのです。

「『鏡』の存在を知り尽くすこと」


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『3Dプリンターが創成する伝統工芸産地サーキット計画』


   


     5月 2nd, 2014  Posted 12:00 AM

光造形は本来、日本の発明でした。
しかし、米国産業にすっかり移行してしまいました。その影響は、
3Dプリンターブームをあたかも未来産業として喧伝に至りました。
しかし、ブーム止まりであり、それを流行現象としていることが、
わが日本でも喧騒されてしまいました。
出来上がっているモノは余りにも安易なモノづくりです。
フィギュアづくりなどは、光造形でも最初はありましたが、
ほとんどが流行現象となって結局は消滅しました。
私は、光造形から廉価なプリンターで、
自分仕様の家庭内モノづくりを日本ならではの
新たな取り組みにするべき関係づくりを計画してきました。
現在の3Dプリンターのブームの浅薄さに私は呆れていますから、
日本独自路線として、伝統工芸産地とのサーキット計画を創成し、
陶磁器、漆器、打刃物などの全国産地に、
まずは、現状のプリンターで、自己発想品を作成してもらい、
それを各産地のプロに、伝統工芸技能で支援してもらいます。
結果、自分のプリンター成果物は、現物として産地産品に革新、
この革新が全く新たな伝統工芸になる回路=サーキット創りです。
すでに、私なりに認めている産地サーキットを準備しています。
現在はまだ国産の廉価なプリンターさえ生まれていません。
ほとんどが米国製のプリンターになっていますが、
米国が日本への輸出をしていないモノも出てきました。
けれども、ほとんど中国製は香港ではさらに格安製品コピーであり、
これらの製品には未来はありえないとさえ判断しています。
無論、光造形に比較すればモノづくりの核心にはなっていません。
私の狙いは、日本独自の「問題解決の手法」として、
3D-Printingを伝統工芸技との融合性を創っていくつもりです。
3D-Printingサーキットとしてのモノづくりを開始します。

『3D-Printerと3D-Printingの時代にやっとなったが』
『光造形から3D-Printingまでをプレゼン』


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『「ぬいぐるみ」の意味する現代軽薄感覚主義の再熟考』


   


     5月 1st, 2014  Posted 12:00 AM

「かわいい」=「kawaii」は現代の感覚主義として風潮を制御し、
国家戦略にまで投企==現代風潮的な理解になっています。
「かわいい」という感覚が政治戦略化されることについては、
相当の準備が必要であるものと考えざるをえません。
私流の形態論では、「かわいい」には、形容詞要素は明快であり、
決して人間には脅威や凶暴性を与えないかたちがあります。
それは獰猛な動物をモデルとしても、受け入れられる形なのです。
したがって、私が最も危惧することは、
モデル化されて消去された獰猛さ=かわいさと直結していることは
再熟考をしなければなりません。
ところが、「かわいさ」には社会的に大容認されている安心さ、
そのものが担保化されて風潮を超えた曖昧性まで消滅しています。
私は、軽薄さまでを受け入れる感覚の程度を、
敢えて全世界のバランス感覚であると論理化しておきます。
このバランス感覚こそ「度量衡」の「度」と「衡」、なのです。
それが結局はファッションの軽薄さを裏付けているものでしょう。
この軽薄さには実際は勇気の源泉があるものと考えるべきです。
たかだか「かわいいライオン、そのぬいぐるみ」には、
凶暴性も獰猛性もまったくありませんが「かわいさ」があります。
結局、このかわいさは勇気を真に裏付けているからこそ大切です。
人間世界が知的な軽薄さを見過ごしている勇気の存在こそ、
実は、自分をかわいい存在にしたいという、
ぬいぐるみを所有し顕示する軽薄であたかも無知的ささえ、
実際は大きく擁護していることを制度だと断言すべきことです。
私が問題にすることは、無知な軽薄さに耽溺している感性です。
そのような感性の対象に流れているぬいぐるみの効用性です。
つまり、知的で風潮化されている軽薄さに「かわいい」が、
明白に勇気となっていることの制度化を再容認すべきでしょう。

『キャラクターのデザイン=かわいいデザインの再定義』
「アイドル・キャラクターのメタ・アンビエントへのコンテクス」
「キティちゃんにて確認できる『安全と安心』」
「『きれい』にすることが『美しい』こと」
「物質・形容されるモノの価値とモノの形容価値」


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