kazuo kawasaki's official blog

Archive for 5月, 2015


『4年ぶりの金沢、駅のホームで・・・』


   


     5月 15th, 2015  Posted 12:00 AM

東京でインテリアデザイナーの森田恭通氏と夕食。
彼のデザインした有名なレストラン、話はどんどんと拡大しました。
いつも帰阪時に伊丹行きジェットで出会ったり海外で会う偶然の仲。
翌朝、北陸新幹線「かがやき」乗車、
新幹線列車は、このデザイナーの苦労がずっしりと分かる。
「柳宗理生誕100年記念」で、私は先輩同輩からの指名で、
使命として、先生の作品と先生の私流の作品から学んだ思想、
先生との思い出を話して、母校=金沢美術工芸大学の伝統と未来、
「これからのデザイン・コンシリエンスデザイン」を話ました。
翌朝、伯母が100歳で美しく眠るように逝った話が入りました。
大往生ゆえ、仕方なかったけれど、従兄弟の心情が急に心配。
彼に電話をして、福井に寄るべきかを確認したら、
設計図どおりだったと極めて冷静で、エンジニアらしさに驚きましたが
全て終わったとか。私と彼とでは故郷では言い出せないからこのままで。
従兄弟をこの春から大阪大学大学院の招聘教授に迎えていました。
この話は、伯母はとてもうなづいて聞いたよ、と。
彼は、宇宙工学・信頼安全性工学の権威であり、
彼がヒューストン駐在時には宇宙ステーションの設計をしていました。
だから、彼の仕事場と住居も訪ね、今や私の危機解決学を
招聘教授として相談をかけ、支援をしてもらっています。
今はJAXAから関連企業の社長を務めるけれども、
ロケット発射ではいつも海外に出張、JAXA関連を教えてもらっています。
私は47歳の母と死別したけれども、年毎、母が恋しくなります。
従兄弟は、覚悟を決めていたとはしても100歳母と別れて、
「大きな虚脱感がある自分に気づいている」と言っていました。
「いや、虚脱感は必ず、母恋しさ、今ならこれを母に出来る」とか、
私は彼に先輩ぶった話をしていることに気づきました。
母が危篤と言われて、福井帰郷のために、駅のホームにいた、
あの当時の思い出が一遍に襲ってきました。
もう、金沢は私には遠い存在の街になっているなー、
おそらく北陸新幹線には乗らないだろう、と思った次第でした。


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5月15日川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 15th, 2015  Posted 12:00 AM

5月15日 大安(辛卯)

デザインのためのデザインという
特殊解を引き出すことを試行すべきである。


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5月14日川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 14th, 2015  Posted 11:45 PM

5月14日 仏滅(庚寅)

インダストリアリズムの終焉を導いた
経済あるいは経済学での一般解からデザインは解放されなければならない。


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『手・掌から無意識に生まれるもう一つのスーパー楕円論』


   


     5月 14th, 2015  Posted 1:29 AM

柳宗理の発言は明快でした。というより痛烈な一語には、
真っ直ぐな批判は、厳しい非難となって返ってくるものでした。
「アー言えば、コー言うか!」と私は言われていました。
正直、用意周到に先生からの批判と非難に私は準備していました。
金沢美大でデザイナーとして鍛えられて社会に出ましたが、
「美しい」というのを美大でまともに受けた講義は、
今となっては、最高の講義を受けていたと思います。
先生の弟である日本の美学者・柳宗玄先生でした。
西洋美術史の冒頭、黒板の文字は「美」でした。
その講義以来、私は美に立ち向かってきたと思います。
そして、ようやく大学人になって博士後期課程で、
製品数理記号論として、「造形言語」と「形態言語」を
博士号取得論文の指導とともに、
デザインが「意味する」ことと「意味される」ことに連鎖しました。
学位論文の主査副査会議では、この新たな造語には、
私の意見がデザイン専門家として求められました。
結局、デザイン論理で、デザイン意図は造形言語であり、
デザイン内容は形態言語というのは、大阪大学が原点になることは
確実にデザイン学術、あるいは芸術デザインになりますか?と
私にその回答が求められました。
designing languageとdesigned languageが正式にこの審査会で
学位取得論文として認められました。
そして、私は柳宗理のデザイン造形にはこの製品数値記号論を
デザイン意図とデザイン内容してのスーパー楕円論への適合性を
SORI-OVALとSORI= ELLIPSEとして、ピート・ヘインの提案が、
テーブル造形をさらに拡大していることを提示しています。
二つの円の中心からの2線分、あるいは、
一つの円内の二つの点からの2線分からの円形が絡んだ楕円は
まったく、無意識なままに生み出された造形ラインになるのです。
とうとうアー言えば、コー言ってるな、と聞こえてきています。

「光野有次の気分はバリアフリー」


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5月13日川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 13th, 2015  Posted 12:00 AM

5月13日 先負(己丑)

インダストリアリズムが終焉し、
インテリジェンスリアリズムが始まろうとしている。


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『柳宗理作品の軽薄で見識不足な批評は叱られる!』


   


     5月 13th, 2015  Posted 12:00 AM

先生は工業デザイナーの真の草分けでした。
それこそ、父親の「民藝論」とデザインとの対峙をどれほど
実は苦しんでおられたのかもしれません。
したがってアート、特に石彫刻作業の手仕事を激しく非難され、
「コツコツと石など削って、穴なんぞ機械で空ければいいんだ!」
「牛の糞より汚い!」、在学中、何度も私たちは聞かされました。
確かに、先生は必ずスケッチではなく、石膏を削ってモデリング。
手で考える。かたちは手から生み出していく!
手の痕跡は工業製品だからこそ、絶対に残すな!と。
機械で創ってどこが悪い、手づくり、手の温かさが基本ではない!
しかし、現代の柳宗理作品の造形評価には、
時間をかけて練り込んだ造形で手の温もりがあるという軽薄さが多く、
それこそ、”あったかインダカラ〜” が先行した批評を読むと、
直伝で、手づくりの真の反映とか、機械生産だからこその正確さを
私たち金沢美大生は徹底的に教え込まれたと思っています。
「柳宗理の作品には”かわいさがある”」なんて評価こそ糞です!
木で作られているから、温もりがあっていい、というのは
とても貧しい見識だと私たちは自然に学んできたと思います。
今、民芸はほとんど手芸と同様な形態言語で受け取られています。
これは大きな間違いであり、柳宗理のデザイン記号を私は、
むしろ数理的な製品記号論という解釈で無意識さを選んでいます。
工業システムだからこそ、手づくりよりも機械づくりでこそ、
自然さが生まれてくることを知りなさい!と聞こえてきます。
売らんかなという商業主義を徹底的に厳しく非難をし、
見識豊かな商業主義に汚されていない工業システムを尊ばれました。
ゆえにかもしれませんが、
私がメガネメーカーに、最初に、「角膜提供の企画書」を書いた時、
「彼なら、造形以前に企業の社会姿勢を書いて当然」と、
金沢美術工芸大学は、私をその企業に紹介してかつ、
困惑している企業に、「社会的役割からの提案」を認めました。
「だから、工業デザイナーは儲からんのだ」と、
先生の高らかな笑い声を美大の卒業生は耳鳴りになっています。
同級生の光野氏が、国会議員選挙に立ったとき、
先生は住民票を移すというまでになった純粋さを私たちは
生涯、デザイナーの倫理観として護り抜く覚悟でいます。
だからこそ見識の欠落した軽薄な批評に、私は牙を剥きます。


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『柳宗理のオーバルとエリプス製品数理記号的な造形論理』


   


     5月 12th, 2015  Posted 12:00 AM

ラングからパロールは「創り出すこと」は出来ない。
エリプス=楕円は形態言語であるが、オーバル=楕円は造形言語。
私はこれを柳宗理のスーパー楕円論だと仮説定義化しています。
この論理からは、
「モノは無意識に生まれてくる」=アンコンシャスビューティであり、
しかもアノニマスデザインとなる実際例の一つは関越道のトンネルです。
ほとんどの人がまさか、このトンネルデザインには
土木工法を決定している造形言語があること自体が無意識です。
丹下健三の建築、亀倉雄策のポスター、
そして柳宗理のトーチホルダーは東京オリンピックを
おそらく世界で最初にデザインが引導しました。
そして今日のオリンピックデザインが日本から始まっているのです。
建築家もグラフィックデザイナーも有名ですが、
もっとその美意識の根底では、柳宗理の存在は無名の受け入れがあり、
特に、金沢美大の私たち弟子には、
なぜ、勝美勝氏がディレクションしなければいけなかったのか、
その理由が分かります。建築とグラフィックと工業デザインは
当然のこと激しい美学的な闘争・大喧嘩があり、
三人の闘いの調和は急務だったのでしょう。
私はその話を聞かされてデザインを学びました。
柳宗理には、彼の父親・柳宗悦の強烈な民藝論が立ちはだかり、
さらに祖父・柳楢悦(数学者・海図開発)へのライバル心があり、
血縁関係からのゲマインシャフト性への信頼があったのでしょう。
私はあらためて、
工業デザインは最近は私も含めデザイナーとしての明記が公知されますが、
結局、具体的にはこのトンネルのごとく、
アノニマスなモノとして、社会一般に溶け込んでいくのです。
つまり、パロールであるオーバルをデザイン意図とし、
エリプスというラングによってデザイン内容は受け取られています。
「デザインは意識活動である。
?しかし、自然に逆らった意識活動は醜くなる。?
なるたけ自然の摂理に従うという意識である。
?この意識はデザインする行為の中で、究極のところ無意識となる。
この無意識に到達したところより美が始まる。」
柳宗理が我々デザイナーに書き残していただいたメッセージです。


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5月12日川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 12th, 2015  Posted 12:00 AM

5月12日 友引(戊子)

かつてバウムガルデンが
感性的認識を悟性的認識に対等化させた
美学としての認識論を想起しなければならない。


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『柳宗理の造形言語と形態言語としての製品数理記号論』


   


     5月 11th, 2015  Posted 1:06 AM

2015年5月9日、金沢21美術館にて、
金沢美術工芸大学同窓会と同級生からの指名=使命で、
「柳宗理生誕100年記念」講演を私なりに果たしました。
柳宗理先生の直教え子として、先生の理念・哲学、
そして作品概要を語りました。が、作品概要であり、
その詳説を書き残しておきます。
柳先生の作品、その造形にはデザイン意図=造形言語としての
楕円、私はSORI-OVALがあると名辞しています。
それはデザイン意図であることから、問題解決と発明意図が
日常的言語=パロールとしてのオーバル、SORI-OVALがあります。
一方、そのユーザーは柳宗理の形態言語としてのデザイン内容の
これをSORI-ELLIPSE=ラング=辞書的言語を受け取っているという
エリプスの製品数理記号論を論理化しています。
それは、たとえば、数理造形のアルゴリズムゆえに、
デザイン内容からデザイン意図、つまり、形態言語から造形言語、
SORI-ELLIPSEからSORI-OVALを創りだすことは不可能ということです。
つまり、端的に言ってしまえば、デザイン意図からデザイン内容、
パロールからラングは「生まれる」が、
ラングからパロールは「創り出すこと」は出来ないという、
ずばり、製品は無意識に生まれてくるモノだという論理に一致します。
まさに、黄金比的な常数が、柳宗理のスーパー楕円論があります。
工業デザイン創世期の代表である柳宗理のデザイン美学は、
この製品数理記号論があるということです。
現在、造形理論と形態議論は仮説化しておかなければなりません。
先生の「モノは無意識に生まれてくる」=アンコンシャスビューティは、
確実にこの製品数値記号論で語り伝えていくことができると
私は確信しています。


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staffblog 5月9日


   


     5月 10th, 2015  Posted 6:06 PM

5月9日

金沢21世紀美術館において、
柳宗理生誕100年記念講演会が行われました。

お影様で多くのお申し込みをいただきました。
ありがとうございました。

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