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Posts Tagged ‘デザイン成果’


『芸術工学からコンシリエンスデザインに』


   


     4月 12th, 2017  Posted 12:00 AM



名古屋市立大学芸術工学部の新設時から、
大学人になった私は、当時の「芸術工学」を
「デザイン&アーキテクチャ」としました。
それから、わが国のデザイン教育を詳細に見詰めてきて、
デザイン理工学・デザイン医工学・デザイン文理学・デザイン政経学として、
これを大阪大学大学院に持ちこんだわけです。
そして、今ではさらにデザインを「コンシリエンスデザイン」として、
さらにデザイン実務とデザイン領域の設定をやり直しました。
ところが、今ではデザインは様々な大学に学部や学科になりましたが、
残念なことは文科系が主体になってきており、
将来、実務家としてデザイナーを目指す学生も、
雑貨品デザイナーが多くなってきているようです。
これは明らかにデザインの本質的な意義が未だに美術系、
すなわち、文科系に寄りかかっているからでしょう。
世間的には、経営としての「デザイン思考」が語られますが、
これはデザインの本質を逸脱していると私は明言できます。
なぜなら、コンシリエンスデザインは、19世紀の造語ですが、
文科系+理科系・学術系+芸術系の統合は、
四つの統合があるからです。
規模的な統合・機能的な統合・ネットワーク的な統合・文化的な統合、
こうした統合論から、改めて、問題解決、価値的な創出、未来創成が
デザイン成果の目標と目的になると帰納的な定義にもなるからです。
こうした見方から、この図解を詳細に見詰め直すことを望みます。
特に、問題解決のためには、問題を再提起し、
価値には安全・安心・防災・防犯が未来創成には必要と考えるからです。
そしてコンシリエンスを支える基盤がレジリエンス、
すなわち、どんな状況でもレジリエンス=精神的にも
強靱なことが希求されるからです。
コンシリエンスデザインはそのままレジリエンスデザインとは
通底していると私は断言することができます。


* 『行学はデザインにあり・「KK適塾」を開始します』
* 『匿名的な知恵=silienceである』
* 『「くまモン」参加のワッペンでレジリエンスデザイン』
* 『サイエンスの限界にある美学性をさらに造語化』
* 『コンシリエンスデザイン学域の統合図解』


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『セルロース素材によるわが国の基幹産業化』


   


     3月 5th, 2017  Posted 12:00 AM



時間はかかってきましたがようやく着地点が見えてきました。
ちょうど、3.11東日本大震災の前に、
この素材は今後わが国のしかも国内で素材が賄えるということでした。
セルロースであり、それは自然素材の樹木・絹・麻から、
落ち葉、間伐材、古紙・紙粉を、
セルロースパウダーにすることでした。
今やまだ日本はブリスターパック=プラスチックで、
これさえ産業化は遅れていますが、欧米は全て紙素材パッケージです。
既に広島土砂災害、御嶽山爆発でセルロースパウダーは確実に運用可能。
現在は、セルロース素材利用によって、除染も、土砂災害も、
実験結果を積み上げてきましたので、いづれ東北現地に入ります。
私の直感では、除染だけではなくて土壌改良や「パリ協定」にわが国の
デザインだからこそ、それも「基幹産業化」とリスクキャピタルから、
ベンチャーキャピタルの戦略から戦術までが可能になると予測しています。
それが「コンシリエンスデザイン」であり、
パラリンピックでの「看医工学」は確実に「老年医療」にも繋がります。
今わが国最大の問題は、それこそ私が出身してきた「東芝」の企業崩壊は、
明らかに「サラリーマン企業の終焉」になるでしょう。
そこにセルロース戦略とカーボン戦術をデザインから提示していくことです。
ところが、「パリ協定」の無視宣言を米国の大統領からの反対宣言など、
おそらく、グローバリズムの改変は起こるでしょう。
それだけに、改めての地球存続性は、
先般の恒星に7つの惑星発見、月に在るヘリウム3など、
希望は見えています。
ともかく2050年まで(生きていないでしょうが)のデザイン、
その目標と目的でのデザイン成果の「美学」は置き土産にするつもりです。


* 『中国の月面着陸ロケットの思惑・範原発を!』
* 「『形と性能』・デザイン成果=造形言語と形態言語」
* 「デザイン成果としての『かたち論』は生涯論考するだろう」
* 『「森羅万象悉く神なり」は樹木と二酸化炭素の関係』
* 『除染されていない間伐材へのデザイン開発』


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『民藝の美とデザインの美は区分分別されていた』


   


     3月 3rd, 2017  Posted 12:00 AM



101匹目のサルという論理があります。
一時期、私もこの論理に夢中になったことがあります。
簡単に言い切れば、鹿児島のサル100匹がお風呂に入ると、
北海道のサル101匹目もお風呂に入るということです。
これは全く情報の交換が無くても遊びや習慣が突如として起こるということ。
実際、柳宗悦が「民藝」という日用品の美しさに気づいたことは、
アーツ&クラフト運動、ドイツ工作連盟、バウハウスという歴史変遷が
編年体のごとく連鎖して、特に、工芸とデザインが重なるのです。
ところが最近は、工芸、工藝、民藝、デザインが全てを連鎖ではなくて、
あたかも融合して同次元のごとくという知見不足の解釈が、
それも商業主義的なブランド背景理由にされた言説で語られてしまっています。
まず、柳宗理の弟子として、柳先生は明確に民藝とデザインの関係を
きっちりと区分を自分のデザイン活動の中で、特に手仕事結果である
民藝の美とデザインの美を分別されていました。まして、
最もほとんど嫌悪されていた商売主義(商業主義ではなく)で民芸ならば、
それは手芸であり、お土産品になってしまいます。私の良識では、
デザイン成果は「目的+目標」のアノニマス性の存在とその美しさでした。
民藝からのデザイン成果は「目標+目的」としてのゲマインシャフト性でした。
産業美術学科では工芸とデザインは明確な区分と分別が私たちに徹底。
インダストリアルデザインは確かに大量生産と大量消費の経済構造に、
アノニマス性を埋め込んだ実務としてのデザインが求められました。
それこそ東京オリンピックのトーチや世界初の聖火運搬のランタンが
柳先生のデザインであることは知られていません。
あのアノニマス性からの美しさは、建築とは一線を画していました。
インダストリアルデザインを伝統工芸に導入するならば、
ゲマインシャフトという強固な地域存在性をデザイナーが確約することでした。
決して商品ブランドの商売性からの遮断は当然でした。
アートからクラフト、モダンデザインは、
「民藝の手仕事」の美しさは明確に「デザイン」の美しさとは分断されていたのです。


* 『書かれた柳宗理デザイン=現在出版の書籍で継承可能か』
* 『アンコンシャス・ビューティを学んだから・・・』
* 『手稿は宝物である』
* 『モダンデザインの造形に潜むスーパー楕円』
* 『民藝へのアンコンシャスビューティを再熟読』


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『美しいデザイン成果が減少している気がする』


   


     2月 25th, 2017  Posted 12:00 AM



今年の冬は本当に自宅にいても寒いです。
そうして暖房機器を確かめると、いくつか部屋毎にそれなりの暖房機器、
ましてデザイナーゆえにこだわりがありました。
そして気がつくと、名古屋時代の暖房機器がもう10年以上でした。
私の生涯では雪国育ちゆえに、炭火、練炭火、こたつ、石油ストーブなど、
時代に対応してきた暖房機器を所有してきました。
しかし、暖房機器なら「コレかな?」という機器や
そのシステムも見てきました。そのためには自宅そのものを
暖房機器の進化に合わせなければいけないようです。
デザイン設計するなら、こんなのが欲しいという志もあります。
この2台とも海外製ですが、黒い方が新製品でリモコンが付いています。
しかし、正直、前面のパネルは昔の家電デザインの仕上げデザイン。
ともかく10年も使ってきたのは、時々故障をするので買い換えました。
そうして、確かにGマーク賞という選定にはなっていますが、
これが現実のデザイン成果、そんなふうに考えると、
デザインでの問題解決も価値創出も皆無です。
決して所有するモノとしては
国際的にこの程度のインダストリアルデザイン、
こう考えると、とても寂しくなってしまいます。
リモコンも、赤外線受光よりWifi受光にとか、
ただ、Wifiの影響度はまだまだ不明なことは残っています。
そして私なりの評価では美しい暖房器具にはまだとても及んでいません。
時折、家電量販店で家電製品を見ると、
デザイン評価で満足できるモノが圧倒的少ない時代だと言わざるをえません。
最近、プロダクトデザインを学ぶ学生は、
カーデザイナー志望が減少、それは車所有の欲望感無しとか、
いわゆる雑貨品デザイン希望とかを聞くと哀しくなります。
本当に、断トツのデザイン成果商品、その開発が求められます。
確かに暖房機器を新品にしてみても、技術進化とデザインの関係には、
プロとして、残念さがストレートに残っていると告白しておきます。



* 『先鋭的なマガジンという美しい情報集約性を読む』
* 『サインカーブ的なデザイン主導での製品化と商品展開』
* 『「無線化」には秘匿性とHiFiの有無がある』
* 「たかがリモンコンではありえない」
* 『TVの進化を再確認するが・・・』


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02月25日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 25th, 2017  Posted 12:00 AM

02月25日 大安(癸未)


デザイン成果は
性能・効能・そして機能が
価値観である、
安心・信頼・安全が
必要である。



川崎和男の発想表現手法


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『美しさの判定は言語判定での倫理に宿っている。』


   


     6月 21st, 2016  Posted 12:00 AM



おそらく現代も、特に「イノベーション」をとか、
「デザイン思考」だとか、
「ソリューション」という言葉が多用されています。
そこには必ず「コンセプト」という、あたかもデザイン効果があるという
そのような企画が大氾濫しています。
しかし、これらでは明らかにデザイン成果はゼロだと断言します。
企業経営とデザイン=企業デザインと経営のイノベーション、
あるいは
伝統工芸とデザイン=産地活性化のデザインイノベーション、
この二つが明確に自分には見えています。
ところが、これらの成果・成功を、デザインで意図している背景には
「コンセプト」・「ソリューション」・「イノベーション」が
必ず存在していることを最も自分は危惧しています。
「イノベーション」の原意とそこからの歴史を思い出していただきたい。
「ソリューション」のテーマは「問題」でなければなりません。
ところが、ソリューションでの答は応答であり、回答に過ぎず、
そうした答えがイノベーションに成ることは決してありえません。
それらのデザイン成果をあたかも生み出すであろう、
それこそ「デザイン思考」には
ぴったりと「コンセプト」が張り付いています。
観自在からの概念や観念ではなくて、
あくまでも言語性と記号性の問題です。
そこにはstory:物語、argument:議論というライン性が明確にあります。
すなわち、思考のブラックホール、論理の対象性、
これらを破壊する発想は決して「コンセプト」には存在していないのです。
この感性を強化しているのは知性でも理性でもありません。
それは倫理性・倫理観という健全な想像力です。
この想像力は限定された人間にのみ存在していることを判定すべきです。
デザイン意図とデザイン内容に、
「造形言語」と「形態言語」によるデザイン、その造形手法は決して
「コンセプト」や「デザイン思考」はありえないのです。
最大の理由は、デザイン造形でのイノベーションとは、
「美しさ」を判断する倫理性があるかどうかだと思っているからです。

*『デザインは解である』
*『デザインは記号論的な『造形言語と形態言語』での論理化』
*『「形と性能」・デザイン成果=造形言語と形態言語』
*『盤・盆・膳」という文化は木に宿る』
*『現代的アートが象徴していることは企業革新テーマ』


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『マンガ表現での瞳表現、そのインターラクション』


   


     6月 8th, 2016  Posted 12:00 AM



日本の漫画はすでにマンガ=「manga」となって、
表現物の大きな文化性を国際化しています。
遺伝子に漫画印象が組み込まれているかどうかは
未だ定かではありませんし、
遺伝子を調整細胞として制御しているかどうかの研究もまだ最中です。
マンガを読むというライフ・ログとしての記録化と遺伝子関係は疑問です。
少なからず、ロボットを漫画で読んできた我々には、
確実なライフ・ログに組み込まれていることは間違いないと思っています。
たとえば、ロボットは日本の子どもたちは怖がりませんが、
欧米では、
子どもたちはロボットの存在に恐れをもっています。
またこの印象度を利用した「ゆるキャラ」はブームとなっていますが、
デザインが貢献しているのは「くまモン」のみと言い切ることが可能です。
なぜなら「くまモン」には明確なデザイン成果があります。
あとの「ゆるキャラ」となると、商業主義的な悲惨さがあふれています。
こうしたマンガやゆるキャラには、明確な分類ができます。
それは「顔表情での目」その表現にあります。
二つに分類されています。
黒い点だけと、白い中に瞳の黒点、この二つについては
阪大、私の研究室で黒い点に絞った研究が修士論文でまとめられました。
黒い点というだけの顔の中の配置だけで喜怒哀楽が表現されて、
黒い点の瞳感覚で充分に感情表現が可能だという結論を得ています。
むしろ、白い中の黒点瞳表現は、感情表現の限界を示し、
かつ、マンガでの顔表現では経年変化をすることが明らかです。
つまり、黒点瞳での顔表現は、生き物の顔表現を統合しているという
その結論は、
今後のロボティックスのインターラクションに繋がっていくでしょう。

*『キティちゃんにて確認できる「安全と安心」』
*『心を持つロボット表現として、「泣き出す表情」』
*『漫画・アニメーションにみる日本独自のロボット観』
*『VFXのロボットが柔らかくなっているのは進化?』
*『ロボットが『心』を持っている?かどうか、ということ』


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『やわらかい美しさのあるノート』


   


     6月 25th, 2015  Posted 12:00 AM



文具の基本は、ノートとペン。
人間のやや大げさに言えば、知的活動の根本ツールは、
ノートとペンに集約されます。
おそらくノートといえば、小学生の頃から大人になっても
知的活動を支える大事なモノです。
しかもこれほど安価であっても、
毎年その進化は目を離すことができません。
今年もいくつかのノミネートされたノート類を触って見て、
私はデザインの要である問題解決を成し遂げて、
なおかつ性能性・効能性・機能性を美しくまとめた商品として、
大手ノートメーカーなればこその解答商品は、
「やわらかいリング」で、
これまでの金属製リングの不満点を全て解決した、
このノートをデザイン部門賞にしました。
審査委員全員が納得できた美しいノートでした。
柔らかいD型リングが、
これまで当たり前だと思っていた金属丸形リングの欠点=問題点を解決し、
提示してもらえたことこそ、デザイン成果に他なりません。
デザイン部門なのか、機能部門なのかといえば、
この商品は当然、
品質やノート性能、存在感では、機能性はマスターしています。
それ以上にこのノートの佇まいには美しさが柔らかく存在しています。
おそらく、
このノートからの進展的な未来がイメージ出来ると判断可能だと、
私は思っています。
そして、このノートの柔らかな美しさに、
どのような鉛筆が、どのようなペンがふさわしいかということこそ、
ユーザーのセンスを決定させると考えます。
つまり、デザイン部門に求められている問題解決には、
この解答商品が、次世代のノート進化、
その想像性を拡大してくれるモノで無ければなりません。
そういう意味では、断トツの商品だったと思います。


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「『形と性能』・デザイン成果=造形言語と形態言語」


   


     6月 9th, 2013  Posted 12:00 AM



大学人=デザイン研究者として、
デザイン成果を17年目に一つの結論として示しました。
まず、デザインは問題解決の実務手法と40余年主張してきました。
そして、デザインを装飾や単純な商業手段としている者を、
徹底的に論理性でもデザイン成果としても全否定してきました。
それは、政治的にデザインを展開する輩すら認めませんでした。
明らかなデザイン成果は問題解決での最適解が、
あくまでもデザイン成果として、形態が「言語化」することです。
この言語化することには、才能が不可欠だと思っています。
それはこれまでのデザイン系譜を美術→応用美術の範疇さえ、
乗り越えた先端的な技術の「統合性=inclusive」にあります。
私はこれを造形言語=「designing language」と、
形態言語=「designed language」と名付け、
この教育に辿り付いています。
この造形言語と形態言語に分別することで、
たとえば、カーデザインの領域にもデザイン成果は、
車両の形=カースタイルと、
車両の性能=カーエンジニアリングに見事に分別可能です。
これまで、工業デザインは車のデザインとして、
車両意匠=カースタイリングと
車両性能=カーエンジニアリングとして扱われてきました。
この二つを「統合化」することを、私は論文誌に発表しました。
自動車技術に「デザイン」が「形と性能」への提言として、
求められたことは、やがて石油文明の車両から、
電気自動車とその社会性が求められる時代にあっては最適でした。
すでに有名性あるデザイナーがこのテーマに向かわされた意義、
これは今後のカーデザインとカーエンジニアリングに対しては
とても大事なことだったと思います。
私は、幾人かのデザイナーの見解を期待しましたが、
このテーマに解答的な提示を表したデザイナーを知りました。
正直、カーデザインで名を成した人物が書けなかったことは、
このデザイナー人物を明らかにしたい気分です。
つまり、デザイン成果はまたこれで問題解決、
たとえば、「形と性能」を明確にしたものと評価しています。


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「デザイン成果としての『かたち論』は生涯論考するだろう」


   


     1月 7th, 2013  Posted 12:00 AM



私の学生時代は、「デザイン理論」の著作は数少ないものでした。
したがって、私はほとんどデザイン論理を成立させるために、
可能な限りの建築論を読みあさりました。
建築論文募集にも応募していました。
落選ばかりしていました。
そして出逢うのが、建築家・菊竹清訓の「代謝建築論」と、
「機能主義理論の系譜」は一つのバイブルでした。
特に、「代謝建築論」の「か・かた・かたち」論は、
今なおその論考を私なりに深度をもたせるべく展開を試みています。
「か・かた・たち・ち・かち・かたちは、いのち・きもち」、
さらには、「つち・とち・まち」にまで至りました。
そして、現在執筆中の「形と性能」についても、
「かたち」と「性能」を一旦分離すれば、
自ずと「か・かた・かたち」論の展開が可能です。
か=化、ち=値、かた=型、たち=質とすれば、
か+たち=化+質は、工業化によって性質を与えますから、
そのまま、化質とは工業化された性質が「性能」となります。
「性能」は使用価値性の根幹になるでしょう。
もう一方では、
かた+ち=型+値は、意匠化によって形態を与えて、
単純には嗜好的な価値観、すなわち所有価値観を訴求することができます。
私は、
「機能美」や「美しい形態は機能に従う」を率直には認めていません。
それは、自分自身のデザイン、とりわけ形態の美を目標とするとき、
必ずしも機能主義と美学性が統合されるから、
美の創出が出来るというわけでは無いという経験があるからです。
今、こうしてこのBLOGで、メモ記述しているのは、
論文作成の構成・プロットづくりを図解から求めようとしているからです。
私は、「デザインとは何か」という問いかけでは、
デザインの定義性が曖昧になって、
即、機能的デザインとか機能美にデザインが、
結合・融合・統合されることにすこぶる抵抗があります。
むしろ、まず、技術仕様による性能があり、
そのデザイン成果が社会的な存在性に効能が生まれます。
そして、性能と効能が統合されるときに
機能を宿らせることができるというのが経験値です。
「化質」こそ、性能となり、「型値」こそ、形態。
「化質」=かたち、「型値」=かたちに、
「形と性能」の構造(関係)が記号化するという思考に至っています。


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