kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘デザイン手法’


『資本主義からの逃走』
    「Inclusiveは『会話・対話』で考える」


   


     12月 21st, 2010  Posted 12:00 AM

会話・対話
会話あるいは対話の構造。
会話は、「私」と「あなた」の存在の確認行為です。
そして会話は、常にこの関係が入れ替わります。
  「私(A)はあなた(B)に○○○ですから」、
  「私(B)はあなた(A)に●●●ですよ」。
AとBの人称が「会話・対話」では人称の入れ替えがあります。
ところが、「文章」になれば、人称の入れ替えはありません。
三人称が入ってくる会話
そこで、まずこの「会話性」での一人称と二人称に、三人称が入ってきます。
ここが文法的な、特に会話での人称カテゴリーの関係性です。
この会話に入ってくる三人称に、デザイン手法のあり方があると判断します。
たとえば、三人称である彼または彼女の話題になるとします。
通常でいけば、
  「私(A)は、彼女のことをこのように思うけど、あなた(B)は?」、
  「私(B)は、あなた(A)もそうだと思うけど彼女のことを●●●だと思っている」。
この会話に、三人称・彼女が入り込んできます。
三人称が概念・コンセプトになる会話
まず、一人称・二人称=Inclusiveですが、三人称の彼女が話題に入ってくれば、
彼女までがInclusiveになります。彼女を除外していないということです。
そこで、彼女のことをたとえば、あだ名をつけたとします。たとえば「リンゴ」とします。
この「リンゴ」は彼女の概念=conceptです。
しかも、この会話での「リンゴ」はりんご、その物ではなくて、「彼女・三人称の概念」であり、
会話の主体である一人称と二人称だけが理解・認識しているInclusiveな概念だということです。
さて、デザイン手法において、まず、自分がデザインするモノは自分が欲しい物であり、
自分に価値あるモノです。
そして、二人称としての「あなた」にも価値あるモノであることを確認したとき、
彼女、私が例示した「リンゴ」さんにとっても価値あるものかどうか、ということになります。
本来三人称である「リンゴ」さんにとっても、
価値あるデザインまでをInclusive Designということになるというたとえ話です。
このたとえ話を事例とするなら、
「私とあなた=一人称と二人称」が会話で「リンゴ」という三人称は、
人間ではなくてデザイン対象とすれば、
コンセプト「リンゴ」がデザイン対象の概念になる、ということも意図しています。
一人称・二人称のコミュニケーションを十分にしていくことは、
三人称を取り入れたときのコミュニケーション、
この十分さを確保することにつながっているということです。
Inxlusive designの重大定義性を生み出してくる「会話」=パロールは
デザイン手法だということです。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
  「車イスデザインのための文脈づくりに気づく」


   


     8月 26th, 2010  Posted 12:00 AM

車イスの全体と部分
ともかく、車イスはリハビリ病院で病院常備のモノから、
同じ病院でトレーニングしていた車イス使用者、
それぞれが自分専用に発注したモノをともかくよく見ました。
もし、乗れるのなら乗ってみました。
もっとも、乗っていて、軽々と走行するモノは、「車イス・バスケット競技用」だけでした。
いわゆる病院に常備してある車イスが、最悪のモノだと知りました。
大きな理由は、まずシートでの身体保持性能と走行性能がまったく体になじまいということでした。
その何が、乗り心地や走行性能などが不適なのかということになりました。
そこで、車イスと自転車、車椅子とイス様々との関係をどこまで徹底して自分が身体化、
すなわち他のアイテムで、車イスとの関係、
結局、構造を見る、触る、知る、そして自分なりに「気づいていく」ことだと分かったのです。
これは、車イスという全体、車イスの部分・部品を、
車イスと似通っているモノとの「構造」をひたすら知るということだったのだと
今では考えることができます。
正直、私がデザイナーとして経験してきたことは、
「オーディオ」と「音に関わる機器」程度の経験しか無かったのです。
それが、さあ、自転車のデザインが出来ますか?
イス、様々なイスのデザインが出来ますか?
それらを今度は車イスにまとめ直すというデザインができますか?、
ということを自問しているだけでした。もうどう考えても「無茶で無謀」なだけでした。
ちょうどその頃、取り組んでいたデザインは、
伝統工芸産地・越前打刃物で、それも「革新的な包丁」のデザインでした。
これも、初体験です。
素材・構造・文脈
一方で伝統の刃物を革新する方法を模索しつつ、
「自分のためのモノ」=「哀しみにデザイン」でした。
越前打刃物は「美しい切れ味を鍛えています」ということでした。
共通項は、全体から部分、部分から全体、その因数分解的な作業は、
「素材」であり、これはまったく変数的要素は無いという手がかりだったのです。
おそらく、打刃物と車イスがデザインの具体的対象であっても、
本来、自分の頭脳ワークは、
「素材」の「構造」を、テーマに結び付けていく「文脈づくり」でした。
以後、今日に至るまで私のデザイン手法は、
いつも「素材」・「構造」・「文脈」に集約させることに繋がっていると判断しています。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
   「デザイン手法の直観はつつましさを知ること」


   


     7月 5th, 2010  Posted 12:00 AM

コンセプト不要
「空」・「無」というのは、
正直、日本の「知らなければならない」仏教的素養。
となれば、私は、教条的で、観自在性すら剥奪されそうだと思っています。
しかし、これまで「デザイン手法」あるいは「デザイン手続き」と言えば、
「コンセプトづくり」は手法中の決定打です。
私は、「コンセプト不要」と断言しました。
即、直観が造形を招き寄せることは、
デザイナーになって以来、幾たびも私にある種の「啓示」を与えてくれました。
「啓示」のごとく、ひらめいてくれたのです。
饒舌にならず
「コンセプト不要」と主張することは、「つつましさ」も無いと評価されるでしょう。
しかし、「コンセプト」は、言葉に、それも饒舌に語り伝えなければなりません。
「つつましく、饒舌にならず」ということを、
欧米的態度として私たちもその態度にならなければいけない、
そのことこそ教条的に受け入れてきたのかもしれません。
私は、「コンセプト不要」を断言するために、その準備はしてきたつもりです。
「言語道断」
「言語道断」という言葉でした。
「言葉、謂わず謂わず(言葉、道断道断)」道元です。
つまり、「言葉にはもうならない」、
「言葉ではとても表現できない」ということを喝破した観念=想いの長けです。
コンセプト即・概念では表現できないこと。
中核に言葉=周縁で取り囲んだコンセプトは虚しいだけです。
中核にコンセプト=周縁は言葉で納得しようというのは虚無です。
「言語道断」ゆえにぎりぎり「かたち」で表す。
当然、そのかたちが生み出し、表現する性能と存在の効能、
これらが統合化されて機能をデザインする。
こういうことから再考しようというスローガンが「言語道断」でした。
さて、ここからは、読者諸兄の「つつましさ」に預けなければなりません。
これまで、ほとんどデザイン手法の核心だったコンセプトから、
コンセプト無くして、デザイン無しとする慣習から決別できないならば、
「勝手に、コンセプト云々を!」です。
つつましさの使い勝手
私は、提案します。主張します。
「コンセプトから離脱を」
「コンセプトづくりと決別を」と!
あなたが「コンセプトを投げ出すだけの直観、その勝手さ」に委ねます。
私が啓示されているのは、「つつましさ」に使い勝手があるということです。
「使い勝手のあるつつましさ」に、
今、日本人デザイナーは、瞑想してでもそこからの「直観」を求めるべきではないでしょうか。
「コンセプト」から「デザイン」する手法では、
つつましさには近づけないことを妄信していいかもしれません。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
「資本アイテムの再整理は、新たなイノベーションを誘発・5」


   


     4月 4th, 2010  Posted 12:01 AM

結論
私は三つの実存的な認識論をデザイン手法の背景にします。
循環性
まず、イノベーションは、単なる「技術革新」というのは、
ひとつの局面的な解決行為であり、解決方向でしかありません。
本来の意味には、経済=経世在民を維持するための意欲、
その活性化、それは循環性でした。
簡潔に言い切れば、「景気」という日常感覚の社会生理感であり、
そのままの実存性で語れば、「生きがい」や「働きがい」です。
したがって、再度、なぜ技術革新と直結しているのかといえば、
技術・技・術という行動規範や意欲活性化の方法と思います。

私たちの環境の要因には、
物質・情報・エネルギーが要素、その基軸性があります。
それぞれの軸性が、
活動的な時間性や経年性が加われば、要因化します。
この要因化へ向かう循環性がイノベーションと理解可能です。
アポリア
ところが、この循環性を遮断し、
到底維持も実行も不可能化することを「アポリア」と言います。
もし、循環性=生きがい・働きがいの停止は「死」に至ります。
実存的には、絶望であり、死に至る病と言われました。
現実、技術進化は常に「遮断性」が待ち受けています。
循環性の停止が不可避事態が発生します。
その時の姿勢は二つしかありません。
積極性と消極性
その事態への積極性と消極性です。
この極性から考えれば、
技術を受け入れるか、技術を拒否するか、の二者択一です。
最も顕著であるのは、
エネルギー技術論に反映していることは明らかです。
積極性の分離対決こそ誘発因
その実例が、「原子力運用」に関する賛否両論議の熾烈さです。
原子力技術は、問題解決をアポリアとする消極論と、
問題解決の技術推進への積極論は、
問題解決の技術停止への積極的な反対論が、積極論を分離しています。
私の判断は、この原子力技術の推進・対・反対という積極性、
この対立が、イノベーションの反発誘発だと考えることこそ、
最も知的なデザイン手法が主導するイノベーションの、
レトリック、あるいはメタファーとなるものと判断しています。
デザイン態度
したがって、デザイン態度、すなわちイノベーション支援は、
技術革新への姿勢としてのデザイン手法を明確化する、
その分離積極性の有無こそ、結論だと思っているわけです。
エネルギーによっての、物質と情報へのデザイン手法が、
現在最も論議を決着し、緊急的な具現化の創出が求められているということです。
デザインによってのみ、イノベーションの誘発は、
いわゆる文理融合であり、分離融合とさえ断言できます。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
  「群系・フォーメーションには、
     ビジネスモデル+デザインが不可欠」


   


     2月 14th, 2010  Posted 11:00 AM

Business Model
資本主義が、行き着いたのはビジネスモデルです。
ビジネスモデルは、当初は、
「仮説」にもとづいて、
「顧客」・「製品・サービス」・「経営資源」の
循環論用語、経営戦略用語でしたが、
「経営戦略」としての、ビジネスモデル特許となり、
収益構造を発想した独占的な「価値」への「独占対価」
という利益追求へと用語意味の変遷が、
その内容を変えてしまいました。
そこから、ビジネスモデル=利益収益形式となって、
私は、経営=金儲け・商売主義・金権暴利となれば、
倫理感の喪失が現代経営病態を生む言葉にもなったのです。
デザインが「欲望の刺激装置」と私が断言するのも、
このビジネスモデルの意味変容にあります。
美学性+倫理性
そこで、私は、
群集=アソシエーションである企業体・企業構造に、
「美学性」と「倫理性」を復権するには、
真のデザイン手法があるべきだと考えてきました。
すなわち、
「ビジネス・デザインモデル」の創案です。
Business Design Model
デザインモデルというのが誤解を招くことは承知で、
この形式と具体的な経営資源としての「製品開発」を
美学性+倫理性の付加を提示したいと考えています。
この美学性+倫理性には、
単なる収益循環に企業構造そのものを変革する期待が
デザインによって、包括されるべきであると考えます。
このデザイン手法の導入は、「綺麗事」そのものです。
群系・フォーメーション企業体への変革です。
明らかに、群系としての企業構造は、
現代の様々な問題、特に、環境・サービス・製品と
顧客利益への還元構造の創出が希求されると思います。
私は、「ビジネス・デザインモデル」の具現化こそ、
群系・フォーメーション企業の起業になると
確信している次第です。
私は、これからの日本の企業が、
フォーメーションへの変革には、美学性+倫理性は、
「デザイン」からのみ、構築していけることを
具体的な製品開発事例で提案していくつもりです。
モノづくり、特に貿易立国で存続すべき日本国内企業、
そのすべてが、独自の、オリジナルな経営戦略には、
デザイン・デザイナーの存在は極めて重要です。
ただし、デザイナーも、
あらためて「経営への美学性と倫理性」を創出する、
発想力・表現力・伝達力が求められているという
自覚が必要です。
発想力・表現力・伝達力


目次を見る

『資本主義からの逃走』
  *「病院、環境とシステムに資本主義は不都合」*


   


     2月 9th, 2010  Posted 2:34 AM


環境とシステムとダイナミックス
私は入退院・手術に関しては数多き実体験があります。
そして、毎月の診察も大変です。
病院は海外でも入院していますから、比較もできます。

まず、「病院」名前の漢字づかいをやめましょう。
「院」とは取り囲まれてまったく閉ざされた空間です。
もっとも、隔離病棟ともなれば「病院」でいいです。
しかし、「病園」がいいと思っています。
ちなみに、「学院」と「学園」は、
前者が閉鎖空間の学びの場です。
後者が開放空間の学びの場ということです。
だから、「幼稚園」は楽しいことの場となり、
「大学院」というのは閉ざされた学の場です。

そして、昨今は「電子カルテ」が病院の情報システム。
「電子カルテ」って呼び方がすでに時代遅れです。
名古屋市立大学が多分最初に「電子カルテ」を構築し、
患者への情報公開をしたと思います。
だから、阪大病院に入院したときに、
「電子カルテ」で無かったことにびっくりしました。
ようやく、阪大も電子カルテが構築されました。
しかし、見てびっくりでした。
基本がありませんでした。
「電子カルテ」を商品化している企業責任が明確です。
「電子カルテ」は、
単なるExcelフォーマットにすぎません。
データーベースor情報メディアor単なるレコードです。
また、大きな問題は
すべてが「個人情報の最たるデータ」です。
だから、この管理はクローズドでなければなりません。
秘匿情報管理というシステムと、
健康・病気・対症・臨床・保健をどうするかが問題です。
そうなれば、システム的だけでは駄目であり、
ダイナミックスシステムを組み込む必要は明白です。
「情報アーキテクト」という専門性、
「メディカルアーカイブ」という閲覧性の開示、
「クリニカルレコード」というジャーナリズム、
これらが不可欠です。
そこには、「統合的デザイン」によって、
「カルテシステム」そのものの

メディアインテグレーション・デザイン

インターフェイス・デザイン

インターラクション・デザイン

アーカイブレコード・デザイン

ブラウジング・デザイン

などへ、「デザイン手法の導入」と、
いわゆる、ハードウエアそのものとネットワーク化が、
「デザイン」で具現化する必要性が必然なのです。
そして、この実現には資本主義的論理や、
民主主義的意志決定論は不要です。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
 「色彩感覚とCAD感覚・05」


   


     1月 23rd, 2010  Posted 6:00 AM

Claris CAD
ALIAS本社でのCGトレーニングと同時に、
私はパソコンをデザインツールにすることに没頭。
2D-CADを追いかけていました。
最初に福井キヤノン社長=高校時代親友が、
Canonのパソコンを持ち込み、
プロッターまでそろえてくれました。
だから、当時は、相当高額だった「ワープロ」まで、
彼は提供してくれました。
結局「Claris CAD perfect manual」を上梓するまで、
のめり込んでいたのです。
この本はすでに廃刊ですが、
日本で最初のCAD教則本であり、
当時のパソコンCADについて米日での私の比較論を
書き上げていると思います。
なにしろ、MS-DOSからMacでの2D-CADは、
私を3D-CADに、
今では4D-CAD開発にまでいたっているのです。
1984年のMacintosh以来、ズーッとMacですから、
一時期は、NeXTSTEPもありましたが、
Mac OS Xになって、EWSのUNIXも、
私の体験の中で培われたのだと思います。
今、bit世界に、「点・線・面」思考も、
bit色彩感覚論も、
私のデザイン手法を再構築し直してくれました。
よく、「コンピューターでデザインが変になった」、
とか言われる方々がおられますが、
それは「まったく間違っています」。
コンピューターに向かえば向かうほど、
そしてコンピューターでの限界を知り尽くせば、
「本来のデザイン」を二つの視点から捉え直すのです。
その結果が、
私が「手描きスケッチ」の重要さを主張するわけです。


目次を見る

1月12日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     1月 12th, 2010  Posted 6:00 AM

1月12日 友引(壬戌)

「デザインを決定」するという、
デザイナーにとって
最終決断を迫られる状況が常にある。

その時、
民主主義的な自由さとか平等などを
無視したデザイン手法の方が、
理想を追求していく
デザインの効用としては
確実だと確信している。

『プラトンのオルゴール』
デザイン・対・民主主義


目次を見る

『資本主義からの逃走』
 
*「資本主義の終焉は、
  ブログ形式の中に隠喩となっている」*


   


     12月 23rd, 2009  Posted 10:00 AM

2009年、歳末になろうとしています。
私にとって、この一年は、
教育・講演・研究・開発・提言すべてを
デザインで包み込んだ活動でした。
もっともちょうど60歳・還暦で生命はつながっていす。
ブログ本論のタイトルは、「華甲我之発言也」です。

華甲発言

「華甲」とは還暦・60歳を意味する
古代よりのレトリックとして美しい言葉です。
デザインの世界に入って、
ほとんど休日休暇は持たないデザイン連続でした。
ただし、時に、「死に際」に至ることや、
「死」の予感が私の生体を追い込むことはしばしばです。
そして、その「死線」から帰還すると、
必ず、私にはなぜか大きなテーマが振り降りてきます。
●「なぜ、このスケッチを描くのだろう」
●「なぜ、今こそ、どう非難されても発言しよう」と
なります。

日本のかたち

このブログで、とうとう「資本主義と民主主義」への
私の持ち続けてきた「歴史観、それも敗戦という軸」に、
知識を整理して、いわば暴論となろうが、
この思索は、私のデザイン手法での「日本のかたち」、
その試作だと思ってください。
●それは壊れかかっていたり、
●すでに壊れたり、失ってしまった「日本のかたち」を
デザインし直すこと。新たなデザインを生み出すこと。
この二つを差し出そうということです。
だから、このブログは、一度こうして掲載した後も、
さらに「校正」を何度もしているのです。
おそらく、ほとんどの読者の方々は一度読んで、
●「まぁ、そういう見方もあるか」とか
●「過激だな、何をそこまでも」とか、でしょう。

私は、ブログという形式がすべからく「日記風」の
感想報告文体であることを残念に思っている立場です。
残念であり、無念であり、
文体に載せる言葉の貧しさに、「不景気さ」=鬱を
見抜いてしまいます。

「不景気という不気味さ」

なぜなら、
私は確実にコンピューターのエバンジェリストでした。
だから、特にパソコンとネットワーク、インターネット、
それらの進化はつぶさに実体験し、そのシステム創りや
デザインに関わってきましたから、
ブログの形式が日記風・感想文風ということに陥っている
その「不景気」さは「不気味」さでもあるのです。
だから、この「不気味さ」を選んでいる社会は、
「不景気」だから、ブログという新たな表現形式にも
●「不景気」という「不気味さ」にすら気づかないほど、
●「不景気」、すなわち「bitな鬱病」だから、
「死線」が見えるわけがありません。

鬱病に死線は見えない

その「死線」とは、
「資本主義の終焉という死」の境界線です。


目次を見る