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『枕革新をねらう羽二重からの新素材デザイン』


   


     5月 22nd, 2016  Posted 12:00 AM

キリンは立って眠っています。子どものキリンは座って寝ていますが、
それでも首は時々揺れているのをTV画面で見たことがあります。
おそらく人間に限らずに大木や小岩を首下にしているのでしょう。
私にとっても寝るときの首下を支えている枕には
相当の歴史があり、しかも最近では、材質、大きさ、柔らかさなど、
日本では蕎麦殻とか枕の中身までが問われ、しかも生死の象徴になります。
万一、
漁民が海で逝ったらその死体無き時は使用されていた枕で葬送されます。
しかしデザイナーとしての私はズーッと枕のデザインを対象にしてきました。
断言すれば、現在のどのような枕も不的確です。
なぜならば、ようやく「羽二重ブランド」の開発とともに、
新素材を見い出してきて、枕どころか敷布団も掛け布団も
新規デザインが可能になると思っています。
新素材で今まだ開発中ですが、これだけのアイディアを追いかけても
ほとんどのデザイナーは追いかけることが絶対に出来ないだろうと思います。
あらためて新素材の開発を絹織物、その最高峰であった「羽二重」です。
絹織物も生糸の生産は明治維新を支えた産業でしたが、
世界から、生糸=当時、富岡製糸場は廃止案にまで落とされますが、
細井順子女史による縦糸2本横糸1本の「羽二重」が登場します。
その布としての最高品から、新素材開発に至り、
基本的な製品開発、商品アイテムにはやはり、
最高品格の枕を実現するつもりです。

*『日本人の根本的な倫理観、その原点を見つめ直す』
*『素材産地のダブルブランド・「羽二重」HUBTAE』
*『布と衣と織りと・・・』
*『日本の繊維産業、その先鞭をつけた人たちの偉業に続け』
*『「はぶたえ=羽二重」の目立たなかった布の美しさ』


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『羊と鋼が調律の要だった、それを実証した友人』


   


     5月 21st, 2016  Posted 12:00 AM

「羽二重」ブランドの産地ブランド計画指導はすでに5年になっています。
結果も出せずにやや焦っていますが
「布のかつての絹織物革新」を歴史と科学的論証、そして、
絹織物から最先端的素材開発はそろいました。
それでも焦った気持ちを親友に帰阪途中に愚痴ってメール。
そうしたら故級友・上田喜久雄氏の息子と飲んでいると返信。
そうだったんだ。級友上田は高校時代の友人であり特別進学クラスなのに、
唯一、大学ではなく「調律師」になった男でした。
進学間際まで、休み時間はスティックをいつでも練習していました。
正直毎回うるさかったのですが、
とうとう問題になり進学クラスを出されることに、
そこまで高校は決断していました。
彼はブルーコメッツが福井公演の時に、
バンドマン希望をブルーコメッツに伝えたほどでした。
進学高校で唯一大学には行かず調律師学校を出て「調律師」になりました。
医師・看護師・調律師と「士」ではなく、「師」ですから、
やはりそれなりの知見と技術技能があったのです。
福井時代、自宅に来たときにオーディオからデザイナーになった私に
彼も驚いて、オープンリールのテープ2巻をくれて、
ジャズの話が出来た男でした。
上田喜久雄も夭逝してしまいましたが「彼を偲ぶ会」があったほどです。
福井のジャズやピアノの世界では活躍をしてくれていたのでしょう。
それが、なんと「本屋大賞」の「羊と鋼の森」という小説になっています。
後書きには彼の名前がしっかりと記されていました。
しかもこの小説の作家・宮下奈都女史も福井県出身でした。
是非、上田の息子と会いたいと思っています。
なぜなら、この息子も、羽二重を継承している中心の若者も
同じ国立名門のN工業大学出身者だからです。

*『ビートルズに出会った世代の幸運さ』
*『ふるさと福井はまだまだ恐竜の聖地になれる』
*『あれから・・・ふるさと福井の織物産業』
*『素材産地からWブランドのアライアンスイニシアティブ』
*『オノマトペ=感性評価軸が学術検証された』


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『素材産地のダブルブランド・「羽二重」HUBTAE』


   


     4月 3rd, 2016  Posted 12:00 AM

「五か条のご誓文」は由利公正(越前藩士三岡八郎)によるものでしたが、
彼は富岡製糸場の殖産興業を動機づけただけではありません。
ところが、生糸が海外からの要望が無くなってきたときに、
福井で細江順子女史は、縦糸2本横糸1本で「羽二重」を産み出します。
この「羽二重」が落下傘=パラシュートとして、
最高の品質であったことが、米国でのナイロン発明のきっかけでした。
福井は絹織物=羽二重の一大産地として、後には人絹取引所となり、
人絹はポリエステル繊維・布素材産地でした。
しかし、織物産業は時代的経済的にも逼迫した状況に追い込まれました。
ところが、最近のポリエステル繊維は織物編物として、
高度な素材として次世代素材として大きな性能開発が出来てきました。
僕は「羽二重ブランド」とともに、
繊維や編物、その「布特性」を明確に七つの特性評価を
オノマトペでの七つの感性評価を学術的に決定してきました。
 ・はり
 ・ふくらみ
 ・こし
 ・ぬめり
 ・きしみ
 ・しゃみ
 ・しなやかさ
こうした言葉はすでに死語的になっていますが、
オノマトペ=擬音語表現を幼児にも布体験をしてもらうことで、
明確な感性表現をして、そのマーク化を行いました。
すなわち、「羽二重」と「布の7感性的特質」は
ダブルブランドとして、新たな「素材産地ブランド」として
福井=素材産地が商品アイテムの提案をしていく基盤にしました。
これからの地方地場産地は「素材から製品アイテム提案」の
出来る場、
これが素材産地の革新的役割になると考えています。

*「オノマトペ=感性評価軸が学術検証された」
*『幼児たちの布感覚=感性評価実験から最学習』
*『「織物・布の感性的評価軸=オノマトペ」産地福井から発信』
*『落下傘としても羽二重は最高品質だった』
*『日本の繊維産業、その先鞭をつけた人たちの偉業に続け』


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「美術館・博物館という空間建築アイテムは終わった」


   


     3月 23rd, 2016  Posted 12:00 AM

初めて「国立新美術館」に出かけました。
それもイベントのオープニングにちょうど東京にいることもあり、
出かけることにしました。
おそらく同じデザイン界の人物に会うことになるだろうと覚悟しました。
正直、僕はひっそりとじっくりと観ることが好きなのですが
出かけました。
もう、その美術館の入り口から知人たちに会い始めました。
「三宅一生展」は、観ておくべき展覧会であることは間違いありません。
車イスゆえ優先的に最初に会場に入ることができました。
いきなり、建築家・安藤忠雄氏に出会い、そのまま三宅一生氏、
そして会場構成の吉岡徳仁氏と
グラフィック総括の佐藤卓氏に会いました。
佐藤卓氏とは、東京では結構思いがけない店で出会っています。
「よく会うね」とか、
「あの店大好きだから、今度一緒に」と会話しました。
三宅一生氏の仕事は、いわゆるファッションデザイナーを超越しています。
「プリーツプリーズ」の評論は、私が最初に書いたと思います。
その時にはポリエステル繊維から、布特性の7段階を知りました。
これは今ようやく「羽二重」ブランドの骨子になっています。
さて、問題はこの「国立新美術館」の建築設備でした。
遠慮無く断言すれば、美術館という空間建築とその設備は
もはやとても時代遅れはなはだしく、
私には美術館ではなくて「博物館」でした。
三宅一生氏の仕事の集大成は、もはや美術館を超えていたはずです。
明確に言い切ればデジタル表現の設備が全く考慮されていない空間でした。
これは、未だにプロジェクタースクリーンが4:3であることです。
すでに画面表示は16:9にも関わらず、日本全国の公的場所は4:3です。
しかも一画面でしかありません。
投影アプリがPowerPointばかりと同等です。
たとえばデジタルというとすぐに「デジタルサイネージ」が喧噪ですが、
その実態には何も新鮮さがないことに等しいのです。
IoT=Internet of Thingsというデジタル表現もこの漠然さに日本は呪縛され、
本来のIoTの、その将来がみえていないことに等しいのです。
僕は「デジタルアッサンブラージュ」を提案していますが、
おそらくこれが理解されるにはまだ当分時間がかかりそうです。
もはや、美術館も博物館も、そうなると街角のギャラリーですら
「デジタルとアナログ」、「アナログとデジタル」、
この相関関係のインターラクションが必要です。
しかし、
インターラクションの定義はもっと時代で研磨されるべきでしょう。


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『不細工なモノは不細工である』


   


     1月 18th, 2016  Posted 12:00 AM

僕が小学校4年生だった頃でした。
父から男はたわしで体を洗うべきだと言われて、
痛いのを我慢して洗っていた時期がそれこそ成人になってもでした。
ところが、それは皮膚を傷つけていると言われて辞めました。
しかし、父の皮膚は痛んでおらず、79歳で逝きましたが、
70代になっても、まだ50歳後半に見られると言っていました。
そんなこともあって、どうも束子の形態をドーナツ=トーラスにしたい、
その思いを海南市で、
海南の国際コンペの審査委員の頃、提案ができました。
いわゆる地場産業にも加わり、スポンジの素材形態を変えたり、
これ幸いとして、束子もドーナツ状の製品開発をしました。
確かに、当時は「RON」というブランドまでも開発して
その試作をしました。
が、つい最近、
シュロでそれも脱色した「ソックリ」が店頭にあってびっくりしました。
これを模倣だ、コピーだ、
やがては盗作だとかと言うことはすでに無理です。
なぜなら試作・製品開発発表しかしていません。
RONの他シリーズはデザイン賞を受賞しています。
先般も、僕のApple社提案モデルが
あるメーカーから商品発表になったときに、
「不細工」と所感を書いたら、僕がもの凄い非難を受けました。
著作権は、当然、すでに僕の作品集に図面があるわけですから、
現在は、デザイナーの盗作問題がトピックスどころか、
デザイン界の大問題になってきています。
非難する連中には、
 ともかく大問題になってほしい=事件興味だけ
 明らかに盗作だ=知り尽くしている人々
 いや、川崎が笑い飛ばせばそれでいい=私非難、などなどですが、
僕が「不細工」といっているのは、
現実にデザイン実現した企業デザイン部門が
「MindTop」を知っていれば、もっと確かな実現ができたでしょう。
ともかく、物真似、模倣、ついには盗作ということが
SNSなどで「本質を見失う面白さと不気味さと怖さ」の問題です。
明らかに盗作には、
これも倫理上の問題から知財権という法的制度問題が重要なことです。
翻って、この束子などは、僕が提示したときには、
試作は出来ても生産的には無理だと説明を受け納得していました。
工業デザインには、提示が時代的に早すぎたり、
MindTopはもっと重層化された複雑な問題、人種問題も当時はありました。
商業的な困難さもありますから商品化されないことなど一杯あります。
例えば、生産のシステム機械などは、メーカー依頼で商品化しても、
売り先では、それを元に決して一般人には目に触れないから、
それこそソックリどころか盗作など平然とやられています。
僕がグランプリ受賞しても、ある業界では平然と真似られるどころか、
ほとんど盗作だらけの世界もあるわけです。
せめて、オリジナルをやったデザイナーが、
真似られたモノを「不細工」というのは当然です。
そういう意味では僕自身、知恵不足だと笑い飛ばしていますが、
グローバル市場では国際問題化されることが出現してきましたから、
「ハーグ協定」がやっと始動してきているのです。


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『物欲によるモノの美と美あるコトへの自分』


   


     1月 6th, 2016  Posted 12:00 AM

我ながら、どこまでApple製品に囚われているのでしょうか。
そう想いつつも確かなPCもPadも進歩はしていません。
そして、ベルトが二重巻きのApple Watchに至っては、
時計もそれなりに気ままに使ってきた私でさえその未来は見えていません。
それにも関わらず、絶対に二重巻きの時計は手に入らないとなると、
元来、一人っ子だった僕の物欲が呼び寄せてしまうのです。
もはや時計、クロック、Padにしろウォッチにしろ
稼働部品は極めて低額です。
実際、生産原価はどのブランドにしてもほとんど知り尽くしています。
Apple Watchも、稼働ユニット部品は定額コストであり、
筐体やベルトでのほとんどそれこそ付加価値での競合にすぎません。
Padのスタイラスペンにおいても同様です。
僕はプロのデザイナーですから、結局、モノとブランドの価値で、
所有価値と使用価値を価値判断にしてしまっています。
このApple Watchは皮革ブランド独自の価値を借用して、
時計の価値を高めているだけにすぎません。
最も、僕は銀座のApple Storeで現物を見、その説明を受けました。
結果、この店員さんからは絶対に購入しないと決めました。
そして、ブランドショップで改めて質問をした結果、
商品知識ははるかに勝っていましたし、
ほとんどいつ注文しても困難でしたが
結局、すぐに私の所に来てしまいました。
それこそ、Padのスタイラスにしても、
僕がそれなりに認めているブランドと
新興ブランドは、一方はレンダリングスケッチ用であり、
もう一方はすでに書道用に落ち着いています。
商品価値がブランドに左右される時代にあって、
デザインがデコレーション価値になってしまうことはやむを得ないですが、
やはり、僕はデザイン=問題解決・価値創造・未来創成ですから、
ともかく、現代性でデザインのこの三つを満たしているモノの世界観に
僕自身は取り囲まれていたいと思うのです。
デザイン=問題解決・価値創造・未来創成の結論は、
「美」に集中と集約される焦点でなければなりません。
それは、僕自身が「真善美」三つはとても自分には立ち向かえないけれど、
「美」って決して分からないかもしれないけれど、
「美しいモノ」に取り囲まれるコト=環境に
ありたいと思ってきたからです。
物欲も年齢とともに消えていく、
そんな気配が忍び寄っているのも事実ですが、
あくまでも、自然は自然なりに美があっても、
自然も人間も裏切りがありますから、
デザインされた「美」には自分を浸すことができます。
自分の生涯において物欲からの「美」は求めるつもりです。


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『万年筆メインテナンスから見えている現実』


   


     10月 5th, 2015  Posted 12:00 AM

人は達筆と呼ばれなければいけない。と、
私は父に教わり、そのおかげもあって、
福井県吉田郡にある吉峰寺という永平寺の第一道場で、
中学時代と高校時代、二夏、修行をさせられました。
吉峰寺(地元ではきっぽうじ・一般にはよしみねでら)は
禅宗、道元が開祖として永平寺を建立したときの寺であり、
永平寺の歴代優秀なお坊さんが修行をしていました。
それこそ、書を住職に教えられるだけでなく、修行もしました。
そのおかげで、書や文字を書くことが大好きです。
この連休中は体調を相当に崩していましたが、
元気を回復すると、いの一番に私は万年筆のメインテナンスをして、
ペンの書き癖の確認と、インクの入れ替えをしました。
これは重要なペンです。
おそらく、この万年筆ブランドは世界でも最高級だと
私は思っていますが、
それにはいくつかの理由があります。
一つは万年筆の長さ分割は、完全な黄金比が適用され、
重量はインクを入れた時に、最も良い書き心地になります。
また、万年筆の材質とその材質は「財質」と呼ぶべき、
古代彫刻の再現、金蔵装飾の加工、材質を財質とする
その透明性の実現があります。
このブランドには、もうひとつ,私が所有していない加工、
それは貴石との組み合わせがありますから、
世界でも最高級である理由はこの4つだと思います。
インクは今では、顔料をインクにした技術進化もありますが
その一方では、
財質化する手法が段々と無くなりつつあることは
確実なことです。
万年筆の材質感とその加工方法が失われていくことには
あるモノの進化がストップし始めていることに等しいのです。
そういう意味では、文明による加工技術が文化を果たし、
その文化が消えていくことをデザイナーとして
さらに見つめて新たな技法という技能を、
加工技術にしなければと思います。
達筆であることと弘法筆を選ばずには、
明確に関連性があると判断しています。
少なからず、デザイナーというプロで「下手な文字」は
デザイン美を手に入れるには困難だろうというのは
私の偏見ではなく真実だと記述しておきたいと考えます。
こうして万年筆をメインテナンスすることによって、
二つのことが手に入ります。
一つはメールではなくて、手紙を書くこと。
そして、材質加工によって財質加工技能の詳細を知ることです。
重大なことは、万年筆に行き着いた加工技術無くしてのデザインは
あり得ないことを明確にしておきたいと思います。
それこそ、高級時計を打ち出しながら、
その実際デザインの無知さが拡大していることも明らかです。


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「オノマトペ=感性評価軸が学術検証された」


   


     9月 23rd, 2015  Posted 12:00 AM

声喩・擬音語・擬態語として
「オノマトペ」の学術論文がようやく査読OK。
これは私が長い間、繊維の性質分類の感性評価軸、
その設定をめざしてスタッフを中心に、福井県織物組合の青年部会と、
擬音語で、布感覚評価をしてきたことを学術的に、
感性工学会に提示してきたものでした。
提案から1年半かかったことになります。
かねてより、繊維・布には七つの手触り感覚での分類がありました。
しかし、数値化不可能であり、プラスチックが金属化をめざしていた、
その手法に触発されて、まず我々はその感性評価の6角形に、
さらに「しなやかさ」を付け加える道具で、
布の手触り感覚評価を随分と積み重ねましたが、所詮、それは、
大人たちの感覚に頼りきっていることに気づき、
保育園児たちに彼らの感覚評価を求めてみました。
「ぬめり」・「しゃり」・「きしみ」は幼児達の語彙には無く、
それゆえに、彼らは頬に押し当てたり、噛んでみたり、嗅いでみたりと、
彼らの五感に布の感覚はまさに新しい擬音語まで突出する有様でした。
これによって「羽二重:HUBTAE」ブランドの
参考見本帳の感性評価軸ができました。
ちょうど同じくして、二つの現象が起こってきています。
ひとつは、ビールCF表現での「ぐびぐび」、「ごくごく」とかを
未成年の飲酒禁止表現でのあり方検証になっています。
またもう一つは、
医学特に、問診でのどこが痛いかを伝えるオノマトペ運用があります。
「ずきずき痛む」、「きりきり差し込む」などは、
患者とドクターとの会話での感覚伝達になりますから、
これをさらに突き詰めていくことで、背中、胃周辺など、
体の一部への痛度評価になるという研究が出現していることです。
このことを大阪大学医学系研究科でも、
痛度の「オノマトペ感性評価軸研究」に
明確に持ち込むことが可能になりました。
地方産業、その繊維の感性評価軸への「オノマトペ運用」は
デザインにおける一つの
それも大きな感性評価が可能だということです。
そのためには、擬音語や擬態語の収集と伝達によって、
これら擬音語が少なくとも三つ重なった時には、
感覚伝達の共有化が必ず叶うのではないだろうかということです。
おそらく「オノマトペ」というラテン語からフランス語になっていった
ことばが感覚伝達をすることは確実になったと思っています。


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『白紙撤回すべきマークがある』


   


     7月 25th, 2015  Posted 12:00 AM

言い出してはいけないことがある、とよく言われます。
しかし、「デザインとは社会への態度である」と、
インプリンティングされて育った者であるかぎり、
それは職能倫理観として、
眺め直して見なければならないマークがあります。
これらは我が国の省庁関係やプロジェクトなどのマークです。
ところが現代の今生においては、批判、時として非難は
決してしてはならないという社会的な不文律性が出来ています。
「白紙にしたい」というのは、日本のトップの権力になっています。
それをいいことにして、批判はしてはならないのです。
私は警官の息子として育ったので、今でも警察のマークは、
菊の御紋章と同じように大好きなマークです。
ところが、安易に決められてしまっている省庁マークは、
三流デザインだらけだとさえ私は思っています。
国家レベルのマークづくりに関わった経験がありますが、
デザイン対価が用意されていたものは皆無でした。
その程度にデザインは軽視されてきました。
それこそ、「この御紋が目に入らぬか」という時代では、
デザイン(designare=do+sign=design)という効用がありました。
何かが変というよりは、
何かセンスの勘違いが蔓延する世間になっています。
以前、私は大企業にはC.I.のロゴタイプはあってもマークが無い、
それゆえに日本の企業はブランド形成が難しいと言ってきました。
いわゆる工業意匠権20年では、オリジナルは抹消されていくのです。
言い換えれば、たかがデザインのマークデザインの効用はその程度。
肝心なことは、デザイナーの倫理観に関わっていますが、
情報時代の性悪説がはびこれば、
私は三つの無視こそ善なる倫理観ゼロに社会はつつまれると考えます。
それは、上場企業ビジネスがさも性善説を騙り、
匿名での平然たる批判がいかにも表現の自由を守護し、
そして、
ジェネリックプロダクトで何が悪いと言い出すデザイナーが出現、
これには、天誅が許されるべきではないかとさえ私は思います。

「商品力を低下させている流行マーク・小学生も信じない」
「負けて当然・企業のロゴタイプだけでは勝てない」


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『腕時計には本来、機能性の無いモノだった』


   


     5月 2nd, 2015  Posted 12:00 AM

私はある時期から時計もコレクションになりました。
そうしたら、Apple Watchが登場してきて、
果たして手に入れるべきかどうかを迷っていました。
なぜなら、Apple Watchを身に付けるべきかで迷ったからです。
そして、明確になったことがあります。
自分の時計のコレクションを見ながら、
時計を最もそれこそ性能的に進化させたのはブレゲでした。
また、日本がクォーツの知財権を放棄したことで、
時計原産地であるスイスの苦悩は10年に及びました。しかし、
彼らは機械式性能を進化させることや、国立時計士を制度化して、
スイス製こそ、腕時計であることを証明してきたわけです。
さて、Apple Watchは、デジタル式のウェアラブルPCですが、
確かに高額なモノも発売して、時計市場の席巻を狙っています。
私自身は、ムーンフェイス式に今は最も興味がありますが、
気づいたことは、時計は効能性の証であって、
ファッション性として、どの時計を身に付けているかが問題です。
そういう意味では、デジタル式ウェアラブル時計は、
機能性が拡大したのではなくて、
効能性を捨て去り性能をデジタルにしているモノです。
ということは腕時計の存在は効能性=何を身に付けているかが重大、
性能は、たとえばムーンフェイスで、効能性が確約されているだけに
どのようなファッションスタイルであっても、
三都市の時間が分かる効能と性能があるということにすぎません。
結局、腕に装着してみれば、
Apple Watchは性能だけに期待できるだけであり、
確かに、スポーツタイプと言われればそれ以上の性能はありません。
結局、時計はブランドという効能性が性能を決定しているだけであり
腕時計というモノには、機能性はまだ人類は見いだしていないと
私は思っています。
つまり、時計・万年筆・メガネという男の持ち物には
まだまだ、機能性の発明が求められていると判断しています。
ちなみに、この万年筆はブランドモノであり、デジタル、
スタイラスなのです。明確な効能的な性能進化があるだけです。


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