kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘マーク’


『落下傘としても羽二重は最高品質だった』


   


     10月 19th, 2015  Posted 12:00 AM

2012年からふるさと福井の繊維産業の一新化に関わっています。
ともかく、歴史から福井の繊維を語り直そうと考えています。
それは「羽二重」が絹織物の名品となって
日本からの貿易輸出品だったこと。
ゆえに羽二重から人絹取引所まで生まれ、
今はポリエステル繊維が中心になっていますが、
羽二重が最高に優れていたのは、
これが落下傘=パラシュート素材でした。
富岡製糸場は由利公正が西洋の絹糸を学ばせた最初の工場でしたが、
生糸では欧州とは競合が出来ないことから、
縦糸2本に横糸1本で羽二重こそ、最高の絹織物でした。
そして、日本には落下傘部隊が誕生し、
それは左上がその部隊のマークだったらしいのです。
羽二重でのパラシュートは、最高のモノであったらしく、
そのパラシュート生産の産地が第二次大戦時には、
米国から大変な空襲を受けて、福井は焼け野原でした。
当時、米国兵たちもパラシュートは持ち帰って、
ウェディングドレスにしたものらしく、
羽二重織物を超えるために、ナイロンが出来たとさえ言われています。
由利公正と言えば
五箇条の御誓文・東京府知事ですが、
それは橋下左内と横井小楠の殖産興業の興し方から学んだことでした。
絹織物は羽二重が世界を制し
日本の輸出品筆頭は九谷焼磁器を凌ぐばかりか
落下傘部隊創設も、
パラシュートとしても最高であったことは知られていません。
生糸産業、羽二重産業、それは人絹織物とまでなり、
人絹取引所は、
その文化までが福井にはあったようでした。
私自身が子どもの頃は親戚の織物工場は学校より大きいものでした。
ところが、最近では羽二重は、お土産物の羽二重餅が知られていて
羽二重が最高の絹織物ゆえに落下傘までが進歩していましたが、
このようなことはすっかり忘れられています。
かつて、福井大学では繊維工学が隆盛していましたが、
繊維工学科はもはや信州大学にしかありません。
私は、生糸→羽二重→人絹→ポリエステルを
さらに進化させた高機能ポリエステルでの新たな商品アイテムづくりが
私にとって、パラシュートを陵駕する、
トランスポテーションや防災、医療、全く新たな産業を
生み出してくれるものと思って
デザイン戦略=問題解決戦略を織物産地に、
その象徴が、羽二重での落下傘=パラシュートだと
私は考えています。


目次を見る

『美大生1年のときに私の最初の社会的なデザイン』


   


     9月 7th, 2015  Posted 12:00 AM

美大生1年生の夏休みに、私は福井に帰省してアルバイトを探しました。
当時、福井市には唯一のデザイン事務所がありました。
グラフィック関係の事務所で、その頃でも、
パッケージデザインの依頼があると、
パッケージ年鑑をクライアントに見せて、
そこから「なんとなくこのような感じで・・・」という依頼に
学生だった私は激高して、アルバイト一日目で辞めました。
その時地元にUHSの福井テレビが出来て、
そのマーク募集がありました。
「道楽学校」という父に逆らって夜は、
このマークデザインをして金沢に戻るとき、
母に郵送での応募を頼んで金沢の下宿に帰ったところ、
私のロゴタイプが入賞して採用になりました。
このロゴタイプが私が社会へのデザインを提示した最初の仕事でした。
昔使っていた書籍にこの新聞切り抜きが入っていました。
1969年の私のデザインは
福井テレビ20周年で新しいマークに変わりました。
今では決して見ることができない「テストパターン」に、
私のデザインは、まだレタリング教育中でしたが、
社会への最初の提示作品になりました。
賞金も覚えています。10万円です。初任給が4万円の時代ですから、
私はこの賞金で
カメラ「ニコマートと三脚とマクロレンズ」を買うことができました。
東京で交通被災をして体はボロボロになって福井にもどりました。
その時には、東芝でC.I.を徹底的に学んでいたために、
福井テレビにCIの申し込みをしましたが、理解をえられませんでした。
ところが、テレビ局は今も2局しかありませんから、
福井テレビに私がCI提案をしている話が福井放送=FBCにも聞こえ、
福井テレビでは採用されなかったCIを
福井放送で新たなマークからCI全般を担当しました。
だから、当時は高校時代の友人には、
「お前は嫌なやつだ。深夜テレビ終了時に、
福井テレビも福井放送もお前のデザインで終わる」と言われる羽目でした。
2.3年前には福井放送も私のデザインしたマークは終わりました。
福井放送のマークを
私のデザインのままでと主張してくれる社員の方々もいましたが、
私は「時代とともにマークのデザインが変わって当然」と応えました。
グラフィックデザインでは決してやれないデザイン分野は、
今やユーザーインターフェイスや
エクスペリエンスデザインがあるように、
マークに動画性を持たせることだと思っています。
 FTB=ftbマークは、
最初のデザインから微調整的に変更されましたが20年使われました。


目次を見る

『バイブルとテキストでは著作権と商標権は闘えぬ』


   


     8月 6th, 2015  Posted 12:00 AM

「点・線・面」はデザイナーのバイブルです。
「造形思考」はテキストです。
「点は限りなく正方形になる」と記したカンデンスキーは、
現代の液晶ピクセルを予想していたと私は確信しています。
線と曲線の関係性は、カオスに響く音楽論で、
パウルクレーは、デザイナーの教科書にしてくれました。
幅ある縦線と円形には、「ヘアーライン」という視覚補正が必要です。
オリンピックのエンブレム、そのデザインは、
盗用という極めて失礼千万な批判あるいは非難が取り憑いていて、
デザインはその平面図形の比較で「似ている、似ていない」を喧噪。
そして盗用というのは何事でしょうか。
ベルギーの劇場マークは、デザインの「応答」作品にすぎません。
東京オリンピックのエンブレムデザインは、
デザイナーの言説から「回答」作品ですから、
盗用というのは職能への大侮辱です。
釈明という失敬さをマスコミは平気で乱用していることは許せません。
ただし、私はプロとして、「ヘアーライン補正」という技能を
それぞれに解釈と解説と批評を与えてしまえば、
ベルギーの単なる劇場名と場所名の組み合わせは、
確かに、ベルヌ条約の無方式主義の著作権で訴訟をしてくる事、
それは補償金目当てでしょうか。
エンブレムデザインをマドリッド協定議定書での
商標権と対決させるのではデザインを応答作品でしかない
ベルギーデザインの幼稚さを保護しただけに過ぎません。
比して、
わが国の回答作品を商標権で護ることには正直大きな不利があります。
著作権と商標権での対立は
八百屋と魚屋のどっちがおいしいかの議論でしかないからです。
が、応答作品と回答作品では
デザインの職能倫理性は日本に正当性があります。
無念なことは、釈明会見というマスコミの姿勢はデザイナー虐めです。
「盗作」とはもっと別次元にあることは確かですが、
日本のデザイナーの正当性を私たちは護り抜くべきだと、
私は思っていますし、ベルギーの言いがかりなど無視すべきです。
そして、日本もベルギーも、バイブルそしてテキストも勉強不足と
「ヘアーライン補正」訓練不足があることは否めません。
本来、デザインは解答作品を審査委員会のたとえギルド性があっても
日本人デザイナーを著作権から護りぬくべきでしょう。
なぜなら、世界中がローカルなマークを知ったと言う話題でしかない、
つまりベルギーの応答作品が告知広報しただけのことです。
この応答と回答の対立でオリンピックは遠くなっているのは事実です。


目次を見る

『白紙撤回すべきマークがある』


   


     7月 25th, 2015  Posted 12:00 AM

言い出してはいけないことがある、とよく言われます。
しかし、「デザインとは社会への態度である」と、
インプリンティングされて育った者であるかぎり、
それは職能倫理観として、
眺め直して見なければならないマークがあります。
これらは我が国の省庁関係やプロジェクトなどのマークです。
ところが現代の今生においては、批判、時として非難は
決してしてはならないという社会的な不文律性が出来ています。
「白紙にしたい」というのは、日本のトップの権力になっています。
それをいいことにして、批判はしてはならないのです。
私は警官の息子として育ったので、今でも警察のマークは、
菊の御紋章と同じように大好きなマークです。
ところが、安易に決められてしまっている省庁マークは、
三流デザインだらけだとさえ私は思っています。
国家レベルのマークづくりに関わった経験がありますが、
デザイン対価が用意されていたものは皆無でした。
その程度にデザインは軽視されてきました。
それこそ、「この御紋が目に入らぬか」という時代では、
デザイン(designare=do+sign=design)という効用がありました。
何かが変というよりは、
何かセンスの勘違いが蔓延する世間になっています。
以前、私は大企業にはC.I.のロゴタイプはあってもマークが無い、
それゆえに日本の企業はブランド形成が難しいと言ってきました。
いわゆる工業意匠権20年では、オリジナルは抹消されていくのです。
言い換えれば、たかがデザインのマークデザインの効用はその程度。
肝心なことは、デザイナーの倫理観に関わっていますが、
情報時代の性悪説がはびこれば、
私は三つの無視こそ善なる倫理観ゼロに社会はつつまれると考えます。
それは、上場企業ビジネスがさも性善説を騙り、
匿名での平然たる批判がいかにも表現の自由を守護し、
そして、
ジェネリックプロダクトで何が悪いと言い出すデザイナーが出現、
これには、天誅が許されるべきではないかとさえ私は思います。

「商品力を低下させている流行マーク・小学生も信じない」
「負けて当然・企業のロゴタイプだけでは勝てない」


目次を見る

『名古屋市立大学のマークが再興される!?』


   


     4月 15th, 2015  Posted 12:00 AM

私はデザイン活動の中で大好きな分野には、
マークやロゴタイプのデザインがあり、製品デザインの前には
頼まれていもいないのに、マークやロゴを変えたくなる性分があり、
それはやり過ぎだといつも言われてきました。
かつて、名古屋市立大学では、6つの学部になったときに、
この大学のマークとその展開をもとめられました。
ちょうど大学65周年を迎えるにあたって、マークの見直しと、
その展開があるということでマークが新規デザインかと思いました。
マークが変えられることもありそれはさみしいことですから、
(またか〜)と思ったところ、このマークのさらなる進展のために
もう一度、マークの狙いをと元同僚の教授から連絡がありました。
確か、マークについてのマニュアルはあるはずと思っていたところ、
その一部がありました。
大学マークの変更では、様々なことがあり、大苦労させられますが、
当時、なんとしても芸術工学部で元来はプロがやるべきというので
アプリケーションもやった経験がありました。
学章ということからグローバル、国際的な印象度を狙いました。
そして、当時はICU=国際基督教大学だけが三文字発音では
とても知名度がありましたから、公立大学としてNCUを強調したく、
しかも電話連絡でも描けるという基本と6学部の色彩展開や、
パターン化とその大学存在性にこだわって、
医学部附属の病院、その薬袋にもこのマークアプリケーションを
提案したと思っていますし、名刺展開も使われていました。
このマーク展開は手伝いたいと思っているほどです。
それこそ、もはやマークはCGやデジタルサイネージでの動画化、
すなわち、画像と映像化、そしてもっと広範囲なアプリケーションが
必要になってきています。
ちょうど、芸術工学部も新設されて20周年とかで、
その記念式には初代の学部長研究科長とともに話に行く予定です。


目次を見る

「『マーク+ロゴタイプ』が経常利益を決定している」


   


     11月 3rd, 2012  Posted 12:00 AM

経常利益とは、企業の正常な収益率を示す指標となる利益です。
私は営業利益だけではなく、
営業外収益の根幹には
「企業存在イメージ相当価値」であると考えてきました。
その「企業存在性」を認知されるのは、
企業名を明確に視覚化している、
マークとロゴタイプだと定義することが可能です。
したがって、「商品デザイン」において、
視覚認識要素として企業名表示は最重要です。
昨夜、私は国内企業がほとんどロゴタイプだけで企業存在を表している、
そのことへの大不満を述べました。
それこそ、ロゴタイプ=読むというより、
マーク=一瞥がどれほど認識力が強いかは歴然としています。
ロゴタイプをマーク化する造形処理もひとつのデザイン手法ですが、
マークだけで「企業存在アピール」は強力です。
そして、ブランドと言われる企業には、必ず、場所も銘記されています。
そういう意味では、最近、「made in Japan」という表記が、
一つの強力な収益のための商品価値構造になっています。
マーク・場所・創業年・企業内容のシンボルなどが経常利益要素です。
経常利益の要因は変動しますが、この要素は不動であり永久性があります。
営業外利益の中の営業外費用対効果として、
「マーク+ロゴタイプ」の象徴性は、しっかりと理論武装するならば、
エルンスト・カッシーラーの四段階説を理解するべきでしょう。
実体的段階・機能的段階・構造的段階・象徴的段階で適合させてみれば、
すでにわが国の「商品存在」は、
構造的段階から象徴的段階に存在すべきモノの供給でなければなりません。
ところが、ロゴタイプだけの企業名では、
その商品の実体的段階ですら低コスト競争では全く敗北し、
企業存在そのものの象徴性すら喪失してしまっているのです。
すでに「商品消費は記号消費であり、その価値性は差異性でしかない」、
この論理は流行しましたが、
日本のほとんどの経営者たちは読破理解していなかったと判断しています。
グローバリズムの功罪の詳細に、
利益構造、特に経常利益の根源的要素として、
企業イメージ戦略を再構築しなければ、
日本の企業の活動領域は次第に縮小していくことでしょう。
「マーク」認識の訴求化は最大の企業テーマだと断言しておきます。


目次を見る

「負けて当然・企業のロゴタイプだけでは勝てない」


   


     11月 2nd, 2012  Posted 12:00 AM

日本の家電メーカーが国際戦略に負けるのは当然です。
経営者たちには、まったくデザインセンスが大欠落しています。
黙秘しようと思っていましたが、
教え子たちがこうしたメーカーで苦しんでいるのをみると
経営者たちに告げざるをえません。
経営者は「自社ブロンドのCI」を「戦略として凝視」したでしょうか?
私もある企業で、強く強くうるさくこのことを具申しました。
結果、「うるさいヤツはいらない」、ということになりました。
日本のこの企業はすべてロゴタイプと、センス無きコピー。
企業イメージに「マーク」が大欠落しているのです。
勝てる訳がありません。
このロゴタイプたちをじっくりと見つめて下さい。
ロゴタイプにすら、
「夢」も「希望」も「期待」も浮かんでくるわけがありません。
これらすべてのメーカーのインハウスデザイナーは、
気づいているでしょうが、
企業マークを創ろう、なんて発言する環境も権限も無いのです。
外部から、真剣に企画提案しても「たかがデザイナー扱い」です。
このような経営者が日本経済を引導できるわけがありません。
業績発表の数字をこのロゴタイプの下にレイアウトしてごらんなさい。
如何に海外メーカーが「マーク+ロゴタイプ」だけで、
企業イメージを見事に商品展開していることに気づいて下さい。
「マーク+ロゴタイプ」をバカにしてはいけません。
「マーク+ロゴタイプが経常利益」を生み出しているのです。
経常利益の本質的な利益構造に「マーク」がある、
そんなことは経営学の教科書にも全く理論化されていません。
知っているのは、デザインやアートの価値を知っている経営者だけですが、
日本では絶滅種になったのでしょうか。
40余年も日本のモノづくり現場と流通、
国内外との利益構造とデザインを見つめてきた私は断言できます。
ロゴタイプをマーク化するには相当のデザインセンスが必要ですが、
そこに投資する経営者はいるのでしょうか。
眺めてみて下さい。
なんと企業ロゴに付け足してあるコピーの未来無き展望は無念の限りです。
インハウスデザイナーよ、
センス無き大企業に将来はやってこないでしょう。
家電商品アイテムから、TVもスマホも台所機器も、もう捨てるべきです。
日本の技術がやるべき「商品アイテム」を緊急に発明すべきです。


目次を見る

「『危機管理デザイン賞』は ‘ヘルメスの杖 ‘をシンボルに」


   


     8月 3rd, 2012  Posted 12:00 AM

以前、ここで「アスクレピオスの杖」を取り上げました。
危機管理の象徴をどうすべきかを悶々としてきました。
案の上、「ヘルメスの杖」についての記述にも、
感想としての異議をいただきました。
これは、米国陸軍・医療部のマーク(X)について、
喧々諤々の世界的な論争があった当時と同等だと思いました。
あくまでも「アスクレピオスの杖」は、
医学のシンボル(A)ですから、
ルーベンスの絵画としても残っています。(B)
したがって、WHO=世界保健機構はこのシンボルです。(C)
救急車のシンボルはほぼこのマークが普遍化しています。(D)
日本では、赤十字社の救急車のみ赤十字です。
医学や医療は「アスクレピオスの杖」で
杖に蛇が一匹という象徴は歴史的コンテクストです。
ところが、杖・蛇が二匹、そして鳩の羽によって、
「ヘルメス」の活動はスパイ的な泥棒行為まであり、
医療行為や、通信、取引など統合性が「ヘルメスの杖」となります。
私はもう一度、ギリシア神話を基準に、
ヘルメス学と呼ばれる知性確認の体系に没頭しました。
「危機」はギリシア語ηκριδιδ=Krisisが原意語です。
この意味は、「決断」です。
ラテン語になっていくとderisisです。
これは「決定する・選別する」というのが「危機」となり
Crisisに連続します。
Riskに至るまでの、「危機」・「危険」は、
言葉のコンテクストの根底には、生命を護り合うということが、
おのずとと思想観には
「平和」の概念が入ってくることになります。
切手やメダルなどの応用事例も集めて検証しました。
そこでの発見は、軍事的危機というのは、
紛争の解決=平和への希求がありますから、
日本の防衛医大(Y)も「ヘルメスの杖」を採用しています。
私はヘルメス学体系全体には
錬金術師が水銀を医療行為にという伝説も認めて、
「危機管理」は統合的な営為とみなすことで、
「危機管理デザイン賞」シンボルに引用したわけです。
さらに、「ヘルメスの杖」は拡大して、
ビジュアル表現要素にしていくつもりです。


目次を見る

「『危機管理デザイン賞』を創設しました」


   


     8月 2nd, 2012  Posted 12:00 AM

2023.8.1・昨日、日本は世界に向けて本賞を設けました。
わが国は、伝統的、四季的、自然環境と日常生活を
堅固に結びつけてきた美しい花綵の国ですが、
一方では、自然災害、台風、地震、雷に晒されてもきました。
ところが、最近では地球温暖化などで、
気候状況は、竜巻、大豪雨、落雷など
とんでもない危機状況に入っています。
3.11は当然ながら、今後の南海トラフや火山爆発も予知されています。
まず、自然環境での危機回避があり、
人災は、学校のいじめ問題から原子力発電、放射能はもちろんのこと、
テロから企業へのスパム攻撃まで複雑化と多様化と回避困難が拡大です。
よって、本賞を設けることで、危機管理産業から危機管理制度設計まで、
モノのデザインとコトのデザインを顕彰してその活性化を目指します。
本賞のシンボルマークには、「ヘルメスの杖」を引用しました。
アスクレピオスの杖やヒギエイアの杯も検討しました。
つまり、この賞には、
人類が歴史的な命の守護をどういうシンボルに象徴してきたか
ということに焦点を絞りました。
「生きる」こと、「生き延びること」、
危うい事や「まさか」、「いざ」という危険性=命の防御、
その象徴を求めました。
したがって、このブログでも、
ヘルメスやアスクレピオスなどについてメモ記述をしてきました。
それは、私の思考メモでした。
「ヘルメスの杖」への異論が存在していることも十二分承知し、
しかも、「ヘルメス学」という知的歴史性をテキストにした結果の、
マークとロゴタイプの統合シンボルです。
この賞シンボルは、本賞創設とともに、
危機管理産業・モノデザインと危機管理制度設計・コトデザイン、
その展開・アプリケーションを完備させました。
ここで紹介していくつもりです。
無論、本賞受賞によって、あらゆる「想定外」=「まさか」を回避し、
「いのち」を本賞選定基準からもう一度、
見つめ直すモデルケースを普遍化していきます。


目次を見る

「どちらの『杖』を選ぶべきか、医学のシンボル」


   


     7月 23rd, 2012  Posted 12:00 AM

先般、「ヘルメスの杖」を紹介しました。
そうしたところ、FBのFriendsのお一人から、
ヘルメスのシンボル性について、ご指摘を受けました。
私も選択には大変に迷った経緯があります。
ギリシア神話に戻れば、
二人の人物が登場します。
ヘルメスであるべきか、アスクレピオスであるべきか、
ということに行き着きます。
アスクレピオスはまさしく医学のシンボルということになります。
それは、ルーベンスが描いた絵には、
アスクレピオスが一匹の蛇を携えています。
したがって、医学を専門的な医療行為ととらえると、
必ず、一本の杖には一匹の蛇が描かれます。
ギリシア神話にさかのぼれば、
「アスクレピオスの杖」が
医学をシンボルにしているということになります。
ところが、アメリカ陸軍が医学を医療として、
その目指すところをさらに拡大したときには、
「一本の杖には、二匹の蛇と羽です」。
これは鳩の羽で医療はたとえ軍事であっても、
究極は平和を表すということで、「ヘルメスの杖」になります。
そうした指摘があったときから、
ギリシア神話での二人の役割を再確認しています。
この二本の杖=シンボルについては、
やはり相当な議論がありました。
たとえば、ヘルメスには商売や泥棒という話もあります。
しかし、ヘルメスは錬金術師ゆえ水銀を医療にも使用したとか、
交通通信まで彼の役割まで広範囲ということのシンボルになっています。
しかし本来、医学はアスクレピオスに限定されるということになります。
その代表が、国連マークと救急救命士マークには、
「アスクレピオスの杖」になっています。
私は、通信から医療や安全性までを考慮し、
「ヘルメスの杖」を選びました。
ちなみに、日本の防衛医大のシンボルは「ヘルメスの杖」です。
私は、あらためてギリシア神話などからのシンボルの引用や借用には、
本当に慎重でありたいと思っています。


目次を見る