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『アートからの革新=フォンタナの作品から』


   


     8月 9th, 2015  Posted 12:00 AM



私はあまり講演会に出かけるタイプではありませんが、
このところ2回に渡って若い建築家集団の定期的講演会に行きました。
最も、前回は内藤廣氏であり、彼から講演前に例の国立競技場の
現場設計チームで苦渋の統率をしていましたから、
これまでのプロセスを聞くことが出来ました。
今回は北川原温氏で、彼の高校時代先輩からの誘いを受けたからでした。
しかし、北川原氏とは35歳当時から、そして、ある建築コンペでは、
建築家では無い私が審査委員としてその審査に加わり、
彼にある地方のある施設の建築を彼に決定する裁断をしました。
前回も今回もこの講演会は、建築家自身の生い立ちから
思想までを聞き出しながらのとても面白いものでした。
北川原氏の建築活動の後ろ側は、彼の生い立ちや思想の原点があり、
講演会での会場からに質問後には、私に司会側から質問がきました。
正直、建築界とデザイン界はとても近い存在であり、
私もGマーク審査委員長時にはグランプリは建築を選んだほどでした。
今回、彼が建築思想の裏側は現代詩から現代アートが強くありました。
そして何と言っても、ルーチョ・フォンタナが出てきたことに
私はビックリしながらも、かつて彼を建築コンペで選んだ納得の基本を
再確認することができました。
フォンタナのキャンバスにテンションを与えて、
「切り開く」作品は、まさに「革新」を実在化した作品でした。
それは、革新という言葉の意味が、
「革をピーンと張って刃物を入れる」という行為そのものでした。
私もフォンタナのこの作品には現代アートの革新そのものがありました。
私は「革新」という意味とフォンタナの行為を会場で語りました。
それはただ、そのコンペで彼が選抜されただけでなく、
彼とその後の交友をお互いだけが知り合う内容と一致していまいた。
そういえば、次期大阪大学総長とは二人きりで会談をして、
「アートとデザインの違いは?」という最初の質問に、
簡単に答えれば、
「アートは主観的であり、デザインは客観的」という回答をしました。
つまり、アーティストは主観的創造=自分主張を表現しますが、
デザイナーは客観的に作り手使い手の意見=客観性を大事にします。
アートからデザインへ、デザインからアートへ、
私はデザインをアートに、という試みをしたことがあります。
彼も建築をアートに出来るクリエーターでした。

*「イノベーション』大衆化した原意も疑う」


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『資本主義からの逃走』
    「話し合う、この実体験から文脈へ」


   


     8月 29th, 2010  Posted 12:00 AM

文脈の身体化
人間は「ことば」を持っています。
初めに「ことば」ありき、ということは、
自分が母親から「ことば」を身体化していきながら、
体験・経験でその「ことば」の内容と質をさらに「身体化」していくわけです。
私は、交通被災というとんでもない状況の実体験の中で、
その事件・事象・状況の中での「ことば」を「身体化」してきたのだと考えます。
そして、見つけ出しているのは「文脈」という「ことば」の脈絡性やその順列性で、
それらの意味を獲得することを、自分なりに創りだしたり制御できるということです。
しかも、この言葉の脈略性=文脈をさらに深く詳細にしていくこと、
それはそのままデザイン=造形による問題解決までを体験から決着させたいという意志と意欲です。
そこで、次のことばを並記してみます。
●「会話・会談・談話・対談・対話」です。
つまり、ひとまとめで言えば、言葉がこうした中で、
どのような脈略=文脈を持っているかを確認しておこうということです。
「会話という談話」対「対談という対話」は、
デザインという問題解決の中で、コンテクスト=contextが必ず常駐しているということです。
私が車イスという、いわば「不幸な事態」が、実際はその逆転であって、
「コンテクストへのまなざしを得る」=幸運さにつながっているということです。
私がデザイナーであったことは、
「問題解決」にコンテクストからの解答を造形化できるという自信を「身体化」できたことです。
それは「会話:対話」に、
コンテクストを必ず位置決めをして配置しておくことが必要十分条件だということを
車イスの「身体」・「身体の精神性」体験から教えられて知ったという幸運だったのです。


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