kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘体験’


「リアル・アノニマス・デザイン=労作だと思う」


   


     5月 28th, 2013  Posted 12:00 AM

現在、出版界は相当に難しい時代になったようです。
自分のインタビューが掲載されています。
だからというわけでは無いのです。
が、この著作「リアル・アノニマスデザイン」は労作です。
私もこの本の企画の人たちから、ホテルで質問を受けました。
企画者は、次世代のデザイン評論では定評があった人物。
そして、幾度か、校正もさせていただきました。
無論、私の独断は、「発言すれば問題発言、という風潮」には、
きわめて正直にプロとしての受け答えをしています。
私なら、そこまで言うかもしれないということも重々承知です。
そしてあれからの編集時間を思うと、
これだけの専門家、それも次世代、次・次世代ですから、
デザイン・都市・建築・メディアの担い手に、
恩師であった柳宗理氏の「アノニマス」をキーワードにして、
専門家、それぞれの解釈が述べられています。
私などは、インタビューされた最長老の中に入るでしょう。
編集ではきっと気を遣われたのではと思います。
「アノニマス」無名性、あるいは匿名性です。
「ヴァナキュラー」土着的な全く無名性との関わりを同世代、
ある建築家の意見も真っ当でした。
デザイナーや建築家にとって、それぞれの活動、
その成果としての製品・商品、作品にとってはその存在性では、
作り手の社会的な位置を確認するには、
誰もが悩む大きな問題だと私は思っています。
私は、金沢美術工芸大学入学直後に、
柳宗理先生にはこのキーワードは強調された体験があります。
それ以後も数回、「アノニマス」については、
自分でも記述したり、インタビューを受けたり、
「自分が考えるアノニマスデザインのモノ」を提示しました。
だから、私には明確に自分とアノニマスの関係では、
すっかり整理がついています。
それどころか、アノニマスを強調する脆弱さとその反発力も、
理解し終わっている課題にすぎません。
ところが、次世代の専門家の様々な解釈を読めば、
もう一度、「アノニマス」とデザインの関係について、
私の再洞察を要求されました。
再考を教示されるということが、私は「労作」ゆえに、
新たな課題、問題を与えられたと判断したことになります。
この著作の冒頭には、
まだ歩いていた頃の自分の写真が掲載されていました。
それを眺めると、私はもはや、
この世界に二度やってきているという印象があります。
「アノニマスデザイン」はこれからもおそらく、
職能家の社会的な存在性に深く関与していくと思います。


目次を見る

「大きなヒントだ!『危機とは、何が危機か』」


   


     5月 7th, 2013  Posted 12:00 AM

「March.11.2011」を体験した私自身の運命。
私はデザイナーという天職である幸運があり、しかも車倚子生活。
自分の生涯でこの国難と真正面に対峙しなければなりません。
そして、大学を退任しましたが、
「までい-Project」=東日本大震災の復興デザイン計画と、
それをさらに大きな視野で捉え直す「危機管理」へのデザイン。
これが私にとって最期の仕事になると常に言い聞かせています。
「危機管理工学プロダクトデザイン寄附講座」を率いています。
しかし、危機管理学・危機管理工学、
さらに、危機に対するデザイン、プロダクトデザインの学際化。
この学際化で「危機への臨機応変なデザイン」と、
その「産業化」をめざしています。
問題は、「危機とは何か」ということ、
私の定義づけの言い換えは、「何が危機か」です。
おそらくこれからも、このFBで、
その「応答・回答・解答」デザインを記述していくでしょう。
資料を読み込んできましたが、
最近、この「危機とは何か」について、
真正面からしかも冒頭で、
この考察を「ことば」にした本にやっと出会いました。
とても大きなヒントです。
というよりも、私の人生でこうしたことは度々起こります。
それは、常にこの「問題提起」を掲げていれば、
誰かにささやかれたように、思考のヒントを目前にするのです。
まず一回読んで、さらに私が読みあさった資料から、
この考察のままでいいのだろうか、と再思考します。
結論は、
まだ浅薄過ぎると言うのはこの学者への反論のようですが、
それは、私がデザイナーであり、大学人として、
しかも「危機管理デザイン賞」を選別する責務での判断です。
さらには、「危機管理を成就する産業そのもの」に、
プロダクトデザインで主導していくことだけに、
私は、これだけの定義では無いと明言しておきます。
危機管理学と工学とプロダクトデザイン、
この三つの学際化によって、
この天災と人災、日常が「危機状況」に対して、
わが国の産業化をと考えています。


目次を見る

「男の嫉妬を消去せよ」


   


     11月 6th, 2012  Posted 12:00 AM

男は外に七人の敵ありと言われますが、
それは、男として生まれてきたなら
当然の道程にあるバリアーだと思ってきました。
しかも、私は団塊の世代(大嫌いな言葉ですが)ゆえ、
受験時代、サラリーマン時代、職能界(私はデザイン界)での
競争も含めて、納得の事実経験です。
私は、自分には正直、嫉妬心はありません。
ジェラシー無く、ライバル意識を整理整頓しています。
というより、障害者になってからの差別感は、リハビリ病院内や、
障害者界でいっぱい体験しました。
その前に、東芝を辞職した途端にどれほど体験してきたことでしょう。
そして、私は「敵をつくらずして味方はできない」説、
これを信仰して生きてきましたから、
「敵」と思ったら、人間関係など破綻させて構わない、
とすら思う輩ゆえ嫉妬心を消去可能なのです。
これが最も「正眼の構え」を保持できる知恵とすら思っています。
だから、男の嫉妬心をつぶさに観察し分析も可能です。
そして、我が身にかかる火の粉は、
私の極度の冷徹さ温度を極限にセットゆえ消失実現可能です。
前置きが長くなりましたが、
たとえば、日本企業の経営失速の第一因は
「企業内男嫉妬闘争のなれの果て」があります。
政治も、経済界も、商業界も、
全ての業種においての稚拙な男の嫉妬合戦を見つめています。
さらにそれはインターネットでの裏チャンネルにあふれています。
「下らん!」の一言を発するリーダー無きわが国なのかも知れません。
昔なら、ライバルとジェラシーを分別し、
ライバルならば、
「決闘」で命を代償にするほどの闘争で決着を付けていました。
しかし、男の嫉妬はライバル意識という高次元性では無くて、
低レベルのジェラシーに過ぎません。
私は、これまでこのように考え、面前で発言してきました。
「高校生時代までだったら、きっと、貴男を殴り倒している、
貴男はその程度ゆえ、縁を切らせていただきます」、と。
味方と信頼している中にこそ、裏切りが生まれます。
敵対視して、ライバル意識で闘争すれば、友情が芽生え、
敵をつくれば味方は、敵の中にこそ生まれてきます。
これが、60代になって確認できた男の処世術戦法だと思っています。
「敵無くして味方は生まれず」です。


目次を見る

「ブランドが新素材カーボンに取り組んだとき」


   


     9月 28th, 2012  Posted 12:00 AM

カーボン素材は、歓迎された割には展開が稀少なモノです。
私も車椅子の開発ではカーボン素材と相当に格闘した経験があります。
カーボンは、確かに「夢の素材」とずーっと言われてきた割には、
製品展開が限られています。
当然、このブランドはいち早く、ビジネスバッグにしました。
平面的な取り扱いで、その裏面処理は困難だったはずです。
しかし、このブランドならではの皮革が、
バッグ内面に接着と縫製で見事に仕上げています。
おそらく、ビジネスバッグの中でも、
最高級品・最高価格のモノにならざるをえなかったと考えます。
製品開発においてデザイナーの希望は常に「新素材」を選ぶことです。
そして、たいていは諦めを余儀なくされます。
理由は、とても普及価格になるはずがありません。
たとえば「チタン」、
これは軽量ですが、表面処理が限られ、しかも溶接となれば、
それだけの製造工程を新設と技能が要求されます。
たとえば「マグネシウム合金」、
これも、生産工程での発火対策が完備されなくては不可能です。
たとえば「ボロン」、
これはあるべき素材と言われながらも、
未だに大量生産されても「何に展開可能か」という発想が不足しています。
よって、存在しない素材と言ってもいいでしょう。
そうなると、カーボン素材をどれだけ高額商品になっても、実現できうる、
それが「ブランド力」そのものを証明しています。
もう一回り大きいサイズがありますが、ほとんど限定生産でした。
今でも、カーボンとなれば、その商品は限定されていますが、
その最終仕上げは、
このバッグを超えているモノは皆無といっていいでしょう。
このバッグは相当に使ってきました。
結果、一度、ヒンジ部位が壊れました。
修理に出してみて理解できたことは、
まるで新品のごとく
不具合な要求していないことも完全に修繕されていました。
「ブランド力」とは、たとえ高額商品になったとしても、
市場を必ず持ち得るユーザーを見込んで
「企画製造・計画製造」が出来るかどうかでしょう。
私の体験では、エンジニアの理想を展開して、
最高価格帯商品を発売したところ、それは予測以上にヒットしました。
それも「新素材」を選んだ製品開発の結果でした。


目次を見る

「散髪がシステムデザインされているから気に入っている」


   


     9月 17th, 2012  Posted 12:00 AM

車椅子になって、リハビリ病院を退院した直後、
私は東京のあるホテルで暮らしていました。
散髪はそのホテルの伝統ある美容室でカットしてもらっていました。
その担当の方が自店を持たれてからは、その美容室でした。
ところが、特に大阪では阪大病院に入退院が多くて、
阪大病院の美容室で十分でした。すこぶる上手な美容室です。
そして、最近は多忙さもあり、
羽田空港のこの散髪屋さんが気に入っています。
10分1000円=edyカードが使える私にとって、
なんだか嬉しい金払いが出来る場所です。
「散髪はここで」と言うと、みんながビックリします。
私は利用を薦めます。
なぜならこの店舗内の「合理的性能性+機能性」は体験するべきでしょう。
髪は自然と延びてくる物であり、
文明での散髪の歴史は、外科医の源です。
ハサミとは髪を切る用具効能だったということにつながっています。
この店で同席する人は、「禿げている人」が多いのです。
<禿げ頭なら経済的な効率性・コストパフォーマンス性は高い>
と、申し訳ありませんがそう思います。
読者諸兄で「禿げている人」、ちょっとごめんなさい。
幸いなことに私は、母方父方両方が禿げません。
だから、従弟が白髪長髪にしているので、
「なぜだ」って聞いたら、「禿げないで、ここまで長い」と、
見せびらかしているという冗談を言ってました。
私は、敗血症で重篤になり、生き返ったら、
髪が大量に抜けて怖い想いをしました。
ドクターは、あれだけの薬を使ったから後遺症であり、
はやくて2ヶ月、長くて2年で元通りになると告げられました。
なるほど、2ヶ月で抜けなくなりましたが、
最近は年齢のためか、髪にコシの強さが失われつつあります。
ともかく、散髪は羽田のこの散髪システムが気に入っています。
いつも、このシステムをもっとこうすれば、
散髪システムのデザインは高密度に完成度を持つとイメージしながら、
カットしてもらっています。
この夏は、思い切り短髪にし過ぎてしまいました。
だから、しばらく散髪は行かなくて良さそうです。


目次を見る

「日本が貧乏になっていく、と思うのは・・・」


   


     8月 23rd, 2012  Posted 12:00 AM

私の移動、その大半は飛行機です。
そして、プレミアムシートでは軽食が出ます。
その軽食の種類、量、
パッケージが段々とコストダウンをしていくのを見ると、
「貧乏になっていくなー」と感じます。
敗戦後、日本は「豊かな国、国民になろう」と考えました。
結果は、貧乏だというのはお金が無いこと。
お金があれば「豊かになれる」と思ったのが、気がつくと、
それは「豊かさ」とは全く違うことがやっと分かったのでしょう。
最近は、格安航空券ブームです。
したがって、この軽食の質も格段にコストダウンをしています。
シャンパンがまずブランド品から格下げになり
スパークルワインになりました。
最も明解なのは、ファーストクラスの食事など、
「これが?」というほどになっています。
無論、それは一部のことだと言えますが、
「貧しい」ことの解釈が「豊かさの勘違い」を引きずったままだからです。
航空機会社ではファーストクラスを廃絶したところもでてきました。
世界的な傾向でしょうし、
それがスタンダードになっていくのだと思います。
私には未体験ですが、客船でも1等客室も2、3等客室でも、
食事は平等になりつつあり
それなら3等客室で十分という話を聞いたことがあります。
つまり、「貧乏」というのは、
「贅沢」との格差、その感じ方だと思います。
「贅沢さ」=「豊かさ」ではありません。
「貧乏」=お金が無いことではありません。
今、私たちに問われているのは、可処分所得の高低が貧乏さを決定したり、
贅沢・豊かさ・貧しさ、ということへの、
自分自身がどのレベルで「心」を満腹に出来るかということです。
ちなみに、「心」とは武士道では「腹」にあり、
よって、「切腹」とは、
腹の清らかさを確認する自死行為だったということです。
だから「腹づもり=心構え」こそ、
貧乏も贅沢も切り捨てた美学だと思っています。


目次を見る

「少数派のためのデザインから・再度、再検証」


   


     8月 21st, 2012  Posted 12:00 AM

ワイフが母校で特別講義を、ということになりました。
そこでのテーマの相談を受けて、
彼女なりの調査や読書を聞くと、
デザイン史的にはきっちっりとまとまっていないことを知りました。
「生きのびるためのデザイン」
「E.H.エリクソンのノーマライゼーション」
「1970年から準備された1981年からの国際障害者年」
この三つを軸に、
1973年からはわが母校の卒業課題化された「少数派のためのデザイン」や、
私自身が障害者になり、
1998年のNewYorkで開催された国際ユニバーサルデザイン学会、
この学会には私自身も特別講演をしました。
「ユニバーサルデザイン」については、
政府に対して最初の報告書を書きました。
特に、1960年代に
米国・英国・カナダでの「アクセシブル」というデザインコンセプトや、
ユニバーサルデザインという言葉の詳細や系譜、
それらがまったくまとまっていないことを知りました。
これは、私がまとめておく必要があると思っています。
すでに、私の役割には次世代デザイナーに伝えおくべきことが
余りにも多く残っている気がします。
特に、「ユニバーサルデザイン」を軸とするなら、
この歴史的なコンテクストも
故ロナルド・メイス中心で語り残されると思いますが、
これはもっと深く、故マイケル・カリルの存在を書き残す必要があります。
これからこの仕事をやり終えないといけないと思っています。
歴史は、その時期に政治的に記述されると、
それがあたかも「真実」になります。
これは「歴史」の真実です。
「民衆は声を持たない。
己を自覚し自らに誇りを抱くことさえ、
彼らには許されていない。」
私は歴史に向かうとき、この言葉に戻ります。
デザイン史となるべき、私の体験での知識と見識は書き残します。


目次を見る

「10年使用すると、そうだったのかということ」


   


     8月 17th, 2012  Posted 12:00 AM

私は車椅子になってから車を所有しました。
いわば男の子としての車への趣味性は一応満足しています。
工業デザインを学んだ者としては、
車はまさにカーデザインとして興味は人並み以上です。
教育者として、カーデザイナーを育成しました。
今現役デザイナーとして車メーカーや
そのメーカーの海外デザインセンターに赴任しています。
私自身どれだけの車に乗ってきただろうかと思い起こすと、
結構な車種所有と使用経験があります。
しかもすべてが手動用に改造しましたが、
これには国内事情が絡んでいて一家言持っています。
さらに個人的には運転手も雇っていましたから
ハイヤーの運転手程度の運転技術を知り尽くしています。
正直、国産車は一度も所有はしていません。
自分用に相当に改良をしたり、キャデラックのロングリムジンは、
クライアントからプレゼントされて乗っていた時期もあります。
現在は夫婦2人なので、ベンツSL500一台だけです。
先般までは、S320を徹底的に使っていました。
そうしたら10年使用ということで、
ダイムラーベンツから感謝状とメダルが届きました。
友人からベンツにはこうしたサービスがあると聞いていましたが、
それなりに嬉しいものです。
私は絶対にベンツには乗らないと思っていましたが、
ある時、車に詳しいスタッフの薦めでショールームに出かけ、
しかもGマークでSLKを確認してその発売されて以来、
セダンからワゴン、スポーツタイプと乗り継いできました。
おそらく、今乗りたい車は2種あります。
これを所有すれば、
私の生涯と車体験はとても幸運だったということになります。
そして、10年も工業デザインとしての成果品ユーザーへの感謝を
企業がサービス制度にしていることは嬉しいことです。


目次を見る

「随分改善された車椅子対応までのエピソード」


   


     7月 30th, 2012  Posted 12:00 AM

車椅子になって、新幹線での乗り降りには、
私には相当の闘いがありました。
東京から新幹線に乗ろうとしたとき、
かつては1時間前に駅に行かなければなりませんでした。
東京駅では業務用エレベーターで、
東京駅地下道・妙な臭いの空間を通るのです。
そこで、ある衆議院議員の秘書の方と
国土交通省に陳情に行ったことがあり大喧嘩をしました。
新幹線に限らず、
「駅長室」ここに駅長さんがいるわけではありませんが、
それこそ、抗議を随分やったものです。
国土交通省での私の戦闘論理は簡潔に仕組みました。
「海外から車椅子旅行者が、業務用エレベーターに乗せられ、
そして地下道、その臭いを知ったなら、日本のイメージががた落ち」。
当時の扇大臣が視察をされて驚愕されて改善計画が始まりました。
それから3年後に現在のエレベーターが設置されました。
米国のアムトラックでの車椅子対応と車両設計の合理性を
体験していたことが私の背景でした。
最近は、写真のようなホームから車両までのスロープが用意されています。
駅員の皆さんも大変に親切になりました。
それでも時に大駅ほどとんでも無い事態に遭遇します。
詳細は書かないでおきます。
しかし、私は、
このようなスロープでは限界がやがてくると想像しています。
飛行機での車椅子対応は、航空各社で多少差異がありますが、
最近では、必ず、車椅子の人に2~3組出逢います。
おそらく、これからはもっと、
車椅子使用者の列車利用が増えることは間違いありません。
おそらく、5組の乗降があったなら、
列車の停車時間内では対応が困難になるはずです。
車椅子対応の車両も北陸線「サンダーバード」では一組しかありません。
グリーン車内には車椅子巾がなければ乗降不可能です。
つまり、列車の車両デザインそのものを根本から変えるべきです。
ホームと列車間の隙間をスロープで解決している限界があり、
車両のトイレ洗面はもっと基本的ユニバーサルデザインが必要です。
こうしたデザイン設計できる
列車車両の次世代デザイナーに期待することです。


目次を見る

「このポスターに見たデザイン界の「差別」」


   


     6月 29th, 2012  Posted 12:00 AM

1980年からの「国際障害者年」正式ポスターです。
ちょうど私はリハビリトレーニングを終え、
「車椅子生活」をスタートさせたときでした。
大きなショックを受けました。
健常者=真っ直ぐなローソクに、
折れ曲がったローソク=障がい者が寄りかかっています。
これを世界のデザイン界トップ連中が選んだポスターだとは?
私は世界のデザイン界ですら、
象徴的ビジュアル表現とは「この程度でしか無い」とは、
デザインの本質はまだ見いだしていないと思いました。
おそらく、このデザインをしたデザイナーは健常者でしょう。
私は、折れ曲がったローソク側の人間です。
たかがポスターで、
これほど見事な表現と思われるかも知れません。
しかし、障がいを背負って生きて行く立場の者には酷です。
私の決意は障がい者デザイナーとして、
国際的にもデザイン界ですら、
人間の無知と差別感に立ち向かうことでした。
健常者だったときには、
思いもしなかった差別感はこのポスターでのショック以上を
これまでどれだけ体験し感じ取ってきたことでしょうか。
とりわけインターネットの裏側での差別発言は残酷世界です。
私は車椅子になったことがどれほどの「幸運」でしょうか。
まず、ふるさとに「内部障がい者」の存在があること、
国際的にも11月には中国でも、
デザインの本質から、
私のデザイナー的人間社会の差別感解消、
その結論を話すつもりです。


目次を見る