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Posts Tagged ‘全否定’


『さようなら、そして至極無念です』


   


     10月 20th, 2017  Posted 12:00 AM




本当にありがとうございました。
そして、とても無念です。
西室泰三さん。
東芝の社長、会長から東京証券取引所から日本郵政、ゆうちょ銀行など、
日本経済界のスーパーリーダーでした。
東芝はじめの不正会計では、もう極悪役として語られましたが、
私には無念でなりません。
真実とはかけ離れた世間の風評に私は言いたいことがいっぱいあります。
おそらく、日本の経済界ではトップの英語を駆使する人物でした。
西室さんは、君のメガネもステッキも私が一番のモデルになってやるよ。
この企業の社長に会いたいと言えば、
絶対に会わせていただける人物であり、
同期入社だったS氏が東芝社長になったときも、
「川崎くんをいち早く原子力研究所に」と、強く推薦していただきました。
(美大出身が・・・こんな空気の中で・・・)
「彼は君たちが考えているデザイナーじゃないんだ」と強く後押し。
私は原子力研究所で6次元CADを知りました。
(これで、日本は大丈夫だ!)と。
それが翌年3.11での原電人災事故。
「川崎くんをすぐに呼びなさい」と。
私は10ヶ月かけて復興計画を書き上げて、石巻市にプレゼをしましたが・・・
民主党政権下(絶対不可能)での防災大臣にもプレゼ。
だから今なお、デザインでの復興計画から、南海トラフ対策にも、
私は何と言われようとデザインでまだ取り組んでいます。
しかし、175年の東芝の歴史は、不正会計で、
とんでもなくもはや企業性を失ってしまいました。
その責任も負わされて、彼が日本経済を護り抜いた数々のことが、
全否定までされてしまいましたが、
私には「日本はこうあるべき、だから」ということで、
私の新商品発表会にまで顔を出していただきました。
そういうことだったのか、と、デザインを受け止めていただいていました。
だから、とても無念でなりません。
必ず、本当の評価がやがて来るはずです。
西室さん、私はとても感謝しています。
合掌


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『二等辺三角形の点と辺:線の配置から要素と要因』


   


     4月 25th, 2017  Posted 12:00 AM



正三角形は仏教的には存在しない、ということを私は全否定をして、
正三角形を造形言語とし企画書図解に応用してきました。
その正三角形には4つの配置を基本にしています。
そこでさらに、その配置から一つを取り出してみれば、
三つのグラフィカルなレイアウトを例示することが出来ます。
bとcを要素として、点aに統一されたとするなら、
b-cとaが近接しそうとするなら、
そしてb-cの距離:これは要素bと要素cは要因の距離感を表しています。
これとは対照的にb-cのセンターから、
点=要素aは、近づいているbとcが
aに統一される要因の最短距離もしくは最短時間、費用を示しています。
私たちは欧州的な三位一体ということに慣れ親しんでいることで、
金剛三乗や阿弥陀三尊の配置、その要素と要因を知りおくべきでしょう。
とりあえず金剛はダイヤモンドの具体名であり、
鋭利な武器を具体化することで、
抽象的には知恵の要素を3つとし、
なおかつその要素の連鎖性を3つに要因化しています。
デザイナー諸氏には、変形、特に二等辺三角形の4つの配置を
金剛乗的な思考方法の図解化です。
正三角形と二等辺三角形は思考の要素と要因、これらの配置が、
造形言語になることを私は再度提示したいと考えた結果です。


* 『アナログの極致=レコード再生のカートリッジ』
* 「カレイドスコープ=万華鏡というレトリック」
* 『負のサイクルを即刻停止させるデザイン』
* 『パノラマ的な拡大は詳細を見詰めることだ』
* 『曼荼羅図に「思」と「考」を配置して論理を確認する』


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『芽生えることと確認すること、ライバルとジェラシー』


   


     9月 26th, 2016  Posted 12:00 AM



点と点、この2点があれば線になります。
これを直喩して視線=眼差しを考えてきました。
eyepointとviewpointにまなざしが出来るという具合です。
ところが、空と海に水平線があるというこの写真作品は、
空に点、海に点、だとするなら・・・違います?
水平線は地球の輪郭線ですが、
視野あるいは視界には直線の水平線があります。
この線は、全く不滅、歴史的にも何も変わらずに人間の視界では不動です。
現代美術というジャンルだということですが、
「現代美術とは何か」という作品ではないのです。
「この水平線が現代美術」という見事な解答になっています。
自分が美大時代にそうなんだと納得した宮川淳の評論で理解したことです。
だから、「デザインとは何か?」ではなくて、
「これがデザイン」というのに、最もふさわしい作品なのです。
ライバルに立ち向かっても、決してジェラシーという心は全否定、
「これがデザイン」というのをめざして活動をしてきました。
無論、ジェラシーがふつふつとある瞬間には、
何度も何度も自分も最悩まされて来たことは正直ありました。
先日、美大時代の同級生と、確かに喧嘩はしてきたけれど、
あれはライバルだったから、これからもライバルだけど、
ジェラシーなどは全く持たなかったよなぁと確認し合ったのです。
水平線を切り取って見せてくれた、
「これがアートなんだ」と思い起こしました。
「何がデザインか」をまだ追い求めます。


* 「アーティスト、デザイナーにだけ降りてくること」
* 『鏡映は冥府に降りていることゆえに「何がデザイン?」』
* 「表現としての美術とは?、教えられた宮川淳」
* 「AppropriationーDesignに紛れ込んできている危険性・1」
* 「男の嫉妬を消去せよ」


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『「●●とは何か?」、質問形式とその答えは能無しである』


   


     7月 2nd, 2016  Posted 12:00 AM



踏みつけたくなるタイトルがあります。
それは「●●●●●●とは何か?」、という文章タイトルです。
たとえば、「デザインとは何か?」とか、「建築とは何か?」という、
とりわけ自分のプロ意識、職能意識にとっての
いわば質問形式のタイトルです。
そしてこれまでも科学的な知識を述べてきた書籍、講演、
あるいは運動などで、このような質問形式のタイトルが出てくると、
まずセンスの無さ=無能なる自分修練の浅薄さを感じます。
なぜなら「●●とは何か?」を全否定した芸術評論家の衝撃な思考のあり方、
あるいは、とりわけ「現代芸術のあり方」理念の
初期認識論を読んでいないからです。
「現代芸術」ほどその解釈や思考はとても困難なはずですから、
いわゆるハウツー本などで
この問いかけから始まる書籍は捨て去って構いません。
ところがハウツー本でもないのに、
この質問方式は能無しの典型だと断言できます。
これには二つ論理性で理由がつけることが可能です。
一つは、情報化時代直前に、この質問形式では、
これからの知的思考方法は時代遅れになるということ。
そのためには「■■■■が●●になる。」ということで、
「●●とは何か?」では無い論理組み立てが要るという発想があったのです。
もう一つは、「●●とは何か?」という質問での答えには、
三つの答の分類が出来るのです。それは、質問が
話題:Topicsであれば応答:Replyであり、
課題:Questionであれば回答:Answerであり、
問題:Problemであれば解答:Solutionになるということです。
したがって、「●●とは何か?」という質問での答が
応答、回答、解答のいずれかであったとして、
単なる応答や回答であるなら、その論理性は崩れています。
新たで明確な論理的な答であるなら解答でなければ意味はありません。
この写真の書籍での第一章からの質問形成では応答にすぎません。
よって、こうした書籍内容は能無しと判断しておきます。

*『鏡映は冥府に降りていることゆえに「何がデザイン?」』
*『表現としての美術とは?、教えられた宮川淳』
*『ベクトル論理では「何がデザインか」となる』
*『デザインは機能美ではありえない』
*『記号論・文庫版になった定本だから再熟考対象だ』


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『イラスト・漫画はデザインスケッチでは無い』


   


     3月 22nd, 2016  Posted 12:00 AM



デザイナーにとってスケッチは明らかに一つの技能であり技術です。
ただし、僕は恩師・故柳宗理先生からは、
「レンダリングなんぞ上手くなるな」と教えられましたが、
僕はいつも反抗していました。
「レンダリングが描けないと企業入社は出来ない」と
たてついていましたし、実際はクラス(工業デザイン専攻)の中では
基本的な入試でのデッサン力も無くておそらく最低の下手くそでした。
だから社会人になって、レンダリングが上手くなることは
僕には義務でした。
実際、フリーランスデザイナーになってからも、
デザインスケッチとラフレンダリング、レンダリング技能を
日課として
自分精進の大きな目標でした。
それからパソコンの登場では、Macintosh 128kに、デザイナーの未来、
つまり、MacPaintとMacDrawに将来のデザイナー技能が見えてきました。
多分FullPaintで僕自身がトレーニングをして描いたのが
パソコンでのレンダリング、その最初のものだったと考えています。
今では、iPad Proで、かなり描ける時代になりましたが、
パソコン、EWSでのレンダリングソフトは全て追いかけてきたと思います。
しかし、最近はデザイナーがスケッチ技法での大きな間違いがあります。
簡単に言ってしまえば、
デザイナーにとってのスケッチ、それからレンダリングというのは、
あくまでもデザインスケッチであり、
その基本はデッサンでも「デザインストローク」での訓練が必須です。
それは、いわゆるイラスト描法でも、まして漫画描法でもありません。
なぜ、イラストや漫画では「デザインスケッチ」にはならないかを
書き残しておきたいと考えます。
すこぶる簡単です。
イラストにしても漫画にしても、そうした描画、特に漫画には
画枠があるのです。
つまり、画枠内でのイラストや漫画では、デザインの根本である
「発想の限界」を与えてしまうのです。
発想に限界を絶対に与えない手法である技能=技術がデザインスケッチでは
必ず求められなければなりません。
私はたとえばモレスキンにしても蛇腹の「ジャパニーズスタイル」を使い、
パソコンやiPadであれば、画面を相当に大きく拡大して使います。
デザインスケッチでは、
決して限界を与える画材や手法は使うべきではありません。
レンダリングを全否定していた故柳宗理先生には
描画に与えられる画枠からの解放を教示されていたのです。


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『葉巻文化と筆記具文化の統合性は凄いのだ!』


   


     2月 22nd, 2015  Posted 12:00 AM


絶対禁煙を心がけてきた私でしたが、
喫煙風習と人類の文化性を否定することは出来ないものでした。
そこで、60歳を過ぎ、しかも心臓障害者でもあることからも、
全否定論者でしたが、ドクター、訪看ナースに止められてしかも
このコトを記すれば、ワイフは勿論、数名に叱られます。
けれども、文化の神髄に潜む私なりの美意識については、
なんとしても見識の深度を求めに求めました。
ところが、流石に風邪にやられて体調もおかしいともなれば、
反省の極みにまで引きずり込まれてしまっていました。
にもかかわらず、とうとう、「そうか、ここまでの展開が!」、
ということで、ヨーロッパから葉巻そのままのボールペンが来てました。
ベッドで寝込みながらも、このボールペンを使ってみたいまでに、
私は葉巻の書籍を徹底的に読みあさっていました。
コヒーバ銘柄を選んでボールペン化したセンスの深さには、
キューバ産独特の歴史性があり、隠れ知られた銘柄歴史こそ、
私は葉巻文化と筆記具文化とのことこそ「統合性」の証を認めます。
確かに、煙草文化は健康的な大問題での全否定は確実であり、
だから葉巻ならというのもすでに科学的には否定に向かっています。
そうした時代的科学性の否定をも包み込んでも、
私は、この筆記具の文化的な背景には美学性を認めざるをえません。
そうなれば、なおのことあらためて健康を求めざるをえないのです。
風邪をひいても38.5の高熱でも本は読めるのですと、かってはOKが、
今回はとても無理だと知らされました。
葉巻に関する本を読みあさり、それこそそこまで読まなくてもとかを
プロからまで言われて、しかも、筆記具発見をしていることでは
大いに呆れられる有様でしたが、私は大満足のなかで、
なんとしても元気にならなくてはいけないことを、
コイーバの葉巻伝統の文化ゆえに、この統合的な展開を
本当に「身をもって分かった」と言っていい経験のモノでした。
この筆記具の性能性は、
スタイラス重量感の最適性を完成させていることを知りました。


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「3D-PRINTINGの発展とそのデザイン進化を日本から発信」


   


     7月 2nd, 2013  Posted 12:00 AM



「3D-PRINTING」という技術をデザインで進化させます。
光造形=ラピッドプロトタイピングは日本の発明でした。
この系譜をスタートから実務化してきた少数の知的思考は、
欧米の方向とは、全く異なる世界観を創出しました。
欧米、特に米国で流行化している「MAKERS」思考は不採用です。
オバマ大統領の所信表明の誤謬と選挙手法を疑いました。
家庭用と工業用の混在で生まれた流行を傍観検証しました。
あくまでも、この流行で未来を呼び込むことは大間違いです。
私自身は、ラピッドプロトタイピングを随分試してきました。
だから、安易に「金型に使える」という大企業の知識不足を
疑うとともに全否定することができます。
3D-PRINTERと3D-PRINTINGを明確に使い分けます。
そうなると、この機器そのものである方式が気になります。
単に「インクジェット」と言っても方式は3つもあるのです。
そして、最も注視しなくてはならないことは、
「素材のあり方」です。
そして、これが未来へのイノベーションと言うなら、
現在のモノを立体印刷する、次の時代を見つけ出すことです。
私はずばり、この方向ですということはしばらくは㊙にします。
なぜなら、私はこの日本の新たなMade in Japan DESIGNを
趣意書=Prospectusにしていきたいからです。
「モノづくり技術立国」を「モノづくり美技術立国」として、
世界で最も信頼と憧憬される国家にしていきたいと思います。
すでに、私は3D-PRINTINGの専門家集団を選びぬきました。
それは、光造形から粉体造形、3D-CADのこれまでを知り尽くし、
さらに家庭用、業務用、産業用、それぞれで何が可能だろうか、
何が3D-PRINTINGで実務になるかを想像した人に限るのです。
私は、現在の日本、大企業から中小、地域、伝統工芸産地で、
様々なデザインを試行錯誤してきました。
だから、3D-PRINTERの技術とデザインが革新する領域、
この領域にこそ、このダイナミクスが立ち向かうことを
明確に認識して実行して、日本から発信、阪大から発信します。


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「生きることの模範・範疇・範囲として」


   


     3月 5th, 2012  Posted 12:00 AM


マリアン・デレオ監督「チェルノブイリ・ハート」、
これは「反原発」のドキュメンタリーです。
このドキュメンタリーは重大な原発事故後の報告映像です。
どれほど原発事故が人類史上悲惨の極点を伝えています。
そして、この映画の冒頭には
「日本人のみなさんへ」という次の詩が流されます。

「生きることについて」

生きることは笑い事ではない
あなたは大まじめに生きなくてはならない

たとえば 生きること以外に何も求めないリスのように
生きることを自分の職業にしなくてはいけない
(中略)
そのことをいま 嘆かなくてはならない
その哀しみをいま 感じなくてはいけない
あなたが「自分は生きた」というつもりなら
このくらい世界は愛されなくてはいけない

私たちが原発事故で佇むべき熟考の
動機付けになると確信します。
無論、日本は原爆被災国家であり、
さらにフクシマでは、自らの原電制度によって、
またもや「原子力発電・放射能」について、
多大な犠牲者の屍への哀しみを、まず、国家体制へ、
そして私たちの電化生活文明への猛反省を求められています。
私は「反原発・脱原発」も「原発推進」も、
結局は「放射能」へのアポリアで思考停止していると考えています。
「範原発」という目標と目的を掲げ直したいと提案します。
原子力発電所を、「建設から生産へ変更」、
「集中から分散へ、例えばタービンレスへ」、
「プルトニウムへのブレークスルーで別原子核へ」、
原子力技術の全否定=「反原発」は、
何も解決に至らないから「原子力技術自身の革新」を主張しています。
その具体例をデザイン提案していきたいと考えてきました。
私はこの原子力技術の手法の変換、革新、
その範疇・範囲・模範への智恵創出を
「範原発」と呼ぶことにしています。
チェルノブイリの立ち入り禁止地区という範囲には、
絶滅したはずの動植物のパラダイスともなり、
その範囲からの放射能汚染・ホットスポットは今なお人間の生存、
遺伝子破壊は連続しています。
放射能・放射線の諸刃の剣的な人間との関係性に「範」を与えること、
この重大さに発想を向けるべきではないでしょうか。
美しい花を愛でて日常を高度文明の中で護られ、
生き抜いた結果の死だからこそ、
美しい花に包まれた死をと私は願っています。


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『資本主義からの逃走』
 「文脈の始まりは、リハビリトレーニングからだった」


   


     8月 27th, 2010  Posted 12:42 AM

私自身の文脈
再度時間を戻します。
私がリハビリ病院でのトレーニング、その体験を今、振り返ってみると、
それは「哀しみ」を傍観し客観していただけであったと思います。
まったく主観視はできていなかったのです。
こんな思い出がいまなお去来し、悪夢になることがあります。
人間の「文脈思索の背景にある恐怖感」です。
上京して社会人になったときは、東横線で日吉から銀座に通っていました。
その時、車窓から大きな病院が見えていました。
その病院の体育館=リハビリトレーニング場から、ある日、東横線を見たとき、
〈なぜ、自分はここに居る羽目になったのだろう〉としか思えず、悲しかっただけでした。
この悲しみが哀しみに至るまでが、私自身の文脈が始まっていたのだと今なら思えるのです。
阿鼻叫喚の場
毎朝、ビートルズのOb-La-Di, Ob-La-Daを踊っている人たちがいます。
彼らは精神的な障害を持っている人たちでした。
ほとんど寡黙でまなざしはそれぞれが一点を見詰めているそんな集団は、
その踊りで彼らのトレーニングが終わります。
その後は、頸椎や脊髄損傷(私はその一人)、
そして脳溢血障害で半身麻痺の患者たちのトレーニングが始まるのです。
あっけらかんとした大きな笑い声と、泣き声や叫び声が体育館に毎日響きわたっている場でした。
ここは阿鼻叫喚・地獄かもしれない、そんな恐怖感を何度抱いたことでしょう。
幸いにして、私は恋人がほとんど身の回りを看ていてくれたり、会社の上司や同僚、
大学時代からの親友が絶えず見舞って励ましてもらいました。
だから、その恐怖に負けなかったのだと思います。
一日でも早く退院したい、
その気持ちだけで、次々と車イス生活のためのメニューを米国流で半年ですべてをこなしました。
これは、今、リハビリテーション医療に対してのデザイン提案の源泉になっています。
このブログでも以前に「resign」として記しました。
清々しい自分にもどるべき
メニューの一つをやり遂げると、OTやPTの人が、
「川崎さんは、段差越えをマスターしました、みんな拍手!」と言って褒められます。
ところが、これは拍手をされているにもかかわらず「嫉妬」を買い、
苛められることにもなるのです。時折、病院内で、後から急に引っ張られて転倒させられるのです。
人間社会の縮図は、リハビリ病院にもしっかりと文脈の背景は根付いていました。
私は、「文脈」、その背景には歴然たるものがあると断言しておきます。
おどろおどろしい非人間性が根底には必ず基盤になっているのです。
したがって、「文脈=コンテクスト」を人間的に創出するには、
自分を「純粋培養」させることだと確信しているのです。
それは、東芝に入社したとき、「清々しい自分、デザイナーでありたい」と、登録しました。
つまり、たとえ障害者になっても、維持していける自分で有り続けられるかということでした。
「文脈・コンテクスト」にある非人間性への怒りと全否定がなければ、
「文脈」を「想像」し、そこから「創造」の入り口にはたどりつけないと考えます。


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