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Posts Tagged ‘判断’


『Line発想により倫理性としての機能が明確化する』


   


     6月 19th, 2016  Posted 12:00 AM

Lineと言えば、
現代はSNSの一つの代表的なスマートホンの手法です。
しかしこれ以前に、米国の日常語=ほぼスラングに登場したlineには、
”a story or argument used to seduce someone”という意味があります。
この現代的な使用語の登場こそ、これまでのconceptでは到底困難であった
イメージや印象をすべて捨て去ることが可能です。
特に、「美的」であることの包囲性がconceptにあれば、
それは論理を超えた倫理性の必要性を再訴求することでした。
つまり、プラトンが「美しさ」を判断の決定要因に用いたということは、
論理ではなくて倫理的な判断によるものです。
倫理的な判断は、それこそカントの「純粋理性批判」で、
ようやく「感性」と「理性」を同格とした判断基準が最重要視されます。
デザインにとって、
「感性」と「理性」の合致性は「倫理性」になるわけです。
それは間違い無く「機能美」とデザインの再考を余儀なくしています。
まさに機能論はデザインの登場で語られる以前から論議されてきた
実際的な美学的な理性判断であったということです。
その理性判断の曖昧さを感性的な見方には理性判断と同等と決定した、
それこそカントの判断すらconcept発想は破壊してきたと断言しておきます。
もはや伝統となったことを曖昧にしてきたことがconcept発想であった、
というのがデザインでの美の創出で明確になったのです。
黒は全てを飲み込むブラックホールであり、
それは思考・論理をも飲み込むでしょうが、
ブラックホールとホワイトホールに設けた境界ラインに、
実は倫理としての「美学的な」決定ラインが表れていると主張します。
コンセプトという境界が、物語性すなわちアフォーダンスの配置は
決して登場させられない機能の再構成と構造を決めるでしょう。
その決定によって、性能・効能、そして機能として個別的、複合的、
さらに、統合的な倫理感覚をLine発想が可能になります。
それこそ、初めてコンセプト発想を解放することとなり、
その拡大的かつ深度を知ってもらいたいと自分は真剣に考えています。

*『コンセプト主義からの解放=デザインテクノロジスト』
*『SF映画が示唆していること=その真実性と想像性』
*『モノの神話性から物語り性がアフォーダンスを超えていた』
*『難問解決の大ヒントは「素材」開発デザインの美です』
*『乞食=こつじきの地になってならない! 造形美の神社』


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『コンセプトで「美」、その創出は不可能である』


   


     6月 18th, 2016  Posted 12:00 AM

「コンセプト」、この幻惑に閉じ込められて来た現代人の
発想・思考、そして論理構造を断罪しました。
一言で表せば、「コンセプト」そのものが曖昧で、
思考の源泉である知識・学識・常識の否定です。
そこで、「コンセプトの完全否定」から、
自分としては「ライン:line」発想・思想・論理を提案します。
理由は、とても明快です。
思想・良識・知恵は「真・善・美」に最終結論として到達するはずです。
したがって、少なからず、「真」である科学性・非科学性も、
「善」に関わる思想・理念も、概念では説明すら曖昧になります。
それが「美」ともなれば、
「コンセプト」には大抵大概にして「感性判断」を求められます。
ここに「コンセプト」では決して「美」には到達不可能であることを
まず「知る」ことが重要です。
それこそ、silienceで辿り着いた「知られざる知性・見識」であり、
「コンセプト」では決して
「美」を語り切ることが不可能だということです。
感性での「美」の判断はとても「コンセプト」論理では近接できません。
昨今はあたかも感性重視でのコンセプト発想が、
「美」をも絶対的に完遂するという思考が氾濫し始めています。
なぜ人は「美学」という学識で
連綿と美しさを追い求めてきたのでしょうか。
結論を言えば、
コンセプトで美は決して創り出すことは不可能だということです。
デザイン界もコンセプトと感性でこそ、デザインが形成されているという、
この幻想の中に封じられてきました。
それこそどれだけのデザイナー、芸術家、建築家などが、
コンセプトで語り切ろうとするこの曖昧さの中に
「美」をはめ込んできたのでしょう。
その実例が、機能的なデザインには美がある、という発想でした。
これは単なる曖昧で感性的なコンセプト論理でしかなかったのです。
あえて自分は「コンセプト」で語られてきた「美」の曖昧さを否定します。
この曖昧さを捨てるときに「ライン」発想・思考・論理に、
「美」が見えてくるはずです。

*『Silienceの原意・・・デザインが何になるかという意義』
*『デザイン言語表現がコンシリエンスデザインになる』
*『「真善美」をプラトンに教えられたから生きてきた』
*『たかがリモンコンではありえない』
*『若手芸術家の紹介から学ぶ『範・感性』の確認』


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『体内音が解説してくれる、聴診器にもっとデザインを』


   


     5月 24th, 2016  Posted 12:00 AM

「衣・食・住」に対して「医・職・趣」を提案しましたが、
この提案の図解ブログは人気がありませんでした。
ブログのユーザーアクセスを読み解くことで世情人気を
明確に把握と理解することができます。
同様なこととして、身体の内部には様々な音が存在します。
それぞれの臓器や血管・呼吸の音を
いわゆる聴診器で聴きだして、
身体内部での異変を読み解くことが出来ます。
米国の医学書籍の書店では「聴診器」での判断根拠となる
その音のサンプルが
商品として売られていましたが、
国内の書店ではそういう経験はありません。
聴診器という発明は文明の利器でした。
昔はチェストベース(患部へ当てる)と
イヤーピース(耳に挿入する)が象牙であって、
それだけで診断をする名医がいたものです。
ヘッドホンをデザイン対象にしていたこと、医学系を学んだこともあり、
聴診器はほとんど触って聴いて見てきました。
それこそヒューレットパッカードが製造していた聴診器があったこと、
これはほとんど知られていませんが、
ゴム管が二本のモノはなるほどと思います。
しかし、最近では電子式が出てきていますがそれを使用しているドクター、
それほどのドクターは居ません。
また徹底したデザインが採用されているとは言いがたく、
カラフルな聴診器を指して、
デザインされているというセンスは大間違いです。
人体内部の音は、臓器、骨格への刺激、血管中の流動音など、
もう一度デザインによる問題解決が必要な分野です。
電子式聴診器では、とても精密な音が身体から聴こえてきます。
今や、聴診器は死を確認するだけの道具、
医師と判断するシンボルにすぎません。
ドクターはオーディオマニアであってほしいと思います。

*『書店の存亡・バーンズアンドノーブル』
*『災害時の衣・食・住・医・職・趣その不便と不安の解決』
*『看医工学としての介護のコンシリエンスデザイン』
*『ゴジラというアンプ思想はアンプジラ2000に継承』
*『講演テーマで最近もっとも多い医学とデザインの「範」』


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『「学芸員の父」が母校の初代学長・森田亀之助でした』


   


     5月 20th, 2016  Posted 12:00 AM

この肖像はだれでしょうか?、といっても
一般的には有名ではありませんが、母校・金沢美術工芸大学の
初代学長・森田亀之助先生です。
終戦直後、金沢市には疎開していた画家や芸術家がいたのです。
敗戦直後の展覧会は行列になるほど、人は美術・工藝に癒やされたのです。
そこで美術学校を創ろうという話は議会テーマとなりました。
敗戦直後、何を無駄なことをするのか、と大議論になりました。
金沢市の判断は決まってこういう具合なのです。
「もし、前田の殿様が居たら、市民があれほど展覧会を喜んでいる、
 無駄だからというなら無駄でいい、今のこの敗戦時に不可欠だ」となり、
その初代学長の「美術・工藝そしてデザイン」という方針が決定。
専門学校、短大、美大の伝統理念になりました。
私はこの話を、Yちんという主任教授から聞かされました。
Yちんは光風会の画家でしたが金が無くなると先生宅で夕食を頂きました。
無論、先生への手伝いは色紙に描いた絵に落款を押していました。
絵が下手だったことで辞めようとしたときにも随分はげまされ、
他企業が受かっても卒業はさせないから東芝に行けという命令でした。
先生が倒れたと聞いた私は上司にお金を借り飛行機で金沢に帰りました。
もう暗くなった病室で、「来てくれたのか大丈夫だ、大丈夫」と言われ、
病院の玄関まで逆に先生に送られたのです。
ほぼ一週間後に、先生は逝きました。それを会社で聞きました。
だから東京で一晩泣きに泣きましたが葬儀には行きませんでした。
車イスになって 母校の非常勤講師を命ぜられた時に、
Y教授からの伝言をM教授から聞かされて
ビックリしてその命令に今も従っています。
が、その伝言に、M教授の前ではばからずにまた大泣きしました。
出逢わなかった初代・森田学長は「学芸員の父」と呼ばれています。
母校開設70年です。
その最初からを史実記録にしなければなりません。

下落合がずいぶん長い森田亀之助

*『オーディオ界で出逢った新技術と二人のエンジニア』
*『毎夏、再自覚決心の日』
*『やっぱり、なぜこれほど落ち着くのだろう』
*『終戦間際の消された歴史・亜細亜の中の日本』
*『天衣無縫な時代と社会に活気がある』


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『「座る」・人間工学からシーティングエンジニアリング』


   


     5月 1st, 2016  Posted 12:00 AM

28歳時に交通被災、車イス使用者として生きてきました。
車イスそのものを自分でデザインしました。
しかしこのブログでは一度もそのことを書いたことはありません。
もう最近は電動車イスでの移動の身体になりました。
しかも、身体には加齢もあるのか体型変化が起こってきています。
幸いに美大時代の同級生M氏は
シーティングエンジニアとしても高名であり、
彼から早く直すべきと忠告されていました。
確かに体型の変形は内臓にも影響を与えている実感があります。
そこで、彼は身体障害者向けの様々な製品開発や商品化もしていて、
その事業での「でく工房」社長T女史まで測定支援してもらいました。
いつか電動車イスは二人で組まないと素人判断のモノが出てきています。
私の体型診断と測定、
身体保持シートの再設計のために来学してくれました。
とてもいい機会なので、医学系研究科の教授や他大学の教授、
そして学生にすでに「座る」という行為の時代遅れの人間工学から
シーティングエンジニアリングのワークショップになりました。
なぜ、人間は二足歩行で、「座る」という行為の世界的なイスの系譜から
私がモデルになって体型変形の矯正方法や車イスがどうあるべきかを
もはや使えない人間工学を超えたシーティングエンジニアリングを
新たな研究ターゲット発見課題などを私の研究室で行いました。
そして、
今や間違いだらけの電動車イスの欠点から二人の狙いを語りあいました。
彼を私の講座の特別研究員にすることにしました。

*「音を求めて『闇『歴史的作品からの刺激をどう受け止めるか』
*『誤謬へのシンボライゼーションプロトタイプ』
*『「闇に座す」=土・立、修辞学的な造形の込めた願い』
*「デザインは『付加』するものではないということ・2」
*「関西海事教育アライアンス・6年目の演習課題プレゼン」


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『看医工学へのレジリエンスからコンシリエンスデザイン』


   


     4月 26th, 2016  Posted 12:00 AM

看医工学の設定は「医工連携」では無理という判断があります。
そして流行の「デザイン思考」でも「医工連携」は
無理という極めて正確な論理思考があります。
そこで「コンシリエンスデザイン看医工学寄附講座」が
阪大大学院医学系研究科に設置されました。
コンシリエンスデザインの具体的な対象は
「完全無菌」と「抗体保健」をデザインで実務化することでした。
しかも医学・工学・看護学・保健学をデザインは統合化します。
「完全無菌」とは、まさに、花粉症・アトピー・アレルギー体質、
最近ではインフルエンザはじめパンデミックの襲来などから
人間を解放することです。
しかし、無菌:germfreeだと、人間の体質は抗体性を失っていき
無菌であればあるほど弱体化してしまいます。
そこで抗体 : antibodyを保健で強化するような、
生活環境をデザインすることがテーマです。
まず、コンシリエンスデザインの展開には、
メタシリエンスデザインとしてのパリティの対称性に対して、
レジリエンスデザインとしての保健環境に対する強靱さを養い、
結果、無菌化する環境に対してGMP : Good Manufacturing Practiceや、
新素材、深紫外線・遠赤外線・超音波は勿論、最新的な再生医療など、
パラシリエンスデザインでのプライミング効果を狙っています。

*『コンシリエンスデザイン看医工学の危機解決対象・MERS』
*『何がデザイン思考かは終わったのだ』
*『安全と安心・防災と防犯は学際化デザインになる』
*『流行の根源である伝染病は人類の破滅道理なのか』
*『毎日の喧嘩相手は薬だ、日常的な自分との喧嘩でもある』


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『IoTではなくIoMetというライン手法』


   


     4月 8th, 2016  Posted 12:00 AM

ムーアの法則、その提案者であったゴードン・ムーアが
1992年箱根でのApple社主催のカンファレンスで、
3原則を提唱しました。
土=シリコン、ガラス=光通信、空気=インターネットは
将来、つまり現在を変革すると基調講演をしました。
まだ、30代だった私はそれを信じて以後の動向を見てきました。
私が現在辿り着いているのは「コンシリエンスデザイン」と
その対象を「看医工学」に決定しています。
そして、発想思考方法は「コンセプト」から離脱することが出来て、
「コンセプト」から「ライン」へと更新することを実務実績にしています。
相変わらず、世間的な未来予測は「コンセプト」、概念あるいは観念ゆえ、
「スマートシティ=Smart City」
「IoT=Internet of Things」
「Big Data」という大雑把な概念・観念が吹聴されています。
「AI-Robotics」人工知能のロボティックスとの共生が謳われています。
僕はこれらを「Line Method」でその詳細に入りこんでいます。
理由は、実務対象としての看医工学にするには、
ライン=最新さを伝統的な脈略で吟味する必要があえると
判断するからです。
スマートシティは、明らかに技術進化して革新化された医療環境です。
それはIoTではなくて、Internet of Medical things=IoMetです。
さらにほとんどタイトルでしかないビッグデータは、
サーバーネットワークとその対処対応システムの完備が必要です。
結局、ロボティクスが再生医学に結びつくことは確かです。

*「革新が始まっているから、私の『夢の形見』」
*『「KK塾」大野ゆう子教授からスタートしました』
*『資本概念の変容と変質はイデオロギーを消去す』
*『非常事態宣言の街=パリにて、決意』
*『K塾最終回 松岡正剛氏からの新たな知の編集』


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『カメラの増大=視点が社会制度に組まれていく恐怖』


   


     4月 7th, 2016  Posted 12:00 AM

iPhoneはじめスマホになって以来、
カメラは生活に最接近したモノになってしまいました。
カメラは記録機器でありますが、その撮影されたコトが
表現される場は、このブログもそうですが、SNSと結びつき、
Twitter、Facebookどころか、今では写真中心のInstagramにまで
様々な表現それは自己表現風、自己表現的な写真本来の目的が拡大です。
僕はなるべくカメラを自分の収集目的や趣味にはしないと決めていますが、
気がついたら、なんと、なるべく高性能で使い勝手を
自分流に判断をするとともに、海外製まで手に入れています。
現代、カメラは自分のもう一つのeye-pointどころか、
表現道具として、この技術進化は空恐ろしい状況になっています。
自宅や研究室にもカメラはいつでもいわゆる「監視の目」です。
これは大きな問題提起を投げかけています。
実際、最近の防犯はカメラが目となっていて、
犯人逮捕も防犯カメラのデータに頼っていることが増加しています。
スマホを持参していることで、人は、自分の目だけではなく、
記録媒体として、写真どころかビデオやムービーにまでが
あたかも社会性の善悪判断、その要因になってきています。
それこそ、表現はジャーナリズム化=日々の記録となり、
そのジャーナリスティックな判断をある意味では放棄しているのです。
それは、表現者のカメラという道具、プロのジャーナリズムの道具が、
一般化することで、社会判断を鈍化させていることになります。
人間は「消失点」を持っています。
しかし、カメラの消失点は制御可能です。
さらに、人間の視覚は最も遠景=星を見つける光年、
その距離感把握能力があり、
現代のカメラ=もう一つの視点・eye-pointがある意味を
十二分に検討する必要があると判断しています。

*『視覚空間は存在しないことを認識する必要がある』
*「岸辺のアルバム=家族平和とは安泰」
*『彼は映画の社会的メッセージを知り尽くしている』
*『デジタルカメラはなるべく買い換えない』
*『負のサイクルを即刻停止させるデザイン』


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『シュンペンターと象形文字を同次元に考える』


   


     4月 1st, 2016  Posted 12:00 AM

僕がちょうど大阪大学大学院に名古屋市立大学大学院から移籍した頃、
それは2008年頃から「イノベーション」が盛んに唱えられる風潮でした。
それはわが国が「失われた20年」を取り戻すための
一つのかけ声だったものと考えます。
と同時に、僕の講演テーマ依頼も「イノベーション」が求められました。
だから、僕は徹底的に「innovation」について理論武装を始めました。
あれから現在はさらに「イノベーション」が強調されていますが、
根本をすっかりと失っている現在の潮流があると主張します。
現在拍車をかけているのは「デザイン思考」なる経営方法論という商品と
「革新」、しかも「技術革新」のとらえ方すら歪んで来ているようです。
最近はこの歪みが日本の産業界を呪縛し始めていることは否めません。
僕はあらためてこの理由を三つに分別して、デザイン思考の安易さを
「コンシリエンスデザイン」でのinnovationをシュンペンターに遡及し
当初の、「新結合」・「新機軸」というプリンシパルにもどします。
その遡及は漢字「革新」にあると考えています。
「革」とは、皮革の象形文字であることは明確です。
そこに「新」という漢字が関わりを果たします。
「新」という漢字のとらえ方に現代の歪みの問題があると判断しています。
「新」とは、樹木に斧を入れる行為その瞬間性を表していますから、
まさに皮革をピーンと張って、刃物で切り裂く行為そのものですから、
「新商品」というのは、商品に刃物を入れるがごとく、
商品群を切り裂いた瞬間の樹木液が流れ出るような事でしょう。
それはシュンペンターが予知した「新結合」や「新基軸」で
景気そのものに社会変動を起こしたかどうかまでが求められます。
シュンペンターは景気動向に新基軸が入れば、
資本主義経済そのものが異質化すると断言しています。
彼が1927年に学術界で発言の翌々年、1929年には「大恐慌」が起こり、
それは世界大戦の大きなきっかけになっていることこそ、
「イノベーション」は再度大きな検証が必要だということです。
景気動向への「新結合」・「新基軸」が
如何に「革新」あるいは「技術革新と景気」と関係するか、
もっとグローバルに考えられるべきでしょう。

*『商品である「デザイン思考」は経営論にすぎない』
*「『イノベーション』大衆化した原意も疑う」
*『「KK塾」の対談と質問はイニシャルで方向決定』
*『サイエンスの限界にある美学性をさらに造語化』
*『球体に働いている力は統合的な知識になる』


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3月29日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 29th, 2016  Posted 12:00 AM

3月29日 仏滅(庚戌)

歳老いたなら、
やってはならないことがある。
しかし、これは気にいられたいという
腰抜けの決め事だ。

説教・昔話・自慢
説教とは、経験からの判断であり、
昔話は、その経験の文脈だ。
だから
自負心としての責任の表現こそ
自慢である。

嫌われようが、
私はそんななれ合い主義を拒否し
「沈黙」をする。

川崎和男の発想表現手法


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