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『青春時代の「熊の岩」、もう一度行きたい』


   


     6月 18th, 2017  Posted 11:50 PM



車椅子生活も40年になります。
最近は、山岳系や登山系の雑誌・マガジンをかなり詳細に覧て読みます。
それこそ車椅子生活になって以来は、
絶対に覧ないことにしてきたのですが、
やはり青春時代に最も熱中していた登山・スキー・ロッククライミングは、
本当に驚いてアルピニズムを読んでいると言って良いでしょう。
ともかくこうしたスポーツの用具が全く変わってきました。
ザイル、リュック、ピッケル、登山靴などは、
(そうだよ、これが正しいはずであり、なぜ、あの頃は・・・)という、
この思いがとても強くなってきています。
キスリング=横幅があり、両サイドには400ccの水とガソリン。
これはどう考えても危険極まり無かったと思います。
不帰の岳などは今ではチェーンが急斜面に取り付けられていますが、
私の頃は、ザックの片面が岩肌にひっかかり落下する寸前もありました。
登山靴も現代のは軽量で柔らかく、ピッケルなどはとても短くて、
あれなら確実に雪面でも停止が出来るはず。
私にとっては長治郎雪渓にある熊の岩です。
おそらく今はあの場所や、剣岳真下の剣コルなどではテントなどの設営は
絶対に出来ないことでしょう。
長治郎雪渓のもう少しで剣岳には、テントを張っていて、
源治郎尾根と八峰尾根のクレオパトラノーズなどでは、
源治郎尾根に登ってアップザイレンや、その尾根からのピッケル操作訓練、
八峰尾根ではロッククライミングで6級の岩面で恐怖だらけだったことは、
熊の岩があればこそできたことです。
長治郎雪渓は剣連峰でも最も大きな雪渓ゆえに、
夏スキーも朝方にはミラーフェイスと言われるほどの氷面を滑走できました。
どうして当時は、早月尾根を3泊四日も宇奈月から登山列車、
そして徒歩で何度か嘔吐するほどのリュック7〜8Kg リュク、
そしてメタルスキーを背負い剣岳連峰に入っていたのだろうと思います。
この嘔吐しながら徒歩登山の度に、もう登山は絶対に辞めようと思いつつ、
熊の岩でのテント設営が楽しくて、食料が無くなると、
立山から剣岳の入り口で観光登山客が残していく食料を
金沢美大・東京藝大・京都市芸大で当番で恵んでもらいに行きました。
熊の岩で母の夢を見て、翌日のトレーニングは体調も悪く参加不可能でした。
そうしたら八峰尾根では大落石事故があり、私が参加していれば、
確実に私が遭難だったと言われました。
熊の岩にヘリコプターで行きたいのです。


* 『歩けた頃=スキーに夢中だった時の写真が届いた』
* 『「岳人」が教科書だった時代を思い出す』
* 「トランスジャパンアルプスレース・過酷さの美学」
* 「やっぱり、なぜこれほど落ち着くのだろう」
* 「冒険、してはいけないことになるかも」


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『「岳人」が教科書だった時代を思い出す』


   


     7月 25th, 2016  Posted 12:00 AM



封印してきたことがあります。
封印せざるをえない身体的な条件が加わったことでもあります。
それは「登山・ロッククライミング」です。
「登山」は高校時代に山岳部入部から始まりました。
高校時代はほとんど県内の山々、夏は白馬から鉢ヶ岳、後立山縦走を経験。
大学時代は最初は空手部でしたが退部試合に出てボコボコにやられて、
それでも山岳部を創部し、
藝大出身の当時助手の先生からロッククライミングを教わりました。
この「岳人」は高校時代は教科書以上に読んでいました。
だから当然アルピニズムといえばという大学医学部を目指していましたが、
ビンソンマシフ山初登頂を深夜ラジオで聞きがっかりしたものです。
「岳人」今月号に久しぶりに手をのばすと、
なんと白山・別山の高山植物の花特集。
思わず、ワイフに見せて、「これこそ極楽なんだ」と言いました。
夏山の高山植物はこの世の物とは思えないほどの花畑、
そこにモンシロチョウと赤とんぼが飛び交っていました。
白山と経ヶ岳山頂には祖父寄贈の祠がありました。
今はもうわかりません。
高校時代、最も美しい花畑は大長山でした。
ここに伝わる千畳敷を探していたものでした。
大学時代4年間毎夏は剣岳でほぼ一ヶ月暮らし、
最終は後立山縦走し鉢ヶ岳から直下して大町駅から帰宅しました。
大学時代は冬もメチャクチャな登山経験がありましたが、
大学卒業時にきっぱりと登山は封印しました。
以来、この雑誌も見かけても読みませんでしたが、
現在、大学でも山岳部は無くなって、この専門誌も厚さは半分以下、
内容も専門性が無くなっていました。
剣岳へは宇奈月から登山鉄道、そして早月尾根を3日間で着くのです。
メタルスキーで雪渓を滑り、ピッケルワークで滑落停止の練習、
クレオパトラノーズの6級の壁が懐かしい限りです。
もう一度、今度はヘリコプターで行ってみたいとしきりに思います。



* 「やっぱり、なぜこれほど落ち着くのだろう」
* 『歩けた頃=スキーに夢中だった時の写真が届いた』
* 「冒険、してはいけないことになるかも」
* 「トランスジャパンアルプスレース・過酷さの美学」
* 「易しそうなテーマだが難しそうなデザイン解」


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『ふるさと福井はまだまだ恐竜の聖地になれる』


   


     9月 22nd, 2015  Posted 12:00 AM



私の記憶では勝山市北谷で、恐竜の小指発見が、
わがふるさと福井を恐竜の街にしたようです。
昔、恐竜の本物を米国の自然史博物館で観ました。
その圧倒的な巨大さがありましたが、
現在はデザインされた妙な展示で面白さが消えています。
そういう意味では、ふるさと福井駅に着くと、
正直、金沢駅の華やかさは全くなくて、
まさに田舎街ですが、「ここまで恐竜か」と驚きます。
先般も「羽二重」織物工業の青年部会指導に帰ってみると、
工事現場の看板にまで用いられ、
様々な恐竜には「フクイなんとかザウルス」まで、
どんどんと発見されているようです。
そして恐竜博物館は、ボランティア組織での運営など、
新たな博物館のあり方としては注目。
全国の小学生男の子たちには「聖地」が勝山市だそうです。
私も一時期は恐竜の名前や図鑑を一通り完読。
男の子にとっては、
とめどない古代への夢のロマンあふれる恐竜たちです。
最近では、羽毛もあったとか、まだ恐竜の実在的な色彩も不明ですが、
アルゼンチノサウルスやディプロドクスの巨大さは、
長さが30mで100tとか聞くと、これは船舶と同等の大きさに感じます。
今は自宅には唯一のティノサウルスが一頭います。
いわゆる巨大動物は象やキリンやカバ程度でも
彼らの大きさは実感できますが、
こうした恐竜たちが生きていた時代となるとそれは想像を絶します。
勝山市北谷近辺は加越国境の山々が、大長山から烏帽子岳などが、
白山山系の手前にあり、高校時代にはすべて縦走しています。
今でも白山手前への加越国境の山々はすべて名前と、
高校時代に縦走していた思い出が重なります。
この縦走訓練が、
大学時代の後立山・立山・剣岳それから針ノ木峠に出て、
そこから一気に大町駅に下ることを4年間やっていました。
私が高校時代には勝山市北谷ならば、イワナが捕れる山系でしかなく、
まさか、この勝山市が恐竜の中心地となって、
福井県が恐竜の街として、これほど私が帰省するたびに、
ここまで恐竜で語っていると思うほどですが、
プロのデザイナーとして、地方活性のシンボルとするならば、
まだまだ知恵不足なことは確かなようです。
もっともっと、「恐竜の聖地」になっていってもらいたいものです。


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『歩けた頃=スキーに夢中だった時の写真が届いた』


   


     12月 10th, 2013  Posted 12:00 AM



今月はフランス・香港と海外出張が続きました。
帰国すると、東芝時代の上司から写真が届き、懐かしさ一杯です。
5歳当時からスキーに親しんでいたおかげで、
車椅子生活を宣告された時一番に感じたことはスキーができない、
これが最大の問題だとさえ思ったほどです。
この写真では、フィッシャーのメタルスキーとサロモンです。
知っている人には分かるはず。ゴーグルはまだ持っていました。
このメタルスキーは、夏でも剣岳の雪渓がミラーアイスでも、
十二分に可能なほどでした。
もう一本は、ジャン=クロード・キリー が国内でサインをしたK2。
当時は、ドルフィン=今はフリースタイルと呼ばれていますが、
これには最適の柔らかさがあり、この二本を使っていました。
ご覧のとおり、全身はスピードスキーのために、
エラスティック素材の全身スーツを仕立ててもらっていました。
スキー靴もランゲというほど、スキーのためには、
最上級品にボーナスをつぎ込んでいたほどでした。
小学校・中学校時代もスキーばかりしていたようです。
高校時代も浄法寺山(1053m)ならば連休でも滑れました。
東芝時代は、得意な連中とは奥志賀に籠もって「回転や大回転」。
山登り・ロッククライミング・スキーが出来ない身体ですが、
若かりし日のこの写真が届いて、
11月後半から海外でのデザイン状況を見ながら、
私に残された日々、どこまでこれからの自分の役割があるのかを
もう一度確認することができました。
多分、書き残すことが多くなるのかもしれませんが、
わが国のデザインは、企業戦略からはやや離脱しているようです。
すでにデザイナーとしてスタートしたとき、
常に、スキーには拘っていたことを想い出しました。
また今夜からブログを再開します。
よろしくお願いします。


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「やっぱり、なぜこれほど落ち着くのだろう」


   


     5月 13th, 2013  Posted 12:00 AM



中学時代は 父からクラブ活動を文科系にさせられました。
しかし、高校時代はスポーツ系で「山岳部」で活動しました。
当時、一人っ子を危険なクラブにと親戚からも言われましたが、
ピッケルと登山靴を買ってもらえました。
高校時代は、奥越国境=石川・岐阜の県境山々、
白馬山系から鉢ノ木岳までの縦走などで、
「ヤブこぎ=獣道の見分け方」・「天気図と天体星位置」から、
高山植物やツェルトという簡易テント暮らしなどを学びました。
大学当初は空手部でしたが、
芸大山岳部だった先生がこられてから、正式な「山岳部」になり、
空手部の退部試合にも出たので、今も先輩とつながりがあります。
大学では、当然のことロッククライミングや、
夏でも、雪渓スキーをしていました。
したがって深夜にNHKが「北アルプス」の景観映像を流します。
私はこれを明け方まで見入ることがあります。
とりわけ、剣岳周辺、源次郎尾根や八ツ峰、長次郎雪渓を見ていると、
本当に心が洗われるというのは、
きっとこういうことだろうと思うほど落ち着きます。
今では、たとえば長次郎雪渓の途中の熊の岩や、
長次郎雪渓の頂上でそこから剣岳へ直登などは不可能でしょうが、
当時は、熊の岩や雪渓の頂上に「テン張って」いました。
東京芸術大学・京都市立芸術大学・金沢美術工芸大学は、
三美大と言われていて、
必ず、剣岳に集結して、毎日雪渓での滑落停止トレーニング、
ロッククライミングを先輩たちから教わったものでした。
剣岳は、宇奈月温泉から黒部峡谷鉄道で入ります。
それから、早月尾根、ほとんど水がありませんが、
その尾根伝い3日で剣岳のキャンプ地までひたすら歩きました。
毎回、剣岳にほぼ一ヶ月以上暮らします。
そして、それぞれが別れて縦走に入ります。
私は必ず鉢ノ木岳まで縦走して、
そこから直下するとバス停で長野県の大町市に出て、
鉄道で自宅に帰ります。
自宅に着くと、必ず、顔には無精髭があり臭いらしく、
母から玄関先で裸にさせられてすぐに風呂に入ったものでした。
いつの日か、必ず、ヘリコプターで剣岳を中心に飛びたい。
可能であるなら、この映像に包まれて目を閉じたいものです。


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「冒険、してはいけないことになるかも」


   


     8月 24th, 2011  Posted 12:00 AM

時に観光地での大事故。
遭難で人命が喪われます。
そうなると社会はその責任を問いかけます。
仕方のないことですが、
その徹底した追求には攻撃性を感じます。
確かに、「安全確認」への怠慢性が事故を誘発したのでしょう。
そうなると、伝統的観光地の独自性すべてが全否定されます。
現代は「安全」への徹底さがあまりにも厳しすぎるのではと心配です。
私は高校時代から山岳部でした。
しかも台風が来るから登ろうなんて無茶をやっていました。
大学時代も山岳部で無茶苦茶なことをやることに粋がっていました。
福井だと浄法寺山(1053m)は5月の連休には春スキーができました。
手前の冠岳でもロッククライミングができました。
大学時代の夏休みは「剣岳」オンリーです。
いつかヘリコプターで「剣岳」に行くつもりです。
長治郎谷雪渓の中央に「熊の岩」があり、
そこをベースに(今は不可能だと思いますが)、
六峰・クレオパトラノーズなどへ毎日出かけました。
夏山合宿が終わるのは、後立山連峰の針ノ木岳まで南下して、
大町市に降りるということが、大学時代の夏休みでした。
冬山に入る時にも、登山ノートに書き込み届けをしないことが鉄則であり、
天候異変をめざして登ることなど平気でした。
それで下山して地元の警察でもの凄く叱られたこともあります。
ただ、両親に約束していたのは谷川岳だけは登らないということでした。
谷川岳は当時、最も遭難者の多い山だったからです。
もう時効かもしれませんが、
国立自然公園でのメチャクチャぶりは書けません。
受験勉強中に、南極のビンソンマシフ山が初登頂されたニュースで大落胆。
もう人生の目的の一つが無くなったというほどのめり込んでいたものです。
車倚子の体になったとき、剣岳の源次郎尾根で転落した時には、
あの場所でこの体になっていたかもしれないと思った程でした。
現代の登山用具をみるとどの進化ぶりに圧倒されます。
東尋坊での飛び込みなどもメチャクチャだったと思い出します。
おそらく、今ではこのようなメチャクチャ=自分なりの冒険でした。
今では「冒険家」という職能があります。
きわめて特殊なプロフェッショナルですが、
人は成長するのになんらかの「冒険」や「冒険ごっこ」が必要です。
アウトドアを取り囲んでいる用具デザインは、
鮮やかに素敵なモノがあります。
そして、そうした用具があたかも「安全」を保証しているようですが、
そうした勘違いが「遭難事故」に近接しているのかもしれません。
現代社会でのいわばレジャー文化・サービス産業の中の「擬似冒険」は、
あらためて、現代文化としての「冒険」=遭難や事故=死という図式を
再熟考すべきことになってしまったようです。


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『資本主義からの逃走』
「手旗信号、モールス信号、子供の頃から現代まで」


   


     5月 16th, 2010  Posted 12:01 AM

モールス信号
子供の頃に、手旗信号をいわゆるガキ仲間でマスターして遊んだことがあります。
モールス信号は、父が教えてくれました。
そして、当時市販の通信セットを組み立てました。
これは、覚え方があったのです。
イ=Aは、 「・ー」で、A、イ、トー
ロ=Bは、 「ー・・・」Bー、ロージョウ
ハ=Cは、 「ー・ー・」Cー、ハー、モ、ニー、カ
などや(正直もう忘れています)、
Twitterでoctopusoctobus さんからは、
A=イ「アロー=イトー」
B=ハ「ビークラス=ハーモニカ」
C=ニ「シーノコース=ニューヒゾーカ」懐かしいと教えてもらいました。
肝心なのは、SOS=Save Our SoulsまたはSave Our Shipで
「SOS=・・・ーーー・・・」です。
これは、私の「緊急発進ラジオ・東京ラリア」という作品に表示して、
笛の拭き方を示すのに利用したことがあります。


手旗信号
手旗信号は、最近、映画「剣岳」でそのシーンを見て、
「僕は出来るんだぜ」って言って、
カタカナ表記を両手で表現するのをワイフに見せて、自分では自慢していました。
ワイフは「フーン」って言われただけでした。女にはこの凄さわかんないんだ!
さて、人は、遠くにコトの次第を通信するのに、
「のろし」や「手鏡」や、手旗信号、モールス信号などを発明してきたのです。
RadioやVideoの意味も、「遠くの音を聴く」、「遠くのものを見る」ですから。

ピクトグラム
記号では、「ピクトグラム」というのがあります。
無論、大学時代に基礎を学びました。
ちょうどそのとき、大阪万博で「サイン」と呼ばれるピクトグラムが発表。
会場のポイント表示がされたのです。
今では当たり前の、たとえば「トイレ」のサイン、
大抵は、青い人のかたち=男性で、ピンク赤の人でスカート=女性です。
ところが、当時、これが日本人にはまだ不明だったのです。
だから、「便所」とそのサインの上に貼りだしたという話が残っています。
私は、上海万博で、とてもおしゃれなサインがデザインされているのを見て、
これが「中国の現代化」を象徴していると思いました。
もちろん、各国の空港には、このピクトサインが架かっています。
だから、目新しいモノや、
ピクトグラムのデザインで優れているものを見つけることは楽しみであり、
必ず写真に撮ります。
特に、障がい者向けやいわゆるユニバーサルなデザイン表現は、
自分のデザインテーマでもあるのです。

情報の記号化と信号化
このピクトグラムが、パソコンでは、「アイコン」になっています。
そして、この「アイコン」という記号、情報の記号化は、
いわゆる情報のメタファーや、情報のアフォーダンスから、
さらに、記号が信号化していく進化が望まれているのでしょう。

記号の信号化
信号の記号化
目の前にiPadがあります。
さて、「写真アルバム」と言われている写真が上積みになった「表現された記号」は、「アルバム」という名称が、もはや、「変更を余儀なくされています」。
すでに、記号化された信号と、信号化された記号には、
新たな名称が求められているのでしょう。
そしてこれが、
記号化された信号と信号化された記号、こうしたことを融合と統合する、
「新たな文化」創出の時代に私たちは直面しています。


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『障がい者へのデザイン』
  「階段は進化せず、建築家は創造者にあらず」


   


     12月 11th, 2009  Posted 8:00 AM

091211kaidan
ある有名建築家(知っていますが)は、
「バリア・フリー、そんなことは知ったことではない」
本当かどうかは確認していません。
私に喧嘩させたくて、
あるジャーナリストが
そんな耳打ちをしたのかもしれません。

車倚子の私は、
「階段の前で、もっとも打ちのめされます」。
そして、
「如何に建築家は、何も、考えていないか」、
「建築家は決して、創造者だとは認めない」のです。

建築家さん、
階段を発明してきたのでしょうか?
階段を進化させてきましたか?
あなたが年老いたなら、「階段」という存在が、
どれほど、これは「障壁だったかを知るでしょう」。

私はもうスキーはできません。
私はクレオパトラノーズを登れません。
私は回し蹴りができません。
もう一度、剣岳に登りたいと願っています。

だから、どうした!、とも思います。
たかがそんなことなど、resignすればいいわけです。
私は、自分自身のために車倚子をデザインしました。
しかし、これは「哀しみのためのデザイン」です。
091210tatakai
「階段」の存在は、
すでに「人類の哀しみ」を象徴しています。
なぜなら、それは別名「障壁」であり、
「戦いの場の装置」であった、ということです。
美しい階段は非在しています。
「階段の前で建築家はたたづんでほしい」、と思うだけです。
091211utsukushiikaidan
私は、必ず、「美しい階段」を創ります。


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