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Posts Tagged ‘医療制度’


「サービスの原義に立ち戻るために」


   


     12月 16th, 2011  Posted 12:00 AM


「糖尿病」の増加が著しいらしいと聞きました。
血糖値計が必要な検査器具であり、
一説には、1兆円市場規模があると言われています。
果たして、それほどの市場規模がある商品ともなれば、
企業経営においては当然のこと、商品開発は急務です。
しかし、私は「立ち止まってしまいます」。
なぜならば、検査器具の開発よりもこの病の根絶が命題だと考えます。
医療は現代経済社会の中ではサービス産業エリアです。
というよりも医療行為が「サービスであり産業」という原意が不明です。
不明という断定が正しいのかどうかすら確認しなければなりません。
緊急にはTPP交渉が国家課題になっている現在、
あらためて、医療サービス:医療制度、この境界線が問題です。
病院が出来た地域には必ず疾病患者が増加すると言われてきました。
まして高齢社会にあっての医療サービスは、
社会福祉制度の根幹にありながらも、その経済効果よりも課税負担となり、
他の制度をも破壊しかねません。
よって、市場規模の大きさでの商品提供とその収益構造ある産業存在、
この関係、構造、境界にデザインが不可欠になってくるものと考えます。
古代統治制度としての
「オイコノミア」に「サービス」の原意を見つけたい。
それが今、私の大きな関心になっています。
おそらくsmart city構想での医療はサービス産業なのか、
あるいは医療福祉制度なのかという問題に突き当たることは明白です。


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「今夜はまとまらず」


   


     12月 15th, 2011  Posted 12:00 AM


このところ、取りつかれています。
なんとしても、年内にまとめておかないとと思いつつ、
今夜もまとまらず、
それは、古代原始キリスト教的言葉です。
きっとまとめます。
特に、医学系研究科での講義においても、
「医療サービス」対「医療制度」、
このインクルーシブデザインにとっての大きなヒントです。
84兆円で201万人の雇用を2020年には・・・・
このヒントへ近づくために。


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『資本主義からの逃走』
「相観論的に現代社会を見直せば、
        経済的景観がデザインできる」


   


     2月 12th, 2010  Posted 10:00 AM

physiognomy

相観=physiognomyという「学論」があります。
植物群落の外観的な検証であり、
これは群系=formationと言われる見方と、
そしてもう一つが群集=associationという見方です。
私は、現代社会、あるいは人間の集団性を、
生物・植物の生態群として、ある意味での景観論を
相観的なアナロジーをデザインに応用していこうと
考えてきました。
その根本は、エコロジーをデザインでどう解釈し、
なおかつ、
経済的なエコロジー論をデザイン背景にできるか、
ということを熟考してきました。
だから、いきなりここでも、
associationとformationについて記述してきたのです。
考えてもください。
企業名で「×××××アソシエーション」が、
資本主義企業では使われてきました。
そしてその時代の終焉の様相が進行してきたのです。
とりわけ、私は医療制度、医療環境に、
このことばづかいを援用しました。

群集と群系


つまり、
群集は、さらに細密的に、群系化することで、
それぞれの機能性が明確になると考えた結果なのです。
今、私は、「ビジネスモデル」がアソシエーション、
だとするならば、それはビジネスモデルが
「群集的」だったということです。
そこに、相観・あるいは景観、景気を再考するには、
「群系的」にビジネスモデルにデザインを付加すれば、
細分化した役割分担が明確になると判断しています。
もっと具体的に言えば、
「日本は群集=アソシエーション社会」だったのです。
日本が群系化していく方向を見いだせていない。
いつまでも単一民族だから、群集だったのです。
世代・男女・老若など、どの群系の生態国家だろうか、
という発想が必要になってきたと判断すべきです。
企業=アソシエーションが危機になっているなら、
それは群集的な活動統合体だったことなのです。
「企業をフォーメーション」とすればいいのです。
一時、企業グループではなくて、
企業内企業という分業化をしたことがありましたが、
生態系・相観に学ぶという視点は欠落していました。
私は、群系と群集という分類と概念での見直しを、
デザイン的景観手法として提案しておきます。


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『資本主義からの逃走』
 「社会保障としての医療制度は、資本主義では不可能」


   


     2月 11th, 2010  Posted 10:00 AM

医療というFormation

DynamicsとFormationを先行させてしまいました。
医療こそ、人間の「生老病死」への科学的対応です。
したがって、「生老病死」を経済論理では語れません。
生老病死
「生老病死」はまさに、Dynamics論理が不可欠です。
さらに、医療はFormationによって、
その解決を計れれば、「幸運」であり「幸福」です。
経済活動の格差が、
そのまま医療制度に反映されることになれば、
「生きる」という連続性は経済とはLogarithm的です。
無論、「死」は万人に平等です。
平等は、「生きる時間」が限定されていることであり、
その平等性は、Dynamicsであって、
いわゆる寿命には格差があることは明確です。
医療制度を社会保障する、というのは、経済論理が
まったく適合していません。
むしろ社会主義としての平等性を、
担保する必要があります。
それは、資本主義的な医療は「生死」すら経済性で、
決定づけてしまうということになります。
せめて、「生死」と医療を結合させる論理は、
Formationを社会構造に組み込んでいくことですが、
その論理あるいは制度設計の方法は発見不可能です。
したがって、
医療Formationを社会保障制度にするには、
それを医師・看護師・医療従事者だけに委ねることから、
決別する時になっているのです。
ましてまだ治癒不可能と言われている難病・癌などに、
「社会保障としての医療制度」は、
デザインが入り込んで、制度設計と環境設計に
「向き合う」必要性が見えています。
私は、デザインは、「命を護る・守る」ことまでは、
決して出来ないけれど、
いのちと向き合うデザイン
「いのちと向き合う」ことは出来るということを、
実践第一から制度設計へと、
向かわせることをめざしています。
Formationというのは、
本来自然の中での生物の「生死」競合性の制度です。


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『資本主義からの逃走』
  「民主主義との思い違いと資本主義の日本化を急げ!」


   


     12月 31st, 2009  Posted 10:00 AM







本年度の愛読に感謝します。


60歳最後の発言です。
私の世代・団塊の世代という呼ばれ方は大嫌いです。
そして、同年代でありながら、
青春時代に、やれフォークだ、学生運動だと言っていた
「禿頭になって、入れ歯」の連中は、
すっかり、「骨無し」になっています。
私は「枯れません」。

「枯れ方」を先般、ある花人の活け花に見ました。
これほど、日本の伝統性・保守性・美学性が
踏みにじられた現状に、来年も発言をしていきます。

●UNESCOに認定されてそのお墨付きでやっと、
「デザイン都市宣言」の街・神戸と名古屋は馬鹿です。
●ISO認定など捨てるべきです。
 欧州の企みなどに騙されてきました。
 サスティナブルは「欧州の存続」という経済用語です。
 ISO9000・ISO14000・ISO1340など廃棄すべきです。
●ODAなど即刻中断すべきです。
●在日米軍基地も、明確に「決定」すべきです。
●大東亜戦争は、必ずしも侵略戦争ではありません。
●戦争時の狂気の責任を未だに反省を求められること、
 断固、拒否すべきです。
●「少子化」がそんなに大問題でしょうか。
 人口の増減以上に重大なことを見逃しています。
●国会議員の「多数に権力」構造こそ、偽善です。
●なぜ教育費まで税金でカバーするのでしょう。
 進学意志も無い子供たちを育てる親が支払うべきです。
●それよりも医療制度が大事です。
●もう一度、大学教授資格を確認すべきです。
●「少子化」にも関わらず大学新設が増えるのでしょう。
 大学まで「天下り先」だと知らしめるべきです。
●「コンサルタント」という職能を疑います。
 特に、デザインコンサルタントなどは、
 デザイン不能の集団だと考えて下さい。
●「女々しい男」を認めません。許しません。

ということを、明日からも発言します。
これまでのご愛読・ご笑覧を心から感謝します。
くれぐれも幸運で幸福な新年を祈念しています。



行学成就祈願宣言


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『資本主義からの逃走』
「資本主義と民主主義の、andとorの集合論」


   


     12月 25th, 2009  Posted 10:00 AM

「政権交代」で静かな革命を進行してほしいものです。
ところが、相変わらずの「喧噪さ」は、
決して、マスコミでもなくて政治屋集団、自らの演出、
いや、見識無き騒動芸に過ぎないでしょう。


仕分け・仕訳


「仕分け」と言って騒いでいましたが、
「仕分け」には、
●「仕分け」と「仕訳」という日本語が二つあります。
そして、TVで観劇していると、
ほとんど「仕訳」でした。
「言い訳」をともかくさせたい、それが権力の行使だと
思っておられる政治屋さんが多いのです。
そして、
政治屋さんも、言い訳に、「民主主義が失われる-!」と、
絶叫されています。美しい姿勢ではありません。
正しい日本語で、「仕分け」と「仕訳」の報告が、
政治家の役目ですが、日本語がメチャクチャだから、
権力・国際関係・社会福祉・医療制度、・・にとどまらず
さらにインフルエンザ・台風・自殺が加算されています。
こうした言葉もメチャクチャです。

だから、私が「政治用語である民主主義」を信じません。
確信できるだけの経験がこれまでありませんでした。
多数決なんて、とても私には、その仲間には入れません。
逃げ出します。逃げ出しています。


「美しいかたちの世界に」


まだ私の懊悩の中にきっと潜んでいる「美」を
現前にしたい、その一心しかありません。
その一心にたち入ってくることや「喧噪」・「騒動」には、
私から攻撃を辞しません。
そこには多数決など民主主義の根本などありません。
「政権交代」で静かな革命を進行してほしいものです。
ところが、相変わらずの「喧噪さ」は、
決して、マスコミでもなくて政治屋集団、自らの演出、
いや、見識無き騒動芸に過ぎないでしょう。


and・or


論理を飛ばして、一括的な発言をすれば、
資本主義と民主主義のandとorという集合論は、
ありえません。
政権交代には、民主主義どころか、
最近では社会主義の革命ごっこであってほしいのですが・・・
 権力構造に、民主主義は消えています。
消えることは私には願ってもないことですが、
このような消え方は完全に、
自ら、政治屋である能なし集団を自己告白しています。


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