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Posts Tagged ‘商業主義’


『民藝の美とデザインの美は区分分別されていた』


   


     3月 3rd, 2017  Posted 12:00 AM

101匹目のサルという論理があります。
一時期、私もこの論理に夢中になったことがあります。
簡単に言い切れば、鹿児島のサル100匹がお風呂に入ると、
北海道のサル101匹目もお風呂に入るということです。
これは全く情報の交換が無くても遊びや習慣が突如として起こるということ。
実際、柳宗悦が「民藝」という日用品の美しさに気づいたことは、
アーツ&クラフト運動、ドイツ工作連盟、バウハウスという歴史変遷が
編年体のごとく連鎖して、特に、工芸とデザインが重なるのです。
ところが最近は、工芸、工藝、民藝、デザインが全てを連鎖ではなくて、
あたかも融合して同次元のごとくという知見不足の解釈が、
それも商業主義的なブランド背景理由にされた言説で語られてしまっています。
まず、柳宗理の弟子として、柳先生は明確に民藝とデザインの関係を
きっちりと区分を自分のデザイン活動の中で、特に手仕事結果である
民藝の美とデザインの美を分別されていました。まして、
最もほとんど嫌悪されていた商売主義(商業主義ではなく)で民芸ならば、
それは手芸であり、お土産品になってしまいます。私の良識では、
デザイン成果は「目的+目標」のアノニマス性の存在とその美しさでした。
民藝からのデザイン成果は「目標+目的」としてのゲマインシャフト性でした。
産業美術学科では工芸とデザインは明確な区分と分別が私たちに徹底。
インダストリアルデザインは確かに大量生産と大量消費の経済構造に、
アノニマス性を埋め込んだ実務としてのデザインが求められました。
それこそ東京オリンピックのトーチや世界初の聖火運搬のランタンが
柳先生のデザインであることは知られていません。
あのアノニマス性からの美しさは、建築とは一線を画していました。
インダストリアルデザインを伝統工芸に導入するならば、
ゲマインシャフトという強固な地域存在性をデザイナーが確約することでした。
決して商品ブランドの商売性からの遮断は当然でした。
アートからクラフト、モダンデザインは、
「民藝の手仕事」の美しさは明確に「デザイン」の美しさとは分断されていたのです。

* 『書かれた柳宗理デザイン=現在出版の書籍で継承可能か』
* 『アンコンシャス・ビューティを学んだから・・・』
* 『手稿は宝物である』
* 『モダンデザインの造形に潜むスーパー楕円』
* 『民藝へのアンコンシャスビューティを再熟読』


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『商業主義の貧しさは経営から離脱した盗作である』


   


     2月 3rd, 2017  Posted 12:00 AM

恵方巻きという節分時の大阪での習慣がすっかり全国区になりました。
これを経営戦略とするなら
商業主義が習慣を破壊しているとしか私には思えません。
ここ数年にコンビニの商売として全国区にした習慣化商いでしょう。
私はそれ以前に日本の、たとえば「包む」と「詰め込む」ということや、
海苔巻きとサンドイッチでそれこそ文章構成を比較したことがあります。
海苔巻きは中核の食材をお米と海苔で巻き上げていくことで、
話題の中心を取り巻いている状況記述。
パンで食材を重ねていくことで、話題となる話のポイントを
重ねるということの違いでした。
ついでに包むというのは、「つつましい」の原意に連鎖し、
風呂敷で包む行為と缶詰やソーセージで詰め込むこと、
この習慣化した文化の差異性でした。
さて、そこでの問題ということになりますが、
バレンタインのチョコレートやクリスマスのプレゼント、
ボージョレヌーボーのワイン、ホワイトデーでのプレゼント、
すべからく輸入された習慣の商いです。
この習慣の経営は果たして商売化する商業主義のあり方です。
確実に文化習慣の商業主義的な経営は、
それなりの新しい習慣文化の付加であることは認めます。
しかしこの商品化=商業主義的な経営はまとも?
売れさえすればいいという明白な貧しいいやらしさが、
理念で論理性明確な借り物であることは盗作と言わざるをえません。
今年のコンビニでの売り上げ強化だけや
恵方巻きの商い手法が売り上げ競争化されてしまうこと、
これこそ商業主義の貧しさを
重大な地方の習慣そのものを破壊しているのです。
したがって、商業主義でのあたかも理念を捨て去った盗作などは、
確かにこうした商売スタート時には自殺者を出した時から、
この経営に、それこそデザインが加わると、
文化はすっかりと破壊されるということです。

*  「慈愛資本とは、優美の隠匿資本でなければならない」
* 「包むことと詰めることの大きな違いを知った頃」
* 『マンガ表現での瞳表現、そのインターラクション』
* 『低レベルな能力でデザイン評価はしないでほしい』
* 『モノ真似防止、他のデザイナー作品は暗記すべきだ』


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『目の前に未来・将来は無く背負っているのです』


   


     1月 31st, 2017  Posted 12:00 AM

「Back to the Future」というSF映画を観た直後に、
これは映画の題名というよりは、ホメロスの叙事詩に登場していると、
この話は小説家・堀田善衛氏の指摘で、
ホメロスの叙事詩である「オデッセイ」を知りました。
それは日本書紀・古事記にも登場する、いわば国づくりというか、
国・国家という存在が世界共通にあるということから、
私はホメロス・オデッセイを追いかけていたら、
ずばり、「Back to the Future」そのものの書籍にぶちあたりました。
そして、未来は決して目の前に広がっているのではなくて、
背中に未来を背負っていることは米国のそれもSF映画の根底でした。
古来、日本では人は生まれて死んでいくまでに「背負い水」があること。
人は一生に飲む水を宿命として携えて生まれてくることだと知りました。
私自身28歳で車椅子、リハビリテーションの病院では40歳までが一生、
このことを担当医から言われたのですが、そんなことを聞かされたら
人は絶対に投げやりになるものです。
それは40歳までの背負い水を持っているということです。
ところが40歳寿命など忘れていた時に、
私は毎日デザイン賞をいただきました。
したがって、私が未来・将来は自分が背負ってきたことからしか創れない、
このことを強く意識し始めてきました。
しかし、背負っていることは経験や歴史だけではありません。
ここがBack to the Futureをホメロスはどのように未来を招待するのかを
経験・歴史を超えて非常識さあふれる想像力の受容力かと気づきました。
そこでの大問題は想像力そのものも実は背負っていて、
この想像力こそ、個性・感性であり、宿命的に背負わされているのです。
人はすべからく想像力を持っているということは大間違いでした。
この事実をホメロスは読みとっていたのかもしれません。
ところが、商業主義に汚されていくと、
それこそオデッセイも日本書紀、古事記も語っていた未来・将来に
デザインは寄り添うことができなくなるのです。
是非とも、特にデザイナーは「Back to the Future」を定本にするべきです。
ただしすべからく、キリスト教義であることに
私は多少違和感があることは確かです。
日本人にはもっと自然をも背負い込む想像力があるからです。

* 『十日恵比寿の種銭を大国主命からもらう』
* 『少子化は雑誌の世界をすでに破壊していた』
* 「際限は背中に、目の前に未来など無く」
* 『「創育」と「想育」の中心はやはり恐竜の存在だ』
* 『銀河系の帝国主義、そのアーキタイプは未だ戦争か』


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『マンガ表現での瞳表現、そのインターラクション』


   


     6月 8th, 2016  Posted 12:00 AM

日本の漫画はすでにマンガ=「manga」となって、
表現物の大きな文化性を国際化しています。
遺伝子に漫画印象が組み込まれているかどうかは
未だ定かではありませんし、
遺伝子を調整細胞として制御しているかどうかの研究もまだ最中です。
マンガを読むというライフ・ログとしての記録化と遺伝子関係は疑問です。
少なからず、ロボットを漫画で読んできた我々には、
確実なライフ・ログに組み込まれていることは間違いないと思っています。
たとえば、ロボットは日本の子どもたちは怖がりませんが、
欧米では、
子どもたちはロボットの存在に恐れをもっています。
またこの印象度を利用した「ゆるキャラ」はブームとなっていますが、
デザインが貢献しているのは「くまモン」のみと言い切ることが可能です。
なぜなら「くまモン」には明確なデザイン成果があります。
あとの「ゆるキャラ」となると、商業主義的な悲惨さがあふれています。
こうしたマンガやゆるキャラには、明確な分類ができます。
それは「顔表情での目」その表現にあります。
二つに分類されています。
黒い点だけと、白い中に瞳の黒点、この二つについては
阪大、私の研究室で黒い点に絞った研究が修士論文でまとめられました。
黒い点というだけの顔の中の配置だけで喜怒哀楽が表現されて、
黒い点の瞳感覚で充分に感情表現が可能だという結論を得ています。
むしろ、白い中の黒点瞳表現は、感情表現の限界を示し、
かつ、マンガでの顔表現では経年変化をすることが明らかです。
つまり、黒点瞳での顔表現は、生き物の顔表現を統合しているという
その結論は、
今後のロボティックスのインターラクションに繋がっていくでしょう。

*『キティちゃんにて確認できる「安全と安心」』
*『心を持つロボット表現として、「泣き出す表情」』
*『漫画・アニメーションにみる日本独自のロボット観』
*『VFXのロボットが柔らかくなっているのは進化?』
*『ロボットが『心』を持っている?かどうか、ということ』


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『デザイン思考には造形言語論と形態言語論が欠落』


   


     9月 3rd, 2015  Posted 12:00 AM

デザイン思考ということばと発想手法が普遍化してきました。
しかし、この普遍化でデザインの意味論は、
今回、あのエンブレムやコピー(盗作)で、デザイン界そのものが
大きな疑念に包まれてしまい、デザイナーとして大迷惑でした。
私は、すでにデザイン記号論として、
造形言語=デザイン意図=designing language=デザイン意味表現と
形態言語=デザイン内容=designed language=デザイン意味伝達を
コンシリエンスデザインとして論理構造化してきました。
つまり、デザインは、造形言語でデザイン意図の説明を
どれだけデザイナーがプレゼしたところでデザイン義務は半分です。
デザインされたモノやコトを受け取るのは形態言語です。
デザイナーはデザイン思考の二つを完備する義務があるのです。
デザインプレゼは、造形言語と形態言語を伝えないかぎり、
デザインとそれこそデザイン思考は納得されません。
それゆえに、私はデザイン思考の不完備性を主張してきたのです。
おりしも今回、大迷惑となってしまったエンブレムデザイン審査では
審査委員会の最初の応募者制限から審査委員長周辺の商業主義を
全面的に批判してきました。
だからそれが正当だったと言うわけではありません。
まして匿名投稿している電子掲示板などは、匿名に寄りかかっている
その本当のことが理解されていません。
匿名投稿者は、
匿名であることが真実無意味になっていることを知らずに
匿名だから個人情報が知られていないという認識こそ危険です。
私は美大卒業からプロとして,デザイン界で生きてきましたから、
デザイン界が汚れることには喧嘩を仕掛けてきました。
それは造形言語と形態言語、問題解決=デザインを糧にしてきたからです。
私はあくまでも世の中が性悪説になろうとも、
性善説=『デザインは社会に対する態度』で生きていく覚悟です。


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『コンシリエンスデザイン学域の統合図解』


   


     8月 18th, 2015  Posted 12:00 AM

学問・教育の領域を図解化したのはバウハウス時代が鮮明でした。
私は大学人になって以来、芸術工学という学術と芸術に、
デザイン、その実務性、職能性、デザイン学、デザイン工学を整理。
私自身は美大での産業美術学科からプロになっての経験母体と、
大阪大学大学院では、
デザイン理工学・デザイン医工学・デザイン文理学・デザイン政経学と、
四つにそれぞれの学域を設定し、なおかつ、より大きな統合化を目標。
それは、安全・安心・防災・防犯で健康と生命を囲んできました。
周縁に配置した学域も、信頼学・価値学・保健学・防衛学になりました。
そうして、学術と芸術、文科系と理科系、その統合も、
機能的統合・伝達網的統合・規模的統合・文化的統合で解釈を可能にし、
コンシリエンスデザインにて、直接的には看医工学を焦点にしました。
名古屋市立大学に芸術工学部が新設され、芸術工学研究科完成にて、
私は大阪大学大学院で、この体系化を積み上げてきたと思います。
この大きなきっかけは、March 11.2011・東日本大震災でした。
現代日本は、戦後70年であっても自虐史観とともに拉致問題を抱え、
それでも2020年のオリンピック・パラリンピックに期待がありました。
しかし、東日本大震災どころか、気候異変と感染症増大など、
本当は学術も芸術もコンシリエンスされ、しかもデザインが主体でした。
しかし、性悪説に陥った連中には、日本の問題は破壊されています。
私は、性善説がインターネットの誤ったコミュニケーションや
マスコミの商業主義で台無しになっていることへ喧嘩をしかけます。
その大前提に、学域の体系化をこれまでのプロ経験から組み立てました。
あくまでも、この学域論理に従って私は自分の活動に経緯をもたせます。
それがプロフェッショナルなデザイナーであり大学人だと思います。


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『低レベルな能力でデザイン評価はしないでほしい』


   


     8月 1st, 2015  Posted 12:00 AM

元来、デザインは応用美術とか図案や装飾美術からという源流があり、
意匠になり、設計になり、そして策略や資源と時代変遷してきました。
しかし、私は美大時代、工業デザイン専攻では、
すでに、発明の設計実務学、問題解決学として
学習と訓練を受けてきました。
美大卒業し、家電入社したときには意匠部でした。
したがって、デザインの真意論・本質論・技術論・文化論では、
ようやく、産業から健康、文化として
文理融合と学術芸術の統合として、
「コンシリエンスデザイン」にたどり着きました。
ところが、楽しみにしていた東京オリンピックでは、
建築とグラフィックに、統合的なディレクター不在と経済効果での
アスリート興業商業主義の悪用としか思えないデザインの大勘違いが
横行し始めています。
建築コンペも狂い、エンブレム選別も知識不足の商業デザイナーでは
コピーだ、ジェネリックだ、せめてアプロプリエーションぐらいの
ハイレベルにも到達せずに、
情報社会で低レベルマスコミに混乱させられています。
そこで、かって35年前に私が伝統工芸産地で包丁、
キッチンナイフの「一体化」と新素材開発、刃先アール寸法など、
問題解決の解答デザインをしました。
ところが、たとえば、ほとんど最初に素材でダマスカス鋼風が、
あたかも刃物という恥ずかしいほどの
能なし刃物産業が世界的に流行しています。
オリジナルデザイナーの没後に、
デザイナー名を騙って自分デザインとは、
ジェネリック家具で氾濫を始めています。
そこに、TPPでの著作権問題を米国主導にするとは、
多くの官僚と議員たちの権力志向の能無しレベルを加速しています。
やがて、私、没後には
私のオリジナル=問題解決=デザインは消滅するのでしょう。
せめても生きているときには、恩師の作品やオリジナル性には
脳外喧嘩師でありたいと決心しています。
ともかく、官僚と議員からデザインの離脱を宣言しておきます。
つまり、オリンピック・パラリンピックを支えるべきデザインが
根本で間違ったがゆえに、夢は消えたのです。


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『民藝へのアンコンシャスビューティを再熟読』


   


     7月 13th, 2015  Posted 12:00 AM

「柳宗理生誕100年記念講演」以来、
私はあらためて先生の作品系譜から、柳宗悦「民藝論」を
再熟読をしています。
多分もう一度「川崎、読み直せ」と言われていると
自分に言い聞かせています。
アノニマスデザイン・ゲマインシャフト・アンコンシャスビューティが、
先生から受け継いできたデザインの要でした。
先生はスケッチやレンダリングよりも、
ともかく、現場での実験モデルを重要視されていました。
そのことを私は正面切って、先生にぶつかっていきましたから、
学生時代は睨まれ、叱られながらも、なぜか一杯話をしてきました。
レンダで誤魔化すな!− いえ、レンダでも十分に語ってみせます。
図面を書きすぎるな!− いえ、いやというほど図面を画きます。
でも、現場のゲマインシャフトを護り抜き、
アノニマス性を順当に受け入れてきました。
アンコンシャスビューティを何としても見出そう!
これを私は自分のデザインの核心にしてきたと自負しています。
先生が、父親の「民藝論」増補版で製作者の方々に、
大変な敬意を語られています。
同様に、先生のご子息・柳新一氏に、
私はアジアで盛大な展覧会なのに生誕記念講演だけで
本当に申し訳なかったと伝えました。
そうしたら
なんと「民藝」が商業主義の基盤的背景になっているとの話に、
私はまず、先生の怒りの表情を見ました。
2005年に亡くなってしまった女性デザイナーの仕事を見事に、
自分のデザインだと言い切ってしまう狡猾さを反映して、
「民藝」を自分の商売デザインに平然と悪用する輩を許さない!
私は改めて「民藝」を護り抜かなければならないと決意しています。
「川崎、叱っているのだ、怒っているのではない」、
先生の声が耳鳴りします。
が、「民藝」を広告コピーとしていることには、
柳宗理先生は大激怒しておられるでしょう。


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『柳宗理作品の軽薄で見識不足な批評は叱られる!』


   


     5月 13th, 2015  Posted 12:00 AM

先生は工業デザイナーの真の草分けでした。
それこそ、父親の「民藝論」とデザインとの対峙をどれほど
実は苦しんでおられたのかもしれません。
したがってアート、特に石彫刻作業の手仕事を激しく非難され、
「コツコツと石など削って、穴なんぞ機械で空ければいいんだ!」
「牛の糞より汚い!」、在学中、何度も私たちは聞かされました。
確かに、先生は必ずスケッチではなく、石膏を削ってモデリング。
手で考える。かたちは手から生み出していく!
手の痕跡は工業製品だからこそ、絶対に残すな!と。
機械で創ってどこが悪い、手づくり、手の温かさが基本ではない!
しかし、現代の柳宗理作品の造形評価には、
時間をかけて練り込んだ造形で手の温もりがあるという軽薄さが多く、
それこそ、”あったかインダカラ〜” が先行した批評を読むと、
直伝で、手づくりの真の反映とか、機械生産だからこその正確さを
私たち金沢美大生は徹底的に教え込まれたと思っています。
「柳宗理の作品には”かわいさがある”」なんて評価こそ糞です!
木で作られているから、温もりがあっていい、というのは
とても貧しい見識だと私たちは自然に学んできたと思います。
今、民芸はほとんど手芸と同様な形態言語で受け取られています。
これは大きな間違いであり、柳宗理のデザイン記号を私は、
むしろ数理的な製品記号論という解釈で無意識さを選んでいます。
工業システムだからこそ、手づくりよりも機械づくりでこそ、
自然さが生まれてくることを知りなさい!と聞こえてきます。
売らんかなという商業主義を徹底的に厳しく非難をし、
見識豊かな商業主義に汚されていない工業システムを尊ばれました。
ゆえにかもしれませんが、
私がメガネメーカーに、最初に、「角膜提供の企画書」を書いた時、
「彼なら、造形以前に企業の社会姿勢を書いて当然」と、
金沢美術工芸大学は、私をその企業に紹介してかつ、
困惑している企業に、「社会的役割からの提案」を認めました。
「だから、工業デザイナーは儲からんのだ」と、
先生の高らかな笑い声を美大の卒業生は耳鳴りになっています。
同級生の光野氏が、国会議員選挙に立ったとき、
先生は住民票を移すというまでになった純粋さを私たちは
生涯、デザイナーの倫理観として護り抜く覚悟でいます。
だからこそ見識の欠落した軽薄な批評に、私は牙を剥きます。


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『iPhone6 plusの意味と意義とファッション価値』


   


     10月 21st, 2014  Posted 12:00 AM

私の情報化はコンピュータとの日常化のなかで、
1972年、東芝入社での新人研修、Apple?で再学習し、
1984年、Macintosh128kからエバンジェリストになり、
そして、クパチーノApple本社でのコンサルタントから今まで、
そのほとんどがApple製品との関係で全てを構築してきたものです。
結果iPhoneも米国発売から私のケータイとスマホも連続しています。
昨夜、いろいろ批判あるMacOS Yosemiteもインストールしました。
まったく、今のところ、巷で話題となっている問題はありません。
それどころか、iPhone6 Plusは、最適なルイヴィトンの
本来はペンケースがそのまま転用することができます。
これまでも、特にコンピュータさらにiPhoneの機能性は現段階では、
これが最も正当であり、最適なファッション性を形成していると
私は確信をもって断言することができると発言してきました。
ケータイ・スマホの時代と共時するのは、ネットワーク回線という
そのインフラによって、「自分の情報性」の真正さにつきます。
真正さが企業の欺し広告で乱されることはあってはならないのです。
それはスマホの販売会社や電話会社の時代的な正義性と倫理性が
ファッションとして、正直性を真摯に訴求することです。
明らかに、このケータイ・スマホ販売は、機器とネットワークの
市場価格と企業それぞれの正当な美学的決断の社会化、効能性です。
しかし、この市場競合には、単なる儲け主義がはびこり、企業存在、
そのインチキが横行しています。今流に言えばブラック企業が
あたかもIT企業と自称し宣伝によりかかった企業存在があることです。
IT企業でベンチャー企業という自称は、国民への裏切りを散々見ます。
こうした企業を徹底的にこれから、私は正当な美学的な検証で
厳しく提示し批判していかなければならないと思います。
その最大の理由は、企業の商業主義を装ったブラック企業だからです。
盟友から「自死の日本史」を薦められ読み直しています。
彼が伝えてくれました。
いつの日からかこの国は誤りの商売で滅茶苦茶になってしまったのです。
だからオピニオンリーダーの一人として、
こうした企業を名指しで非難し討ち滅ぼす必要があります。


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