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Posts Tagged ‘女性’


「喧嘩道・夫婦間では必ず敗北宣言をするべき」


   


     8月 29th, 2012  Posted 12:00 AM

男同士の喧嘩は、
その限界は暴力に至るでしょうがそれはバカです。
そして大問題は、
「男女間の喧嘩・夫婦間の喧嘩」に、
喧嘩道の結論があると考えています。
殴り飛ばしたい女もいますが、これは耐え抜きます。
しかし、夫婦となるとそうはいきません。
私は、あっさりと「敗北をすること」にしてきました。
ご存知の方もいらっしゃると思いますが、
私は二度も離婚を経験しました。
浮気ではありませんことを断言しておきます。
「もうこの女性とは無理だな」と思ったら、
その女性に対しての責任を果たせませんから離婚をしました。
それは完璧な「敗北宣言」です。
だから慰謝料は言われるままでしたので、
一切裁判などにもなりませんでした。
ひたすら全財産を失ってきました。
喧嘩道には男女間そして夫婦間がありますが、
これは絶対に「敗北」を覚悟し決意して、
喧嘩の収束をすべきだと思っています。
私のような我が儘さを認めてもらってきて、さらにわがままに、
「貴女との生活はもう無理だ」と告白することは、
夫婦間の喧嘩からの逃避でもありますが、正直さだと思っています。
伯母に現在のワイフと結婚をする報告をしました。
「貴男ね、自分はモテるって錯覚しているでしょ、
いい加減にしなさい。貴男は捨てられたことを自覚しなさい!」と。
「だから、言われるままに慰謝料は借金してでも上げなさい」。
教え子に言います。
私のような生き方はダメだ。真似をするな、と。
女性の教え子には、
料理が出来なかったら浮気されても仕方がない、なんてことを伝えます。
もっとも、これまでの「ワイフたち」は、
流石に結婚しようと決意したわけですから優れた女性でした。
今回、喧嘩道の極地って何かなあってワイフに聞いたら、
「それは離婚での敗北宣言でしょ」って、あっさり告げられました。
それをブログでカミングアウトか、ワイフは書いておくべきだと。
とんでもないと存分に躊躇しましたが、喧嘩道のために告白です。
ともかく、男女間の喧嘩、夫婦間の喧嘩、離婚は、
喧嘩道において「敗北宣言」あるのみです。
読者諸兄の皆さんはビックリされていると思いますが、
喧嘩道を書き残していくにはここは避けがたいポイントです。
もう「敗北宣言」はしたくありませんので、
ワイフに喧嘩を仕掛けるなんてとても完全不可能です。
「捨てられるのは完璧恐怖ですから」・・・・。


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「元気になろう、元気になれるスゴイ写真だ」


   


     8月 24th, 2012  Posted 12:00 AM

8月20日、銀座に50万人だったとか。
ロンドンオリンピックはワクワク感を与えてもらいました。
素直に喜びたいと思います。
アスリートの選手達には敬意と敬服を捧げます。
そうしたら、こんなスゴイ写真が
女子サッカー選手・丸山桂里奈さんが与えてくれました。
本当に、徹底的に悲嘆し哀しむ事態にわが日本は落とし込められています。
領土問題での対決は勿論ですが、未だに拉致問題も、
さらには女性ジャーナリストの殉死です。
1000年に1度とはこれほどまでに
私たちから希望や夢を奪い取っていくのでしょうか。
銀座の光景は、マスコミが与えてくれたものではありません。
スゴイ、良かった、元気をみんなで共有できると私は思っています。
無念ながら私なりに懸命なのですが、
デザイナーとしては何もまだ進めることができません。
デザインも夢を叶える職能です。
しかし、デザイン界も元気になれない状況に追い込まれたままです。
サッカーの香川選手が、「君が夢だ」というCMを観ると、
そうだろうなー、子ども達が憧れていることが良くわかります。
子どもたちに憧れない職能は、
どこかに欠陥があると考え直すべきでしょう。
それにつけても、マスコミ、特にTV番組が、
アスリート選手への無礼な態度を見かけます。
TV界の勘違いは笑止千万です。
彼らはどれだけ夢を与えてくれているのでしょう。
その敬意ない番組は、TV時代の末期症状だと断言せざるをえません。
2020年、オリンピックを誘致することを実現するべきでしょう。
元気になって、未来の幸運を創り出さなければいけません。
領土問題と同時に拉致問題も緊急課題です。
急ぐためにも元気になりましょう。
スゴイこの写真はアスリートが与えてくれているのです。


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「スイス政府防災マニュアルは憲法の具体解説」


   


     7月 9th, 2012  Posted 12:00 AM

永世中立国家を維持しているスイスは私には謎国家です。
永世中立によって「平和」のために、
全国民皆兵制、全ての住宅にシェルター設置は義務です。
スイスの防災マニュアルを読みました。
文字だけではなくグラフィックデザインとして、
本当に素晴らしく美しい本になっています。
まず、祖国ということ、
国の自由・国民の自由を定義しています。
これこそ「愛国」の基本でしょう。
あらゆる災害・戦時体制・原爆から死刑にまで、
国民がどう平和で安全に、
「いざ」という場合がとても懇切丁寧に、
おしゃれなイラストとともに編集されています。
国家転覆への情報対処・情報戦を
国民の認識方法まで述べられています。
「平和憲法」の文言にだけ頼っているわが国との違いを
あらためて、見直す必要があると思いました。
これは、憲法の具体的な行動規範です。
国民が平和で安全を確保する基準とは、憲法で制定していますが、
その具体的行動を「日常生活」でどう認識し、
しかも国民皆兵制ゆえに、成人は女性も武器訓練があります。
特に、私は、国家転覆の情報コントロールと死刑の記述は、
これなら国民全員が納得できると思いました。
スイスには死刑はありませんが、
国家維持を破壊する者や国家転覆者には、
絶対死刑というのは、説得制があります。
日本は、天災が一段と厳しい環境下にあります。
政党の嘘だらけの「マニフェスト」など不要です。
だれでもが分かりやすい、憲法を読むのではなくて、
具体的に、自分・家族・コミュニティ、そして国家が、
平和と安全を維持していく具体的な行動規範こそ、
安心国家の安泰性を確約するものと考えます。


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「ヒエログリフにも障がい者は描かれている」


   


     6月 30th, 2012  Posted 12:00 AM

車椅子生活、障がい者になって以来、
私は徹底的に歴史的、絵画的、文学的など、
その領域に登場する障がい者を
趣味のごとく収集してきました。
このヒエログリフは、
元来はヒエログリフ文字という象形文字から、
アルファベットの形態を探っているときに発見しました。
女性は、確実にヒエログリフでの説明があり、
現代医学的には筋ジストロフィーではという予想があり、
もう一つは確実にその時代にも、
小児麻痺があったことを示しています。
最近では、クロマニヨン人の時代に、
障がい者を家族が看ていたという推測もあります。
この推測の系譜を私はまだ追いかけています。
要は、人間の心情に備わっている「同情」と言う心理、
心理学的には他愛主義に結びついているでしょう。
しかし、自己主義の極点は、非情です。
この非情性に宿るのが「差別感」が入り込むのです。
結局は、人間の心理の異常性を自己認識することです。
この自己認識ができるかどうかは、
自分自身の無知性が引き込んでくるものと思います。
私は多分、車椅子にならなかったら、
ヒエログリフ世界に入り込むことは無かったでしょう。
ヒエログリフを知ることは、
無知性から開放される大きな手がかりでした。
無知性への直接的対決は、
「知識」の獲得であることは間違いありません。


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5月31日Staff Blog


   


     5月 31st, 2011  Posted 10:00 AM

5月31日

新入生歓迎会にて、
東芝時代の仕事を紹介する
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)


これはBOSSがとある企画用に用意した、
テレビCM用の絵コンテです。


当時広告代理店の提案が気に入らず、
会議の現場で描きあげた一枚。


ヘッドフォンのCMとして、
なんと!女性が髪を切る映像を使用する、
というアイディアです。


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『資本主義からの逃走』
「 何がMedia Integrationとなるのか・2」


   


     5月 4th, 2010  Posted 12:01 AM

形容
「容」。
かたち、としたのは立原正秋でした。
彼の文体は、まさに形体でした。
形体とは、立方体や四角錐といった規定ある形態です。
したがって、文体は、作者の規定という思念定義があるのです。
立原作品には、女性・庭・能・作庭・樹木・陶磁器・刀剣などへの造詣、
彼のの著作深度は、学者以上であったと思っています。
私が、樹木や作庭については、幼心に祖父の一言一言があり、
陶磁器・刀剣は、父に連れられていった道具商の市でした。
しかし、当時私はそうしたモノは傍観していただけです。
「きれいだな」と思う程度でした。
それから、美大を出てようやく気づきました。
伝統工芸の産地と先祖の書き残してあった図面で、
私は、これらのモノと日本人について考えることになったのです。
それは年齢とともに、蓄積されてきた知識や感受性に深みが
やっと出てくれたのだと思いたいわけです。

綺麗
そして、ひとまず、日本的そうしたモノが「きれいだ」と思うこと。
この「きれい」という言葉と「美しい」との距離感に私が放置されたのです。
それは絶対に一直線上にあるものではないということです。
なぜならば、
● きれい・・・形容動詞
● 美しい・・・・形容詞
すでに、言葉の領域、その次元がいわば異次元だということです。
しかし、たとえば女性たちが望む「きれいになりたい」欲望は、
「きれい」になることから「うつくしい」、
あるいは「かわいい」次元に
ワープ=超光速航法を切望するということです。
はかない夢想だと、私は思います。無論大切なことですが。

トランスレート
むしろ、「綺麗」から「美」へトランスレートすることが論理性があります。
なぜなら、綺麗という形容動詞はネットワーク層があるのです。
ところが、その層からトランスレートすれば、
「綺麗になる・綺麗にする」動作の蓄積が
「美」という層へ運びこんでくれるでしょう。
「形容動詞が形容詞になる=綺麗が美になる」述語解です。
私のこのまなざしでは、決して、日本の伝統ですら、
「綺麗」なモノやコトで終わっているのは、
「美しい」とは言い切れません。
Media Integrationへは、形容動詞から形容詞として、
「形容」の世界観を、私はめざしたいと考えています。


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『資本主義からの逃走』
 *「造形思考も数理思考も、『手』に集約します」*


   


     1月 17th, 2010  Posted 1:00 AM

手と空
いつもスケッチと数式を描き書いています。
「手」に造形・数理の思考が採集・集中・集約します。
「手」が動き出すまでには、
「手」はほとんど運動神経が支配している所ですから、
頭脳は「空」=emptinessになっています。
だから、思考が蠢いているとは感じられません。
ところが訓練した「手」には「思考脳」が発生します。
これが不思議なことですが、私は確信しています。
デザイナーの修練・資質・才能・意志・存在感、
それらを統合化しなければ、
この不思議さを身体化できません。
これはほとんどスポーツや楽器演奏とも同一だと
私は想ってきました。
手の訓練
美大生時代は、徹底的に「手」の訓練をしました。
泣くほど訓練をしてきたと思います。
デザイナーである現在も「手」をひたすら精進です。
今、教育者として「手」=デッサンを重視しています。
もう、「手」で一本のラインを見ただけで、
学生や若いデザイナーの「力」=能力が見えます。
私自身のデッサン・スケッチには健康状態も出ます。
もう一つは「手」は女性のごとく「手入れ」必死です。
ハンドクリーム
手の洗い方からハンドクリームについても、
相当に試行錯誤してきました。
特にハンドクリームについては一家言持ってます。
「手」が、
実は「脳科学」が集約しているとさえ思っています。
「思考」は「試行運動」で「手先」から表現されます。
私は、思考が行き詰まるといつもじーっと、
自分の「手」を見つめることにしています。
ちなみに、ハンドクリーム評論家にもなりたいです。


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