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Posts Tagged ‘存在感’


『伝統ともなっていくデザイナーの一作品』


   


     6月 10th, 2017  Posted 12:00 AM



デザイン界の巨匠と言えば、リチャード・サッパー、
代表的に彼の名前そして作品があります。
その作品のどれを取り上げようかと私は悩みました。
結果理由は、ハロゲン電球を発明的に使用した照明器具:Tizioにしました。
今はとりあえずハロゲン電球をLEDに変えているので単なるコピーですが、
いづれこの照明器具は現状のLEDを超えた必ずワイヤレスになるでしょう。
デザイナーになれば、私の時代はドラフターがありZライトがありました。
最も、ドラフターは美大時代は、
画材屋さんのショーウインドウにあり、社会人になるとあれが使えると、
そんな具合で、T定規と三角定規、烏口(からすぐち)で学びました。
さて、この照明器具は憧れのモノであり、
自宅はじめ研究室もすべてに置いて使ってきました。
多分この照明器具もいずれは美術館そして博物館展示になるでしょう。
そこでデザイナーならば心に留め置くことがかなりあります。
照明する場にどの角度からでも光をあてて「あかり」に出来ることです。
それは、容易簡単に角度調節でのバランスがとれるのです。
そしてどのような角度調整でも、存在感には、
あかりが有る無しに関わらず美しいことです。
ともかく、まず造形アイディアと素材や構成の設計から生産性までが、
彼の場合はどんなモノでも「んーそうか!こう解決したから美しい」と
思わせてしまう造形デザイン力です。
可能であるなら、彼のデザインしたモノで自分の生活を取り囲む、
それが果たせるデザイナーだと私は思ってきました。
それこそ、あのIBMも長期にわたって彼がデザインディレクターでした。
この照明器具があるならデスクには、絶対にこのモノが必要であり、
それが置いてないなら、ユーザーのセンスが疑われるでしょう。
そういう意味では彼のデザインしたモノすべてに行き届いている
造形デザイン力は職能であるデザイナーのそれこそ最も大事な
伝統があるということですから破壊しなければいけないのです。


* 『実寸大の馬に照明とスピーカーが乗っかる』
* 『実寸大の馬が32階の自宅にいる!』
* 「私の教授室にはドラフターは2台」
* 『見詰める光は「あかり」になるという事例』
* 「USBからワイヤレス化と電磁波空間」


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『JBL4343の上には造形美のあるモノを置く』


   


     6月 16th, 2015  Posted 12:00 AM



私の自宅で最も権威性のある場所。
それは、私が常に目にするのはフリーランスデザイナーになって、
絶対に使用しようと考えていたJBL4343の右側トップ面に
選んだモノを置いてます。
まだ、若き金属彫刻家、
いや、金属オブジェ作家の早川氏のロボット的オブジェと、
徳田正彦氏(徳田八十吉)の九谷焼、
恩師であった柳宗理先生の茶器、
そして、倉俣史朗先生のアクリル花瓶です。
写真の色会わせにバカラのガラス器も置きました。
ここはいつも迷います。
JBL4343は5.5回目のメインテナンスを終え、
あと10年は大丈夫ということで、
エージングがようやく1ヶ月を過ごし、
あと半年はかかるかもという状態です。
このスピーカーは、東芝に籍を置いたままフリーになり、
ふるさと福井時代は、パイオニアのサービスマンの方に、
名古屋時代から、
今までも新たなサービスマンの方に面倒をみてきてもらいました。
私のデザイン活動を東京・福井・名古屋・大阪と見てきてくれました。
だから、このスピーカーシステムの上で、
私のデザイン活動を見守ってもらうモノ、
私はここは選び抜いています。
徳田八十吉氏の作品は、私は高校時代に衝撃を受けました。
そうしたら美大の先輩。
在米日本大使館の入り口には、氏の大皿があり、説明を受ける前に私から、
さも私の作品のごとく説明をしたものでした。
ともかく、倉俣史朗氏と柳宗理氏の作品、
この造形には今はやりのデザイン思考など、
全く無関係であり、若手金属オブジェ作家の作品は、
二回個展会場に通って選んだモノです。
これらの作品には、私の所にやってきたそれぞれの経過があります。
そして、造形の美しさは、私を刺激してくれています。
少なからず、
自分の作品でこの作品群の中で、明らかな存在感が無いモノは、
私のデザイン=造形言語から形態言語として、
完成はしないことになります。
したがって、モノを所有し使用するに至るには、
これらのモノとともに
絶対に呼吸をしてくれるかということになります。
したがって、もう一方のJBL4343の上の作品は、
まだ決定打がありませんが、
工芸作品として美大後輩の作品もあります。
それこそ、やや先輩風で、私にはもっと安く売ってくれ、
と言ったモノですが、
後輩がこの作品づくりで、
やはり、彼の工芸作家としての力量があります。
だから、
このスピーカーシステムに乗ってこない作品を私は評価をしていません。


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『石ころとスタイラス』


   


     4月 20th, 2015  Posted 12:00 AM



私にとって、筆記具はほとんど手・指ですから、
私であり、しかも思考の出入り口です。
チベットのさらに山奥の村に、小学生が通学の途中で石ころを
見つけて、それをチョーク代わりにして、
小さな黒板のような画板だけを背負って学校に行きます。
学校では、先生に教わる文字=英語をその石ころと画板に書きます。
それを自宅に帰ってきて読み直しをして覚えてしまうのです。
そしてお母さんが玄関の外に画板をたてかけておくと、
その画板の文字が夜露で消えて、朝になると画板の文字が消えていて
それを持って、学校に行き、しかもまた石ころをひろうのです。
その子が言いました。「将来はお医者さんになるんだ」と。
日本に生まれてまさに現代人の私が文房具や筆記具にはなんとしても
特別の感情があるのは、石ころと画板です。
でも画板には肩紐があり。それはお母さんの見事な刺繍紐です。
画板とその民俗的な刺繍の肩紐、このコンビネーションこそ、
私のモノの存在感=効能性の審美眼はここにあります。
現代の最新鋭のスタイラスは、おそらく、これが最高峰でしょうが、
私のモノへの審美性は、はるかチベットの山奥の子どもたちの
刺繍肩紐と画板があり、毎日、チョーク変わりの石ころは
多分毎日、彼は迷って大急ぎで探して学校に持っていくのでしょう。
筆記具である石ころもこのスタイラスと同等のモノだと、
私は思っています。ともかく自分思考の出入り口にすぎません。
が、それだけにとても重大で大切なモノだと私は思っています。
ある意味では、画板もPadも、石ころもこのスタイラスも、
全く同じモノにすぎません。
それだけに、現代文明の最先端のモノとしては、相当なる
完結された「かたち」に至る完成度が必要だと思っています。
間もなく、今年度の日本文具大賞の審査が始まります。
画板と石ころで思考を磨いたあの子が成長してドクターに、
なんとしてもなってもらいたいと思います。


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「椅子取りゲームは、今なお続いている・・・」


   


     11月 28th, 2012  Posted 12:00 AM



24年前のプロジェクトは、
この画面から始まりました。
当時はスライドでした。Musical chairs=椅子取りゲームです。
つまり、椅子はいくつもありますが、自分が座るべき椅子を明確に定め、
そして、自分が座った椅子にスポットライトが当たるのです。
これは、いまなおマーケティングをゲーム化したとき、
「時代が、社会が、注目したモノづくり」です。
しかし、もはや、
「モノ(商品)づくり」+「コト(情報)づくり」が必要であり、
これだけでも産業経済を活性化して、
理想的で確約された日常生活を存続させていくことは不可能です。
24年前に、このMusical chairsをスライドで見せて、
製品開発に入りました。
しかし、商品化まではたどり着くことはできませんでした。
それは、私の大きな悔恨になっていますが、
再度、私にその主導役が回ってきました。
今、このMusical chairsは相変わらず、世界の経済活動の根本的原則です。
そして、注目されてこの椅子取りゲームの勝者は
その性質や存在感の変異が求められているのです。
いつまでも一つの椅子に座り続けられるわけにはいかないのです。
椅子の持ち主になり、なおかつ、注目されない限り、
社会的な存在性を失います。
40余年もデザイナーであると、
まるで予言者のごとく見えて来るものがあります。
たとえば、この企業名ではダメだとか、
商品名が時代遅れだとか、
パッケージがダサいとか、
とどのつまりは、経営者がダメだ!とかが見えてきます。
Musical chairsを考えれば、自ずとわかることですが、
椅子取りゲームの音楽が始まります。
リズミカルで、軽快で、それだけに、
急停止するだけの即応性が必要です。
リズミカルであるというのは、
時代性の流れに身を任せることが出来るのです。
急停止する即応性は、
経営センスにいつでも、「軽やかな信念」が必要です。
「軽やかな信念」はどうすれば鍛えることができるのでしょうか?
私は自分の生涯をかけて
この「軽やかな信念」の鍛錬をしてきたと思っています。
だから、「軽やかな信念の無い」リーダーには
牙を剥くことにしてきたことも事実です。


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「やっぱり、チュッパチャプスにもどる」


   


     9月 23rd, 2012  Posted 12:00 AM



金平糖、チョコレートと書いてきたら、
何度も書いてきましたが、このチュッパチャップスに戻らざるをえません。
なにしろ、これは武器です。
詳細は以前にも書いてきましたが、
私の居場所にはすべからく置いています。
ポケットには必ず2つ入っていないと不安になるほどの代物です。
あらためて写真に撮ろうと思っても、
これがなかなか思うようにいかないほど、
ある種の存在感があります。
プレゼントで本当に山ほどいただいて、
賞味期限切れになりましたが、大丈夫です。
飛行機に搭乗するとキャンディをもらえますが、
あの手よりもキャンディはコレが極めつけです。
しかし、私論的には、武器ですから、飛行機に乗せてはダメでしょう。
だから私も飛行機には持ち込みません。
私は、外出時にどうしても気分でカバンを様々に変えますが、
そうしたら、すべてのカバンには必ず入っていて、
それらが賞味期限切れになっていましたが、
どこまでが賞味期限切れなのかを試してみたい衝動にかられます。
私は、金平糖にしろ、チョコレートにしろ、
このチュッパチャプスにしても、
新たなデザインが可能なのかと思っています。
理由は、
賞味する対象物へのデザインはありうるのだろうかということになります。
なるほど、金平糖の完結な美しさ、種々様々なチョコレートの美は、
それなりの専門家領域の伝統的な技の結晶です。
けれども、この伝統を変えられるデザインは必ずあると思っていますから、
次世代に、金平糖もチョコレートもチュッパチャプスも、
デザイン対象にしてほしいのです。


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「オーバー機能であっても、存在価値の美しさ」


   


     8月 18th, 2012  Posted 12:00 AM



プレゼントされたB&OのBeoTimeという目覚まし機器です。
久しぶりに、この機能を自宅内でどこまで可能化を試しました。
時計、アラーム、照明機器の設定、TV、オーディオまでが設定可能です。
しかし、これらを全て使うということはわが自宅ではできません。
アラームでオーディオシステムでアラーム・目覚ましになります。
だから、この機器はほとんどオーバー機能だと思います。
ところが、モノとしての存在感はとても美しい姿をしています。
形態=体と用(ゆう)、これは世阿弥の言葉ですが、
用を「ゆう」と呼びます。
これは体というのは本質を表し、
その本質に対して用=ゆうは、外にあらわれてきている働き、
まさに用途ということですが、用途を超えた姿存在があります。
これは、能における美しさは「体」と「用=ゆう」と呼ぶことで、
優美さが本質からあらわれてくる様のことになります。
この製品の本質に実装されている用途は、
現実的にはオーバー機能になっています。
そのオーバー機能を超えて、
製品存在が優美=用を成しているということになります。
現在、プロダクトデザインで、
ここまでの存在感が有るモノは見かけなくなってきたのが現実です。
私は、眠りの傍らに、このフルートのような形態を置くだけで、
目覚めの用=ゆう=優美さに繋がると思っています。


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「ブライスというたかが人形に、されどの本質」


   


     8月 13th, 2012  Posted 12:00 AM



自分の生まれ年のモノこそ、
自分を重ねていく趣味性とオークション価値性が楽しめます。
学生たちにも、若いときに、たとえば生まれ年商品となった、
時計などを買っておくことは趣味の基本だと伝えています。
私は50代になって、
生まれ年の時計を随分探して買いましたがとても高額でした。
そうしたら、
ワイフはしっかりと生まれ年の人形をコレクションしていました。
多分、この人形は、「たかが人形」に過ぎないと思いますが、
これはとても価値あるコレクションだとびっくりしました。
しかも、ルイヴィトンの靴トランクに、
このブライス周辺の小物まで整理して持っていました。
今回も彼女のコレクションを借りてこのブログで、
「たかが・mere」-「されど ・just」という比較断定論を突き詰める、
その一例としてメモしておきます。
ブライスは、おそらく人形の中でも独特の表情とその存在感があります。
この人形の詳細についてそれほど私は語りきることはできませんが、
この人形を素材として
人形との関係が総合的に充実しているモノはないでしょう。
すなわち、「たかが人形」「たかがブライス」に過ぎませんが、
問題は「されど人形」「されどブライス」を
確認する要素がいっぱいあります。
私が「たかが」-「されど」の可逆論理は、
「たかがデザイン」ー「されどデザイン」という言い方で、
私は「デザインの重大性」をこれまでも、
これからも語っていくことになると思っています。
私にとっては、「たかがデザイン」と言われたり、
その程度の価値観を抱く人間には常に喧嘩をしてきました。
「されどデザイン」を実証するのが私の使命だと考えています。
「されどデザイン」の本質的確信は、
人間としての人格=美しさ認知力こそ、
その人の存在性に関わっていると断定しているからです。
真・善・美が人間の悟性であり存在性そのものの価値だとすれば、
この真・善・美においても最後の価値判断は「美」です。
結局は真であり善であっても、
美無くしては真善も成立はしないということです。
私は、このブライスという人形が世の中に登場して、大変なブームになり、
それがさらに「たかがブライス」なのに「されどブライス」になって、
しかも現代も「されどブライスの価値観」は高密度になっています。
ブライスの存在性が創り連続してきた
「価値」の真意は美に通じているのです。


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7月27日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 27th, 2012  Posted 3:29 PM

7月27日 友引(己丑)

内容で自分の存在感を伝えるとは
どういうことだろうか。

やり方は二つある。
一つは、
聴衆との「呼吸感」で
動いていくことだ。
そしてニつ目は、
「AとかけてBと説く。その心は C 」
という明快な形式。

『プレゼンテーションの極意』タブーの逆説「いい加減」なプレゼンの「良い加減」づくり


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「手習いまだまだ諦めずに・・・」


   


     5月 16th, 2012  Posted 12:00 AM


私は美大ゆえに4年間、フランス語受講で単位は取得。
40年ぶりの同窓会でフランス語受講していた同期生に、
「4年やり通したよな」と言ったら、
「エッ、貴男のこと記憶に無いわ」と
一笑にふされてしまいました。
きっと、教室では存在感全く無かったのでしょう。
彼女は卒業と同時にヨーロッパに行ってしまいました。
最近、帰国したとのことでした。
60還暦から考え抜いていたのが、「60の手習い」でした。
ある経営者は60から中国語をすぐにマスター、
最も彼は、英語もドイツ語も堪能でしたので、
とても敬服していたことを思い出し、
62歳、昨年からフランス語やり直しを始めました。
そこで当然、私は「かたち」=モノから入ります。
ラジオを出張用も含めて買い直しました。
そうしたら、ラジオの進化にびっくりしました。
今ではパソコンにも連動するなど、
性能は格段にラジオでは無いのです。
これも精微な出来映えですが、あまり知られていません。
というわけで、
今年に入ってからもまだやり続けてやろうと企んでいます。
英語も未だまともで無いのに自分でも「なぜ?」なんです。
ただ、学生には言ってきました。
私の世代は英語だけでなんとかだったが、
君たちの世代はもう3カ国語ぐらいは絶対に必要だと、
教師として教条主義を発揮しています。
ベトナムからの留学性には、
日本語以上に多言語をやりなさいと伝えています。
おそらく私はリタイアしても
フランス語で読書程度はと思います。
今、イヴ・サンローランの原書は絶対読破と思っています。
4年もフランス語をやっていたのに、
最初にパリに行ってまったく駄目だというトラウマでした。
さてあらためてここで暴露することで、
自分に喧嘩を売っているのです。
それにしても、今は外国語習得の情報環境は整っています。
フランスの友人にも、
エコール・デ・ボザール(フランス芸術大学)での
ワークショップなら必ず・・・なんて
大言壮語してしまっていますシ〜ィ・・・。


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「相当困難だと思う」


   


     4月 12th, 2012  Posted 12:00 AM


先般、被災地の石巻市海岸線にあった瓦礫です。
本来は大きな広告塔だった缶詰のオブジェですが、
看板としては田舎っぽい存在感があったと思います。
デザイナーの私としては美しい看板どころか認めがたいオブジェです。
しかし、
瓦礫と化したこのオブジェは今では石巻のオマージュになっています。
大津波の巨大さ、自然の猛威を表示しています。
私自身被災地に復興計画を提案後、体調を崩してしまいました。
それには現実を凝視すればするほど、
デザインでの復興デザインのあり方を再考させられるばかりです。
が、「なんとしても復興への想い」は決して諦めてはいません。
その復興にデザインは不可欠だと確信しています。
ところが、最近、被災地それぞれの人口流失から、
現政権の無策性、日本の大企業が及ぼす景気感などから判断すると、
「相当に困難」だと思います。
理由を整理してみました。
まず、「地方行政力の実行力が基本的に欠落」しています。
とりわけ人口10万人程度での行政人材に、
その計画性から実行力などを期待することはほとんど困難です。
1000年に一度などは経験値で活動できることを凌駕しています。
しかも、行政機能の範疇に、復興実現などあるべきことでもなく、
ノウハウから創っていかなければいけません。
大震災以前に、日本の各地方すべてが「シャッター街」であり、
その再活性化すらほとんど全滅状態でした。
そこに、大手広告代理店などの「再活性化プラン」や、
いい加減な企画プランナーと自称する連中のプランなども最低でした。
そうしたプランに地方行政はほとんど振り回されてきたと思います。
今回もそうした売り込みが多いようですが、
本物の計画を見極めてほしいと願っています。
私自身のデザインアイディアでも、
16mラインまでの対応デザインをしましたが、
南海トラフでの想定では、20mから36mまでの安泰ラインとなると、
そのデザイン設計でのアイディアを超えています。
今、石巻の瓦礫と化したオマージュを何度も見つめ再熟考しています。


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