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Posts Tagged ‘差別化’


『納得出来ない日本の伝統技=和紙の切り売りと分断化』


   


     12月 17th, 2014  Posted 12:00 AM

「和食」はユネスコ認定されましたから、
ともかく日本の食文化全体が伝統文化としてグローバルな認定でした。
しかし、「和紙」でユネスコ認定されたわけではありません。
ひたすら和紙産地が、国内の中でも「自分たち」だけを
官僚経由でユネスコ認定を勝ち取って自分らが本物と主張しただけです。
厳密に言えば、1300年の歴史は1500年の越前和紙との、
私が絶対に許せない「差別化」謀略を完成させただけのことです。
したがって、「和食」は農林水産省の仕事であり、
「三つの和紙産地」認定は文部科学省の仕事だったことです。
日本人だって、ユネスコ認定での日本国内の取り決めなどは全く、
私たちは知るわけがありません。
私も、福井県選出の国会議員と一緒に文科省のお役人から、
詳細を聞かされて知ったというわけです。
認定された和紙も楮に限定されています。これが文科省の仕事?
雁皮の困難さ、土佐楮は選ばれず、溜漉き、黒漉き無視なんて
本当の和紙技能は選外ですから。
冗談じゃない!、申し上げたい、お役人に何が分かっておられるのか、
しかも、マスコミのバカどもは、和紙でドレスが出来る?って、
それは和風紙(純楮ではない紙パルプの草紙)です。
知性無き文科省の官権を、絶対に認めない人間がいます。私です。
それは私だけでなく、極めて悟性ある多大な仲間がいます。
ユネスコ認定自体を、私は実物と歴史性そして伝統的制度論で、
海外アピールする覚悟でいます。
なんと言っても、越前和紙から和紙が全国各地に伝承されたことを
私自身が熟知と経験から、文科省のこの認定を海外から壊します。
海外のデザイナー仲間は絶対に私を全信頼しますから。
なぜ、私がこの覚悟と決意をしているかは、
文科省の認定に関わり、私に説明した担当者の偉いさん達、
じっくりと再考を真摯に、そして激烈に私は求めます。
メールも平然と無視できるそのような人たちです。
もちろん、この認定を取り付けた産地は和紙づくりに真剣でした。
この認定を知った後で、あわてふためいた産地は猛省を、そして、
首長の知事や市長は、全く伝統には無知だったと指摘しておきます。

『和紙は越前和紙ぬきになぜ語れるのだろう!?』
『越前和紙に私専用を特注、なぜなら伝統の技能だから』
『享保の手帖から私が学び直したこと』
「伝統は熟知必然・実例としての和紙か和風紙か」
「越前和紙から名塩和紙への悲しい物語り」


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『「ブランド」論を語る無知なコンサルタント信ずるなかれ』


   


     11月 29th, 2014  Posted 12:00 AM

「ブランド」を語る、書籍、TV教育、企業・行政指導が流行です。
いわゆる「ブランド論」が盛んに、いや喧騒に語られています。
ところが、肝心な原意を語らずして、
なぜブランドは商業主義風的、経営主義風的な言説が可能でしょうか?
元来は、焼焦げた跡を意味していました。
それが、酪農での牛の烙印になることから、ブランドが始まります。
ところが現在は、酪農で、烙印を押すことは禁止されています。
それはよくわかるはずです。
烙印を押すというのは火傷をさせて「持ち主」を確定することです。
現在は牛の耳にラベルを付けることになっています。
このラベルのデザイン、この考え方はデザインから生まれました。
すなわち、ブランドはラベルになってしまったということです。
したがって、烙印からプラスチック製のラベルというコンテクストを
「ブランド論」では二つの文脈的な解釈が必要だということです。
烙印→ブランドは、その所有者がものそのものに目印をつけて、
明らかに区別していたということになります。
もう一つはラベル→ブランドは育成者がモノづくりに目印をつけて、
明確な分別をつけているということです。
そして最も重大なことは「アイデンティフィケーション」、
自己同一性という心理学で、すでにこの区別と分別は論理的にも、
デザイン手法として決定していたことです。
このことの断片も知らないブランド論は勘違いと大間違いなのです。
このことを語るコンサルタントは詐欺師と断言できます。
決まって、彼らがブランド論で「差別化」を発言します。
生産者を、商品を、企業存在を差別論で語り出せば、それは間違い。
なぜなら、ユーザーを差別化したところにブランドの区別と分別は
消滅しているということです。
ブランドを判別することを差別しているブランドこそ、
区別され分別されて、その差異性で決定付けられていることです。

「C.I.デザインの源流としての思想」
「ブランドを語る前に、ブランドマーケッティングの大欠点」


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「資本主義からの逃走」
  「三つのアプローチから同一性の検証」


   


     2月 24th, 2011  Posted 12:00 AM

差分・階差・定差という三つの方策
差異性の有無を検証する方法は三つです。
この思考方法はすでに学問として成立しています。
術語としては、差分・階差・定差と言われています。

■ 「差分」
変化し、その関係を見極めるときに、
ある状態から次の状態での変化差を「差分」と呼びます。

■ 「階差」
そして、明確に比較できる間にある種の法則性があるなら、
いわば数列的な並び方をしているもの同士の差、
これを「階差」と言っています。

■ 「定差」
また、物の配分をするときに等分せずに差をつけて分配することを
問題意識にすることを「定差」をつけて決定するといいます。

これらは、すべからく同一性ではない差異性の特色の解釈方法です。
私が、この三つの差異性を取り上げたのは、
差を見極める方法に対して、明確な解釈とその決定論になっているから、
これをデザイン手法にしようということです。
すなわち、同一性を確認させるには、
「差分」・「階差」・「定差」というイメージを排除する表現方策の発見です。
私が、最も意図することは、企業の顔、商品の顔、
すなわち、企業イメージや商品イメージが確実に社会から認識され認知に至り公知されることを
デザインが請け負うということです。
「確かにあの企業の社会的な存在性と同一」ということをデザインで表徴させたいからです。
「差別化」の抹消をめざす
決して、「差別化」を安易に設定させない、
こうした三つのコンセプト表現方法をデザインが果たすためです。
この手法によって、デザインには決して、
「差別化」という暴力性を抹消させることをめざしています。


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「資本主義からの逃走」
  「企業の同一性は商材の差別化にあらず」


   


     2月 21st, 2011  Posted 12:00 AM

商材の差別化という常套性
企業の商材である商品には特徴と特長が必要。
その商品とはモノ=物質等やコト=サービス等です。
そして、その商材を経営対象としている企業は、
当然、商材の特徴と特長を「差別化」すると言います。
この言い方・表現はすでに常識的な企業内会話です。
そして、この「差別化」のためにデザインが利用されています。
しかし、商品特徴や商品特長を「差別化」することは、デザインの本質ではありません。
むしろ、商品の差別化というのは、購買者を差別化することになっています。
人間の暴力性は「無知」と「差別」であり商品の差別化とは暴力性だということも可能です。
その購買者向けへの特質=(特徴と特長)、
そのものの差異性や差異性をモノ・コトに語らせようということにはつながっていません。
おそらく、購買という欲望は、マルクス的には所有欲と使用欲に他なりませんが、
現代、この構図はまったく変貌しています。
欲望の刺激装置
労働対価内での購買行動からは外れているということです。
それは、本来なら労働対価による可処分所得内での「買う」という構図が変質したことです。
それは、労働対価を信託化=クレジット化できる金融構造があり、
人々の購買欲望が操作されているということです。
しかも、この操作は広告や広報というこれにもデザインは見事に荷担している情報操作であり、
この欲望の刺激装置化に「差別化」が仕込まれているということです。
しかし、デザインは「差別化」を創出する機構ではありません。
デザインが企業・商材・商品に装置化するのは「同一性」です。
企業存在を具現化している商材とその商材環境の同一性を、
すべからく確認を購買者に訴求することということで、同一性と差別性はまったく異次元であり、
ことばの体系下においても論理性を欠いていることを記しておきます。


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『資本主義からの逃走』
    「Inclusive Designの本質的定義へ近接」


   


     12月 24th, 2010  Posted 12:00 AM

人とモノと相互作用
「会話・対話」は人と人との話し合い。
さらに人とモノとの間の対話的な相互作用。
だから、まずInclusiveが人称と関係性を確認。
このことをメモとして伝えてきました。
まず、人称性を文法的なカテゴリーを基本にして、
一人称と二人称に、三人称が介在してくるときには、
どのようにInclusiveの限定と拡張が起こっていくを検証しました。
その結果として、Inclusiveの対立・反照のExclusiveが、
実は「差別化」であることにまでたどり着きました。
つまり、Inclusive Designには、差別はありえない。
「差別性」というExclusive
「除外性」や「占有性」はありえないということを確認できたと思います。
したがってこれまで、Inclusive Designを「包含されたデザイン」という安易な邦訳定義、
これは全否定ですというのが私の目標でした。
ところが、「占有性」や「除外性」を限定させるという機能性、
これがデザインの本質にあることも、それこそ包括しなければなりません。
たとえば、限定されたユーザーへのデザインは、
Exclusive性をさらに強化する価値観というよりも、
価値「感」が必至であることも認めておかなければならないということになりました。
なぜなら、デザインはその原意に「目印をつける=designare」です。
目印をつけるというのは、直接的にExclusive性を目標としたデザインであることを示しています。
Exclusiveの反照に近接
したがって、Exclusive性を最初に明確化すれば、
その反照・対照であるInclusive DesignへのInclude化を、
導入し、補強し、保全し、完結させることができるものと判断します。
この判断上にInxlusive Designの本質ゆえの定義が明証化されることに近接していくのです。


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『資本主義からの逃走』
「Appropriationー”かわいい”という印象を引き込む危険性・2」


   


     4月 12th, 2010  Posted 12:01 AM

kawaii
「かわいい」という日本語はすでにkawaiiという世界語。
kawaiiは、日本文化として世界の若者に発信できる文化語です。
私はこれは素晴らしいことだと評価してます。
しかし、「かわいい」を
designしかもappropriationに結びつけることに意義があります。
まず、「かわいい」の意味を吟味しておくべきでしょう。
「か」という接頭語は「蚊」という生物名からも、「小ささ」を表します。
「川」すら、小さな「水分や渦」+わ「和」=大きさです。
幼さや小さなものへのいとしさが形容詞になっていることです。
愛らしさや愛らしいこと、愛情をもって大切にしたり、
殊勝さから、労しさ、痛々しさなど不憫さや可哀想だ
という形容動詞にまで連続している感情用語だということです。
この感情用語であることに、
まず、評価言葉としての不安定さを認めておくべきだと思います。
なぜならば、感情用語というのは、
感性を陰陽学でいうところの「陰」の世界観があるからです。
感情を単純に言い直すと、
「感性にドロドロとした汚れが流れ込んでくる現象」という解釈があります。
感情がきわまるというのは心が哀しみや怒りという理性では
留めようもないことが流れ込んでいっぱいになることです。
「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しい」という、
ジェームス・ラング説があります。
不気味の谷・論
だから、「かわいい」という愛しさと悲しみには
連鎖性が心理的にあるということです。
ロボット表情学として、私の学生が修士論文で分析した、
「笑っている表情」、
その分析には、「怒りから悲しみ」が見事に分析され、
いわゆる、ロボット学での「不気味の谷論」をさらに詳細化しました。
私は、「かわいい、かわゆーい」というモノを所有する意識根底には、
「自分顕示」の置換性、転用性が起こります。
さて、私はこのことを非難しているわけではありません。
本質論としてのアブダクション的なデザイン面を語り切る論理が、
この「かわいい」から「きれい(形容動詞)」、
そして「美しい」へという手続きを明確にしたいからです。
ところが、この手続きやアブダクション性を転用するのに、
「盗用性」が加われば、これはさらに強化されることは明白です。
この「盗用的表現」+「かわいい」=欲望の刺激強化です。
そのことを私は指摘しておきたいと考えます。

無論のこと、私自身、キティちゃんからドラエもんまで、
「かわいい」と言われるアイコン性は、
日常への愛しさの反射対照性として容認し、
かつ、私自身がまず大好きです。
しかし、プロのデザイナーとして、
どこまで「かわいい」と「盗用と思われる表現」、
その隔絶性と融合性の線引きは、職能義務と考えています。


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『資本主義からの逃走』
「AppropriationーDesignに紛れ込んできている危険性・1」


   


     4月 11th, 2010  Posted 12:01 AM

応用美術
DesignがArtの応用にすぎない、という見解があります。
あるいは応用美術という歴史上でデザインが存在してきた、
この解説も、ほとんどのデザイナーは熟知しています。
私自身も、美大の産業美術学科という領域で、学びました。
したがって、特に、現代美術の様々な展開や、
歴史的な事件は、デザイナーの基礎知識として重要です。
この現代美術、現代アートとデザインとの境界には、
大きな戸惑いや、アートとデザインの融合性を確認する、
そんな事態は常に発生していることは認めています。
しかし、問題は、
Designが職能として、「かたち=外観づくり」だけ、
そんな印象が今なお強烈に有る、いや残っているのです。
私も、デザインは「かたち」に終結するが、
「かたち」と言っても、「形式」や「制度」、「システム」、
しかも「インタンジブル」な設計や戦略や策略と連呼してきました。
「欲望の刺激装置」
歴史的に見れば、
確実に「欲望を刺激する外観創成」だったことは否めません。
ところが、
さらに、いわゆる商品形態の区別化を
「商品の差別化という付加価値論」に呪縛されてきました。
そこで、「盗用」です。
「盗用」という言葉は、反倫理性がありますが、
この反倫理性を滑稽さやパロディで回避し、
判断停止を意図した芸術が登場しました。1919年代です。
無論、それ以前も、「表現の多様性」として、
生まれたきたのが、マルセル・デュシャンアンディ・ウォーホルによる、
強力な引用性のさらに複製化ということでの著作権への抵抗です。
L.H.O.O.Q.

デュシャンのL.H.O.O.Q.という作品がもっともその事例でした。
確実な著作権という制度に対する表現性の確立でした。
「モナリザ」は万人が知っている絵画、アイコンです。
このモナリザに髭を書き込みました。当然、複製のはがきに書き込んだのです。
それが話題になると、今度は「髭の無いモナリザ」です。
初めからモナリザには髭がなかったのですから、
創作性を引用=(盗用)パロディ化し、また元に戻すことで、
その創作性への思考停止、制度混乱を意図しました。
伝統的となってしまったアイコンの複製での意識操作や
作品への新たな鑑賞方法を破壊して、これが革新的アートだと主張しました。

さて、私は、応用美術であるデザインが唯一、
「かたち創出職能」=「購買刺激装置という付加価値」へ閉じ込めたことは、
デザインにとってその本質性を失わせたことだったと判断しています。
そして最近は、実質のモノのかたち=アイコン性だけを引用、
というより盗用しているにも関わらずデザインの自由性の謳歌、
この流行、氾濫、さらには正当なデザインという主張を見ます。
盗用は破壊を作動する
それがデザインの多様性であり、それはデザインの否定によるデザイン、
すなわち「面白い発想」という評価にデザインが対象化されることは、
デザインの本質性を破棄し、破壊したものと考えます。
しかし、この判断には私自身も、「盗用か引用か」、
という曖昧性の判断停止が起こっていることは認めなければなりません。
もっとも端的には、ロボットなどのヒューマノイド系、
それはSFでも登場する人間クローンがロボットというのは、
借用・引用・盗用なのかという問題解決は、
緊急な解答が必要となっていることです。
しかも、もっと大きくて深刻な問題は、
デザイナーに「Appropriation」という芸術史での事件を読み込むことなく、
「差別化のために創造表現という勘違い盗用」をしていることが問題です。


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『資本主義からの逃走』
 「資本、無なり。  されど無料にて主義の正しさあり」


   


     1月 31st, 2010  Posted 6:00 AM

「ことば」ありきの資本

資本は、土地であり、商品であり、
そしてそのメディアとしての貨幣であったり、
(メディアとして、というのは現代語だからですが)
極端には、命も資本というシステム=保険まで、
人間、資本主義は創生させてきました。
土地・商品・貨幣・・・命はまず「ことば」でした。
やはり、資本のはじめに「ことば」ありきでした。
なぜなら、
「資本論」も「ことば」ゆえに、
「ことば」資本を差異化、差別化の「差」に、
価値を乗せることや、価値を生じさせる、
そんなことができたものと考えています。
これはすべてATOMの存在=有理性の世界でした。
たとえ土地を最大にしようが、
商品販売での利潤を得ようが、
人間の存在は、絶対的に「無」となります。
もっと単純明快に断言すれば、「財成した人」も、
無=死
死を迎えます。
死は、いのちを無とします。
命が無となることは、避けられないわけです。
「去らぬ別れ」、結局、死して後、
資本は残ります。
資本の、その運用が入れ替わるだけです。
そこで、「資本は無に帰す」と考えることは、
決して「無理」ではありません。
「無理」という「有理性」から利益獲得すら、
「無」とすることへの抵抗感が消滅します。
消滅というより、利益や利潤から解放されます。
自由=無料

無料=自由を直視

自由=freeになったのです。
その経験が、資本主義社会で蓄積されました。
free=無料は、「正しさ」という力を持ちました。
人間は、自由でありそれが「正しい」こととして、
社会の基盤、意志の基盤、認識の基盤ということを
無理することなく、有理であると確信できれば、
人間は、そんな社会や時代に、
「死=無」となることを納得して「生きる」でしょう。
「無料」の尊大さを直視する時代になってきました。


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