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Posts Tagged ‘感性’


『存分なデザイナー能力が性能・効能・機能を編集表現』


   


     4月 30th, 2016  Posted 12:00 AM

編集者としてのデザイン、デザイナーとしての編集、
あるいは、デザイナーという編集者には
いわゆる
写真・イラスト・グラフィック・タイポグラフィ・レイアウトという
あらゆる表現手法が、デザイン発想を支援する性能があります。
これは小誌の性能を感性刺激としてくれるもう一つのデザイン能力です。
その代表誌は、いわゆる一般的なデザイン誌ではありません。
つまり、表現者がデザイナーであるという効能性を担保している小誌です。
これは著名であるデザイナーN氏の才能が可能にしている
デザイン戦略です。
したがってN氏と自分との年齢差は丁度10年という大先輩ゆえに、
これからの10年を指示してもらうと同時に
やはりデザイナーになるためのトレーニング時代はほとんど同一でした。
とてつもない厳しさに耐えてこそ、デザイン能力が鍛えられてきました。
この同一な体験があるからこそ
この小誌が訴求している全てを受容できます。
デザイン表現がデザインの性能をしつらえ、
デザイン効果がデザインの効能を仕組んでいることを知ってこそ、
初めてデザインが常に機能性で語られる一般性を拒否出来ます。
これからの自分の10年、その大きなヒントを得ています。
編集者でありデザイナーであるからこそ仕上がっている小誌には
デザインの性能と効能があるからこそ、
デザインと機能の関係が明白です。

*『ハーバート・バイヤーを忘れた「デザイン風」の闘争』
*『ようやく出版されたDEO=デザイナーのあるべき職能観』
*『ロゴタイプ書体その基本ルールには伝統がある』
*『誤解されたデザイン=デザインは意匠とともに問題解決』
*『デザインは機能美ではありえない』


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『空間へのdolly的な隠喩性という手法』


   


     4月 11th, 2016  Posted 12:00 AM

コンセプトからの発想はすでに限界があります。
僕は「ライン」=lineという概念・観念・文脈の
統合的な手法を提案しています。
まず、その最初に「Scope」という思考空間の設定を行います。
現在のスコープはプログラミング言語としても、
変数や関数、言い換えれば変動、変異、関係、関与性を定義していますが、
それは思考空間を視覚化していく隠喩性の表現です。
まず、思考はどこ「から」どこ「を」を対象にしているかということです。
それは視点がふたつあることを示しています。
どこからというeye-pointがあり、
どこをみているかというview-pointがあります。
ところがこの点と点は視線:あたかも眼差しというview-lineができます。
そしてこの眼差しを動かしていくことをdollyという言葉を手にいれました。
dollyはComputer Graphicsで新しい用語になったのだと思います。
これは僕自身がトロント市でCGのトレーニングで
初めて知って驚愕したのです。
これは視覚化を一つの隠喩として、
聴覚・触覚・臭覚・味覚という感性に
性能と効能と機能を設計し企画・計画デザインになります。
以上のことからも、明確に思考空間・感性空間・論理空間、結局は空間への
接近性の定義化と考えていいものと思います。
手法として、デザインがモノ空間あるいはコト空間を
スコープはきわめてライン的な発想を隠喩として、
定義化そのものを変動:dollyさせていると考えています。

*『視覚空間は存在しないことを認識する必要がある』
*『思考無き概念解放無きデザイン手法ありえず』
*『デザイン対象としての空間に出逢う』
*『コンセプトからイノベーションは起こらない』
*『やはり「かたち」に、これがデザインの鉄則』


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『コンセプトから「ライン発想」の三つの思考空間』


   


     4月 10th, 2016  Posted 12:00 AM

コンシリエンスデザインという発想手法は、
学術系+芸術系・文系+理系の融合性と統合的なデザイン方法です。
デザイン方法というのは、
問題解決・価値創出・未来創成を目標・目的としています。
そして、僕が最も重大視していることは
「コンセプト」からの発想からの解放です。
それは、三つのデザイン空間への文理統合、
その思考の照射・投影・透過・射影によって
形態設計と制度設計になります。
● SCOPE・スコープでは視点移動=dollyが重大です。
● PERSPECT・パースペクトではその思考空間に消失点の発見です。
● PANORAMA・パノラマは学術と芸術が統合された思考空間に
そのアスペクト=比率を明確にしていくことです。
かつて、僕がCG登場とともにトロントでCGの教育訓練を受けたときに
dolly=ドーリーという言葉を初めて知りました。
それは、画面上でカメラの焦点を当てて行くようにすることでした。
この言葉は当時の英英辞典にも無くて、質問をした経験があります。
まさしく学術的な知識の焦点を芸術的な視点で動かしつつ思考決定です。
パースペクトというのは思考の投影図を創造したときに、
消失点=Vanishing pointを見いだせるかどうかを
論理性と感性を統合しながら見いだす方法です。
そして、デザインを最適化するには、統合的な発想結果が
社会性、それは制度設計かもしれませんが、
適正ある比例配分を決定すること=パノラマ的であることです。
こうした思考を成し遂げていくにはすでに「コンセプト」だけで
デザイナー的な発想を語り出すことからは解放されるべきでしょう。
コンシリエンスデザインにはこの三つを繋いでいる
まさに「ライン・メソッド」=Line Methodがあるということです。

*『数理造形から見えてきたAtom時代の終焉 ・03」
*『色彩知識はトロントで消去、そしてbit色彩を知る・04』
*『色彩感覚とCAD感覚・05』
*『なつかしい三冊の本、そこにクラインボトルあり』
*『今秋より『KK塾』を開催します』


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『サイエンスの限界にある美学性をさらに造語化』


   


     2月 19th, 2016  Posted 12:00 AM

デザインはサイエンスだと公言する人は数多いと思います。
私自身もデザインをサイエンスと考えてきた一人でした。
しかし、それなら、なぜ美大=芸術の一領域で
デザインを徹底的に体で訓練されてきたのかと疑ってきました。
大学を退官して、ようやく、デザインは学際的な一領域に辿りつきました。
それは「Scientist」という職能を決めた人物、
ウィリアム・ヒューエルの存在がありました。
特にサイエンスを定義し、
なおかつその職能を決定した人物がいたことです。
「コンシリエンス」という言葉は彼の造語であり、
この言葉が復活をしてくるのは20世紀でした。
とりわけ彼がサイエンスの限界に美学性を持ち込んだことかもしれません。
私は文理融合とか学術と芸術の統合をconsilienceと断言した彼の造語から
「コンシリエンスデザイン」を再度定義づけています。
無論、彼の造語を再度学術性への芸術化を持ち込んだ人物も精査しますが、
やはり問題は科学では断言仕切れない芸術、特に美学性でした。
しかもcon-silienceとre-silienceに私は注目してきました。
とりわけ、なんでも精神的なストレスを理由にすることへの
いい加減さに辟易していた私には、
レジリエンスにもデザインが適用できると納得したからです。
コンシリエンスとレジリエンスが
対応できる新たなデザイン概念だと決定できたのです。
無論、サイエンス世界にも美はあります。
それどころかサイエンスは究極、美に繋がっています。
それはヒューエル自身もカントに大きな影響を受けたごとく、
カントは感性を極めて大事にし、
「直観の無い概念は空虚であり、概念の無い直観は盲目」とまで
断言を残してくれました。
私はあえて、デザインをサイエンスから分離させて、
むしろ学術+芸術はデザインによる、
すなわち直観による問題解決のヒント・価値創出のサイエンス性、
未来創出の芸術的表現を読み切る力はデザインにあると確信しています。
それだけに教育系や工学系では
デザインは元来つくれ無かったのかも知れません。
私は「芸術工学」での芸術と工学(サイエンス)を母体にしたからこそ、
「コンシリエンスデザイン」に辿り着いたのだと思っています。
したがって安易過ぎる「デザイン思考」などは
何の役にもたたないでしょう。
特にレジリエンスデザインはデザイン思考では解決不可能です。


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『思考の「思う」という象形文字からの意味』


   


     1月 12th, 2016  Posted 12:00 AM

「デザイン思考」をことば、そして概念として再考するには、
まず、「思考」その「思う」:「思」について、
この漢字の由来=象形文字からの系譜とその意味獲得を見直してみます。
かつて著名な国語学者が新書で「思考」について、
その記述は間違いだらけだったことを僕は覚えています。
理由は簡単で、まず、漢字であることには
二つの意味があることを全く無視していたことです。
現在も僕はこの二つの意味が確認されることなく、
「思考」=THINKINGという訳語が生まれて当然だという認識に
疑問ありです。
二つの意味とは、「思考」というのは古典中国的には
見事な陰陽説が裏付けになっていること、
つまり、陰陽説を適合すれば、THINKING一言に決してなりません。
まず、僕は陰陽説では「思」は、陽であり、
これは全く感性的な思考を意味していることを語るべきです。
その根拠は象形文字に見事に的中していることです。
「思」は「田」と「心」から成り立っています。
そして、「田」という漢字要素は、頭蓋骨をシンボルにしています。
しかも、この頭蓋骨も乳児の頭蓋骨、
その「泉門」を含んで解釈が成立します。
「泉門」は、胎児がすでに羊水に居る頃に、
感性で受け止める反応・認知がスタートするということです。
そしてもう一つの「心」も、心臓をシンボルにした象形文字です。
血管+形態としての袋体、そして2つを明示しています。
この2つの明示は、かつては右心房右心室+左心房左心室だと、
中国時代は解釈されていたのかもしれませんが、
心臓は他の臓器とは大きく異なり、感情がそのまま反映するところです。
それは、ドキドキしたり、不安になったり、喜びで高鳴る、
これは明らかに自律神経の交感神経、
もっと専門的にはβ1とβ2という神経回路が心臓を制御していることです。
確かに、感情が心臓には大きな影響を与えていることになります。
生まれてすぐに働き始める感性と、感じて動き出す感情が表す、
行動が「思う」という意味を与えているとみています。
結局、「思う」という意味には感じとる生来の感性と、
感じ取って生理的な感情が心臓を制御しているということです。
したがって、「思考」の「思」だけでは、
THINKING一言には至らないことは明らかです。
僕はあらためて、「思考」の「思」については、
思いつきこと思い込むことが生まれてすぐに
「思う」という行動に直結していると「思います。


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『論理性と感性の対称性の破れ=パリティ崩壊』


   


     12月 11th, 2015  Posted 12:00 AM

一般的には、「論理性」と「感性」の対比あるいは対称性が、
人間の能力を分化していると考えられています。
つまり、論理性がある人間能力と、
感性能力のある人間を対称的にとらえることは長い間、
対称性よりも対照的に議論と考察されてきました。
たとえば論理性と感性とはお互いに人間の知性そのものを分断する、
このように考えられてきたときに、明快な解答を与えたのは
カントでした。
もっと簡単に言うと、論理性があればあるほど、
感性力の低下が起こります。
これは同様に感性があればあるほど論理性が欠如することも同次元です。
そこで、デザイン思考なる考え方があたかもこの対照性を破壊する手法、
このブームを生み出しました。
これはブームにすぎません。
だから私は、論理性のある人間も、感性のある人間も、
論理性があればあるほど、感性に近づき、
感性があればあるほど、論理性に近づくという手法が大事という、
これこそ「コンシリエンスデザイン」手法ということを
主張しています。
端的に言えば、感性と論理性の間にある完全円形は、
感性と論理性の対称性に対して、破れの現象を起こすと言ってきました。
もっと難しい表現をすると「パリティ崩壊」を起こさせる
感性軸と論理性軸が向かい合っているからこそ、
感性を論理性との対称軸に、論理性を感性の対称軸に置くことで、
感性が磨かれれば、磨かれるほど、論理性を失わせないこと。
論理性があればあるほど、感性を失わせないこと。
この両面、この対称性に決して「破れ」や「崩壊」を起こさせない、
この両対称性の軸からのパリティ性をより高度にしていくことが大事という
この教育こそ創造性での論理性と感性をより高度にしていく、
すなわち「コンシリエンス」な統合性の問題としてきました。
だからこそ、「コンシリエンス」を確約させれば、
「レジリエンス」=ストレスや敗北感以上に、
状況には決して負けない自己認識力の拡充さを創りあげると
主張してきたのです。
これこそ、論理的な思考に対して、感性、もっと端的には
直感が重要であると看破したカントの哲学的な提唱でした。
「直感なき概念は空虚であり、概念なき直感は盲目である」。
私は、この考え方こそ、
デザイン思考ではなくて「コンシリエンスデザイン」と呼んでいるのです。


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『前頭葉で「ち」と「は」=形と言語が制御されている』


   


     11月 7th, 2015  Posted 12:00 AM

これは私の極めて短絡的な予想イメージですが、
能力は頭脳。その脳みそに関わっていることは間違いありません。
しかも、その頭脳は現在の脳科学的には、
それこそ心や感情までが制御されていることは明白です。
しかも、脳というよりは「葉」ということばが多用されています。
特に、私が興味深いのは、「前頭葉」であり、
この前頭葉はじめ、側頭葉や頭頂葉など「葉」ということばです。
これは「言葉=ことばであり、言葉と言語、その言語を司る前頭葉に
私は最も興味があります。
これは心臓に関わったときにも、
どうして心臓の筋肉、心筋は感情の影響をまともに受けるのだろう、
こんなことが最も気掛かりでした。
この状況と等しく似ているのです。
「言葉」はことのはであり、はは、ことば、おば、おばばは
日本語では女性形名詞という区分がないだけに、
人間は、ちち・ぢぢ・おぢ・おぢぢが男性形名詞だとするなら、
あきらかに、「ち」と「は」の体系には「ぢ」と「ば」があるようです。
したがって、「ば」が場を意味する女性形名詞ならば、
「ち」は、とち、つち、まち、などの男性形名詞と対語です。
こうしたことからも、「前頭葉」そのものが、
感情と言語を司っている能力を決定していることは確かです。
最も、感情と感性も身体性と精神性の行動力を制御しています。
私は、脳科学を極めて素人的にも「前頭葉」が発想を促し、
しかもそれなら自分の前頭葉はどのようなものだろうと予知しました。
特に発想、とりわけ「全ては言葉にあり」をどう自分で理解するべきか、
これはデザイナーゆえに、ことば発想はむしろことばの世界、
それは女性形名詞ですが、
デザイナーはかたちのち、世界観ですから、男性形名詞にいます。
したがって、「は・ば」も「ち・ぢ」も言語と形態への発想は、
いずれも前頭葉、脳内頭葉での世界観に包まれているということを
最近はとても強く認識しています。
「ことばづくり」と「かたちづくり」も、結局は、
私の前頭葉が決定していることは間違いありません。


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『学術+芸術の統合性=コンシリエンスデザイン:KK塾』


   


     10月 22nd, 2015  Posted 12:00 AM

次世代のためのデザインは「コンシリエンスデザイン」。
新たな提唱のために「KK塾」を開講します。
私にとってデザインはこれまで「問題解決」の実務手法でした。
しかし、未だにデザインはデコレーション・装飾だという認識が
とても強く、デザイン=デコレーションがまるで定義になっています。
しかし、一方ではデザイナーの発想手法が「デザイン思考」という
そんな認識が米国で生まれ、そのまま国内でもこのブームがあります。
しかし、デザイン思考という以前の認識が不足しています。
デザイン思考には、感性と理性の融合化や、
管理や経営への思考=発想や行動展開があります。
それはマネージメントやマーケティングに応用されていて
如何にもデザイン思考こそが、それこそ「革新」=イノベーションという
そんな理解にまで持ち込まれています。
私はあくまでもデザイン=問題解決という認識でプロとしての
デザイン活動を実務実績で生きてきましたからこそ、
これまでの経験と実績から、
問題解決から価値認識論と未来創出論にと
基盤を学術性と芸術性の「統合」にむけてコンシリエンスデザインを提唱。
そのためには統合についても、次にように考えています。
それは統合による学際性をマネージメントとマーケティングに集約し
統合も次の四つの領域で学術的かつ芸術的な問題解決を、
まず規模的統合、
それは問題解決を図る領域の範囲や影響度を指定します。
その規模的な統合性をどのように伝えていくべきかを、
伝達網的な統合、
すなわちネットワークという関連性や関係性の決定能力を、
どう鍛え上げるかです。
そして、機能的、というのはデザインを実際は曖昧にしています。
そこで性能性という具体的な数値的な価値測定と、
効能性という社会的な存在性の共有意識の確認によって、
初めて機能性を語ることができるのです。
性能性と効能性を下敷きにしない限り機能性は完結しません。
結果、学術と芸術というコンシリエンスデザインという
それこそ様々な難問解決への実務手法が文化としての統合性になります。
つまりことばで歴史性が人類の知識や知恵の集合体である文化に繋がる
そのことを本講座=KK塾にて、
実際の実務活動や社会的な実績を事例に明らかに出来る、
そのような講師陣へ私はデザイナーとして、学者として、
さらに実務家として明らかにしていきます。
多数の参加を求めます。

* Website-HP


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5月12日川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 12th, 2015  Posted 12:00 AM

5月12日 友引(戊子)

かつてバウムガルデンが
感性的認識を悟性的認識に対等化させた
美学としての認識論を想起しなければならない。


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3月18日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 18th, 2015  Posted 12:00 AM

3月18日 癸巳(仏滅)

感性は常に鋭利でなければいけない。
「丸くなった」というのは、
感情の動きが鈍化しているだけだ。

感情は、汚れた気持ちが
一層に蓄積していくだけの穏やかさである。

喧嘩するには、
感性の鋭利さを決して失わないという
覚悟の大切さである。

川崎和男「喧嘩道」


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