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Posts Tagged ‘手術’


「歳末を感じる頃になった・・・」


   


     11月 9th, 2011  Posted 12:00 AM

「喪中につき・・・」、
このはがきが届いてしみじみともう歳末か、
こんな想いになりました。
母の親友だった小母様が逝かれた報でした。
91歳ですが無念でありながらもならば大往生でしょうが、
子供の時から、そして金沢での個展にも来ていただき、
お小遣いをもらってしまい、
断る私を親友が「もらっとけよ」と声をかけてくれました。
「母が生きていたら」と時折電話をくれる大切な小母様でした。
また私にとって大事な人が逝ってしまいました。
ことさらに自分の年齢と遺された時間を思います。
雑誌やwebsiteでも、「手帳やカレンダー」の広告、
そして先日は金沢で「干支・龍」の九谷焼置物をいっぱい観ました。
来年は「辰年」です。

あらためて、大好きな龍のブレスレットを出して、
磨こうかと想い始めています。
昨日、手術後最初のICDチェックをしてもらいました。
無論ながら順調ですが、
ドクターと、留学から一時帰国のドクターと
「日本人のためのペースメーカーやICDが当然必要」、
そんな会話をしました。
人工臓器学会からは「補助人工心臓について」の案内が
届いていました。日本製ICD開発は国内生産困難です。
なぜ?誰が駄目にしているのだろう?
そんな連中に「ご政道」はありえません。
今、私の生命を監視し、万一の場合の緊急処理機器には、
デザイナーとしてものすごく不満があります。
私にとって、先般2台目となったICDも守り神ですが、
来年は「辰年」なら、
龍のブレスレットも大事な守り神になるでしょう。
3.11で私たちは多くの同胞を失いました。
哀しみいっぱいの年でした。
もう歳末に入りますが、オーロラがあったりの異常性、
タイでの大洪水などとんでもなく自然驚異に包囲です。
おそらく来年への備えに今年は早く入るべきでしょう。
母の親友の逝去の報にあらためて歳末の感があります。


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「メガネフレームはまず自助具でありき」


   


     11月 8th, 2011  Posted 12:00 AM

メガネフレームのデザイン、
懸命に取り組んでもう25年以上になります。
インダストリアルデザインでの設計が、
産地に受け入れられてもらえたのは、
メガネフレームメーカー・増永眼鏡の指導と支援、
これがあったからだと思っています。
増永眼鏡は、フレームメーカーとして100年以上の歴史、
日本での眼鏡枠製造老舗、海外にはKOKIブランドとして、
最も信頼のある企業であり、技術力ではトップメーカーです。
メガネフレームは、ファッションであり流行に左右されます。
しかし、ファッション=自分演出のおしゃれ道具ですが、
根本的には視力支援器具、
いわば医療器具であることは免れません。
したがって、3プライスと言われるビジネスモデルでの
低価格商品は常にファッションというより、
「流行」だけをテコにした市場でありますが、
これは日本独特の市場展開なのです。
なぜなら、海外では度数の無いサングラスは、
どこでも買い求めることができますが、
医療器具としては、眼科医の処方箋が必要です。
眼科医というよりは、
「オプトメトリスト」=6年の大学専門教育と国家資格と、
「オプティシャン」というフレームとレンズの加工技師資格、
この二つの資格がなければ眼鏡ショップは経営できません。
日本だけがこうした資格無しでメガネが販売されているのです。
単なる広告宣伝でファッション性だけで語られる眼鏡は未完成です。
メガネフレームそのものがレンズが無ければ、
それはキーホルダーのようなモノにすぎません。
最近は、素材・重量(レンズ無し10g)・形態、
この形態がデザインだと受け取られていますが、
顔の形、耳、鼻などとのフィッティング=かけごこちは、
「性能デザイン」になっていなければなりません。
安易なデザイナーブランドや建築家が片手間デザインは、
「遊びのデザイン」として楽しめますが、
これをファッションとしてのメガネフレームだというのは、
生理的、倫理的、美学的には、私は認められません。
私は、いわゆるブランドフレームでも、いい加減なモノは、
それを着用しているユーザーの社会的存在性を自らが貶めています。
フレームの形態は、造形性能と造形機能が、
ある意味での「形態言語」になっていなければなりません。
私の提示した「アンチテンションスタイル」=レンズに応力無しは、
すでに「不易流行」のフレームデザインの一つの様式になりました。
メガネを着用している人、コンタクトレンズの人、
レーシックをしてしまった人、その手術を考えている人、
あらためて「視力」と「メガネ」、
この「造形言語」を読み直してください。
メガネフレームは「自助具としての性能・機能」が、
「効能」として、視力を支援し目を保護するモノです。

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「ICDは経皮充電可能である、しかし」


   


     10月 25th, 2011  Posted 12:00 AM

5年前埋め込み手術以来、
すでに経皮電磁誘導にて体外から
電池の充電は可能だと判断してきました。
メーカーにも幾たびもそのことを提案してきました。
しかし、メーカー、しかも米国では、
すでにデータ転送は経皮転送をしながらも、
「取り替え手術」で480万円で売りつけることが許諾。
リード線は16万円です。
手術の医療点数は「命がかかっているのに低すぎます」。
日本製は、AEDはあってもICDはまったくありません。
日本製の医療機器は「医療測定機器」はあっても、
「医療治療機器開発」は困難極まりなく、
メーカーはPL法や薬事法許諾の厄介さのために皆無です。
大学では医工連携がブームでありながら、
こうした肝心な機器開発には近づこうともしていません。
これは原子力工学の立ち後れと同様だと、
私は思って私なりの抵抗をしてきました。
入院中に発売した「血圧計」は、
欧州血圧学会基準に合格させる開発をしました。
これは日本では初めてのことです。
こうしたことに国内メーカーも消極的過ぎます。
さて、ICDとはAEDが体内にて頻拍や徐脈や細動を
電気ショックを与える「治療器」です。
40年も工業製品開発・商品化、
特にエレクトロニクスに関わってきた私には、
あまりにも米国製ICDは高額過ぎます。
日本製なら、現在では「急速リチウム電池」で、
経皮充電をすれば5年毎の手術は激減させられるでしょう。
日本人にとってこそ、
海外製より高度な日本の電子技術応用が可能です。
リード線についても日本の材料工学的な開発なら、
不良率をさらに低下させられるでしょう。
医工連携といういかにも先端的学際性は、
日本の大学研究の形骸化したブームに過ぎません。
私ならこんなに不格好で性能も機能も不満なモノは、
デザイナー倫理観に反していますからデザインしません。
すでに、私のICDは自分でデザインすべきと決心しています。
ぼったくられている海外製医療機器開発こそ、
日本本来の医工連携であり、
これには政治主導が当然のはずです。
「世界一」でなければならないのです。
この怒り=痛みをデザインに向けます。
医工連携やMEを声高に「論文世界」に埋没している学者自身、
「自分のための医療器治療機器具現化」をするべきでしょう。
私はこれを目指す覚悟です。

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『資本主義からの逃走』
  「自転車は器械、それは車イスが器械だから・・・」


   


     8月 21st, 2010  Posted 12:00 AM

交通被災
私にとって車イスが必要になったのは28歳からでした。
タクシーに乗っていて、泥酔ドライバーに追突されたからでした。
自分で、自分の車イスをデザインすることになった経緯を話します。

私は、四つ角で停止しているタクシーに乗車していました。
相模原から立川方面への方向を指示しているとき、
轟音とともにタクシーがスローモーションで回転し始めて、
信号灯が目の前で同様に回り出しました。
私は隣に居た恋人を抱え込んでいました。
咄嗟に、これは爆発すると思った瞬間、タクシードライバーが天井まで飛び跳ねて、
これもゆっくりと落ちました。
私は、暗闇でなんだかずぶ濡れになっている様でした。きっと血まみれなのではと思ったのです。
その激突で、大変な汗をかいていたそうです。
それから、周囲を何人かの人が取り囲んで、タクシーを壊しながら、
彼女が出されて、私を引きずる出そうとしてくれたとき、激痛が走りました。
彼女だけはまたく無傷でした。
私は、シートに横たわって、ともかく、出たくない意思表示をし、
気がつくと、救急車から病院のベッドに寝かされながら、革のコートに鋏が入っていました。
彼女が泣き叫んでいました。
・・・そんなに絶叫するなよ・・・大したことではない、と思っていました。
ともかく、チーフ(デザインチームの上司)が来るまで、
気を失ってはいけないと言い聞かせていました。
そして、チーフの顔を見て気絶しました。

それから、気づいた時には、2日後、手術が終わっていたのです。
父が立っていました。
丸1日体力があれば手術ということだったらしいのです。
まだ、両手も動かず、自分の体がどこにあるのかわからぬまま、
生きているのか、死んでしまっているのか、
発熱と嘔吐の繰り返しの連続、朝も昼も夜もわからない日が永遠と思えるほどでした。
歩けない体だから
「君は、この病院を出るときはもう歩けない」と宣告されるまでは、
自分の体に何が起こっているのかはわからない日々、約1ヶ月後だったようです。
ドクター二人が、
「君は歩けない体なんだ」と繰り返されましたけれど、
「それで?」というほど、きわめて冷静冷徹に受け止めていました。
・・・車イス生活・・・だから・・・?
それなら、車椅子は自分でデザインすることになるのか・・・、
これは面倒なことになったという思いでした。
自転車のこと徹底的に知らないといけないなー、という具合でした。
車イスは機械ではないから「器械のデザイン」になるんだという直感だったのです。


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