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Posts Tagged ‘新聞’


staffblog 2月3日


   


     2月 3rd, 2019  Posted 1:27 PM

2月3日



福井県・タケフナイフビレッジでの
川崎和男のデザイン活動が福井新聞に掲載されました。

1982年から続いている越前打刃物の
産地における素材開発を含むモノづくり、
当時のやり取りも載っています。

10人の親方で始まった組合は、
今は9人になりましたが、
若手が20人以上育ってきています。


*関連ブログ*

「750年をタケフナイフビレッジで革新して30年」


『伝統工芸産地へデザイン導入時の試作をやればこそ』


『越前市に「タケフナイフビレッジ」を教え子が建てる』


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『非常事態宣言の街=パリにて、決意!』


   


     11月 17th, 2015  Posted 12:00 AM



パリには三つの目的を持ってやってきました。
三つとは、ちょっと内緒ですが、それよりも大変な事態発生でした。
到着翌日の夕方は「森田恭通氏」の個展オープニングに出て、
現地時間11月13日には、英国駐在の教え子が会いに来てくれました。
彼は、帰英前にその個展を見て英仏間特急電車ユーロスターに乗車。
その時に、パリ6カ所で「同時多発テロ」が起こりました。
ホテルでFBには「無事ですか?」、「大丈夫ですか?」
・・・ん、何?・・・・
TVをつけると、非常事態宣言、パリでの多発テロリズムが発生、
「武器があるから闘うよ+絵文字」とか親友に返答していたら、
「冗談言っている場合じゃない、帰国できるのか?」って怒られました。
ともかく、CNNとBBC(何がWord New?)を見て事態を確認。
ところが・・・NHKは何も伝えてこない!・・・?
現地のTV報道とは格段の違いがある・・・なぜだ?
部屋にあるTV2台を使って、報道を見比べてみるが、
嘘だろう、CNNもBBCも視点が違うのです。
CNNもBBCもeye-point=視座からテロを見ている。
しかし、現地TVはview-pointである被害都市で実態を見つめている。
だから視線=まなざしは動揺し全く視野と視界が異なっているのです。
これがあの3.11も二つの視点違いで情報流布されていたなら、
私は身震いが起こりました。
ジャーナリズムはもう全世界が盲点だらけの報道になっているのです。
哀悼の表現は、PRAY FOR PARISと花とキャンドル、
ライトアップされているフランスのトリコロール色。
これは明らかに全世界の「悲しみ共有の表現」ですが、
現地TVではテロリスト容疑者逮捕、
その荒々しい警官たちの「怒り」は拳銃とマシンガンが暴力的に使用。
もし、日本だったら、これほど荒々しい事は絶対に不可能だと確信します。
非常事態ながら元阪大インターンのフランスの子も駆けつけてくれました。
ともかく、翌々日に新聞を買い、目を通しました。
タイトルはなんとか読めても文章はわかりませんが、
これだけのテロはまさにACT OF WARです。
銃撃戦を報道で見ていたワイフは、怖い、怖い、このホテル襲われない?
帰国の飛行機に自爆テロリスト乗ってこない?
・・・・・・私はひたすら、
8世紀の銃で今なお宗教対立は許せないと思うだけなのです。
1994年にPKFもPKOも銃で平和は大間違いゆえPKDを提唱していました。
「このデザイン活動を急ぐんだ」と自分に言い聞かせるだけです。
一流のエンジニア、一流のテクノロジストにこのショックを
デザイン開発に変えないといけないというメールをしました。
パリでの銃撃戦は映画を超えての恐怖を与えています。
戦争の形式を大変更する、これがイノベーションであり、
IoTをIoMeTに変えるために私はパリにきているのでしょう。
「IoMeT as PKD」は帰国次第、早々に取りかかるつもりです。

* PKD=Peace-Keeping Design


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『失われてしまっているジャーナリズムは雑誌に歴然』


   


     9月 11th, 2015  Posted 12:00 AM



30~40代の頃、私は国内外の雑誌を30~40冊は読んでいました。
最近は、時折、本屋さんの店頭で立ち読みする程度で、
あとは電子ブックの雑誌やワイフの読む女性ファッション誌などです。
学生時代や社会人デザイナー成り立て当時は、オーディオや音楽雑誌で、
若いときにはデザイナーなら少なくとも購買も15冊と言っていたものです。
ところが、最近の雑誌よりも企業広報誌やカード会社の広報誌の方が
雑誌内容にはまとまりがあるようです。
いわゆるファッション系は年齢もあってか,興味があまりありません。
そして商業誌丸出しというか、時計などは流行づくりが丸見えです。
私がプロとしての眼鏡などは
知識不足どころか誤記の多さには呆れています。
オーディオ・ビジュアル、さらにPC関連雑誌などは
まったく時代遅れであり、
オーディオなどは連載をしてみてすぐにその雑誌が
商業誌ゆえの哀れさで自分から連載を辞めました。
車などは、もうほとんど興味がわきません。
今、興味は専門誌である万年筆や鉄道関連程度です。
もっとも専門であるデザイン関係誌は、
国内外が時代遅れ甚だしくて、全く読みません。
結局は、インターネットでのサイトの情報が時間対応しています。
新聞?はもう定期購読しなくなって10年にはなるでしょう。
ファッション系などでは、
やはり定番的なブランド系雑誌はグラフィックス的には優れています。
雑誌情報では何が欠落してきたかということになります。
多分、三つあるのだろうと思っています。
一つは編集人としての職人魂でこれを伝えようという程の専門性が大欠落、
一つは雑誌ジャーナリズム思想などもう喪失しています。
逆に私が凄いと思っている万年筆などはまだまだ学べる時代性があります。
一方、眼鏡など専門性の大欠落には、腹立ちを覚えます。
これはオーディオビジュアルや車などは、
ジャーナリストや評論家が居ないのでしょう。
先般、教え子で大新聞の記者に、
「ジャーナリズムって、一言で私に伝えなさい」と聞き返したところ、
半分だけ応えました。
私は、ジャーナリズムはどんなジャンルであれ、
情報の市井的な日常で、権力それは商業的な圧力を、それこそ、
「ペンは剣より強し」による情報編集力での教示性だと答ました。
すでに私はもう老年ですが、とりわけファッション性は、
「モードの体系」を超えるほどのジャーナリズムを求めています。
そして
私自身の日常の編集力を生み出すジャーナリズムは失いたくありません。


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staffblog 9月4日


   


     9月 4th, 2015  Posted 3:30 PM

9月4日

本日の
日本経済新聞「交遊抄」におきまして、
稲田朋美様より
川崎和男の紹介をいただきました。

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「資本主義からの逃走」
「新しい部族の太鼓かインターネットラジオというメディア」 
  


   


     3月 2nd, 2011  Posted 12:00 AM

マクルーハン・メディア論から
CRTはまったく製造生産されなくなりました。
ブラウン管TVはまったくなくなりました。
私はCRTから液晶ディバイス機器のデザインをしてきました。
表示ディバイスは、メディア機器形式の根本を変革進化させてきたと思います。
TVというマスメディアはデジタル化し、さらにマスメディアであることも終わるでしょう。
マクルーハンは「人間拡張の原理」、
そのメディア論としてラジオや映画、TV、新聞などを明快に切り込みを入れてくれました。
しかし、彼が登場したとき、
彼のメディアをクールとホットに分別したことは最初は嘲笑されていたということです。
彼が、メディアに対して明確にしたことは、
私たちにとってのメディア形式が内容よりも意識の問題提起だったと考えます。
『部族の太鼓』か、インターネットラジオ
昨年末から自宅の音響システムをネットワーク化とデジタル音源データベース化をしてきました。
そして、思いがけず驚いたのはCDをiPod化したりその圧縮方式や、
再現システム化をしてきたのですが、
こうしたことよりもっと強力なメディア形式として「ラジオ」でした。
「ラジオ」なんてすでにオールドメディアであり、
マクルーハンも「部族の太鼓」と比喩したものでした。
ところが、インターネットラジオは、
まさしくマクルーハンが近未来の地球をグローバル・ヴィレッジと定説化しましたが、
あらためて「部族の太鼓」としての形式内容を与えるメディア形式として、
CDの聴覚対象である特に音楽、
その産業形式から放送受信形式まで、私たちの意識内容を激変させるでしょう。
インターネットラジオという形式のモノとその産業構造となるコト激変を確信させられました。
インターネットラジオは音楽産業界を変える
インターネットによって、
FMラジオ放送が地球全体に存在しているチャンネルすべてを聴取することができます。
それこそジャマイカからブラジルなどあらゆる都市でのFM放送の中でも音楽番組が聞けます。
そうした放送を聴きながら、さらに自分がどんな音楽を聴いていたかを新たなシステムは、
自動的にセレクト分別して、
「あなたはこのジャンルが好きのようですね」とまで、プログラム化してくれるわけです。
それは、「部落の太鼓」を選別し分別してくれていることになります。
ネットワークが私の身体聴覚の快感意識にまでリンケージしてきたということです。
私は、CDをデータベース化するどころか、
このインターネットラジオのオートチューニングが、
私の意識、その再確認を試す時代だということに感激しているわけです。


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『資本主義からの逃走』
「日本語・『情報』はなぜ曖昧になってしまったのか?」


   


     5月 31st, 2010  Posted 12:01 AM

私は、「情報」という日本語が、
次のような意味合いを統合しているとしたら、
すでに曖昧な言葉に成り果てていると思っています。

Information
報道・制度的な広報・私的あるいは公的事実性
Intelligence
秘匿事・隠匿事・企み事・戦略・策略
Knowledge
知識・経験事・生活の知恵・伝統伝承事
Consciousness
意識・見識・良識

私は「情報機器」という製品アイテムを対象として
デザイン成果も生み出してきたと自負しています。
それだけに、すでに新たな「情報機器」を概念と観念で再考しなければ、
次々と進化する機器設計そのものと、
人間との関係が成立しがたいのではないだろうかと考えるようになりました。
したがって、特に、デザインを職能とする人や、
情報工学、環境情報、情報制御、医療情報などすべてが、
「情報」の意味と意義がどこまで、
日本語ゆえに曖昧であるのかを検証するべきだと提言します。
企業情報戦略も国家情報戦略も、
これからのネットワークの進化に対して、
この日本語でいいのかどうか、
あるいは、日本文化が伝統としての「曖昧さ」が本質であるとするなら、
その曖昧さの再利用を創出する時期になっていることを提案したいと思います。
そうなると、「情報」だけではなく、
再考し新たな概念と観念の言葉そのものを探し出す必要があると考え提示します。

たとえば、次のような日本語が考えられます。
以下の言葉については、この20年ほどいつも熟考対象にしてきた言葉です。

福祉
機械
環境
人間
病院
医療
科学

などです。
そして、こうした言葉がもっとも多用され始めている大学、その学部名や学科名、
そのコンセプトやアジェンダやスキームなどに対する
大きな懸念性と疑念性を捨て去ることができないのです。
この懸念性は私に突然、襲いかかってきたある種の不安感でした。

「デザイン」提案の大前提
なぜなら、将来・未来は、「言葉」から始まります。
さらに、わが日本には、「大物主」「事代主」によって、
物質と情報は決定づけられた伝統の文脈があるからです。
決して、この論理は宗教論でも、神がかりな論法でもありません。
真摯に「未来づくり」へ文化への新しい文脈づくり、
すなわち「デザイン」提案の大前提なのです。


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『資本主義からの逃走』
「日本語・『情報』はなぜ曖昧になってしまったのか?」


   


     5月 29th, 2010  Posted 11:27 PM

曖昧性
ある有名情報機器メーカーがかつて、
「情報」とは、「情けに報いる」という広告コピーを出したことがありました。
なんとなく、人情味の交換という意味性を匂わせていますが、
厳密には、「情」は心の中の黒ずんだ感覚であり、
報はそのやりとりが縛り付けられていることというのが原意との解釈ができます。
それは、あまり良い意味性ではなく、
「情報」という表層的な意味の軽量観になっているということです。
したがって、「情報」というのは、四つの意味性で取り囲んだ核心に配置すべきだと考えます。

Information
報道・制度的な広報・私的あるいは公的事実性
Intelligence
秘匿事・隠匿事・企み事・戦略・策略
Knowledge
知識・経験事・生活の知恵・伝統伝承事
Consciousness
意識・見識・良識

以上のことを熟慮すると、「情報」という集約語には収束はしないのです。
むしろ、こうした「伝達性や伝導性の事項」の統合性を一言で言い切ること、
断言できる言葉が必要だったわけです。
「情報」という言葉に収束させて生まれてきた言葉、
「情報」が冠詞的となった、たとえば、情報工学や情報操作などがあります。
「情報」が結語的となった、個人情報やデザイン情報など、
すべからく、包含されている意味性が部分的であり、
なおかつ、誤解される要素に満ちていたものと判断します。
だからと言って、今さら「情報」を日常語から外すことは不可能かもしれません。
したがって、私は、情報を取り囲んでいるこの四つの意味性の総合化を諮るには、
「モノ」=物質=人工物が発明されなければならないと考えています。
この判断は、過去事例に明らかです。
「マルチメディア」という「マルチ情報」をコントロールするモノが結局は登場しなかったこと。
さらには、本来、Informationでしかなかったジャーナリズム思想は、
なんらメディア=新聞・雑誌・ラジオ・TVなどの
モノの形式から解放されなかったのです。

曖昧さからの解放と再利用
だからこそ、思想としての変革は置き去りになり、
電子書籍という形式とそのモノの登場がありました。
その発明とか登場によって、大きな驚愕とともに、
マスコミすら変質あるいは喪失すらするという不安が拡大しています。
私はあらためて「情報」という日本語に押し込められた意味性の曖昧さを指摘し、
この曖昧語からの解放、あるいはこの曖昧さの再利用が必要だと評価しておきます。


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『資本主義からの逃走』
「マスメディアへの死亡宣告を告げなければならない!」


   


     3月 25th, 2010  Posted 9:40 AM

マスメディアは瀕死
私は「マスメディア」・「マスコミュニケーション」は、
共に瀕死的状況になっていると確信しています。
新聞・TVは、報道というジャーナリズムがすでに、
自らの役割認識をどこかで見誤ってしまったのでしょう。
その認識変異点=時期はおおよそ指摘することができますが、
もう少し、確証を集めてからにしたいと思っています。
変異点の体験
Mac派の私に言わせれば、1984年は変異点でした。
1996年に名古屋市立大学に芸術工学部が新設されたとき、
大学人になった私は、第1期生すべてに、
Machintoshの購入を求めました。
そして、それにはethernet-cardを特別仕様として、
Apple Japan社に依頼しました。
その時の営業本部長が現・マクドナルドの原田社長でした。
学生には自分たちのデスクからethernet-cableを自作させました。
そして、全員にメールアドレスというのは、
名古屋市立大学全学からも相当の批判をされましたが、
押し切った思い出があります。
私が追いかけていたのは、「ラピッドプロトタイピング」でした。
なぜ、ここまでの時期に振り返るかといえば、
当時には予想もしていなかったジャーナリズムの、
大転換時期が始まりつつあったからです。
ジャーナリズム
「ジャーナリズム」とは、「日々の記録」が原意です。
したがって、Blogという形式が「日記形式」というのは、
個々人のジャーナリズムが、自ら発信し出したことでした。
プライバシー
読まれなくても、Blogには、
報道されることへのきわめてプライベートな意見が
書き込まれるようになりました。
この変化に、マスコミは「たかがBlog」と看過していたのです。
どれほど、「プライバシー」と「パブリック」が、
メディアでその相互性が変貌し始めてきたかに、
全く気づいていなかったのでしょう。
このBlogという「日記的文体形式」は、
「マスメディア」を浸食していることが、
いわゆる職能ジャーナリスト(そんな職能は幻想共同体)には
気づくどころかその影響の大きさを想像することさえできあせんでした。
そしていまなお、マスメディアを存続させようとしていることが、
どれほど、プライバシーとジャーナリズムの融合点が生じているか
見ようともしていないのです。
そして、この事実に「資本主義」と「民主主義」が、
基盤だと言っている限り、彼らは消滅していくのです。


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12月1日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     12月 1st, 2009  Posted 9:00 AM

12月1日 赤口(庚辰)


問題は、情報の循環性、簡単に言えば、
新聞の回し読みや回覧板のような情報機器や
システムの循環性を街角に配置できるか、
ということになる。

今のところその代表的なモノは電話だろう。
つまり、電話を例にとれば、電話で生産から
再生までの生態系に合致する社会を
つくっていけるのかということだ。



『プラトンのオルゴール』
街角のエコロジー


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