kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘時代性’


「商品が記号となった実例・私の体験と確認」


   


     11月 21st, 2012  Posted 12:00 AM

米国大統領選挙が終わりました。
前回の大統領選挙で最も話題・醜聞を提供したのは、
サラ・ペイリン副大統領の登場でした。
そして、この話題の中心は、
「米国民は彼女を見ていない、見ているのは彼女のメガネだ」。
このメガネのデザインこそ、私のデザインだったことです。
私もこの大騒動に相当に巻き込まれました。
そして、私が確認したのは、
まさに「モードの体系」そのものの実体験により、
「モード」が与える消費社会の構造で、
いかに私のこのデザイン意図、
つまり、造形言語(集約されたコード体系)が
形態言語(モード)として消費されている現実でした。
あらためて、ロラン・バルトは「モード」を
端的に「流行・ファッション・ファッド」と
定義している正当性を再検証しました。
結果、存在しているモノと書かれているモノを対照化しているバルトから、
私の再確認は、マルクスの価値論への上書きになったと自負しています。
特に、メガネフレームは「アイコン性」という形態言語を持っています。
そして、そのアイコン性が表情に付加されることで、
「人物表情」を造形言語化させてしまうわけです。
私はメガネフレームのデザインをすでに30年以上携わってきました。
だから、長年にわたって同じ形態のメガネをしている人物は、
時代性、現代性において
「自分の表情」すらアイデンティティを時代から切断しています。
大多数の人がメガネに無頓着過ぎると言っていいでしょう。
彼らはすでに「自己統合性の欠如」に気づいていない無自覚な人格です。
自己確認する能力が育まれていないのではないかとすら思うのです。
つまり、メガネはまさに「モードの体系」に存在していますが、
メガネという商品が、ペイリンで話題になったことこそ実は、
「商品の記号化」を明白にしたものと判断しています。
私は、自分のデザイン結果が本来「商品」であったモノが、
すでに「記号=コードとモード」、これらの体系の中で、
とてつもなく、変質してしまった消費社会構造を知ることができました。
私は、あの大騒動に巻き込まれながら、
「コードとモード」、さらには「ツールとメディア」、
これらが交差している現実感をものすごく実体験できました。
さらに、この実体験はいつでも回帰することができます。
それは、以後、この当時の大統領選は映画になりました。
「Game Change (大統領選を駆け抜けた女)」です。
したがって、この映画はまさに大統領選挙とは、
「モードづくり・モード戦略」そのものであり、
本来の政治リーダーを選ぶ手法が
コードを操作するモードにどれほど呪縛されているか、
これが現代民主主義だとするなら、
もう一度、私たちは「すでにモードでしかない民主主義」、
そのものを再構築しなければならないとさえ思ってしまう次第です。
現実、わが国の待ちに待った選挙も、
「モード」戦略に融解していく構造が見え始めていると、
私は認識しています。


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「『商品』づくりの時代は終わった」


   


     11月 18th, 2012  Posted 12:00 AM

名古屋駅新幹線ホームから、量販店が見えます。
その量販店ビルにはメーカー・ロゴが夜になると、
イルミネーションライトされて浮かび上がっています。
私自身、家電メーカーからデザイナーとして出発しました。
輝かしいほどの青春時代でした。
毎日、オーディオ商品の開発・製品企画から商品展開は、
商品である機器というモノと同時に、
サービスも含めて「ヒット商品づくり」に燃えていました。
そして、時代は、
脱工業化社会から情報化、情報社会へと進展してきました。
私はデザイナーゆえデザイン界にあって、
時代性と社会性を「モノづくり」の視点から見つめてきました。
だから、特に国内のあらゆる産業構造と日常的に関わってきました。
無論、私のデザインした商品はメガネ・ティーカップから医療機器に及び、
さらには製品開発だけではなく、
「モノづくり」から「制度設計」と「大学院教育」に携わっています。
したがって、いわゆる「日の丸家電」の盛衰に関わりながら、
すでに「知恵としての商品づくり」を提言する立場にあると考えています。
もはや、明言すれば、
「いつまで商品=モノ・サービス」づくりに、
メーカーも流通も呪縛され続けているのでしょうか。
『商品づくり』はもう停止する時代を日本は先導するべきだと考えます。
TV-CFで、
家電・家具・車・カメラなどの新製品とそのデザインを見るとき、
無念でなりません。
まったく無能なデザインの社会提示が
まさに大津波のごとく喧伝されています。
デザイナー達もこの津波にさらわれています。
元凶はメーカー経営者たちの無能さ=センス無き美学が、
共同幻想としている経営仮説と収益構造。
この二つに『商品』にだけ焦点を当てている有様だからでしょう。
私は、今一度「製品記号論」・「造形言語」・「形態言語」を配置して、
「先端的統合デザイン論」を大学で講じています。
つまり、モノ・サービス・情報発信装置の「意味作用性」を、
とりわけ次世代のリーダー候補たち=大学生に
新規設定してほしいからです。
『商品づくり=モノ・サービス・流通』の時代を
経済基軸から外すべきです。
他大学やふるさとで
新しいデザイン手法を年末まで披露していくつもりです。
今、私の学生たちは「博士号学位論文」と「修士論文」には、
デザイン成果である「作品」とともに、
これからのデザインを差し出してくれるでしょう。


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9月1日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 1st, 2010  Posted 9:30 AM

9月1日 大安(甲寅)

異常さというのは、
社会性や時代性、
環境での価値基準が
変動するために、

何が正常で、
どこから異常なのかを
断定することがすでに
倒錯なのかもしれない

『デザインの極道論』倒錯


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『資本主義からの逃走』
 「Bit社会とBit時代の認識は貨幣感覚が変容」


   


     1月 28th, 2010  Posted 1:00 AM

BITS as Media
「貨幣」というのはメディアでした。
それもおそらく「価値」・「価値観」を万国共通にする
唯一のメディアだと考えることができます。
ただしそのメディアがさらに「メディアのメディア化」
というのが、貨幣がbit化していく20世紀末から、
現在に至っています。
しかし、
メディア社会でのbit感覚と
メディア時代でのbit感覚には、
多少あるいは膨大な差異性が生じています。
原始社会、原始時代に、
「トークン」という貨幣メディアがありました。
Token
すでにその「トークン」について詳細は、
学者だけの知識になっていると思います。
それこそ、マルクス以後、他の経済学者もそのことは、
誰も語ってきませんでした。
現代、唯一残っているのは、
New Yorkの地下鉄切符を購入する「トークン」です。
このトークンは明らかに、時代ではなくて、
社会には不可欠だったわけです。
ということに比して考えてみれば、
bit貨幣、たとえばsuica, etcなどは、
社会がメディアとしているものにすぎません。
おそらく、時代がメディアとしては研磨し、
ひょっとすれば消滅させるかもしれません。
したがって、bit貨幣あるいは貨幣bitなるメディア、
その行く末は社会性と時代性によって決定づけられる、
もうひとつの「価値感覚」だと思います。


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『資本主義からの逃走』
 「非情なる資本主義には、ベクトルがある」


   


     11月 27th, 2009  Posted 3:00 PM

091127designas

経営者が、資本主義の細密を知ろうとしたいのは、
一般的には、悲しいかな「損益数値」だけです。
その価値感では、命すら奪われるのです。

本来、資本主義が「社会構築のために勤勉性や倫理性」を
なぜ、根幹にしていたかを、
常に自問している経営者に会うことは滅多にありません。
経営者自身の勤勉性は、「数値評価とその判断」だけです。
このような、経営者の資質には、
「文化性と社会的使命性」を同次元で体現しようという
人格性・品性を備えた人物に
私の経験の中では出逢うことは滅多にありませんでした。
「品格」を定義しているのは、谷崎潤一郎しかいません。

文章読本」に書かれていますが、時代性ではややズレがあります。
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いづれ解説しておかなけけらばらないと考えています。

さて、資本主義には、
「無情さ+非情さ=冷酷さ」が完備しています。
この方程式は資本主義のベクトルです。
そして、このベクトルが常に狙いを定めているのは、
「資本主義への献身性」の有無だけです。
この「献身性」が、「応答」でしか発揮できない経営者は、
このベクトルで射抜かれることになります。殺されるのです。

私は、デザインをベクトルという武器にしています。
すなわち、
このベクトルは、防御と攻撃が出来る明らかに武器です。
「資本主義の非情さ」を攻撃したり、
あるいは、
「非情化されてきた資本主義」を防御・防衛するものです。
だから、「デザイン」は企業経営では不可欠なのです。
そのことが結局分からなかった経営者は、
自身の企業と共に共倒れ、企業倒産していきます。
デザインベクトルは、
「文化性と倫理性」を表現している「美」が、
その企業、経営者に「理解できますか?」と、
常に「応答」ではなく、
「回答」と「解答」できる資質から、経営者たる才能を、
常に求め、検証されているです。


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