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Posts Tagged ‘本’


『3D-Printingの基本にもう一度戻るために』


   


     11月 3rd, 2013  Posted 12:00 AM

8年前、阪大に移籍するときには名古屋で書籍を処分ということで
悩んでいましたが、今は亡き恩師にその相談をしました。
「君が大学人の間は選んで持って行きなさい」と言われました。
そして、もう本はなるべく買わないようにとさえ思っていました。
しかし阪大に来てからますます書籍は増え続けてもはや限界です。
自宅マンションの地下室に書籍を置いています。
ところが、最近は、恩師から大学人の間は持っていること、
この言葉を噛みしめるようになりました。
特に、私は「光造形」や「ラピッドプロトタイピング」が目的で、
大学ではそのことを研究の第一線でやってきた経験があります。
結局、3D-Printingは光造形からの系譜にありますから、
現代の3D-Printing関連の書籍よりも、最初の頃には、
「光造形」や「ラピッドプロトタイピング」書籍は極々僅か。
だから、当初、いつかは自宅でもこうしたことが出来るという、
そんなまさに人間の夢物語りを見つけることができます。
おそらく現代のプロトタイピングの原型的な記載があるだけに、
本当に持って来ておいて正解だったとつくづく思います。
恩師に心から感謝です。
現代の3D-Printing関連書籍の前に居る度に、
こうした原初的な書籍意味こそ人類には不可欠だと思っています。
この関連書籍には、「いつかはこのことが日常化する」ということ、
そのことの実現が今、ぴったりと来ている最中です。
そういう意味では、多分、こうした書籍だらけの場所に、
私は佇むことになるのは間違いないだろうと思います。
無論、全てを精読したわけではありませんが、
ああ、このことを確かに夢見ていたと思うことしばしばです。
私が決心してきたことは確実に私だけの図書館には、
私の夢が一段と現実になっていくことを確かめています。


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「同胞を救出せよ=わが国の最大的政治問題である」


   


     11月 13th, 2012  Posted 12:00 AM

この本の出版を知った時、
私はとても困惑し、この哀しみと向き合えるだろうかと思いました。
そして、最初の書き出しから涙になりました。
10年という月日が過ぎたからということを
蓮池さんは淡々と記述していますが、
これは日本人全国民が読むべき必読本だと断言します。
ノンフィクションにあらず
レポートにあらず
ドキュメントにあらず
手記などという軽さなどありえず
私たちが、どう嘆き、どう同情し、どう憤慨しようが、
あまりにもアポリア過ぎる問題です。
このような生涯を強いられた人たちが現実に存在し、
そして、私たちが何もできないことをまず知ることが重大です。
日本は、自然災害問題・領土問題・沖縄問題から、
敗戦処理問題の全てを、拉致被害者に覆い被せているのです。
日米安全保障条約はあってしかるべきものかもしれませんが、
この問題解決には何も効力がありません。
だとするなら、政治判断・政治決着を超越してやるべきことは、
北朝鮮との対話や支援などしても、あの国は狂っています。
となれば、もはや政治決断が必要でしょう。
そういう意味では、
10年前、小泉首相はともかく蓮池さんやご家族を取り戻しました。
そのことこそ、国のリーダーの義務だったと思います。
私たちには「何もできません」。
それだけに、まず、蓮池さんのこの本を克明に読了することが必要です。
私は、「本」というメディアの力をあらためて再確認しました。
そして、これほど胸が締め付けられて泣きました。
私も交通被災で車椅子になるという人生を余儀なくされましたが、
それに比べたら、
拉致された方々、そのご家族の想いは想像を絶しています。
未だに、特例法案が決まらず、大学には交付金は来ていません。
地方交付金も届かない現政権を、
「政権交代」と歓喜したポピュリズムに二度と巻き込まれてはなりません。
現在、最大の政治課題は「拉致問題」の解決であり、
この解決が成されなければ、
私たちは同胞を見殺しているということを再認識すべきです。
この本は失礼な言い方になるかもしれませんが、
宗教書であり哲学書であり、
そして、何よりも政治学の教科書であり、
私の感情は押しつぶされています。
蓮池さんがここまで書いていただいたことに深く敬意と感謝をし、
そして、「祈る」ことしかできないことを謝ります。


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「『松丸本舗主義』・松岡正剛へのアフェクション」


   


     10月 17th, 2012  Posted 12:00 AM

「松丸本舗」といういわば実験書店が閉店になりました。
その仕掛け人というか引受人だった松岡正剛氏は、
その開店から閉店の経過と
「書籍文化」・「書店の時代的な存在性」を「主義」として、
その報告を出版しました。
「主義」とすることが彼ならではのオリジナリティだと思います。
すでに読者諸兄も実感と感慨があるはずと推察しますが、
すでに「活字・書籍・本」は、
特にその流通形式性を時代から剥奪されています。
そんな中で、「松丸本舗」という新たな書店形式は、
3年間、日本での存在性を訴求してきましたが、
商業主義の本領からは外れる結果になりました。
彼から「松丸本舗主義」を出版するから一文寄稿の依頼がありました。
その時の感慨を、私は書籍化されてさらにその深みに身を沈めています。
正直、書籍流通の大革新性は、「活字を抹殺」していますから、
この書店形式で支えられるとは私は思っていませんでした。
それはすでに私が「本」と対峙し対話し対決し融合化するにあたって、
現代的な流通系から書籍をひろいあげることは
皆無になってきたからでした。
むしろ、私は松岡正剛と書籍の体系に、
わが身を委ねることへのアフェクションを人生体験、
そのものにしてきたからです。
もし、この「松丸本舗」が書籍流通を変革ならしめたとするなら、
その事態こそアトピーだということです。
しかし、膨大な書籍知ある天分的な松岡正剛には、
この時代認識の後片付け的に「実験店舗」は、
時代の中での書籍意識の再確認を日本人に教示してくれたのです。
私はこれを「エピスメーテー」と表現しました。
ここまで、見せつけないと知的であるはずの我々も、
自覚性を喪失していたと言っても過言ではないでしょう。
私たちは気づいていることさえ忘却させられるほど、
「書籍=活字」に対しては痒み無きアトピーになっています。
「松丸本舗主義」は、その重大な警告だと受け止めるべきでしょう。
それは、「活字=書籍」に限定されているわけではなく、
「活きる術としての必需品全て」が、
世界観の中に浮遊しているのが現実だと私たちは常時、
アトピーになっている自画像に見入るべきだと考えます。
幸いにして、私は「歩くことができません」、
だから「走ることなど不可能」です。
このことを私は常に突きつけられているだけに、
「自覚すべきこと」を忘れないでいられるのでしょう。
もし、「松丸本舗」という書店形式の提示を失敗と言い切るなら、
それは、自分自身を喪失している、
まさにアトピーにも気づかない活きている死者だということです。
私は、その主義という言葉に集約している松岡正剛には、
アフェクションを再度捧げた次第です。


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「読書の季節・ダイアグラム的な一つの論理かも」


   


     10月 14th, 2012  Posted 12:00 AM

昨夜は、久々に恩師と長電話で近況報告。
気がついたらブログアップをすっかり忘れていました。
急遽、漢字遊びを
図解=ダイアグラム化を思いついてそのままをアップしました。
そして、フッと思いついたのは「本」という漢字でした。
「読書の秋」です。
ともかく、読み残すことが段々と増えているこの頃です。
「ツン読」一方の寝室には、ワイフにいつも叱られてばかりで、
ついついamazonで本は買うだけツン読三昧なのです。

さて、昨夜の言い訳をまことしやかに語り切ります。
「体」かた横棒を一本抜けば「休」という漢字です。
「木」は素材とか対象物を表しますから、
その対象物に一本の極めつけが入れば「体」になり、
その一本を抜き取れば、「体」が「休」まるということ。
そうなれば、「本」は・・・となります。
きっと、故事づければ、こんなダイアグラムになりました。
休むために、抜き取った横棒一本が、
「木」=対象物(思考対象)に極めつけを入れてくれるのでしょう。
これこそ、私なりの「読書の秋」のダイアグラム的な解釈、
その視覚的な論理構造だと断言しておきます。


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「喧嘩とは、自分に売ることが基本だ」


   


     9月 1st, 2012  Posted 12:00 AM

私は、「喧嘩師デザイナー」だと自称もしています。
だから、誰にでも喧嘩を売るということで怖がられています。
デザイナーは喧嘩師であれ」でもしっかりと記述していますが、
まずは、「自分に喧嘩を売る」ことを
根本的な原則にしなければなりません。
喧嘩を売る、とはチャラけた言い方だと「自己啓発」でしょう。
「自己啓発」類の本やその著者は、
私に言わせれば、高校時代に出会っていれば殴っていたでしょう。
この系譜で言うと、「仲良しクラブ的なこと」は大嫌いです。
表向きのチャラけた連中を見る度に、
現在は公的立場でもあるからもの凄く我慢します。
チャラけた発言などはひたすら無視することにしています。
「腹が立つ」とは、武士道における「腹こそ心の在処」だからです。
「切腹」とは「腹=心」の清廉潔白さを
最終の自死をもって証明する美学的精進だと考えます。
しかしこれこそ、
「自分に喧嘩を売っている」ことにもつながっていますが、
今では許されない行為ですが私は認めています。
「自己啓発」なんて言葉自体がだめです。
せめて、「自己鍛錬」・「自己精進」です。
鍛錬と精進は、
仏教的な精神的な自己犠牲を強いる、これこそ「勉強」です。
心臓発作を経験する40代半ばまで、
「睡眠時間4時間」を自分に強いてきました。
それはほとんどが、読書とスケッチでした。
「本を徹底的に読む」・「スケッチを毎日描く」・「文章を書く」、
これが、私の鍛錬と精進の核心です。
だから、毎日ここでのブログも精進の一つの形式にすぎません。
私の毎日の記録は、手帖・メモ帖・スケッチ帳が、
鍛錬と修練の「喧嘩ツール」になっています。
なぜ「帖」であり、「帳」なのかも、
勉強ゆえに区別されるべき詳細な日本の美学の証なのです。


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「ともかくこの本に戻ります・勇気の源泉」


   


     7月 21st, 2012  Posted 12:00 AM

フランスで見つけた私の蔵書の中で最大に大きい本です。
レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿を
編集し直した画集と言ってもいいでしょう。
海外で書籍を買っても私は船便や航空便で日本に送りますが、
この本は携えて持ち帰りました。
もう何度も何度も読んでいるというより、見てきた本、
見つめてきた彼のスケッチでいっぱいの本です。
もちろん、彼の有名なスケッチは網羅されていますが、
そうしたものよりも、見かけないスケッチ、
特に、解剖図はほとんど収められているでしょう。
本物の手稿本は、ビル・ゲイツ所蔵ということですが、
ビル・ゲイツも、自宅手元には無くて、
いつも世界のどこかの美術館で展示されていると言っています。
解剖図では、
当時は内蔵のその部位がどのような機能だったか、
不明がいっぱいあったはずですが、
極めて丹念に描かれています。
日本で出版されている、
ダビンチの手稿・スケッチ本も収集するように持っています。
そして、この本にはあるけれど、これはやっぱり載っていない、
そんなことを楽しんでいます。
丁寧に1頁づつを私なりに評論をいつか書いてみたいと思っています。
そして、
スケッチこそ思考の最大・最適・最良の発想法だと確信する私なので、
この本には、私への勇気をみなぎらせてくれるバイブルです。
それをまさに象徴するほど、おそらく出版される最大の大きさは、
与えてもらえる、私への勇気の大きさと同値です。


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「私の財布はネットワーク・マネーとでも呼ぼう」


   


     7月 16th, 2012  Posted 12:00 AM

車椅子生活になって以来、
私はお金を持ち歩くということが全く無くなったのです。
これがいいことか、悪いことかというと、
金銭感覚が無い私には最悪のことだと自覚しています。
買い物は大好きだから現代は「便利な時代」になっています。
最も買う物というのは、「本」です。
フリーになったとき、赤坂でデザインスタジオを持ちました。
その時、「私バブル期」だったと思い出します。
一度100万円を持ってすべて使ってやろうと思い銀座に行きました。
結局、丸善で思いっきり本を買ったら10数万円でしかなく、
「お金」ってそのようなモノと割り切れたことがあります。
もし、私が世界一の大金持ちになったとしても、
私は「歩ける身体にはなれません」し、
もうあの世の「父母には逢えません」から、
これがお金というモノの限界です。
今、とりあえずはedyを使っています。
写真のedyは二種類あって、
プラスチックカード入れで最高5万円、edyカードで3万円です。
ともかく、8万円は使えます。
それも一ヶ月に一度程度、コンビニで使うぐらいであり、
大抵はスタッフたちや学生にこれを渡して、
飲み物や軽食を買ってきてもらう程度です。
「貨幣」とは、資本主義社会における重大なメディアであり、
経済システムの要です。
クレジットカードにしても、
「貨幣」の形式と形態はネットワーク・マネーと呼んでもいいでしょう。
ただし、こうしたネットワーク・マネーが日常的な価値、
すなわち、コンビニやファーストフードで使う場合と、
企業M&Aにてビリングシステムではツールです。
この差異性こそ、新たな経済学、あるいは経済システム、
この再設定制度とする論理は見つかっていないと思っています。


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「ビーズのきらめきに・・・・・」


   


     5月 1st, 2012  Posted 12:00 AM

『ゴルゴ13』がビジネス書になると思っていたら、
やはり、ビジネス書「ゴルゴ13の仕事術」がありました。
私はほとんどビジネス書は読みませんが、
ついついamazonしてしまいました。
この連休中に済ませてしまいたいこと、いっぱいありますが、
最も子供の頃から、そんな予定をすべてこなしたというのは、
「受験時代」ですらできなったのでもう諦めというか「諦観」です。
となるとやはり「ビーズでブレスレットづくり」に夢中になります。
京都に行くと大量に素材を買い求めてきます。
「夏用」を買い込んであります。
が、やはりその他の部品アイディアがあって、
それがあればアクセサリーの根本を革新できるはずだから、
アクセサリー「ブランド」持ちたいとも考えてしまいます。
しかし、そろそろリタイアを考えていますから、
このビーズで遊ぶことも一つのやり方だと思っています。
車椅子生活を宣告されて、読みあさった本は、
すべからく「老年生活」のハウツー本でした。
老後は「ものづくりと園芸が最適」という内容ばかりでした。
そしてやってはいけないことは三つありました。

  • 商品として売ってはいけない・そのような金銭欲を離れること。
  • 人に教える立場になって「先生」と呼ばせてはいけないこと。
  • 「展覧会」などで見せびらかしてはいけないこと。

これを読み終わったとき、
(どうしよう、プロのデザイナーは商品づくり、教育、展覧会開催)、
これがプロの核心だからと随分戸惑いました。
「先生」と呼ばれることは恩師から、
「先生とは先頭先陣を切って生き延びること」だからと教わりました。
だから、リタイアしたら趣味に徹することだと確信しています。
父は70歳ですべての社会的な立場から離れました。
そして79歳、散歩中に道端で倒れて逝ってしまいました。
9年間は、中国(戦地めぐり)・沖縄・靖国神社行事出席でした。
それは7年半も軍人だったことへのなんらかの慰霊だったのでしょう。
その気持ちを存分に使い果たしたのかもしれません。
私もビーズの彩りや輝きを単純に「無」のきもちで見つめられます。
ブレスレットをプレゼントすると
まだまだ僅かの人ですがみんな喜んでくれます。
リタイア後を真剣に考える人生の季節になりました。
ただし、「命がけ」で果たしたいことはまだあります。
「戦闘と戦陣」に向かっていく時間に
限界が見え始めていることは確かです。


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