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Posts Tagged ‘東芝時代’


『若き日、「東京家具見本市」で二人は学んでいた』


   


     7月 18th, 2017  Posted 12:00 AM



フローリング、あるいはフロアライフというのは、忘れられていますが、
あのライフスタイルは福井県の当時は小さなインテリアメーカーだった
マルイチセーリングの背もたれだけのソファーから生まれたのでした。
そのメーカーの小林社長はタケフナイフビレッジで活動開始の私に、
ソファーデザインを任せるだけでは無く、
私提案ながら、「東京家具見本市」全てを委ねていただいたのです。
私は人間工学を東芝時代にヘッドホン設計以来、疑問だらけでした。
同時に車椅子のための身体保持にはなんとしても椅子やソファーの知識、
そのデザイン設計が必要でした。
ともかく見本市会場で最大のブースに
「TONTON」というこの椅子を高さ違いで、展示したのです。
商品としては、一段二段三段だけでしたが、
ブースには銀色パラシュート素材でいわゆる華美絢爛さを演出しました。
ソファーテーマは「休息」でした。
気づいたのは休息が最も持てない人達、それは兵士たちでした。
彼らに休息を与えるには、
カモフラージュ柄の軍服を脱いで砲筒を曲げて、
戦闘不能にすれば休息が来る。
この椅子はまた丁度New Yorkのブルックリン(犯罪多発地)都市計画で、
インターナショナルインテリアセンターが完成し、最初の椅子展では、
世界各国から「新しい椅子」が厳正に200点集められて、
私の「TONTON」は日本代表の展示4点(少ない)の一つになったのです。
しかも最終選考に残ったことで、渡米しましたが、発表は、
New Yorkの親友彼の「プールチェア」、悔しかった思い出があります。
私はマルイチセーリングで、東芝時代に鍛えられた
見本市ディレクションを発揮ししかもソファーを学んだのです。
マルイチセーリングのあの最大のブースには、
当日、雨が降り、コウモリ傘を預かるコーナーまで出来ました。
それは東京支店長だった高島氏のアイディアだったのです。
来場者は、全てが見本市会場では最大の紙袋を持ち、
それにはマルイチセーリング文字入り、
そして雨傘を預かるというのは、
以後も見本市でのブース設計では当然の仕掛けになりました。
高島氏が事業開始時は小林社長が後押ししていたと聞きました。
東京家具見本市では彼の存在は、他の社員を引き離すオーラがあり、
コンパニオンガールは福井で3日間研修までさせた展示会でした。
若き日、私も高島氏も本当に懸命に、商品のあり方や
興味を持ってもらうことを時代感覚で学んだ大きな思い出です。
現小林会長には二人とも今も感謝をしています。


* 「ヘッドホンから始まりました・・・」
* 『哀しみのためから楽しみのための電動車椅子開発へ』
* 『HUSATとInternet of Medical Thingsのデザイン言語 』
* 『なぜ、私がヘッドホンにこだわるのか』
* 「わが国の展博・コンベンションデザインは遅れている」


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『人生が回転して再開、懸命だったあの頃』


   


     7月 17th, 2017  Posted 12:00 AM



35年ぶりに高島郁夫氏が来宅してくれました。
今、「DESIGN TOKYO」の審査委員をお願いしているのです。
カリスマバイヤーだった藤巻幸大氏が急逝してとても困り、
そうなると彼にお願いしようとすぐに提案。
彼も快く引き受けてもらったのです。
というのは、彼も福井県人であり、若いときにはマルイチセーリングの、
「際だって存在感があった」東京支店長でした。
当時ようやく全国区への参入をめざしていた、
このインテリアメーカーが「東京家具見本市」出展を私が提案したら、
小林社長(現在は会長)は最大ブースを予約して、
「川崎さん、全て任すから思い切りブース設計から製品デザインを」
(エッ最大ブース?どうする・・・)
そのブース統括は当然ながら東京支店長であった彼でした。
ソファーもいくつか相当にやり、それなら思い切って、
ということで、エレクトレットコンデンサースピーカーシステムを、と。
設計は丁度フリーになった東芝時代の
エレクトレットコンデンサーの専門家Y氏に製造までをまかせました。
今でも多分、25mm厚のバッフルに、
このスピーカーユニットと電源駆動実装は実現されていないでしょう。
すぐにフィラデルフィア美術館に永久展示になりました。
高島氏の存在を以後知ったのは、私の最初のマネージャーからでした。
「フランフラン:Francfranc知ってます?」
「んー、ごめん、知らない・・・」
「エッ、知らないんですか?」
当時ちょうど私は札幌市の市立大設立での初代学長候補でした。
(これは以後色々あって辞退問題にまでなりました・・・)
そうしたら、福岡にも札幌にも、
なるほど彼らしいとてもセンスあるインテリアショップ。
そうしたら大変な実業家になっていました。
来宅してもらうと、すぐに私は、
「ねっ、自家用ジェット買ってくれない?」と実業家には要望するのです。
ビジネスジェットが現代、最高の「手造り」なのです。
スピーカーは商品化できませんでしたが、35年前には実現していたのです。
結局は二人ですっかり未来の話になったのです。
しかも彼の企業グループに次世代デザイナーの森田恭通氏も取締役でした。
なんだか人生が回転して再会を果たしたのです。


* 「キャナルシティ博多での二つのショップ、二人の経営トップ」
* 「『国際文具・紙製品展』と『DESIGN TOKYO』展
* 『JBL4343のメインテナンスは5.5回目、まだ10年はOKとか』
* 「SZ-1000・私のオーディオ最終作だから」
* 『インテリアデザインからの拡大・森田恭通のパリ個展』
 


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『ブツドリというカメラ撮影のテクニックは重要』


   


     8月 24th, 2016  Posted 12:00 AM



取材にはプロのカメラマンが同行されます。
そして、自宅でいわゆる「ブツドリ=物撮り」をします。
デザイナー、特にプロダクトデザインでは、
このブツドリは、デザイナーの一つの技能だと考えています。
カメラとの自分の歴史は、祖父にもらったカメラで、
絞りとシャッタースピードというのを知りました。
そして美大では特別講義で、被写界深度とかを教わりましたが、
ほとんど覚えていません。
しかし、当時、ある放送局のシンボルマークのコンペで、
賞金をいただいて、ニコマートを手に入れ、
独学で写真を撮り始めていました。
ところが、東芝時代は必ずスタジオに出向いて、
これも業界用語のプロ撮をしてもらっていました。
そこでは、プロカメラマンの様々な撮影を見ることと、
気さくなプロには質問をして自分撮影で試すことができました。
最も残っているのは、光は必ず一点からしかこない。
なぜなら、太陽の光は一方向だけだから、人工照明でも、
影は一つしか出来ないことを教えられました。
自分がようやくデザイナーとして、雑誌にも取り上げられると、
その雑誌の編集長から、
「君もそろそろ撮影はFさんにしようか?」と言われて、
紹介をしてもらいました。それはあこがれのカメラマンであり、
建築とプロダクトデザインのみの専門的で高名な方でした。
それこそ、「これを撮影して下さい」といえば、
「何日かあずかっていいか?」と言われるのはデザインとして自信作でした。
しかも撮影されると、「代金はいらないよ、雑誌の表紙に使うから」、
これが撮影料かと驚くのは、デザインがいまひとつという物でした。
したがって、彼の撮影方法を自分は真似ています。
影をそうするか、そのための背景素材、背景素材にそれを使う?など
鏡で照明を一点に集中させることを、
いわゆるブツドリでは撮影テクニックを覚えてきました。
最近はスマホで撮影が出来、しかもアプリで光からコントラストが
自由になる時代ですが、コンパクトなデジタルカメラをなるべく
コレクションにはしないつもりでいます。
しかし、まだ使いこなせないカメラがあります。
これは、絞り・深度・シャッタースピードの
アナログ性をデジタルにした最高級のカメラです。
いずれこのブログの写真が撮れることをまだ練習しています。


* 『美大生1年のときに私の最初の社会的なデザイン』
* 「デジタルカメラに向かい合うとき」
* 「カメラ修行は今なお・・・」
* 『今のコンパクトカメラはこの三台』
* 『デジタルカメラはなるべく買い換えない。』


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『ファッション誌で知ってさらに自分ファッション』


   


     9月 24th, 2015  Posted 12:00 AM



高校時代は丸坊主が校則でした。
ようやく丸坊主から解放されたときにファッションが気になり、
最初の男性ファッション誌は「メンズクラブ」でした。
美大入学時には母が指輪とブレスレットを男なのに買ってくれました。
以来、私は指輪もブレスレットも母からの命令だと思って収集し、
身に着けていますから、デザイナーで良かったとさえ思っています。
車いすになってふるさと福井で仕事をしているときには、
白いワイシャツ、髪も短く、必ず、イタリア製ダブルスーツでした。
東芝時代は、東芝マンでしたがアロハシャツで出勤する態度でした。
ダブルスーツに拘ったのは、今もそれほど変わりませんが、
車いす姿、若いことで明らかに差別感を受けてしまっていたからです。
福井でも毎日デザイン賞を受賞してからは、
ワイシャツもカラーにし長髪にしたようなものです。
もっとも最近では明らかに差別感を感じたら周りにスタッフがいても、
必ず暴力沙汰寸前になるようにまで、
それこそヤクザさんにも絡みます。
というわけで、逆差別のやり方さえ覚えてしまいました。
ごめんなさい。
今、ファッション誌はワイフの女性モノが面白いですが、
60になってまた「メンクラ」を読むこともあり、
今回なんぞは40になったらなんて記事に、
そうか、自分の40代はこの程度をファッションなんて呼ばない、
ファッションは、浪費と勇気の見栄=見栄えだと思っています。
見栄というのは,浪費できることやその程度でも揺るがない自己表現です。
一所懸命と一生賢明がファッションの哲学であり、
それこそ浪費する自分が一所懸命と一生賢明であることの見栄です。
ちょうど私の世代は、アイビースタイルに憧れ、
それこそ大学時代にネクタイをするフォーマル性を磨きました。
カジュアル性の根本としてのジーンズも、徹底したモノの価値観があり、
昨今では、高級ブランドからファストファッションまで、
それぞれの価値観への浪費性に使用感と所有感があると考えています。
幸いにして、メガネは自分ブランドがありますが、
自分が最も興味を抱いている分野で自分デザインができる幸運さ、
これこそ自分のファッション価値観だと思っています。


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『ターンテーブルマットはガラス素材にたどりついた!』


   


     9月 17th, 2014  Posted 12:00 AM



東芝時代には、ゴムマットをどれほど試作をしたでしょうか?
日本各地で「オーディオ講座」も企画し演出していましたが、
途中で面倒になって、自分でマイクを握って出演しました。
全国の主要都市にショールームもデザインし、即イベントを開催。
ショールームのデザイン設計を現場で職人さんから学んでいました。
イベントでの計画性を体験の中で育成できたのだと思っています。
イベントでは観客に試作中のターンテーブルマットを勝手に配布。
ターンテーブルマットがゴム製はやっぱり駄目だと決定していました。
そこで、フリーになってどうしてもこの商品化に挑み、
クリスタルガラスの重量と比重、密度性にたどりついて商品化。
すでにレコード再生は、レコードの盤その厚さであり、回転数で決定、
だからそのレコードは当時DAMクラブで45回レコードを会員向けに
シリーズで配布レコード盤が相当に作成されていました。
アーティストが怒ってくるほどの音質を実現していました。
ターンテーブルマットにレコード盤にも中心重力を与えることにも
心をくばって、ガラス製のウエイトも商品化することができました。
もちろん、アームのデザイン設計も試みましたが、
商品化が困難であり、カートリッジシェルとカートリッジリード線、
リード線はすべて音質毎に取り替えられるシリーズ化をしました。
残念ながら、ガラスマットは今も持っていますが、
ウエイトや4種あったリード線は持っていません。
当時は、オーディオテクニカがリード線を1種だけでしたから、
、銀、銅線で4種の組み合わせの商品化は大成功していました。
レコード盤からのオーディオ再生では、アナログ機器の物理性と
それらの素材を新素材や、見向かれなかった素材を実験試用して、
新しい解決法があれば、なんとしても素材を探る癖になりました。
オーディオ、それもアナログであるからこそ、S/N比があるから、
単なる聴覚現象での「いい音」=音楽の音響の聴き心地の世界に
私はデザイン設計で商品化とその成功性で確認していました。

*「M氏からの追加情報」
ジュエルトーンのシェルリード線ですが、
当時のHI-FI STEREO DUIDEを見ると、
確かに4種類ありますが、金リード線がありませんでした。

載っていたのは次の4種類です。
●Cu-99Jリボン:無酸素銅箔(500円)
●Cu-99Jリッツ
:ポリウレタン被覆の無酸素銅のリッツ線(600円)
●Ag-99J:銀線(700円)
●Ag-99Jリッツ:ポリウレタン被覆の銀のリッツ線(900円)


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『清水吉治レンダリング展にて』


   


     5月 9th, 2014  Posted 12:00 AM



本当に久しぶりにAXISビルに来ました。
AXISビルは日本のデザイン界のメッカですが、
最近はもう忘れられているのかもしれません。
私がここでの個展からフリーランスで出発しました。
金沢美大時代の大先輩・清水吉治氏の展覧会を観にきたのです。
大学時代の同輩から先輩後輩に沢山出逢うことができました。
清水先輩は、おそらく、工業デザインにおけるレンダリングでは、
特にアジア、そして工業デザインに力を込めてきた中国では、
彼のレンダリングを学んだ教え子はものすごく多いのです。
私自身、先輩とはいえ、
東芝時代にどれだけ参考にして学んできたでしょう。
大学人になってからも彼の著作を学生たちには必ず薦めてきました。
すべからく手描きのレンダリングは、
私は今ではデジタル化、PC化されようが、
「デザインの基本」だと思っています。
このレンダリングが描けないデザイナーは、
まず造形デザインが下手くそです。
工業製品の造形が下手なデザイナーは、
レンダリングが描けないと思っています。
展示された描かれている製品は、その時代の技術進化があっても、
造形は全く新しい。
私は思いました。レンダリングで描かれた工業製品の美しさです。
それは現代製品が
貧しく美しくないことを証明しているとさえ実感しました。
私は現代製品で欠落していることは二つあると思っています。
一つはレンダリングがPC上でソフトで描かれていても、
手から生まれるのが美しさです。
私はスタッフが、たとえPCで仕上げても手描きを要求し、
私自身手描きから造形を見つけます。
もう一つは、金型を確認することです。
PCで制作された金型であっても
ハイライトラインを確かめるべきだと考えています。
結局、ハイライトラインは手描きのレンダリングでは、
必ず明快に確認することができ、
この技法無いデザイナーが増えていることを危惧しています。
清水先輩は80歳でした。
もっとも美大卒のデザイナーはみんな若く見られているようです。
大学の同輩が会場設計デザインをこなしてくれていました。
今日、改めて私は素晴らしい大学出身者だと思いました。

『日本のレンダリング技術は先輩が切り開いてくれた』


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『歩けた頃=スキーに夢中だった時の写真が届いた』


   


     12月 10th, 2013  Posted 12:00 AM



今月はフランス・香港と海外出張が続きました。
帰国すると、東芝時代の上司から写真が届き、懐かしさ一杯です。
5歳当時からスキーに親しんでいたおかげで、
車椅子生活を宣告された時一番に感じたことはスキーができない、
これが最大の問題だとさえ思ったほどです。
この写真では、フィッシャーのメタルスキーとサロモンです。
知っている人には分かるはず。ゴーグルはまだ持っていました。
このメタルスキーは、夏でも剣岳の雪渓がミラーアイスでも、
十二分に可能なほどでした。
もう一本は、ジャン=クロード・キリー が国内でサインをしたK2。
当時は、ドルフィン=今はフリースタイルと呼ばれていますが、
これには最適の柔らかさがあり、この二本を使っていました。
ご覧のとおり、全身はスピードスキーのために、
エラスティック素材の全身スーツを仕立ててもらっていました。
スキー靴もランゲというほど、スキーのためには、
最上級品にボーナスをつぎ込んでいたほどでした。
小学校・中学校時代もスキーばかりしていたようです。
高校時代も浄法寺山(1053m)ならば連休でも滑れました。
東芝時代は、得意な連中とは奥志賀に籠もって「回転や大回転」。
山登り・ロッククライミング・スキーが出来ない身体ですが、
若かりし日のこの写真が届いて、
11月後半から海外でのデザイン状況を見ながら、
私に残された日々、どこまでこれからの自分の役割があるのかを
もう一度確認することができました。
多分、書き残すことが多くなるのかもしれませんが、
わが国のデザインは、企業戦略からはやや離脱しているようです。
すでにデザイナーとしてスタートしたとき、
常に、スキーには拘っていたことを想い出しました。
また今夜からブログを再開します。
よろしくお願いします。


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「誤解されたデザイン=デザインは意匠とともに問題解決」


   


     2月 28th, 2013  Posted 12:00 AM



60歳還暦から徐々に自分の「命」を考え始めました。
多分、亡父もそうだったのだろうと想像します。
64歳になって阪大も退官となると、
自分の「命とデザイン職能」を随分と考えるようになりました。
まだまだ語り尽くさなければならない「デザイン」があります。
そういう意味では、私は大変に幸運でした。
なぜなら、日本の工業デザイン、
その出発点を際立たせた製品を選びぬくと「五つの製品」があります。
画面の製品すべてがその代表作だと言えるでしょう。
この五つの製品が「日本のデザイン」を決定づけてきたものと考えます。
そして、この五つの製品それぞれのデザイナーは、
全ての人が私のデザイン・デザイナーとしての師匠たちです。
醤油ビンは栄久庵先生、毎日デザイン賞で推薦文をいただき、
いくつかのデザイン講演をご一緒しました。
電気釜は、東芝時代の部長・岩田先生であり、いつも私は怒鳴られれば
喧嘩を望みながらもかわいがっていただきました。
柳先生のバタフライスツールは
美大時代・東芝時代・フリーランスになっても先生でした。
平野先生のファイルシステムは今もなお超ロング製品であり、
19歳から徹底的にデザイン発想・表現・伝達を鍛えられて、
今でも先生には阪大退官での最終講義にも来ていただけます。
スバルデザインの佐々木先生には、美大時代の非常勤先生であり、
一時の日本デザイン界トップはすべてが先生の弟子たちでした。
この5人の先生方と会話し、
デザイナーとしては、沢山の先生方に教わってこそ、
現在の私が「生きぬいていく」ことになりました。
阪大退官を目前にして、
「伝え残していること」が沢山あることになっています。
幸いにも私は、日本のデザイン界スタートの代表作とともに、
そのデザイナー先輩全てに教わることができました。
そして、全ての先生方から教わったのは、
「デザインといえば意匠=かたち造形の専門家」という
意識や風潮や認識ではなかったことです。
常に、哲学であり、理念であり、思考結果の意匠であっても、
「根本は問題解決の実務」そのものだったことです。
私は、デザイン=機能とは決して思っていません。
デザインは問題解決に造形が寄り添い、
性能・効能・機能の造形言語と、
形態言語の表現性と意味性だということです。
結局、日本人として、デザイナー命として、
モノのわび・さび・幽玄まで、
問題解決の「言語化」ができるかだと思い続けています。


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「赤い靴はーいてた♪・・・靴紐は赤に!」


   


     11月 16th, 2012  Posted 12:00 AM



靴選びは、メガネ選びや万年筆選び同様に私の趣味です。
幸いなことに、私は歩きませんから、
靴はまったく傷みませんのでいつも新品のままです。
靴選びは、ファッション雑誌・ブランドショップ・インターネット、
そしていくつかの靴屋さんです。
京都・寺町通りにあるお気に入りの靴屋さんがあります。
先般、男性ファッション誌を見ていたら、
赤い靴紐と赤いソックスのファッションデザインを一瞥しました。
そして京都の靴屋さんには、スペインブランドの新作がありました。
靴紐が赤でした。
女性靴ブランドでは「ルブタン」の、靴中がレッドです。
男性モノだとオーダーしなければなりませんが、
この新作は靴中もレッドでした。
ある著名な経営者I氏が、天ぷら屋さんで食事中に、靴を脱ぎました。
「わぁ、きれいですね、美しい靴ですね」と言ったら、
「やっぱり、君はそうやって感動するね・・・」
「えっ、・・・どうしたんですか?」
「最近のデザイナーは、これを見て何も感動してくれない」、
ため息をつかれて、
我が社のデザインはダメかと思っているとまで嘆かれました。
そんなことがあってから、
ことさら私は靴にも気を抜かなくなりました。
徹底的に靴の先から頭髪に至るまで、
自分の外見はデザイナーでなければいけないと思っています。
したがって、これから靴は、
靴中・靴底・靴紐、そしてソックスに至るまで、
私は「自分のためのデザイン」に気を配ろうと思っています。
すでに60還暦も終えましたから、なおさらジジィはきれいであるべきです。
赤いソックスと赤い靴紐は素敵です。
20代の東芝時代は、なるべく「脱サラリーマンファッション」でしたが、
ふるさと福井でデザイン活動していた30代は、
絶対に、ワイシャツは白、ネクタイはできる限り地味にしていて、
ある時、銀行の頭取に聞かれました。
「川崎さん、あなたはデザイナー?」って。
私は成功したと思っていました。
デザイナーぶると「遊び人的ファッション」になりますが、
それはデザインすら誤解されます。
40代で毎日デザイン賞を受賞して、ファッションを開放しました。
ファッションへの拘りには、哲学が必要です。
最近はノーネクタイが一般化しました。
しかし、ネクタイをするという身だしなみは不可欠です。
だから、「赤い靴はーいてた♪・・・」、
このメロディを耳鳴りにするファッション性は、
熟考し身体化することだと思っています。


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「わが国の展博・コンベンションデザインは遅れている」


   


     7月 7th, 2012  Posted 12:11 AM



私の見本市・展博・展示会経験は「晴海見本市」会場から始まりました。
東芝時代、オーディオフェアに限らず70年代は、
ほとんどが晴海に見本市会場がありました。
それから、「幕張の見本市会場」が出来ましたが、
会場までの交通の便が不便でそれほどの効果はありませんでした。
そして有明の「ビックサイト」が出来ましたが、
私は失敗作だと思ってきました。
つまり、日本にはコンベンション会場が皆無と言っていいでしょう。
ミラノ市は敗戦後、
すぐにこの「コンベンション都市」をめざしましたから、
世界の見本市の中心地的存在になっています。
私は20代で、オーディオフェアのディレクターに自分から申し出て、
その実務経験をし、展博デザインを学びました。
今回ISOT(国際文具・紙製品展)では、
展示ブースの上に、アドバルーンが数個浮かんでいたので、
私のある経験を思い出しました。
晴海の見本市会場では、展示ブースには高さ制限が規定されていましたが、
私はアドバルーンを上げることを思いつき、実行したところ、
それは事件になりました。
展示会の事務局から「展示違反」、
そのバルーンを下ろしなさいと通達がありましたので、
そのバルーンの糸を切りました。
そうしたら、かえって目立ったのです。
もう事務局は何も手立てがなくて、
開催期間中は最も目立つブース位置表示になったということです。
今では、アドバルーンはOKですがまったくオリジナリティが無く、
日本の展博デザインはほとんど進歩していないことを象徴しています。
日本には展博デザイン専門の学科がまったく無いからかもしれません。
交通の便が良くて、
会場の広さや展示デザインをより高度にするべきでしょう。
いわゆる展博の企画会社にはデザイン部門が無いことも大きな原因です。
展博・コンベンション手法は日本が様々な産業のホスト国として
先進性を連続保持することは貿易立国としての重大な要件です。
10月には、二つのわが国にとって重要な展博に関わります。
さらに、展博アイテムそのもののデザインから、
新しいコンベンションスタイルを産み出したいと考えています。


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