kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘機械’


『もう一度絶対逢いたい哲学者・中村雄二郎先生』


   


     11月 14th, 2017  Posted 12:00 AM




高校時代は「倫理社会」という科目の中で哲学を教わりました。
得意科目で、当時全国では4冊教科書があり担当教諭からもらいました。
だから私なりに美しく仕上げたノートは残してあります。
大学時代は一般教養で哲学があり、覚えている試験問題は「機械とは何か」。
そして福井時代に突然、中村雄二郎先生が福井にまで来ていただきました。
それは私の刃物のデザインを見て、私に会いに来ていただいたのです。
もう大学時代から憧れていた先生だったので、とても驚き感激しました。
先生はデザインそしてグッドデザイン賞の理論的支柱でした。
先生を囲んで勉強会のために何度も上京したものです。
丹後縮緬再生プロジェクトは、先生の指導で2年取り組みましたが、
産地をまとめることが出来ず、先生からも、
「この産地は駄目だから撤収しよう」と終わったこともあります。
東京新聞に先生が連載を書かれることになったとき、
私がそのイラストを先生から、「描いてみなさい」ということで担当。
先生は、フランス語で文章を書かれてそれを日本語にするために、
フランス語キーボードをApple Japanに頼んだこともあります。
明治大学を退任されたとき、美術館や図書館など館長依頼が一杯ありました。
ところが、先生は明治大学退任とともに、
NHKで著名な学者先生とのインタビューで世界を飛び回っておられました。
「先生、そんなに懸命にだと身体を壊します」と言ったこともあります。
最終に教わったのはロボットの「身体論」と「形態論」でした。
これはSONYのAIBOを最終審査をするために教わったことです。
哲学者・西田幾太郎に次いでフランスから認められた哲学者でした。
Apple Japan10周年では、先生が新聞広告でモデルをされました。
しかし、あるとき、先生の歩き方が本当に弱くなり、
先生のショルダーバックのファスナーが開いたままのときに、
私は先生に異変があると思ったのです。
それから入院をされて、もう会えなくなりました。
一時、明治大学に誘われたことがあります。
明治大学の理事からの誘いの時に、
「先生に会いたい」と言ったらもう無理だからそーっとと言われました。
先生は結局、老衰で91歳で逝かれました。
何度も先生のことを書かなければと思いつつ書けなかったのです。
先生の語られる=書かれる「知」はそれこそ今では「哲学領域」にて
随分と先生の書かれたタイトルが引用・借用・盗用されて使われています。
この「術語集」の「あとがき」には、
私のことを紹介とともに書いていただいています。


* 『わが哲学の恩師・中村雄二郎先生』
* 「緊急課題になった『リトルネッロ論』の再考と具現化」
* 「 Media Integrationは「述語論理」だという確信・6 」
* 「これまで6冊の出版に込めたパターン化」
* 『「真善美」をプラトンに教えられたから生きてきた』


目次を見る

『軍事技術である人間工学 は軽薄に語るべきでない』


   


     11月 5th, 2017  Posted 12:00 AM




本格的に「人間工学」を認識せざるをえなかった経験は美大ではありません。
ヘッドホンのデザインに取り組んだ時でした。
それは自衛隊の戦闘機パイロットのヘルメット設計マニュアルでした。
随分と説明、説得に自衛隊に行きましたが、閲覧は駄目でした。
理由は「人間工学」は元来、軍事技術工学であるからです。
しかし、日本での商品説明で多様されている人間工学の軽薄さは虚実説明。
人間工学は、機械の使用者(兵士)が機械行使(戦闘)で、
安全(生命を防御)であり、効果(敵を倒す=殺す)ことが中核です。
このことから第二次世界大戦以後、エルゴノミックスは学会活動が停止され、
学術名称もヒューマンファクターエンジニアリングで、
フェールセーフ・ヒューマンエラーの技術とデザイン(設計)になりました。
さらに、HUSAT(Human Sciences and Advanced Technology)になり、
今ではUIやレジリエンスデザインの領域にと進化しました。
それでもエルゴノミックスが最適解になっているのは、F-35に他なりません。
F-35A・F-35B・F-35C、これらのパイロットヘルメットが最適解でしょう。
もし、すでに想定されている北朝鮮への軍事圧力にはこの戦闘機でしょう。
結局、古来から工学技術が軍事開発と軍需産業が経済進化の動機が、
無念ながら、この人間界の世界観政治姿勢になっていることは、
このスティルス戦闘機に象徴されていることです。
モホリ・ナギ的に言えば、
「デザインとは社会に対する態度である」とするとき、
こうした軍事技術が不要な世界観にありましたが、
私はいわゆる商品コピーで語られる「人間工学」で、
例えば倚子を語り直すときには、軍事技術の切れっ端程度の語り口では、
それこそ引用というよりも偽善、
したがって、人間工学をデザイナー教育の基本には軍事工学技術を
避けてはならないのではないかと思います。
少なからず、私には男の子ゆえの戦車から戦闘機、武器などは、
正直、殺し合い=戦争とは全く無関係に、好きなことでもあるのです。
男は武器が好きといういう感覚、あるいはセンスは、
カモフラージュ柄がファッション性と同語化していることに匹敵しています。
それだけに、こうした戦闘機は、ビジネスジェットと同等のPower by Wire
と言われている油圧アクチュエータでの電気信号制御があります。
軍事技術である人間工学とデザインの整合性は
もっともっと整合性構築に向かって革新されるべきと考えています。


* 『若き日、「東京家具見本市」で二人は学んでいた』
* 「自動車デザインはもっとビジネスジェット機から学ぶべきだ」
* 『HUSATとしての「シーティングエンジニアリング」』
* 『情報戦とマッハ戦から無関係であってほしい』
* 『軍備産業の機能・性能・効能を廃止する哲学が要る』


目次を見る

『武器も武具も「械」、だから機能美しか残らなかった』


   


     9月 21st, 2017  Posted 12:00 AM



なぜ、楽器は楽機では無かったにでしょうか?
なぜ、機能美があったのに、器能美は無かったのでしょうか?
住宅は住むための機械だと言い残されたのにも関わらず、
住宅は住むための器械にはなら無かったのでしょうか?
器具はあり、機具もあります。その差異はどこにあるのでしょうか?
私が書き残すのは器能美と機能美が歴然とあることを最期に伝えておきます。
これは、今こそとても役立つパソコン編集機です。
編集機であり編集器とまでは当時、おそらく20数年前には言えませんでした。
今、ようやく断言できます。
CDサイズを根本的に理解してその実装までを美しくまとめました。
その頃から編集機ではなくて編集器と言わなければとも思いましたが、
とても機能美に囚われているデザイン界を相手には力不足でした。
それは器械も機械も、全てが械のための創意工夫だからだったのです。
械は武器であり武具だから、機械工学でしか語られなかったのです。
器とは確実に神に捧げる器=品なのです。
「器の大きな人」と「品ある人」が並んでいます。
器とは具体的には鎧・兜が武具であり、機具であり、器具はここからスタート。
楽器は、少なからず音曲=を操作、演奏と言っても良いでしょう。
器具をまとめあげ、しかもこの器具扱いに長けなければならないのです。
楽器は誰でも使い勝手に長けるためには、
自分と道具あるいは機具を使い果たす訓練が必要だからなのです。
再度、機能美と器能美が明確にあることに気づいてほしいと思います。
情報機械はありません。情報機器があり、
ロボットは情報機器だと断言しておきます。
ロボットは人間を襲ってはならない。
それは機器だからです。
機器には武器も武具にもなってはらない宣言が必要だったのです。
ロボットは機具であり器具であるからこそ、
安全と安心があり、信頼と信用が必要なのです。
機器にこそ、機械では絶対に手に入らなかった安全・安心・信頼・信用が、
やっと手に入るようになったのです。


* 「光造形から3Dプリンター時代に来ただろうか」
* 「仮設という無能な制度設計の住宅」
*  「慈愛資本とは、優美の隠匿資本でなければならない」
* 『応量器のモノからコトへがデザインの完成形』
* 『布と衣と織りと・・・」


目次を見る

09月15日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 15th, 2017  Posted 12:00 AM

09月15日 先勝(乙巳)

器が歴史的に最初、
機になり、
機械は武器でしかなかった。
にもかかわらず、
機械工学は機器工学への
進化はまだ遠い。



川崎和男の発想表現手法


目次を見る

09月13日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 13th, 2017  Posted 12:00 AM

09月13日 大安(癸卯)

かっては五大器械と言っていたのに、
なぜ、今では機械かを再考すべきだ。
機械では無い。
機器である。
機械学科はあっても、
機器学科が無い。
ロボットは機器である。



川崎和男の発想表現手法


目次を見る

09月12日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 12th, 2017  Posted 12:00 AM

09月12日 仏滅(壬寅)

これまでの「機能主義」には、
時代的な変革の時が来た。
機能には機能より器能があると主張する。
それは機械には器械もあり、
すでに機器の時代だからである。



川崎和男の発想表現手法


目次を見る

08月22日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 22nd, 2017  Posted 12:00 AM

08月22日 先勝(辛巳)

機械主義を未だに引きずっている。
私は機械では現代は語れない。
機械から機器が、
真の文明論から文化輪になる。



川崎和男の発想表現手法


目次を見る

『花嫁と独身者たちへのデジタルアッサンブラージュ』


   


     8月 17th, 2016  Posted 12:00 AM



哲学というと「機械について記せ」ということが浮かびます。
それは美大時代に哲学という一般教養の試験問題だったからです。
その正解が何であったかということよりも、
次に思い浮かぶのは「独身者たちの機械」とか、
それを題材にした大ガラス作品を芸術の一ジャンルというより、
芸術とは何か?を聞くよりも「何が芸術か」という接し方を教えられた作品。
「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」という理解困難さです。
大ガラスは二分され、上部は花嫁であり下部は独身者たちの機械という対比。
これはコラージュより明らかにアッサンブラージュという形式でした。
少なからず花嫁と独身者は女と男であり、社会構造での人間の欲望装置。
花嫁と独身者たちの機械を結びつけているのはチョコレートです。
あたかも、女性が男性への恋の手続きとしてチョコレートは
独身者である男達のチョコレート粉砕の機械になっていることです。
自分は「デジタルアッサンブラージュ」を提案しています。
その根幹には、
これまでの芸術が幾たびも才能あるアーティストによって、
芸術作品は社会構造への訴訟を繰り返す表現で裏切りを重ねたことでした。
そして最も重要なことは、これまでのアーティストは、
まったく「デジタル」、まさにデジタル文明を知らなかったことです。
しかし数学者たちが気づく以前に点は限りなく正方形に近づいているとか、
色の多様性はアナログ的な理解よりもデジタル的な解釈が先行していたこと。
おそらく、デザインとアートの差異性から、
デジタル的な大ガラスの実体は自分にとっては、液晶画面に映し出されて
しかも動いているというデジタル性を語り切る必要性があるのです。
その表現性には主観性を残すことはあり得ないのでしょう。
デジタル機械としてマルセルデュシャンが、レディメイドを残し、
アッサンブラージュを残したこの大ヒントを引き継ぐことで、
「デザインとは何か」が終焉し、
「何がデザインとなるか」というデザイン解答を用意したということです。



* 『マルセルデュシャンの立体化からアッサンブラージュ』
* 『デジタルな火と水を傍らに置く重大さ』
* 『「アプロプリエーション」という芸術手法はデザインに非ず』
* 「モダンデザインへ、ロシア・アヴァンギャルドから」
* 『介護看護環境のためのデジタルアッサンブラージュ』


目次を見る

『布と衣と織りと・・・」


   


     1月 28th, 2015  Posted 12:00 AM


私の文明論の基本は、歴史的にも明確な決定モノがあります。
それは、まず、器であり、もう一つが織です。
人間が生きる上での最小限のモノを表します。
飢えているから食物を食べる、水を飲む、そのモノとして器があり、
寒さから身を護るために衣を纏う、そのモノが織物です。
ついでに、文化は刃物から始まることも明記しておきましょう。
刃物=ナイフがあれば、次の道具が創れるからです。
となれば、ナイフが無ければ、器も織りも無かったのでしょう。
器が器械となり、器械は機械、そして械の野蛮さを超える時代ゆえに今は、
機器の時代になっていると考えることができます。
織りといえば、私の故郷は福井、織物産業の街です。
この織物も、絹織物が生糸産業から羽二重に続いています。
そこで、織物といえば、たとえば、紙の原型はパピルスですが、
それはパピルス自体が織物であり、和紙とは大きく異なっています。
ともかく、織りの中でも、肌触りということで、
布と衣が人間の文明から文化に纏い付いてくる正しさがあります。
その肌合いで現代最高のブランドから、選び抜けば、
結局は肌と衣では、このブランドの織物が今は最高だと思います。
日本の伝統工芸での織物や、伝統工芸に寄りかかったままで、
何も努力も無く、先人の知恵にしがみついている織物は滅びます。
そこで布となり、衣はファッション性を時代と社会に表明するには、
今の日本には、私は四つ大きく欠落しているコトがあります。
その一つは必ず、故郷で表現ができるようにとデザイン導入を企画中。
他の伝統工芸や地場産業には、このブランドの少なからず、
布と衣の最大公約数的発想も最小公倍数的発想も全くありません。
少なからず、布は人肌とのベストマッチング性を発見すべきです。
私はそのヒントに、このブランド商品の布性と衣性を記述しておきます。


『地方国家からのデザイン戦略・熟考の成果として』
『「織物・布の感性的評価軸=オノマトペ」産地福井から発信』


目次を見る

『布に込められたこと・布に込めること=大袱紗のデザイン』


   


     8月 9th, 2014  Posted 12:00 AM



器械という言葉は機械以前の言葉です。
器械であれ、機械は民族の文明を守る武器・戦に繋がります。
したがって、私は機械という言葉よりも「機器」こそ現代的と主張。
なぜならば、機器は機=機織りと器=食器こそ、
人間が寒さから護られ、人間の飢えをしのぐ器ゆえに、
機器こそ文明の根本だと言い続けてきました。
機織りには、布・織物・繊維の世界が広がっています。
布は人類それぞれの文明がそれぞれの文化形成を支えてきています。
ハンカチーフは、まさにスカーフ=頭を覆う布が携帯的はモノ世界。
日本には風呂敷の文化が伝統として、着物の周囲にありました。
そして、その布については、
かたちを持たないことが思想や倫理観、宗教にまで連鎖しています。
最近は、風呂敷という極めて単純な収納用品の見直しがあります。
しかし、私が実につまらないのは、
デザイナーが風呂敷をデザイン対象にしたとき、
そのほとんどが風呂敷装飾をデザインだという勘違いを見つけます。
風呂敷をデザインで、しかも伝統から再発見するには、
基本は、布はかたちをもたない、水のごときモノであり、包むこと、
それは「つつましさ」という思想にまで辿り付き、
やがて、風呂敷が文明から文化になっていくときには、
袱紗という風呂敷が二重になったモノの存在が品性を生み出すこと。
それは、袱紗が儀式性のモノの物語り背景を持っていることです。
端的には茶道には袱紗扱いが作法化されることで、
人の指先で、単純さの極限にまで指使いが品格性を高めています。
私は、布→絹→羽二重を追い求めてきて、
大袱紗の製品デザインの開発をしてきました。
あえて、私は「O-FUKUSA」をこの秋に発表するつもりです。


目次を見る

1 2