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Posts Tagged ‘民主主義’


『資本主義からの逃走』
 「Bottom of the Pyramid」


   


     10月 23rd, 2009  Posted 7:44 PM

「地球は丸い」。
私たちは、その球体の上で生活をしています。
そんな私たちを、ヒエラルキー状態に配置できます。
それは年収という尺度です。
ヒエラルキーというのは、「ピラミッド」の形態です。
これを「Bottom of the Pyramid」と呼びます。
そして、このピラミッドを図解すると、
次のようになるわけです。

bottom-of-the-pyramid001

見えてくるのは、
果たして、世界=地球上の人間、
その生活、すなわち「収入」による
「ヒエラルキーの構造」です。
やがて、70億人と言われて、
秒数毎に人口は増加する一方です。
「地球環境」と「経済的環境」の見事なピラミッドを
「Bottom of the Pyramid」と呼び、
すでに、私たち日本人は、1億人の中に居ますが、
結局、
先進国家は、「資本主義そのもの」
あるいは「民主主義」も、
この100億人が世界であったというだけのことであり、
69億人が、この地球上に生きている、ということを
先進国家は、すっかりと
忘れていることにあらためて気づかなければなりません。


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『資本主義からの逃走』
 「観念論の構造と感覚論の機能」


   


     10月 16th, 2009  Posted 7:00 AM

「観念」と「感覚」の構造と機能が
イデオロギーの四句分別になっています。

ideology2

「観念」が主義主張されるとなれば、
その構造には、
「神話性」や「政治性」が備わるものです。

主義主張する人物には、
決まって、「カリスマ性」が生まれやすくなります。
その「カリスマ性」が
神話性のシステムを自然と引き込むものです。
それが、感覚的に機能を発揮すると、
イデオロギーは、共有感覚をともなって、
連帯意識を強化するものになります。

また、神話性を打ち消しつつ、
その主義主張がある種の支配構造を生み出します。
これが、「政治的な体系」、
すわわち支配システムとして機能を持ち始めます。
この政治的なシステムは、
制度性すら装置化して、
「拘束的な機能」になることがあります。

ともかく、神話性のシステムは、
連帯感覚を強化する働きがあり、
政治的あるいは制度化ということにまで至れば、
「拘束性」という不自由さを与える装置になるわけです。

「構造」、つまり関係性をシステムと化すのは、
「神話性」と「政治性」を、資本主義は全否定しました。
この全否定から、「民主主義」が派生したのでしょう。

この「関係性」への反撃論が
私は「資本論」だったと判断することができます。
「神話」と「政治」の結びつきを解き放つために、
「政教分離」というまことしやかさが
「民主主義」に配置されていたのでしょう。
連帯感は必ずその集団を拘束することにもなるわけです。

イデオロギーを終焉させるには、
観念をベースとした概念形態が、
意識装置の機能として、
連帯と拘束を解放する必要があると考えます。


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『資本主義からの逃走』
 「概念形態の体系と意識装置の体系」


   


     10月 15th, 2009  Posted 7:00 AM

デザインにとって、
「概念」=コンセプトというのは、
発想の原点であり、
結果である評価としての終点です。

したがって、
「イデオロギー」という思考背景となる観念論、
イメージを「ことば」として認識、
すなわち印画紙である脳内に定着させる方法は、
きわめて重大です。

ideology1

それは、「概念形態」として、
二つの構造系から成り立っています。
一つが、
「価値」、その体系化ができるかどうかです。
もう一つが、
「分析」という体系化ができるかということになります。

ところが、その観念=イメージに潜んでいる論理は、
「感覚」として把握されるものです。
見事に「概念形態」は、
「機能」を感覚に差し向けているのです。
必ず、その形態を感じることで、
理解する方向づけを迫ってきます。
それこそ「意識装置」で身繕いできている人間の存在性です。
それを確認できるのは、感覚であって思考ではありません。
その装置こそ、
自分が行動をしていくことの方向付けをさせられているのです。
しかもその「正当性」を納得できることにまでなります。
このように私は整理しています。

「資本主義」というイデオロギーの「概念形態」、
そこから感覚として自分の行動、
翻れば、社会や時代の方向付けと、
絶対的な納得という正当性、
それがあったということを明確に分別できるわけです。


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『資本主義からの逃走』
 「タミとカミに宿っている倫理性からのイデオロギー」


   


     10月 12th, 2009  Posted 8:00 AM

日本人に限らず、
民族の原点は「言語」「言葉」でしょう。

私は「民」という漢字本来の怖さを述べました。
「民」・ミンというのは、
目を突き刺して盲目にする
という意味があったということです。
そして、
もう一つは「民」は「タミ」というパロールです。

日本語を原点とすれば、「民」と「神」は対峙し、
神と民との構造が
「生き様」を決定づけているというのは、
全世界観に共通です。
それは、
人間が存在しているという原点では
神の存在の確信や信仰があるということになります。
したがって、
「民主主義」に対する「宗教観」が宿るのは、
人間存在の原点を見出そうとしたのでしょう。
「民・タミ」は「神・カミ」との関係の中で、
世界の歴史が、パロール(会話性)を
語り継ぐためでした。
そのためには、パロールを
ラング(定義された辞書的語彙)によって、
勝者あるいは支配者のディスクール(陳述)に
配置してきたわけです。
「生き様」の連続・連鎖を勝者容認するのが歴史でした。
私は、その連続性・連鎖性の歴史観に
「民主主義」の正当性や性善性を
世界観として資本主義の民は
納得してきたものと思っています。
その「生き様」を
制御し、
管理し、
運営し、
維持するには、
「資本主義」が、正しく、
「神・カミ」と「民・ミン」の関係には、
倫理感が生まれたのでしょう。
その関係=構造に「宗教性」を規定することで、
明らかに、
イデオロギーと宗教の関係論は
必至だったものと判断しています。


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『資本主義からの逃走』
 「吝かさと悔いを時代主義に問う」


   


     10月 7th, 2009  Posted 9:00 AM

民主主義の「吝かさ」(やぶさかさ)とは、
正と善への態度です。
資本主義への「悔い」とは、
欲と損得の葛藤です。
それが、人間の人生の
「生老病死」と「喜怒哀楽」を制御してきたのでしょう。
果たして、
人は、輪廻転生していくのかということは、
私には不可思議不可解です。
ただし、
主義主張が時代を支配していることに覆われるなら、
私は、「生と正、欲と吝、老と善、そして、病と運」は
その支配している何らかの超・意志があることは信じます。

これは、「ことば」=ディスクールと
「まざざし」=アイポイントによって、
個々人の認識が、時代主義と対峙しているものと考えます。
「資本主義」にまとわりついていた欲望の構図
それを、ひょっとすれば、
「民主主義」は、「歴史を終わらせていた」
という言説はやはり大きな誤りでしょう。
ならば、
新たなイデオロギー、
この言説すら変容させる創造がデザインです。
それがデザインに求められていると判断しています。


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『資本主義からの逃走』
 「吉凶吝悔を記憶から・・・」


   


     10月 6th, 2009  Posted 9:29 AM

「吝」と「悔」という古代中国の要素概念=易経がありました。
この概念は、半分のみ、わが国では利用されてきました。
「吉凶吝悔」という四句が分断されて、
日常化してしまったのです。

いわゆる使い慣れてきた「占い」です。
「大吉・中吉・小吉とか大凶・中凶・小凶」です。
つまり乾坤陰陽に「吝」と「悔」があります。

私は、資本主義と民主主義をこの乾坤陰陽、
この易経的な東洋思想で見つめ直す必要を
今、もっとも感じています。
民主主義の「吝かさ」(やぶさかさ)と
資本主義への「悔い」(くい)を
再検討するのが日本の役割だと考えるからです。


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『資本主義からの逃走』
 「修の行学から、イデオロギーデザインへ」


   


     10月 4th, 2009  Posted 11:29 AM

 ● 私は、民主主義の欺瞞性は、
  「多数決」にもっと疑いを持っています。

 ● 私は、資本主義の正当性は、
  「差別化」経済論理に不信を持ってきました。

 たとえば、
資本主義での社会福祉行政などは
絶対に不可能であったのです。
競争原理では福祉は慈善事業でのみ可能です。
それは、A.スミス「見えざる手」に従えば、
資本主義を推し進めるほど、
「最大多数の最大幸福」とベンサムに言わせましたが、
これは嘘です。
「最小公倍数的」な少数派は、「自助独立」だけが、
資本主義社会で生き延びることが可能です。

adamsmith 

M.ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」も
キリスト教条の強行を穏やかにさとされたものでした。
max_weber

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日本の慈愛も慈悲もなかったのです。
それを私たち、日本人はなぜ信用してしまったのでしょうか。

「戦後民主主義」に、
私は本当になじめなったかとことを告白しておきます。
私は歴史となっている「東京裁判」を
あらためて、見直すべきだと考えています。

「明号作戦」(wikipeadia)が、
どれほど東アジアを開放したかを私はここで書き残します。
それが、「修・行学としてのデザイン」です。
私が日本人デザイナーとしての、基礎的なイデオロギーなのです。


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『資本主義からの逃走』
 「修への行学から、守・破・離への勇気」


   


     10月 3rd, 2009  Posted 2:10 PM

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「守・破・離」は、
「風姿花伝」・花伝書は世阿弥が書き残した奥義書です。
伝統から革新、
そして創造への日本の極意だと思っています。
私は、「修・破・離」という
自分なりの解釈と行動を目指してきました。

その根底には、
少なからず敗戦によって与えられた民主主義、
私は、これまで怒りにも似た疑惑を閉ざさるを得なかったのです。
その哀しみへ、常に洞察を繰り返してきました。
しかも、
その上に、あたかも資本主義がその欺瞞さを隠して、
「正当」ぶっていることを、
いづれ、
私は「破・離」するまで、
私の行学への修練と精進を蓄積してきたことはかなり自負できます。

もう、民主主義を破壊し、
資本主義から離脱する日本へと転換する勇気の時がきました。
マルクスに染まった輩に拷問を与え、
政教を重ね隠した輩に死の宣告をしたいのです。
それが、自虐史観者への挽歌になるでしょう。
「お国のため」と、
あまりにも無垢純粋に、
命を捧げた人々へのレクイエムとしてのデザインを始めます。


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『資本主義からの逃走』
 「決意は、伝統回帰と脱回帰の『失』均衡」


   


     10月 2nd, 2009  Posted 9:41 PM


風神雷神図 (俵屋宗達)

「失」のごときを与えた戦勝者たちへ、
反撃を開始すべきでしょう。
私は、「自虐史観」は廃棄すべきだと思います。
第2章憲法9条からでは無くて、
第3章すべてからをまず論議する
というインテリジェンスを育成すべきでしょう。
日本の美学としての
「失」は「無」へ回帰し、
脱回帰は、「脱構築」以上の思考理念が
すでに醸成されていたということです。
 
 ●不自由であることに
  日本は美学を配置するたおやかさを
  伝統意識にしています。
 ●人は平等でなどありえないわけです。
 ●人は差別に無頓着です。
 ●わが国には、愛よりも慈愛があります。
 ●慈愛と慈悲が
  思いやりのバランスを創ります。
 ●わが国の暴力性は、
  完全に封鎖されてきました。
  それが、「武士道」だったのです。

だから、もう、
「破・民主主義」と「離・資本主義」を
私たちは創出する時期に
佇んでいると考えましょう。

風神雷神図 (尾形光琳)


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『資本主義からの逃走』
 「雷神の手からスルリと・・・『失』という意志」


   


     10月 2nd, 2009  Posted 10:07 AM

「失」とは、電光石火です。
私の「失」の概念は、
雷鳴あるいは稲妻のようなまっすぐに、
直進して迫ってくる光あるいは雷電がイメージです。
雷神のごとき自然界の不可思議な意志です。
それは、自然界から人間に指示された意志と言っていいでしょう。
まさに、「手から抜け落ちて、判断をせまってくる力」の印象です。
「失」は落ちてくるのです。

今、私たちは、
「失」ならば、
「失敗・失念・失礼・過失・損失・滅失・・・・など」を
想い浮かべるでしょう。
しかし、「失」の原意は、
自然界の意志が電光石火で、
私たちにあたえられた試練だったのです。

福沢諭吉は、
「脱亜入欧」をなぜ、明治維新を通して日本人に勧めたのでしょうか。
「文明開化」と「西洋化」に、彼は説き続けました。
02_fukuzawa
「人は人の上に人をつくらず・・・」と。

これは、米国の「独立宣言」、
トマス・ジェファーソンからの引用でしたが、
そのことまでは歴史的に言及されてこなかったのです。
01_jefferson

「安政の大獄」で斬首されたり、
獄死した志士を黙して見送った
自己への憤懣と自虐性を
おそらく死すまで抱いていたものと思います。

よって、
彼は、体制には決して与することは出来なかったのでしょう。
これは、徴兵されて戦地から
生還した人々が抱いた信念と同質のものなのです。
「戦後民主主義」の自虐性と憤懣は、
連続して振り落とされてきた、
「失」のごとき、
戦勝者たちがまるで雷神の振る舞いを演じました。
すなわち、その程度の「歴史」感覚だと私は思っています。


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