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Posts Tagged ‘物質’


『資本主義からの逃走』
「物質と情報は、クロス化して同値的となる」


   


     5月 27th, 2010  Posted 1:42 AM

モノ・コト
単純に、「物質=モノ・情報=コト」と、一言にまとめておきます。
そうすると、モノとコトとの関係=構造化は、
価値的には同等だと考えることが可能になってきました。
例示するならば、
実物であるモノ・例えば、自動車や時計を考えてみましょう。
現物である自動車=リアリティ・モノは、
写真という仮想現物=バーチャル・コトは、
当然、現物と写真そのモノの価値は全く異なります。
しかし、現物が効果ならしめるコトと、
写真となっているコト=情報は、
現物のモノ仮想ですから、
「所有し、使用すれば」、価値性は同等です。
また、「モノとコトとの構造を認識」すれば、それも価値としては同等です。
したがって、デザインの役割も、
モノづくり+コトづくりの社会化が職能と20世紀後半から言われてきました。
結局、私はこのブログで何度も何度も、様々な視点から思考し考察し、
デザインするモノとデザインするコトが、
メディアでありツールでもありうるということに行き着くわけです。

● モノの効果→物質のメディア化
そこで、モノの効果としてのコトは物質のメディア化となり、
● コトの表現→情報のツール化
コトの表現としてのモノは情報のツール化になるというわけです。

メディアクロス・ツールクロス
現代は、メディア・ツールが混在し、
なおかつ補完し合うことが私たちの「日常性の環境」になっているということです。
デザインするモノが、メディアとなって、
デザインするコトが、ツールとなっていく、
このことが理解できない経営者はリーダーにはならないでしょう。
今、成功している経営者の経営手腕、
その経営姿勢や企業の商品・店舗などの表現形式と内容は、
確実に、
モノ=物質=商品と
コト=情報=広告や広報などには、
見事な「メディア・クロス・ツール」と
「ツール・クロス・メディア」という手法が実践されています。
現代、物質・情報・エネルギーというこの三大世界観に起こっているこのクロス性は、
資本主義経済社会を変更させていると考えます。


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『資本主義からの逃走』
「物質・形容されるモノの価値とモノの形容価値」


   


     5月 25th, 2010  Posted 12:01 AM

モノ価値
モノ=人工物質を私は意味しています。
が、このモノは製品もしくは商品です。
そしてこの製品価値・商品価値は、「形容」されること、
あるいは価値の形容というのは現代性の社会観、
その価値付けが最も重大になってきています。

かわいい
たとえるなら、「かわいい」という価値感があります。
私は「かわいい」というのは価値観にはまだ至っていない、
この認識が明確にあります。
つまり、「かわいいモノ」と「モノのかわいさ」が、
そのまま商取引・資本投下での投資効果になるわけです。
この投資効果こそ、経済活動の活性度になっています。
この活性度が、資本主義経済の現代性になっています。
特に、先進国家や自由資本主義経済体制が整備された市場では
顕著な価値感覚になっています。
まず、「かわいいモノ」というのは、
物欲に対して「好き」という感覚のある意味では、
直感的であり、幼稚さや、所有感覚の素直さに連動しています。
それに対して、
「モノのかわいさ」というのは、
そのモノと自分との対照性を顕示する物欲になっています。
そのモノを所有することで、
所有者自身にかわいさを反映・反射させることに連動しています。
あらためて、その「かわいい」という形容価値には、
モノ価値論を、「形容」という付加性があるということになります。
そこで、もう一つの「形容」をあげておきます。


それは「品のいいモノ」と「モノの品性の良さ」です。
これもほとんど、「かわいい」と「品」が、モノに対しての関わり方、
構造性につながっていることは明らかです。
この構造性こそ、デザインの本質につながっています。
そして、私がデザイナーとして目指すべきは、
「品」・「品格」ある品質を「形容」できるモノのデザイン。
デザイン設計による「品のあるモノ」・「モノの品格」です。
無論、「かわいい」という形容にも、
「品性」があることは充分に理解し容認する姿勢です。


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『資本主義からの逃走』
「物質・モノづくりにおける手技を伝承するには」


   


     5月 24th, 2010  Posted 12:01 AM

伝統的手技
私がふるさとにUターンして取り組んだのは、
750年の伝統工芸・越前打刃物でした。
それから、福井県内の伝統工芸を隅から隅まで見てきました。
日本の伝統工芸産地も随分と現地に出かけ見て回りました。
そして、大きな失望が二つありました。
まず、後継者がいなくなる、という現実です。
もう一つは、「手づくり」だから曖昧なつくり方の容認が蔓延、
本来、手技、その精緻さの欠如でした。
後継者がいなくなるという現実は、今なおさらに拡大して、
「産地存続」が危ういというより、廃業、
産地が無くなってしまっているところもあります。
若狭・福井県小浜市には、「手づくり」の硯石がありました。
水戸光圀によって、
硯石のいわゆる「池」と呼ばれるところに、
「鳳凰鳥の足跡」とも形容された「鳳足石」はもう無くなったでしょう。
この日本各地には、伝統的手技がいっぱいありました。
そうした産地と手技職人が失われていきます。

手技と現代産業
これは、現代産業にまで大きな影響が出てきています。
すでに、腕時計のクリスタルガラス研磨技術は無くなったと聞きます。
様々な手技での部品製造が失われています。
先般、ドイツでの「手彫りのボールペン」を手に入れました。
それは、もうこのメーカーはすべて「機械彫り」になるということでした。
さらに、米国での「手作り万年筆」も手に入れました。
これも米国最後の手づくり、
ペン部位は、すでにイタリアのブランドメーカー製になっていますが、
これも筆軸カバーの彫金は「手づくり」でした。
そうしたら、日本でもマニアには著名な手づくり万年筆の職人さんが
高齢でリタイアされたのです。
結局、跡継ぎがいなかったのでしょう。
一方では、どれほどコンピューターやロボットでの生産であっても、
「最終仕上げの手技」が生きています。
様々な製品、世界各国の手技・手づくりが無くなっていきます。
制作技術・製作技術・製造技術・生産技術の進化、
そして、手技・手づくりのコンビネーションは、
その担い手=人間=つくり手がそれぞれの国家的存続ではなくて、
国際的な「手技」の伝承性が必要になってきているのでしょう。

国際的な問題・手技の喪失
国際的な問題・手技の喪失
いわゆる、伝統によって継承されてきた伝統的手技が、
後進国家にて、再興される可能性があるかもしれません。
しかし、それは経済的な「賃料」の移行問題でしかありません。
やはり、「物質=人工モノへの手づくり」に対する国際的な存続が議論され、
「手法論」として人類の知恵の集積と考える時期になってきたのかもしれません。
「物質」=モノに対する手技は、知恵と手の器用仕事です。
手によって具現化される知恵は「物質」を握り直す、
新たな「感覚」の再認識だと考えます。


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『資本主義からの逃走』
「三大観念である物質系デザインはエコロジーの具現化か?」


   


     5月 22nd, 2010  Posted 12:45 AM

世界観としての物質・情報・エネルギー
私は「物質・情報・エネルギー」が世界観だと考えています。
そしてこれらをまさしく、歴史的な世界観と照合させます。
五大思想や五行説、あるいはインド的三大(火・水・土)です。
「物質・情報・エネルギー」この三大世界観を日常化するには、
この三大世界観、私なりには、世界の構造軸、
その要素と要因を意図しています。
物質
物質というのは、物ですから自然物から人工物全般です。
私はこの中でも人工物=モノと表現しています。
デザイナーとしては、このモノ=人工物を中核にしています。
本来なら、自然の中での人工物ですが、
私は、デザインするモノ・デザインされたモノが、
自然との関係と人間との関係、すなわち世界観の構造というわけです。
自然物が当然、世界観の基本ですが、
私は、人工物=モノから自然を見ていると思っています。
エコロジー
このまなざしゆえに、たとえば「エコロジー」という、
ある世界観へのまなざしには慎重でありたいと考えています。
とりわけ「エコ」ブームには懐疑的になっています。
「エコプロダクト」という呼ぶ方に集合されているモノのデザインに、
「デザインの本質性」があるのでしょうか? 正直、無いと思ってます。
いづれ明快な回答と解答を書くつもりですが、
現在、「エコプロダクト」という商品で、
デザイナーとして納得できたモノは有りませんでした。
なぜなら、人工物=モノと自然物=もの・物,
この二つは対決せざるをえない構造を持ち合っていると判断するからです。
もし、世界観における「物質」系=自然もの+人工モノは、
調和・ハーモニーと均衡・バランスの相互性が必要です。
したがって、モノとものという「物質」系は、
ハーモニーとバランスという相互作用性がデザイン対象意図だと判断しています。
ただし、調和とバランスには、反発構造や対決と融合・融解までの幅もあるわけです。
あらためて「エコロジー」という言葉の由来、
そして生態系バランスのあり方を見直す必要があります。
デザインが世界を変える
「物質系」世界観の最適解としてのデザインこそ、
「デザインが世界を変える」ことになります。
「世界を変えるデザイン」というのは、
本質的な論理性が実は壊れているのです。
このことに気づかないデザイナーには、
デザインの本質がまるで見えていません。
もっと基本的な「世界観」・観念論的哲学の基本が必要でしょう。


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『資本主義からの逃走』
「三大観念の世界観を!」


   


     5月 21st, 2010  Posted 12:53 AM

五大
私は、現代21世紀も10年、ワンディケードに入りました。
そして、私が明確に意識しているのは、三つの世界観です。
世界観という観念が三つあるということです。
仏教における五大思想のような象徴であり、焦点です。
仏教での五大というのは、
■ 地・地球であり大地
■ 水・海や川で流れる変化変相
■ 火・燃え上がる情熱
■ 風・自由性や成長
■ 空・天空・無
この五つの要素や要因を掲げて、
これが世界と人間界の実存と伝えられてきました。

三大
中国の五行思想=木・火・土・金・水と混同されますが、
世界観への人としての、
自分の存在を自己納得させる要素要因の観念としては
同等の思索軸だと私は理解しています。
そして、現代、この世界観念の軸・象徴を掲げるなら、
まさに、かつての三大=火・水・地は、
■ 物質
■ 情報
■ エネルギー
この三大観念と具体が世界観と考えます。
果たして、この三つの要素・要因の具体性は、
● 物質というモノの体系
● 情報というコンピュータとネットワーク体系
● エネルギーという具体的な電力やエネルギー源体系
こうしたことに集約して、現代世界観念をまとめることができます。

経世在民へのエネルギー
この三大世界観を、人間社会の能動性や効率性に、
「経世在民」が覆い被さっていると考えることができます。
私が、この現代三大世界観に、
これまでの「経世在民」の基盤である「資本主義」、
そして「民主主義」を照合していかなければならないと考えています。
世界観の変貌性は劇的で瞬時です。
少なからず、
「情報」世界観が、iPadなるモノの出現でどれほど変貌していくのだろうか、
そんなことを記してきました。
たかだか、iPadという製品です。
それでも、この製品からの体系=アプリケーションから、
日常的なユーザビリティのダイナミックスです。
ところが、それ以上に、私たちが直視しなければならないのは、
「エネルギー」へのまなざし、
そのあり方になっていくでしょう。


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『資本主義からの逃走』
「資本アイテムの再整理は、新たなイノベーションを誘発・5」


   


     4月 4th, 2010  Posted 12:01 AM

結論
私は三つの実存的な認識論をデザイン手法の背景にします。
循環性
まず、イノベーションは、単なる「技術革新」というのは、
ひとつの局面的な解決行為であり、解決方向でしかありません。
本来の意味には、経済=経世在民を維持するための意欲、
その活性化、それは循環性でした。
簡潔に言い切れば、「景気」という日常感覚の社会生理感であり、
そのままの実存性で語れば、「生きがい」や「働きがい」です。
したがって、再度、なぜ技術革新と直結しているのかといえば、
技術・技・術という行動規範や意欲活性化の方法と思います。

私たちの環境の要因には、
物質・情報・エネルギーが要素、その基軸性があります。
それぞれの軸性が、
活動的な時間性や経年性が加われば、要因化します。
この要因化へ向かう循環性がイノベーションと理解可能です。
アポリア
ところが、この循環性を遮断し、
到底維持も実行も不可能化することを「アポリア」と言います。
もし、循環性=生きがい・働きがいの停止は「死」に至ります。
実存的には、絶望であり、死に至る病と言われました。
現実、技術進化は常に「遮断性」が待ち受けています。
循環性の停止が不可避事態が発生します。
その時の姿勢は二つしかありません。
積極性と消極性
その事態への積極性と消極性です。
この極性から考えれば、
技術を受け入れるか、技術を拒否するか、の二者択一です。
最も顕著であるのは、
エネルギー技術論に反映していることは明らかです。
積極性の分離対決こそ誘発因
その実例が、「原子力運用」に関する賛否両論議の熾烈さです。
原子力技術は、問題解決をアポリアとする消極論と、
問題解決の技術推進への積極論は、
問題解決の技術停止への積極的な反対論が、積極論を分離しています。
私の判断は、この原子力技術の推進・対・反対という積極性、
この対立が、イノベーションの反発誘発だと考えることこそ、
最も知的なデザイン手法が主導するイノベーションの、
レトリック、あるいはメタファーとなるものと判断しています。
デザイン態度
したがって、デザイン態度、すなわちイノベーション支援は、
技術革新への姿勢としてのデザイン手法を明確化する、
その分離積極性の有無こそ、結論だと思っているわけです。
エネルギーによっての、物質と情報へのデザイン手法が、
現在最も論議を決着し、緊急的な具現化の創出が求められているということです。
デザインによってのみ、イノベーションの誘発は、
いわゆる文理融合であり、分離融合とさえ断言できます。


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『資本主義からの逃走』
「資本アイテムの再整理は、新たなイノベーションを誘発・4」


   


     4月 3rd, 2010  Posted 3:07 AM

Energy
仕事量とか、力の総称という意味は、
紀元1世紀頃だったという記録があります。
エネルギーの概念がまとまったのは、19世紀でした。
20世紀の極限的な破壊装置を稼働し、
戦争回避の抑止力を、エネルギーの極点としました。
それこそ人類がたどり着いたエネルギーの象徴でした。
現代では物質や物質系の能力の総称ではありません。
情報の力やその影響力までをレトリックとする言葉です。
このレトリックに政治バランスを思想化しつつ、
その賛否論に情報操作させるエネルギー論があります。
マスコミはこの問題に無関心という関心さで情報操作を支援しています。
それは駆動や発動や電動までの源泉=原動力まで意味しています。
したがって、その原動力の総称から、
発電体系によっての原動力という意味に収束させることが出来ました。
私が、「物質」・「情報」・「エネルギー」という三つを
資本アイテムとすれば、
エネルギーは、発電・電送・蓄電の総仕事量の原動力です。
資本としての原子力
そうなれば、
資本として、今世紀、エネルギーは「原子力」に焦点化できます。
この資本は、国際関係論の具現的な「武力バランス」という、
エネルギー独占やエネルギー制御と分配から、エネルギー開発技術力です。
その行使能力への制度設計=デザインが不可欠です。
「原子力という資本」、「資本としての原子力」を論ずることになるでしょう。
非難と全否定
ところがひとたび「原子力」となると、
議論以前に非難と全否定論が集中します。
「原子力」は「原爆」というとてつもない人類破壊装置なのです。
まして、日本はその「被爆国家」として、
ヒロシマ・ナガサキの体験から逃れることは不可能です。
私は、「原爆」技術と「原子力」技術は、一卵性双生児であって、
むしろ「平和利用としての原子力」という言い方には、
ある種のアリバイ的逃避と回避を嗅ぎ取ってしまいます。
さらに卑劣なのは、「原子力」には一切触れない、
これこそ、原爆幻想・原爆真実、両方へのトラウマ、
それを言い訳とした、「生」義務放棄だと裁決すべきでしょう。
このトラウマも幻想とは認めない、いわゆる非難反対派には、
厳然とした「知見知識力と公明な判断力」の欠如、
無知蒙昧さを指摘しなければならないでしょう。
私は、たとえば、風力発電、太陽光発電を
一つの良識としては、完全に認めます。
が、これらは単純な良識であって、良識以上ではありません。
APORIA
「原子力エネルギー」という資本への問題解決は、
現在の「生ある人類の責務」認識と考えてきました。
だから、この大問題解決は、
アポリア」から解放させるエネルギーが必要です。
これこそ、レトリカルなメタファーという知恵だと考えます。
原子力問題をアポリアとすることこそ、人類の原罪かもしれません。
確かな頭脳集積での問題解決は緊急的な必然です。
その必然性を直視して、
国際的な制度設計のコンセンサスとコンプライアンス策定も
緊急的な問題解決が希求されていると考えるべきです。
この緊急的な希求性を「知的判断」するためには、
物質的な「原子力要素」と、情報的な「原子力要因」という、
科学と技術の両知識の習得が必要です。
エネルギー開発とその存続への「原子力」非難者と全否定論者には、
やがて、習得放棄での空無性こそ、
自己の「生」放棄であることが自明となるでしょう。
上記の論述への非難は、
私否定という「原爆」でもあるのです。


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『資本主義からの逃走』
「資本アイテムの再整理は、新たなイノベーションを誘発・3」


   


     4月 2nd, 2010  Posted 10:24 AM

物質の情報化・情報の物質化
物質の情報化の代表実例を一応、「写真」とします。
情報の物質化の代表実例を一応、「時計」とします。
「写真」はメディアという呼び方ができます。
「時計」はツールという呼び方ができます。
物質と情報の相互性の一例を、
私はメディアとツールとの相互性という考え方が可能です。
したがって、物質の物質化はそのままではなくて、
たとえば、「写真」といっても、カメラ本体とフィルムです。
「時計」といっても、時計本体と時間表示ということです。
ところが、「写真」=カメラ+フィルムの進化がありました。
それはデジタル化でした。
INNOVATION
これはイノベーションでした。
電子機器(コンピュータ)とメモリーです。
写真機が進化=技術革新、これをイノベーションと呼んでいます。
イノベーションは、本来は、技術革新と呼ぶのは多少違っています。
「時計」にしても、ゼンマイという駆動器械から、
発振子とコンピュータによって、本来は見えなかった規則性、
これは情報と呼んでもいいでしょう。
「時刻」という情報を、地球規模でそれぞれの地域情報化しました。
上記はきわめて簡単に、物質・対・情報の相互性を例示しました。
さて、問題は、物質、一応ツールというモノにします。
情報はメディアを介在した事項としておきます。
そこで、メディアとツールの相互性に働く「力」は、
明らかに、弱い相互作用と強い相互作用が働いているのでしょう。
意識化社会
さらに、メディアのツール化もツールのメディア化は、
同根・同値になる傾向が明らかに起ころうとしているのを、
脱・工業化社会=ポストインダストリー=情報化時代、
情報時代の到来は、「意識化社会」です。
この「意識化社会」での物質と情報の相互作用は、
すでに、現在のインターネット=Network社会になりました。
それは、物質・情報は相対論的な現象の中に融合されていく、
そんな過程に、私たちの日常・「生」と「死」が挟まれているのです。
私は、デザイナーゆえに、物質と情報を常に入れ替えを、
コンセプト化して具現化していることになります。
結局、「何が物質であり、それが情報化する」とか、
「何が情報であり、それが物質化するのか」を相対論的にしています。
この過程が私の日常であり、私の日常では、物質が実は情報であったり、
情報が物質であるという「入れ替え」体験を、
自分のデザイン発想にし、表現、具現化していると考えています。


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『資本主義からの逃走』
「資本アイテムの再整理は、新たなイノベーションを誘発・2」


   


     4月 1st, 2010  Posted 2:30 AM

「情報」への正直な態度
「情報」というのは、概念もしくは観念と聞かれたら、
正直、ほとんど回答は不可能だと私は思っています。
だから、私なりに回答しておきます。
ただし、これは応答でも解答でもありません。
回答だということを断っておきます。
抑圧と解放
私は、情報というのは「日常を構造化している抑圧要因」だと思います。
しかしもう一方では、
情報は「毎日の連続性を無意識化してくれる解放要素」という、
「抑圧性と開放性」の意識環境だと考えています。
「情報」ということが、私を取り囲んだのは、
ある「物質」の登場でした。
その「物質」=モノはコンピューター、
もっと厳密には、パソコンとケータイというモノだったのです。
したがって、「情報」が襲いかかってきたのは、
こうしたモノ=物質だったのです。
だから、このモノは、過去のモノも引き込みました。
過去のモノ、その集合体を「メディア」としました。
堂々巡り
そのメディア、新聞からTVとかInternetには、
「表現」された事項すべてが、
もう一度堂々巡りとなって「情報」と呼ばれました。
この堂々巡りは「連続性」によって、
私たちを錯乱させているのです。
この錯乱を、私は「抑圧性」と「開放性」の混乱だと思っています。
あらためて、「情報」を学や論の中に差し込めば、
「情報学」とか「情報論」とすれば、
いかにも、知的で高尚な印象になりました。
この印象が、科学性から芸術性までを封鎖しているのです。
封鎖されているから、「抑圧」があり、「解放」を期待するのです。
私は、「情報」が日常や意識へ与えてきた混乱・錯乱は、
生・情報・死
「生」の連続性を素直に正直に認めている態度だったのです。
ところが、「生」そのものが連続性であったとしても、
その「生」には、停止=「死」が突然襲いかかります。
人間を襲いかかる事項=「情報」と「死」は同等だったのかもしれません。
となれば、「死」を無意識化するために、
私は、「情報化」を、人間はいとも容易く受け入れてきたのです。
その理由は、闇雲に混乱・錯乱させられているからです。
本当は無・意識=情報だと考えることも可能だったのです。
無・意識は、空・意識に連続し、この連続が「生」であるなら、
「情報」は、私たちの日常、
すなわち環境として取り囲んでいるのです。
私たちは、「情報」で抑圧され、また解放もされるということです。


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『資本主義からの逃走』
「資本アイテムの再整理は、新たなイノベーションを誘発・1」


   


     3月 31st, 2010  Posted 1:40 AM

「物質」・「情報」・「エネルギー」
いきなりの世界観を提言します。
それは「物質」・「情報」・「エネルギー」が世界構成因です。
この明快なアイテムは今世紀と共時する私の確信です。
ようやく、私がデザイン対象とするモノをすべて、
これらのアイテムに包含しながら、
再度、「物質とは何か」という問いかけの変更を重ねました。
それは「何が、物質か?」ということへ、
デザイン対象を入れ直すということでした。
「物質」というのは、私には自然物ではなく、
人工物=モノと必ずカタカナ表記する物の性質性の存在です。
性質=物性の質(たち)という言葉の定義仮説を用います。
この仮説は、物性・対・物理の差異性と同値性・同質性です。
つまり、差異性を仮説化し、
同値性、それは「質・たち=性質」の価値感と、
同質性という「性質の機能性」という性能性です。
上記は、同値性・対・同質性ですから、
論理的には、物性学と物理学でそれらの背景を与えられます。
もっと短絡的に言い切れば、性能という具体性を、
理学的な抽象性をモデル化するということになります。
モデル化するというのは、記号的な処理=数理学に配置する、
そんな作業になるでしょう。
何が物質か?
仮説化という冒頭にもどれば、
「何が物質=人工的なモノ」か?という仮説は、
人工物質=モノの性能価値が「物質」になるでしょう、
ということです。
極めて自分勝手で、読み手理解を無視していますが、
それは、私がデザイン対象とする人工物質=モノ、
すなわち、自分だけの定義にしているからです。
仮説の連続性
この仮説が、何を次に定義化していくかというのは、
「何が情報=コトとなり、コトの機能性」も、
デザイン対象にすることができるのだろうか。
「何がエネルギー=源となり、源の効能性」を
デザイン対象にすることができるのだろうか。
この二つのテーゼに、
物質=人工物質=モノからつないでいく連続性を考えるためです。
デザイナーとして、常にモノの形態=かたちを想像します。
想像の中で、モノの存在を「かたち」とするとき、
その「かたち」の「たち=質」に「かち=価値」を与えたいのです。
その連続性に、「情報」・「エネルギー」を対象化する
デザインには何が可能だろうか、という仮説化です。
この仮説化が、
イノベーションをデザインするという確信を持ちたいのです。


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