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Posts Tagged ‘美しい’


『資本主義からの逃走』
    「『美しい資本』を追い求める感覚のトレーニング」


   


     7月 13th, 2010  Posted 12:00 AM

美のためのトレーニング
「美しい」という言葉は、ある意味では「魔物」です。
しかし、この感覚が身体化するには、
厳しいトレーニングが必要だとつくづく思います。
美大時代に、「美しい」という言葉は、「西洋美術史」の講義で初めて、
その様々な解釈があることを知りました。
美学」というのは、大学の講義にはありませんでしたが、
美学という領域は、美術と音楽についての論考であることも当時は知りませんでした。
色彩論では、ムーン&スペンサーの調和論に「美度」という尺度が出てきますが、
やや疑問は今も変わりません。しかし、ここまで求めるという姿勢こそデザインです。
さて、資本はすでに私にはデザイン対象です。
デザインしたモノが資本です。
しかし、デザインは実務であり、実務学としては問題解決の結果=効用と効果です。
その実務手法・実務技法は、「手技」があります。
今では、パソコンでの表現手法になっていますが、
それでも「スケッチ一枚」でも、トレーニングは必要です。
美大時代、この基本は「デザインストローク」というフリーハンドでの線引きから、
私は「鶏」のクロッキーをそのストロークで描くというトレーニングを受けました。
生きている鶏は動き回ります。
その動きで、なかなかストロークを定めることはできません。
ところが、何枚も何枚も、おおよそ2週間も描き続けていれば、
ストロークで、確実に鶏のデッサンが可能になるのです。
「手」にメモリーがコピーされてしまいます。
そして、鶏の表現が「美しい・かも」というデッサンが残るのです。
この感覚がデザイナー志望者には必須です。
大学で教えるようになって、
無論コンピュータも大きな手法になってきましたが、
「手」でのフリーハンドそのものが発想している感覚があります。
そこで、「美しい資本」としてのデザイン対象を生み出すためには、
まず、「スケッチ」そのものが「美しい」こと「も」一つの条件になります。
ところが、「スケッチが美しい」ということを認識できるかどうかということです。
少なからず、「美しいスケッチ」か、「スケッチが美しい」かは、
「美しい花」・「花の美しさ」論と同値で、大きな疑問になりますが、
「美しい」という魔物的言葉に思いっきり飲まれ込むことが必要だと考えています。
かつて、「美しい日本」という表現や「美しい企業」なども、
この類であることは間違いありません。
「美しい資本」を創出するデザイン、
デザインによる「美しい資本」づくりの才能や才覚は、やはり、トレーニングが必要です。
私の「美しさ」を求めるトレーニングは
今も、フリーハンドスケッチを毎日欠かさないことです。
「美しい資本」づくりの基礎は、トレーニングという修練が必要だと思っています。


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『資本主義からの逃走』
「 何がMedia Integrationとなるのか・2」


   


     5月 4th, 2010  Posted 12:01 AM

形容
「容」。
かたち、としたのは立原正秋でした。
彼の文体は、まさに形体でした。
形体とは、立方体や四角錐といった規定ある形態です。
したがって、文体は、作者の規定という思念定義があるのです。
立原作品には、女性・庭・能・作庭・樹木・陶磁器・刀剣などへの造詣、
彼のの著作深度は、学者以上であったと思っています。
私が、樹木や作庭については、幼心に祖父の一言一言があり、
陶磁器・刀剣は、父に連れられていった道具商の市でした。
しかし、当時私はそうしたモノは傍観していただけです。
「きれいだな」と思う程度でした。
それから、美大を出てようやく気づきました。
伝統工芸の産地と先祖の書き残してあった図面で、
私は、これらのモノと日本人について考えることになったのです。
それは年齢とともに、蓄積されてきた知識や感受性に深みが
やっと出てくれたのだと思いたいわけです。

綺麗
そして、ひとまず、日本的そうしたモノが「きれいだ」と思うこと。
この「きれい」という言葉と「美しい」との距離感に私が放置されたのです。
それは絶対に一直線上にあるものではないということです。
なぜならば、
● きれい・・・形容動詞
● 美しい・・・・形容詞
すでに、言葉の領域、その次元がいわば異次元だということです。
しかし、たとえば女性たちが望む「きれいになりたい」欲望は、
「きれい」になることから「うつくしい」、
あるいは「かわいい」次元に
ワープ=超光速航法を切望するということです。
はかない夢想だと、私は思います。無論大切なことですが。

トランスレート
むしろ、「綺麗」から「美」へトランスレートすることが論理性があります。
なぜなら、綺麗という形容動詞はネットワーク層があるのです。
ところが、その層からトランスレートすれば、
「綺麗になる・綺麗にする」動作の蓄積が
「美」という層へ運びこんでくれるでしょう。
「形容動詞が形容詞になる=綺麗が美になる」述語解です。
私のこのまなざしでは、決して、日本の伝統ですら、
「綺麗」なモノやコトで終わっているのは、
「美しい」とは言い切れません。
Media Integrationへは、形容動詞から形容詞として、
「形容」の世界観を、私はめざしたいと考えています。


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『資本主義からの逃走』
「Appropriationー”かわいい”という印象を引き込む危険性・2」


   


     4月 12th, 2010  Posted 12:01 AM

kawaii
「かわいい」という日本語はすでにkawaiiという世界語。
kawaiiは、日本文化として世界の若者に発信できる文化語です。
私はこれは素晴らしいことだと評価してます。
しかし、「かわいい」を
designしかもappropriationに結びつけることに意義があります。
まず、「かわいい」の意味を吟味しておくべきでしょう。
「か」という接頭語は「蚊」という生物名からも、「小ささ」を表します。
「川」すら、小さな「水分や渦」+わ「和」=大きさです。
幼さや小さなものへのいとしさが形容詞になっていることです。
愛らしさや愛らしいこと、愛情をもって大切にしたり、
殊勝さから、労しさ、痛々しさなど不憫さや可哀想だ
という形容動詞にまで連続している感情用語だということです。
この感情用語であることに、
まず、評価言葉としての不安定さを認めておくべきだと思います。
なぜならば、感情用語というのは、
感性を陰陽学でいうところの「陰」の世界観があるからです。
感情を単純に言い直すと、
「感性にドロドロとした汚れが流れ込んでくる現象」という解釈があります。
感情がきわまるというのは心が哀しみや怒りという理性では
留めようもないことが流れ込んでいっぱいになることです。
「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しい」という、
ジェームス・ラング説があります。
不気味の谷・論
だから、「かわいい」という愛しさと悲しみには
連鎖性が心理的にあるということです。
ロボット表情学として、私の学生が修士論文で分析した、
「笑っている表情」、
その分析には、「怒りから悲しみ」が見事に分析され、
いわゆる、ロボット学での「不気味の谷論」をさらに詳細化しました。
私は、「かわいい、かわゆーい」というモノを所有する意識根底には、
「自分顕示」の置換性、転用性が起こります。
さて、私はこのことを非難しているわけではありません。
本質論としてのアブダクション的なデザイン面を語り切る論理が、
この「かわいい」から「きれい(形容動詞)」、
そして「美しい」へという手続きを明確にしたいからです。
ところが、この手続きやアブダクション性を転用するのに、
「盗用性」が加われば、これはさらに強化されることは明白です。
この「盗用的表現」+「かわいい」=欲望の刺激強化です。
そのことを私は指摘しておきたいと考えます。

無論のこと、私自身、キティちゃんからドラエもんまで、
「かわいい」と言われるアイコン性は、
日常への愛しさの反射対照性として容認し、
かつ、私自身がまず大好きです。
しかし、プロのデザイナーとして、
どこまで「かわいい」と「盗用と思われる表現」、
その隔絶性と融合性の線引きは、職能義務と考えています。


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『資本主義からの逃走』
 *「造形思考は本来、数理的思考です」*


   


     1月 16th, 2010  Posted 9:00 AM

美しい

私は「生まれ変わってもデザイナーになりたい」です。
なぜなら、
まず、自分の中に「美しい」と自身で確認できる、
そんなモノやコトがひそんでいるのかを知りたいから。
そして、「美しい」というのは何なんだろうと
いつも問いかけていたいからです。
しかもどん欲に、「これって美しい」でしょ!
見せびらかしたいのです。
デザインは結局「造形」に集約させることができます。
そのための思考・思って、考える、ということは、
「数理的だ」と想ってきました。
「数学的」っていうのは受験の思い出が重なって、
「間違ってはいけない」というストレスがトラウマ。

数理

しかし、「数理」というのは、
たとえば、「リンゴ1個」と「鉛筆1本」を
総和して想う=思い考えるとすると、
●「思って」、たとえば二つとも「赤い」とか、
●「考えて」、「丸い」と「細い」ということです。
だから、数学・算数だと1+1=2となって
総和で「2」だけしか残りませんから、
何の感動もありません。
だから、
●「リンゴの赤さ」と「細い棒の中に黒い芯」を
たとえば、
●「リンゴに突き刺してもそれで絵が描ける」となると、
「どういうこと?」
「なぜ?」
「それがどうしたの?」っていう疑問が沸いてきて、
これはまぎれもなく「リンゴ鉛筆」の「造形」です。

想・思・考=形

「数理的」というのは、実はこうした想像力で、
●とんでもなく、「食べられる鉛筆」になったり、
●「鉛筆でリンゴにいっぱい穴を開けるモノ」
にもなってしまうのです。

私が「デザイン数理学」ってむずかしく言っている、
● e・i・πなんて「記号」の組み合わせは、
e=鉛筆・i=芯・π=リンゴがマイナス1って何?
これらを組み合わせることを想像力=virtualで、
「想う」=「思う」と「考える」ことをすると
「形」が出来ている、という「造形」です。
めいっぱい「オイラーの想像力」を追いかけて、
「見えてくるコト、ひょっとするとつかめるモノ」が
「美しさ」になっているのかも・・・ということです。

数学的美しさ・数理的美しさ

だから、「数学的美しさ」と「数理的美しさ」が、
同一なのか、全く異なっているのかは、私はもちろん、
人類はまだ分かっていないということにもなります。


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1月8日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     1月 8th, 2010  Posted 6:00 AM

1月8日 仏滅(戊午)

グランドデザイン
=国土環境すべてのデザインは、
まさしくインテリジェンスデザインであり、
インテグレーションデザインであると思う。

やはり、デザインは
見て分かるかたちでなくてはならないし、
究極の目標は「美しい」と
体感できることだと信じる。

『プラトンのオルゴール』
統合化していくデザインの意味


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