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Posts Tagged ‘義務’


『資本主義からの逃走』
 「* 人前で喋ること、きっと得意分野ですが・・・ *」


   


     3月 29th, 2010  Posted 12:25 AM

講義・講演は大好き
「講演」は私の大きなデザイン活動だと思っています。
なにしろ、一人っ子(母違いの妹がいます)だった私は、
まったく無口すぎるほどの母と二人でした。
父は、職業上、全く家には居ない人でした。
だから、子供の時から「口達者だった」ようです。
小学時代から、弁論大会は必ず優勝していたくらいです。
中学では英語の弁論大会に出場することも大好きでした。
私は人前で「上がる」という感覚がまったくわかりません。
聴衆が少ないと「やる気」が失せるほどの性格だと思います。
したがって、大学人としての講義、
デザイナーとしてのプレゼンテーション、
講演会は、ほぼ、得意分野と言ってもいいでしょう。
苦手なスピーチ
ただし、苦手が一つ。
それは、結婚式のスピーチです。
結婚式には、使ってはいけない言葉があります。
さらに、新郎新婦の名前を決まって、ど忘れしてしまいます。
この失敗から、結婚式は電報で勘弁してもらっています。
しかし、その電報文には満身の力を込めて絶対に結婚式場に、
全く「存在」しているようにと校正と添削の限りをつくします。
だから私は「お笑い番組」が大好きです。お手本だからです。
古典落語も随分と覚えていた時期もあります。
大学の講義は、絶対に準備をします。
同じ講義は絶対にやらないことを堅持しています。
ところが、昨年後期は大変でした。
「英語」での講義を決心したからでした。
前準備は大変であり、それは海外の大学講演のごとくでした。
あとしばらく大学人を続けるでしょう。
講演会は、デザイナーの義務と思っていますし、
私を講師として呼ぼうと言っていただけるなら応えたいのです。
おそらく、そういう意味ではプロです。
次のようなアドバイスをします。
「気合を入れる」!
これは、自分の「気」と聴衆の「気」を合わせることです。
それは、聴衆の「気」の波長をいち早くつかんで、
自分の「気」の波長を合わせていくことだと確信しています。
「気負わない」!
気負ったら、聴衆の「気」に自分の「気」が、負けます。
決して気負ってはならないことが大事です。
そして、もっとも大切なことは、
「言葉」の適切な、「切り方」です。
ただし、それは私が心がけながら最も出来ていないことです。
しゃべり尽くす前に「切り上げてしまう」のが、
ここまでだ!、ということはまだまだ修練が必要だと、
充分に知りながら、これができません。
大切さと大事さ
「大切」というのは、大事さの切り方のでしょう。


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『資本主義からの逃走』
「コミュニケーションとサービスを誤解した経営学」


   


     3月 19th, 2010  Posted 4:21 AM

Communication
コミュニケーションは、「お互いに分配し合う構造」です。
そして、サービスが宗教用語から変遷してきたこと、
それはとても重要だから前述しました。
とりわけ、ビジネスモデルには、この二つの言葉はキーワード。
さらにコンセプトになっています。

しかし、コミュニケーションを単なる「伝達」と片付け、
サービスを「奉仕」と訳して経済用語としたときから、
大きな混乱を看過してきたことは間違いありません。
まさに、コミュニケーションが大事だとか、
サービスに徹するというかけ声は「こだま」しているだけです。
お互いの分配構造は、何をどう納得しながら分配できるのか、
そのお互いの権利と義務のやりとりが善意は原点です。
コミュニケーションが大事というなら、
その性善説が前提となっているのかどうかが前提だと思います。
しかし、現代は性悪説がまかり通ることが当然という
そんな風潮があります。
Service
まして、そこにサービスが付着すると、
損得勘定にもコミュニケーションの分配構造が利己的傾向は、
格段に大きくなってしまうと私は不安です。
デザイナーゆえの「綺麗事」で言えば、
「伝達」+「奉仕」=利他主義への絶対的確信であり、
「伝達」+「奉仕」=自己犠牲だと断言もできます。
大損しても、利得は皆無でも、「善」であることへの勇気は、
コミュニケーションとサービスへの覚悟でなければなりません。

具体例を教育から求めてみます。
教育がサービス産業であるわけがないのです。
教育はコミュニケーションサービスです。
教育は、教える方が教わるという分配構造が強固な伝統行為。
教育はサービスコミュニケーションです。
教育は、次世代への奉仕であって、その奉仕が世代を連鎖系化。
経営学は介入不可能
この実例に「経営学」は介入不可能であることを、
今一度、再確認すれば、サービス対価はベネフィットです。
コミュニケーション対価という分配構造は収益構造には、
決して成立不可能であると考えています。
コミュニケーションとサービスは「経営」=儲け方には、
近接することは決して出来ないのです。
だから、私は大きな誤解があると主張しておきます。
この発言はあることへの序論です。この実例に「経営学」は介入不可能であることを、
今一度、再確認すれば、サービス対価はベネフィットです。
コミュニケーション対価という分配構造は収益構造には、
決して成立不可能であると考えています。
コミュニケーションとサービスは「経営」=儲け方には、
近接することは決して出来ないのです。
だから、私は大きな誤解があると主張しておきます。
この発言はあることへの序論です。


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『資本主義からの逃走』
  「神の国には、諦観からの希望がある!」


   


     11月 25th, 2009  Posted 3:00 AM

091125resign1
「諦観」とは、resignだと私は経験してきました。
諦めて生きること。
これはリハビリテーションの原理だと知ったのは、
車いすを余儀なくされ、
米国のリハビリ・トレーニング原書の
最初の書き出しで知ったのです。
とても大きなショックでした。体が震えました。
怖かったです。
これからリハビリで、元のような生活になるんだ!って。
この意気込みは、一遍に消失しました。
ところが、「諦めて生きる」というのは、
もう、歩けなくなった自分ではないけれど、
歩けない代わりに、もっと歩けていた以上に自分を修練し、
残された機能を鍛錬するということがresignだと、
米国のリハビリテーションの本に書かれていたのです。

まさしく、これは日本の仏教的思想の「諦観」でした。
以来、私は常に「諦観」の思想と論理を、
自分自身に言い聞かせて、車いすで生きてきました。
「神の国」には「諦観思想」があります。
米国にも同様にあるのです。
「あきらめる」=give up と言うのと、
「諦める」=resignとの大きな差異です。
私たちは自分本位であることに、
何らかの決着=諦観が、絶対に必要なのです。
「諦観」を心底にすれば、
それこそ、「神の国」には、右翼も左翼も、部落差別も、
どんなタブーすら「諦観」で全て融解してしまいます。
そして、
「諦観」が希求しているのは、
実は「希望」です。
今日本の国「神の国」の子供たちがほとんど知っています。

09112521stcentury

司馬遼太郎氏の上記の一節です。
21世紀を生きる子供たちに、彼の「希望」があります。
果たして、21世紀に生きる大人は、
彼と子供たちの「希望」を
次世代に準備できるのでしょうか。
改めて、「諦観」からの「希望」で、
「神の国」に生を受けて存在している「使命」を、
自分自身に問い直していく日常こそ、
「諦観」と「希望」の狭間での私たちの「義務」であり、
その「義務」を果たさずして、
勝手極まりなく「権利」を求めることは、
人格を犯罪にしていると、私は考えています。
「神の国」の住人は、「諦観」が「希望」を創出するのです。


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